mafune2

私は6年位前から牛に引かれてGVIC参りをしていました。

その間、何人かの方にどうして入信しないのか、何を迷っているのかと言われた事があります。でも、どうしても信じられない事が多々あり受洗する事が出来ませんでした。

でも常々信じられたらどんなに良いだろうなとも思っていました。ところが今回、不謹慎な言い方ですが、今まで引かれていた牛に巻き込まれたと云う形であれよあれよという間に受洗する事になりました。

私自身もびっくりしたのですが、まあ、こんな機会でもない限り受洗する事はないだろうと思い返し、おとなしく巻き込まれる事にしました。

私はお恥ずかしい話ですが、イエス様のイの字、聖書のせの字しか知りません。皆様の御指導を仰ぐしかありません。宜しくお願い致します。

真船圭子


cropped-gvic_banner1.jpg
ゴスペルベンチャーインターナショナル教会
Gospel Venture International Church (GVIC)
17811 South Western Avenue, Gardena, CA 90248 U.S.A. Tel.(310) 527-6112
www.gospelventure.com/


ロンダニーニのピエタ

pieta_1

洗礼の朝を迎えた。まだ迷っていた。イエスが十字架にかかって人々の罪を償ったと信じているの、と自分の心に棲む、もうひとりの自分がささやく。かぶりを振る自分。だとすると、受洗は神さまに対する欺瞞だ。

――断わる――

それはできない。

教会へ行く身支度をしながら、私はこれまで歩んできた人生をふりかえってみた。
渡米する動機になったこと、家庭崩壊になりかけたこと、数えればきりがないほど人生につまずきかけた。一歩間違えば、この世で地獄を見たかもしれない。その度に難を逃れている。ふと、
大いなる者にコントロールされているのではないか。計り知れない大きな存在、それが神か、仏か、わからない。ドスンと確かな手ごたえを感じた。守られている。だから、今がある。

突然、ミラノの博物館でみた「ロンダニーニのピエタ」が脳裏に浮かんだ。
視力を失った天才ミケランジェロが死の三日前まで手探りで制作したといわれる彫像である。弱々しいイエスが聖母マリアを背負っているかのように見える彫像。
ちなみに、ピエタは慈悲、哀れみなどの意味で一種の聖母子像だといわれている。

あっ、と思った。
イエスに背負われているのは、この私なのではないか、そうだったの
か。謎が解けた。途端に自然に口から歌があふれでた。

♪主われを愛す 
主は強ければ
われ弱くとも 
恐れはあらじ

わが主イエス わが主イエス

熱いものが込み上げてきた。
前原牧師に出会って十年目の師走のことであった。

           


惑い

2008年の秋、手術ミスによる事故で車椅子生活をされているT氏に教会で出会った。これまで大企業の超エリート社員として世界を飛び回って活躍されていた人である。突如として大逆転した境遇に氏の心中はいかばかりであったか、想像を絶する。 

T氏に出会った時、ふと思った。
この方が受洗される時がきたら、私も一緒に洗礼を受けようかな、と。
理由はない。イエスの救いを信じたのでもない。一線を飛び越えると自分の心がどのように変化するのか知りたいという不謹慎な動機であった。

私は時々、T氏の身近にいるK子さんに、
「T氏は洗礼を受けられるのかしら?」
 本心は隠して、さりげなく、度々、尋ねた。
その都度、
「そんな話は聞かないわねぇ」
 という返事に、なぜか生き延びたという思いでホッと胸を撫で下ろしいた。
ところが一昨年の十月だった。前原牧師から受洗の話が出た。
たまたまT氏と同じテーブルを囲んでいた時だったから、
「洗礼を受けられるのですか」
 当然、「No」という返事を期待しての問いであった。

「はい、受けます。12月に・・・」
ドキッとした。そして、時がきた! と思った途端、隣のK子さんに叫んでいた。
「私たちも一緒に受けようよ!」
 洗礼クラスがはじまった。
勉強をすればするほど、遠くにいる自分を感じた。これでいいのだろうか。神に対する冒涜ではないか。断わるべきだ。弾みで言ったことを後悔した。しかし、K子さんを巻き添えにしている。あれこれ思い悩んでいると、洗礼を受けるその瞬間に断わったという友の話を思い出した。そのテもある。が、そんな勇気があるかどうかが問題だ。私は惑いつづけたのである。    
 

           


出会い

 
 2001年春の早朝、医者の癌告知通り、夫は亡くなった。享年60歳。

「ありがとう。わがままな俺によくついてきてくれた。ほんとうにありがとう」
という言葉を遺して・・・。
 

私の心にぽかっと穴が空いた。淋しさがどっと押し寄せた。夜昼となく涙が溢れ出た。どこへ行くのにも一緒だった夫である。独りになった私は、時間を持て余した。そんな時に近所に住む友人が前原先生の教会へ誘ってくれたのである。

かねてからキリスト教に興味を持っていた私は、暇つぶしと好奇心で教会へ行くようになった。旅好きだった
亡夫と行ったイタリアでみた
キリスト教をモチーフにした
芸術品の数々。アダムとイブ、
ノアの方舟、モーゼ、ダビデ、
受胎告知、最後の晩餐、
キリストの磔刑などなど、
これまで断片的な知識だっ
た聖書に登場する人物の関わりが分かると、面白くなってきた。イスラエル聖地旅行にも参加した。

もつれた糸がほぐれてきた。しかし、知識と信仰は別である。一方、イエスの救いを本気で信じていること自体が理解できなかった。
救いは他の宗教にでもあるのではないか。東洋の国にはキリスト教に非常によく似た信仰があるという事を聞き、若いころ聴いた親鸞の教えを思い出した。訪日すると僧籍の友人と「信仰について」語りあった。
何年過ぎたころだったろう。前原牧師から、洗礼をすすめられようになった。
「何事にも時があります。その『時』がきたら」
逃げた。おまけに陰口を叩いた。
「洗礼を受けるだけで天国へ行けるのなら、熱湯だって浴びるわよねぇ」
ところが、手術ミスによる事故で車椅子生活になられたT氏が教会へこられるようになった。この出会いによって、頑なだった私の心に変化が起きたのである。

 

           


癌告知

 日本のバブル経済が崩壊した。日本人相手の仕事も先細りと見て、夫婦ではじめたビジネスに終止符を打った。夫52歳、一つ年上の姉さん女房の私は53歳。馬車馬のように突っ走った22年間であった。
 一人娘も親の手を離れた。贅沢をしなければ食べていける。人生を楽しもうということになった。そんな矢先、義母の介護が必要になり、夫婦で日米を往復しながら、看取る事ができた。旅もした。
 

そして2000年の春だった。夫の声が急にかすれた。風邪かなと思った。ところが一向にハスキーボイスが治らない。そうこうしていると食べ物が喉を通りにくいと言い出した。レントゲン検査では原因が分からず、CTスキャンを撮った。
「食道と気道の分かれ目に腫瘍が出来ています。繊細な部分なので手術はできません。・・・早くて三ヶ月か六ヶ月、よくもって一年」
 

平穏な日常生活を当然のように思い込んでいた私は、食道癌の告知に、この世の不幸を一身に背負ったように落ち込んだ。
半年過ぎた。私たちは海岸沿いを散歩するのが日課になっていた。おかしなもので、ひょっとして夫は助かるのではないかと希望を抱くものである。だが、ある日の午後、いつものように散歩をしていると、怒涛のごとく不安が襲ってきた。ふと、新聞に載っていた上智大学アルフォンス・デーケン教授のコラムの一節を思い出した。

あすのことは思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。

「そうだ!」
と思った瞬間、不安が消え、目の前が明るくなった。不思議な体験である。
これが新約聖書の言葉だとは知る由もない私であった。
           


ふたつのピエタ

渡米一年目で知り合った夫と三ヶ月後に結婚をした。明治生まれの伯父の家に居ずらくなった私は、相手をよくしらぬままの、見切り発車である。
 私に似合う人をと神さまに祈った結果だ。ともかく三年はどんなことがあっても我慢しようと思った。案の定、甘い新婚生活ではなかった。だが、三年目に娘が生まれた。やっと夫は不承妻にあきらめがついたのであろう。腰を落ち着けた。

夫婦ではじめた日本人相手のビジネスは日本の高度経済成長期でもあり順風満帆だった。ところが、15年後に落とし穴が待っていた。
 夫の浮気である。
「結婚しなくてもいいのです。私は、愛した人の子供を産みます」
 相手の女性が息巻いた。
「どうぞ、産んでください。ひとりで育てるのは大変でしょうから、私が引き取って育ててもいいのですよ」
 喉元まで怒りが込み上げるのを押し殺して、私はいった。しかし、妊娠は嘘だった。危ういところで家庭崩壊を免れたのである。若い頃、中学の先生だった人との辛い体験が役立った。人生に無駄な経験はひとつもないというのは本当だと思った。
 

夫は罪滅ぼしのつもりか家族旅行を計画した。行く先は、イタリアである。
宗教をモチーフにした芸術品の数々。モーゼ、ダビデ、受胎告知、最後の晩餐、キリストの磔刑などを見て歩くうちに、それらがどう繋がるのか知りたいと思った。印象に残ったのはヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂のピエタ像とミラノの博物館にあるロンダニーニと呼ばれているピエタ像である。前者は、マリアが降架のイエスを膝に抱いて歎き悲しむ像。後者は、倒れそうなイエスがマリアを背負っているかのように見える像。違う、と思った。
いずれもミケランジェロの作である。


5.重荷を背負って

かつて尊敬の眼差しで仰いでいた教育者としての先生ではなく、得手勝手なエゴイズムを丸だしにした男の姿に、どう対処してよいのか分からなかった。私は何かに祈りたかった。
――もし、この世に神様がいるのなら、助けてください。どうか先生との関係を断ち切らせてください。家庭を壊すのは私の本望ではありません。結果がどのようになろうと、私が傷つこうと不利になろうと、裁きとして受け入れます――

心から祈りつづけた。そんなある日、ロサンゼルスに住む伯父が訪日してきた。
私の母はハワイ生まれの2世である。11歳の時に母親に連れられて日本の土を踏んだまま、再び故郷に戻る事はなかった。望郷の念をいまだに抱いている母は市民権を持っていた。未婚の私は永住権が取得できることを知った。幸い、伯父は私の渡米を快く承諾してくれた。ちょうどいい。

アメリカへ行こう。
誰も何もしらない土地で人生をやり直そう。別の世界が開けるに違いないという母の強い勧めもあって、私は役所を辞め渡米の手続きを始めた。手続きが完了するまでの半年間、誰にも煩わされない他県にいる姉の家から編物教室に通ったのである。
1970年の夏、私は渡米した。
勤めはじめたニッティングの会社で知り合った友人にキリスト教会へ誘われた。生まれてはじめての体験である。

重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう

牧師のメッセージに、私は、思わず涙が溢れ出た。だが、教会へ行ったのは、それっきりであった。
その時に頂いた黒表紙の立派な聖書は30数年間、一度も開かれることなく、本箱に片隅で眠りつづけたのである。
          


4.曲がり角

中学の元教師だった先生と私は別館と本館の違いはあったが同じ県庁勤めである。庁舎の食堂で、
また、市町村に出張した帰りに同じバスに乗り合わせるなどの出会いが度々あった。  
ある秋の土曜日の午後だった。 「行ってみようかな、先生の課へ」 ふと、そんな気になった。

庁舎を出て電車通りを北へ歩くと崩れかけた原爆ドームが建っている。川を隔てた向こうは平和公園である。私は、コーヒーを飲みながら、川べりの喫茶店で、先生の学生時代の思い出や社会教育に携わっている仕事の話など聞いていた。

「だが、ジレンマを感じるんだよなぁ」 先生は深い溜息をついた。 「家庭生活はいかにあるべきかなどと講演してまわっているが、自分の家庭はどうだと反論されたら、二の句が次げない」  女房は社会に出て働いたことがない。だから、社会的感覚が欠如している。夫に対しての理解がない。話が合わないなどと、奥さんへの不満をこぼした。

聞きづらくなり、子供さんの話に切り替えた。 「娘がひとり、十歳になる」 「先生と美人の奥様のお子さんだから、かわいいでしょうね」 すると「ううーん」と、鼻でくぐもった返事をしてから、
「不思議だねぇ。きみと話していると心が和んでくる。乾いた砂に水をまくと染み込むように、心が潤ってくる」 といって、熱い眼差しで私の顔をじっと見ていた。これが中年男の口説き文句とも知らない私は、先ほどから、静かに空気を震わせているスメタナの旋律が急に気になりはじめた。陽が落ちた。 後に、この出会いが人生の大きな曲がり角になるとは思いもしなかった。


3.再会

庁舎の正面玄関のドアを押した時、危うくぶっつかりそうになった。その相手を見て「あら!」と私が叫ぶのと「おう!」と相手が応じるのが同時だった。後にのけ反り目を丸くしている相手は、
「元気か?」  と、訊ねた。 「はっ、はい」 「何課にいるんだ?」 「6階の住宅課です」 「そうか、私は別館の教育委員会だ。2階の社会教育課にいる」といって、内ポケットから名刺入れを出し、一枚、私にくれた。「暇があったら寄りなさい」そう言い残すと、同僚らしき人と外へ出ていった。背筋をのばし外股で歩く、しぶい低音も昔と変わっていなかった。私が県庁に勤め初めて8年目の春、中学時代の社会科の先生だった人にぱったり出会ったのである。高知の土佐出身だという若くてハンサムな先生は、最初の授業の時こんな話をしてくれた。

「高知の桂浜には、幕末を駆け抜けた風雲児『坂本竜馬』の彫像がある。太平洋の彼方にある世界を見据えるように懐手をして立っている。懐に入っているのは、何だと思う? 本だ。しかも洋書だ。
いいかみんな、未来を考えるにはまず現在を知らねばならん。現在を知るには、これまでどのような歩み方をしてきたか過去を探らねばならん。それには本を読んで勉強するしか方法がない。とにかく本を読め」 溌剌とした話ぶりに、竜馬がどちらを向いているかも知らなかった当時の私は、いつしか吸い込まれるように聞き惚れていた。

私は歴史が好きになった。 それから何十年後かにキリスト教に出会い、聖書に登場する人物のロマンやドラマに興味を覚えるのも、この先生の話に影響を受けているからだろうか。


2.静謐に魅せられ

 20代のころ、私は、学生相手に下宿屋を営んでいる浄土真宗の浄修院というお寺にお世話になったことがある。門を入ると山から引いた水が池に流れ落ちていた。掃き清められた境内に佇んでいるだけで心が洗われるようだった。

代々続いているお寺ではない。住職は、大正時代の末に私財でお寺を建て布教活動に生涯を捧げた人であった。私がお寺に行ったころ、住職はすでに亡くなっていたが夫人が健在だった。読経もなく法事や葬式もしない。門徒といえる人たちもいなかった。分かり易い言葉で仏の教えを説くお寺であった。静謐な雰囲気に魅せられ私は数日間、泊めてもらったのである。

毎朝5時になると木魚をたたく音と同時に念仏がはじまる。これで目が覚める。だが、私は起きない。蒲団のなかでまどろんでいると夢のなかに木魚と念仏が入り込んでくる。私が起きるのは6時過ぎ。身支度を整えると本堂で法話を聴く。 7時に朝食をとり勤めに出る。私の仕事は県庁の住宅課にあって市町村の公営住宅を設計する建築士である。

最初は2.3泊のつもりが、居心地がよくて通算4年もいた。 ふと、気がつくと友人は次々と結婚をしていた。婚期を逸するような気持ちになり、慌てた。親や兄、姉が結婚についてうるさくいってくるようになった。 「何をしているのだろう。こんな所で」 疑問が湧いた。と同時に、大げさにいえば、仏教における死生観の概念に反発のようなものが芽生えはじめていた。

「いつか死ぬ身だと知っていれば、人生において大事なことは何かが見えてくる」
間違ってはいない。しかし、これから結婚をして家庭を築こうとする私には、現実ばなれした話に思えてならなかった。しだいに距離を感ずるようになり、お寺を出た。 実家から勤めるようになったのである。


1.ロンダニーニのピエタ

洗礼を受けたことをノン・クリスチャンの友人にEメールで報せると「どうして?」と即、電話をくれた。返事に困った。 どうしてとは、どんな意味なのか、本心から神様を信じているの、と問いただされた気がした。一瞬迷ったが、私はこういった。
「・・・縁、そう縁なのよ」というと後の言葉は簡単だった。
「自分から求めたのじゃないけれど、出会ったのがキリスト教だったということかしら。強いていえば、揺れ動く心に、凛とした芯が欲しかったのかもしれない」というと、友人は納得してくれたようであった。

私は広島出身である。広島は江戸時代、安芸の国と呼ばれていた。こ地方は安芸門徒といって
親鸞上人を開祖とする浄土真宗を信仰している人が多い土地柄である。子供の頃は食事の前に必ず仏壇の前に座り、父が読経をし、みんなで手を合わせてから食事をする習慣が我が家にはあった。父は、食事中に仏教にまつわる話をよくしていた。若いころ学生相手の下宿屋を営んでいるお寺に下宿をしたことがある。 山手の閑静な住宅街にあるお寺である。毎朝五時になると木魚が鳴りはじめ、念仏が聞える。静寂に「南無阿弥陀仏」と唱える男性の低い称名に身がひきしまる。が、起きない。まどろみのなかに木魚と念仏が入り込む。木魚が止み、住職の法話がはじまる。読経はない。 私が起きるのはそれから。身支度を整え本堂へ座る。これは、食事前に本堂で手を合わせることが下宿のときの条件だからである。法話は頭上を通り抜ける。池に流れ落ちる滝の音が心地いい。そうした静謐な雰囲気が好きで四年間、下宿をした。


キリスト教とはまったく縁のない環境で過ごしていた。
そんな私が渡米をし、前原牧師に出会ったのは、今から十二年前の秋である。当時、夫は食道癌を患っていた。医者から「よくもって一年」と宣告を受けて半年が過ぎていた。気弱になっていた夫は、私の外出をとても嫌がった。
だが、ある日の夕方、後藤さかえさんが「聖書の勉強会へ行くから一緒に行かない?」と、誘いにきてくれた。
「行ってこい。行ってもいいぞ」珍しいことを夫はいった。
キリスト教系の大学を出て、幼い頃は教会の日曜学校へ行っていた夫だから、そういわせたのだろう。
前原牧師に出会うきっかけである。そして、キリスト教に出会う最初であった。
夫は、医者の宣告通り半年後に身罷った。暇を持て余している私を後藤さんは教会へ誘ってくれた。暇つぶしと興味本意である。

旅行好きだった夫と旅行をしたイタリア。キリスト教をモチーフにした芸術品の数々。アダムとイブ、ノアの箱舟、モーゼ、ダビデ、受胎告知、最後の晩餐、キリストの磔刑。そうした事柄がどのように繋がるのか知りたいと思った。イスラエル聖地旅行にも参加した。もつれた糸がほどけるように聖書に登場する人物の関わりが分かると、面白くなってきた。しかし、知識と信仰は別である。
一方、イエスの救いを本気で信じていること自体が理解できなかった。 イエスが十字架で処刑されたのは私たちの罪を償うため、頼みもしないのに。罪とはイエスの救いを信じないこと、身勝手な、と、いちいち反発していた。 何年過ぎたころだったろう。前原牧師から、洗礼をすすめられようになった。
「何事にも時があります。その『時』がきたら」 逃げた。おまけに陰口を叩いた。
「洗礼を受けるだけで天国へ行けるのなら、熱湯だって浴びるわ」


いまから三年半前、手術ミスによる事故で車椅子生活になった鳥羽氏と出会った。
そのころからだった。信じられなくてもいいのではないか。私はこれまでの人生をふりかってみた。何度も岐路があった。その度にきわどいところで難を逃れている。これって何だろう。ふと、大いなる者にコントロールされている感じがした。自分では計り知れない大きな存在。それが神か、仏か、わからない。
しかし、守られている、と思った。
鳥羽氏が受洗される時がきたら、一緒に受けようと決めたのである。
私は時々、鳥羽氏の身近にいる真船圭子さんに、
「鳥羽さん、洗礼を受けられるのかしら?」
 さりげなく尋ねると、
「そんな話は聞かないわねぇ」
その都度、なぜか胸を撫で下ろす自分がいた。生き延びたという感じである。
ところが、昨年の十月だった。教会で前原牧師から洗礼の話が出た。私は同じ机を囲んでいた鳥羽氏に「洗礼は受けられないのですか」と、訊ねた。
「はい、受けます。12月に・・・」
思いがけない返事に、時だ!と思った瞬間、隣に座っていた真船さんに、叫んでいた。
「私たちも一緒に受けようよ!」
弾みである。

洗礼クラスが始まった。 勉強をすればするほど、遠くにいる自分を感じた。
これで、いいのだろうか。
神に対する冒涜ではないか。断わるべきかもしれない。しかし、真船さんを巻き込んでしまっている。
悩みつつ洗礼の日を迎えてしまった。

pieta-photoその朝である。なぜか、ミラノでみたピエタの像を思い出した。視力を失ったミケランジェロが死の三日前まで手探りで制作していたといわれる「ロンダニーニのピエタ」である。弱々しいイエスが聖母マリアを背負っている。


二十二歳の作は、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂にあり、
十字架から降ろされたイエスの亡骸を抱く聖母マリア。以前から、二つの像の違いに疑問をもっていた。ちなみに、ピエタは慈悲、哀れみなどの意味で、
一種の聖母子像だといわれている。

夫が病に臥せっていた頃だった。 居たたまれない淋しさと不安がどっと押し寄せた。
私は、新聞に載っていた上智大学教授のエッセイの一節を思い出した。

あすのことは思いわずらうな。思いわずらったからとて、
自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。
あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。

肩の荷がすっと下り、不安が消えた。ぱっと明るくなった。不思議な体験であった。
それが聖書の言葉だと知る由もない。ヨハネによる福音書の一章に、

初めに言があった。言は神と共にあった。

不安が消えたのは、神の御言葉だったからなのだと気付いた。ひょっとして、イエスに背負われていたのは、この私ではないか。ロンダニーニのピエタのように。

証・森田のりえ

神様はいつ、如何なる時も真実であられる。ということを救いと恵みの体験を通して分かち合いたいと思います。 私は終戦直後の焼け野原と化し、生活必需品である衣食住でさえ不足がちな沖縄本島南の半農半漁の寒村で生まれ育ちました。

何もない時代、小学校に入学した時など掘っ立て小屋の藁葺き校舎には床もなく机や椅子、教科書さえありませんでした。その頃、鉄の雨、蘇鉄地獄という言葉をよく耳にしましたが、それは当時の悲惨な状態を如実に物語っています。

揺れ動く激動の世界の渦の中に巻き込まれて再起さえおぼつかない沖縄でした。元来警察など必要のない長閑で平和な沖縄でしたが米軍の駐留と同時に民族間の複雑な事件や問題が多発し、政情、民心共に不安定で怒りや悲しみのやり場のない状態でした。

でも、神様は無力で小さな沖縄を見捨てるようなことはなさいませんでした。米軍の駐留と同時に多くの宣教師が続々とやってきたのです。やがて私たちの学校のすぐ隣にも教会が建ち、私も友人と楽しく日曜学校に出席していたのを思い出します。

教会へ行くと出席者カードにきれいな赤いマークをつけてもらえるのが楽しかったことと、賛美歌に自分たちで振り付けをして発表し合うのが楽しかったのです。

中学入学と同時に教会から遠ざかり高校卒業までぶっつりと教会へ行かなくなってしまいましたが、教会から頂いた文語訳の新約聖書が何故かこの上ない宝物のように思えて大切に大切に持っていました。

大学受験も済み、高校卒業が近付いてきた頃、源氏物語と聖書を入学前に読もうと思い立ちました。当時文学は人生いかに生くべきかを探求する最高の芸術だと信じていましたので、旧約の義なる神の前に縮みあがりながらも、新約では赦しの素晴らしい愛のメッセージになるほど聖書は世界の古典と言われるだけのことはあるなどと生意気な感想を持ったものでした。

大学在席中は勉強らしい勉強はせず、好きな読書に耽り乱読もいいところでした。そんなある日、人生を変えてしまうような本に出会ってしまったのです。それはトルストイの遺稿集の中に

“たとい人が全世界を儲けても自分の命を損したら何の得になろうか”

と言うマタイ伝16章26節を主題とした短編小説を読んだ時でした。それはほんとに衝撃的で強烈で、命と物という事について考えさせられました。もう40年も前の事で登場人物の名前や詳しい事は忘れてしまいましたが、内容は次のようなものでした。  

ある夕方一人の若者が、ロシヤの広大で肥沃な土地を見下ろすような小高い丘に座って物思いに耽っていました。
其処へいかにも裕福そうで善良そうな一人の老人がやって来てニコニコしながら若者に話しかけました。
 
「どうだ、この土地すごいだろう。この土地は私の物だ。肥えていて良い土地だが、使いこなせない。一つあなたと約束しよう。この土地に明日の日の出から日没までの間に1メートルおきに杭を打ち込んで囲むことの出来る土地はすべて貴方にあげよう。」

あまりのうますぎる話に若者は一瞬疑いの目を向けましたが、いかにも真摯そうで人のよさそうな老人の笑顔に安心して跳びあがって喜び、約束してしまいました。折りしも真っ赤に染まっていた太陽は地平線の彼方に沈み、赤銅色の空が灰色へと暮れなずんでいく、いかにも静かで平和な夕暮れ時でした。広大な土地が自分の物になる喜びで家にすっとんで帰った若者は寝る間も惜しみ、懸命に杭つくりに励みました。それは白々と夜が明けるまで続きました。

もうすぐ日の出です。出来あがった杭を全部丘の上に運び、日の出と共に杭打ちにかかりました。1メートル走ってはトントン、また1メートル走ってはトントン、さらに1メートル走ってはトントンと流れ落ちる汗を拭うのさえもどかしい程杭を打ち続けました。走っては杭を打ち、打っては走り、休むこともなくそれは日没まで続きました。
息も切れ切れに最後の杭を打ちつけたとき、おりしも、昨日と同じように真赤な太陽は地平線の彼方へ姿を消しました。若者は血の滲むような努力により見事に広大な範囲に杭を打ちつけることが出来ました。

若者は過労のため苦しい息の下から杭に囲まれた土地を見て満足し、事を成し終えた充実感でほっとするとどっと疲れが出てそこへしゃがみこむように倒れてしまいました。 そして、もう二度と再び起き上がることができなかったのです。  

たとい人が全世界を儲けても自分の命を損したら何の得になろうか、また、人はどんな代価を払ってその命を買い戻すことができようか。マタイ16:26  

私はあの老人が氷のように冷たい目をしてニタニタ笑っているような気がしました。すごいショックでした。以前に読み過ごしてしまった聖書の箇所が思い出されました。金持ちとラザロの話、金持ちと収穫そしてそれを収納するための倉とその晩に取り去られてしまった命等。“自分の為に宝を積んで神の為に富まない者はこれと同じである。”と言い切っています。全世界よりも尊い命;神に対して富んでいたら、あの若者は欲の為に命を落とすようなことはなかったでしょう。もしあの若者に本質を見抜く識別力があったらあの善良そうな老人の心の奥を見抜くことができたでしょう。私もそんな識別力、命が欲しい。

それからでした聖書を真剣に読み出したのは!聖書を読み進むうちに自分の罪深さをしらされ、その贖いのための十字架、そして復活のイエス様を信じて救いの確信が与えられて受洗しました。あれから私の側にはいろいろ問題がありましたがイエス様の愛は何時も変わりなく、恵みも充分でした。

いつも、どんな時も真実であられました。今でも至らない私は神様を悲しませてしまうような言行をしてしまいます。その度に義なる神様の怒りの炎は私の頭上で燃えるのですが、主イエス様のあの十字架のとりなしの故にいつもいつも赦され、恵まれ、守られて今日までやってきました。ほんとにいたらない私ですが、“今あるは主の恵み”と心から感謝してます。

 この喜びを日本人の方々にも伝えたいと願い日本人が住んでおられる方面に家が欲しいと祈っていましたら私どもの実力では天地がひっくり返って手にすることができないような素晴らしい家が与えられました。世的に考えると支払いのことが寝ても覚めてもきになるような額でしたが、神様が私どもに任せてくださった神様の家だと信じ、支払いのほうも神様が導いてくださると信じてやってきました。ですから私達は家を私物化することがないよう神様のために用いていただきたいと願っています。  

神様のなさることは無駄なく全て時に叶って美しい。戦後の悲惨な状況の中で宣べ伝えられた神様の御言葉は、沖縄の多くの人々をキリストへと導きました。意味も分からずに幼少の頃通った日曜学校も私を導くための神様の方法であったと今は確信を持って言うことが出来ます。  

“十字架の言葉は滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかる私たちには神の力である” 第一コリント1:18

これからも神様に従順に従って歩んで生きたいと心から願っています。

前原睦子


cropped-gvic_banner1.jpg
ゴスペルベンチャーインターナショナル教会
Gospel Venture International Church (GVIC)
17811 South Western Avenue, Gardena, CA 90248 U.S.A. Tel.(310) 527-6112
www.gospelventure.com/



証・前原利夫 牧師



第7回 夢のパラダイスへ向かう

私は27才、南太平洋の楽園に留学派遣されることになった。長女が誕生したばかりの6ヶ月目である。そもそも、米大学への出発は9月のセメスターに間に合うように7,8月頃に出発するのだが、妻が出産を控えているという理由で後期セメスターに間に合うように延期願いを出していた。
 

出発は、終戦以来長々と日米間の政治問題になっている軍空港の嘉手納基地(カデナ)から飛び立つことになった。この空港は軍専用で民間機をチャーターして軍人、その家族と共にハワイのヒッカム空港に向かった。27才にして初めての飛行で、恩師夫妻、友人、妻と赤ちゃんの娘が見送りにきてくれた。

夢のパラダイスへ向かう中、私のハートはドキドキとしていた。ところがそこで意外な戦争の縮図を体験することになった。
私が予想していた飛行場とは全く違い、“ものものしい飛行場”であった。40数年後もあの“ものものしさ”が今目の前に押し迫ってくる。

当時はベトナム戦争の最中、沖縄は太平洋のキーストン(要)と呼ばれ、戦略的に重要な位置にある。軍車は軍服姿の兵隊を乗せて、爆音を立てて一号線(ハイウエー)を爆走、確かに世界のどこかで戦争があるのであろうとう概念的、情報として戦争を捉えていた。
しかし、嘉手納空港に来て初めて、戦争の現実を目撃した。空港にはユニフォームの兵隊、兵隊家族、野戦姿でバックバクを背負う兵士、松葉杖に寄りかかる兵士、妻と別れを悲しむ兵士、抱き合い励まし合う家族。

この基地の様子は確かに戦争が現実であることの証拠だ。これまで“戦争”は観念的にしか捕えていなかった言葉であったが、今、ベトナムで国と国が戦い、人と人が殺し合いをして生中継の実像を目にしているのである。戦争情報はビデオではなくライブ、現実なんだ!戦争体験のない私の“戦争”の概念と、兵隊、犠牲者を出した家族の“戦争”概念との間には、大きな開きがあることをこの基地の空港で体験させられた。
これから楽園の島、ハワイに向かおうとするその出発点で、私は世界の戦争の縮図を見たのだ。私の心の中には二つの大きな感動が混じり合っていたに違いない。夢のパラダイスでの学び、初めて体験する現実の戦争が。今、沖縄をひと飛びすれば人と人との殺し合いがあること。
軍チャーター機は妻と6ヶ月の娘を残して沖縄の夜空に飛び立った。真夜中の旅立ちである。
      

「平和を作りだすひとたちは、幸いである。彼らは神の子と呼ばれるであろう」
                    (マタイによる福音)


第6回 夢の米国留学

「将来の道場」、即ち療養所は私にとって学ぶ動機付けとなり、夢の米国留学への橋渡しとなった。遠回りしたような道、道草をしたような道でも実は一番近い道となつた。もし、健康で療養所に行かずにそのまま仕事中心に生活していたら、ダラダラと学びの機会を失っていたかも知れない。人間の目には“障害物”と思われても、神様はその障害物を宝にまたエネルギーに変えて下さる。私たちの障害物に対する姿勢、問題の取り組みが大事だ。私は職場復帰をして、夜間の大学で英文科を専攻することにした。幸いに英文科の特待生として一年授業料が免除となったのも、実に神様の祝福であった。

1960代の当時、向学心に燃えた沖縄の若者たちには二つの夢があった。一つは本土の大学への国費制、もう一つは米国留学制度であった。私はあまり勉強もしないただ英語が好きで米国留学を夢見ていた。何度か試験を試したがその度に落ちたが、いつか必ず“合格する”という楽観、信仰?からこの夢に縋りついた。やがて400人以上の受験者の中から19人のしんがりの一人として“合格”。新聞で自分の名前を確認したときは飛び上がって喜んだものだ。

それから暫くして1968年1月、新垣睦子と結婚。私の母は病名不明で死亡。私たちの結婚式を数週間後に控えての母はどんなにか楽しみにしていたことであろうか。そして、1969年1月にハワイ大に留学、マーケティングを専攻することにした。当時、1ドル360円の時代、今は円が4.5倍強になっている。貧しい沖縄の貧しい家庭の私がアメリカに渡ることは夢のような話であつた。沖縄はドルを使用していて私のサラリーは$120、年令からしていい報酬であった。

私の留学の過程の中で当時から今もず~と気になっている、いや、不思議に思い続けていることが一つある。それは、どうして私のような勉強もろくろくしない者がこの夢を叶えられたかという不思議さだ。多くの若者たちが英語塾に通い、24時間学んでいたからだ。本当に不思議だ。

米国留学の道が開けたことは神様の恵み以外にないと結論付けている。それは私の実力を越えて神様からのギフトであった。当時、教会に貧しい一家族が出席していた、今で言う“ホームレス”だ。彼は貧しいばかりか精神的にも障害があった。ある時、祈祷会が終わり、私は彼がどんな所に住んでいるか知ろうと追跡することにした。それは汚い空き家の倉庫のような住いで、いつもリヤカーを押しながら古新聞や空き缶、瓶を集めて売っての生活であった。私は心から同情してその家に$20を投げ込んでそのまま引つ返した。私はそのことを長い間誰にも伝えないで黙していた。ところが、どうしてか留学の実現とこの隠れた施しがいつも結びついて一つになる。神様は私の小さな施しを喜んで下って報いて下さったのだと、抱き合わせて信じている。どんな小さなよい行いでも誰も見てなくても神様が見ておられるのだ。それが聖書の教えだ。神様は隠れた祈り、隠れた善行、隠れた奉仕をご覧になられる。それがどんなに小さなものでも神様の目には尊いものだ。  聖書の言葉をお贈ります。

わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに 冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決して その報いからもれることはない」。
(マタイによる福音書10章)

貴方の隠れたよい行いに神の祝福がありますように!


第5回 将来への道場・その2

青年時代の療養生活は決して無駄になるものではない。一日24時間自分の生活を自由に計画できるものです。シャバでの人に振り回される生活、仕事中心の一日から解放されて自由に好きなことができるからです。一日を最大限に活用できる療養生活は走り回っていた私には都合のいい場所となったのです。自分を磨く学びの機会となりました。   また、療養生活は自分を静かに見つめ直す機会ともなりました:自分の魂はこれでいいのか、内面的な反省の時でした。クリスチャになって一生懸命に生きたつもりでしたが、深く心を探ることなくただただ走り回っていたのです。青年、クリスチャンとしての考え、行動、生活態度、信仰など大いに反省の好機となりました。私にとって、施設での短い療養生活は“ミニ神学校”となりまた“塾”となって将来へ備える道場となりました。

この療養施設に入居して数週間後、高校を卒業して丁度4年でした。1960年3月20日、
私は療養所の風呂場で一人浴びていました。その時でした、当時の音質の悪いトランジスターラジオから琉球大学の卒業式の模様が放送されてきました。高校を卒業してあれから4年、同期生たちは大学を卒業、おのおの社会に飛び立って行こうとしている。希望に溢れて大学を巣立つ同期生、一方、この自分は結核療養施設の片隅でうろうろしている自分の姿に男泣きしたものでした。自分の惨めさ、悔しさ、この状況の中で身動きとれないもどかしさに失望したものでした。しかし、心の片隅に“必ず、追いつき、追い越す”という意地があったようです。

あの琉球大学の卒業生の中に小・中学校と一緒であった新垣睦子―今の前原睦子―がいたのです。あの日、あの風呂場の悔しさはやがてエネルギー化して私の人生の転機となりました。若いときは「苦労を買え」とも教えます。青年のエネルギーは逆境を順境に、マイナスをプラスに転換する潜在力が秘められているのです。ここに至った一連のことを通して、私は神様のお導きを深く感謝したものです。 聖書にこのような言葉があります。

このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの
主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。 わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。 それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、 忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。 そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。 (ロマ書5章)



第4回 将来への道場・その1

数ヶ月自宅療養をした私は、人々が嫌がる結核療養所に送り込まれました。結核は体に痛みも痒みもない病気で、外観は健康そのものです。青年のエネルギーに溢れた私にはもて遊ぶ病気でした。 療養所には7-8ヶ月お世話になりました。丁度、日本が東京オリンピックを迎えた1964年でした。療養所には色々なクラブ活動のような楽しい遊びがありました。工芸、民謡、図書、聖書の学び、牧師の定期訪問、また知り合いの牧師の奥様も同療養所で治療していたことは奇遇でありました。

療養生活の一日は色々退屈しないように工夫され一日があっと言う間に過ぎてしまいました。軽症の患者たちは朝から動きまわり療養生活とはとても思えないような活発に遊びまわっていました。しかし、消灯時間は9時と厳守され朝食が8時頃でしたから長い夜を悶々と過ごせねばなりませんでした。 私はこの療養の機会を有意義に過ごすことを考えました。それは学ぶことに時間をかけることだと思いました。特に、二つのことを学ぶ計画をしました。入院前に英語専門学校(名護)で学んだ英語を復習しようと思い立ち、習った教科書を再度読み始めました。その中にはシェクスピア、トムソーヤの短編等がありました。英語の学びをし始めると新しい刺激を受けるようになり、米国留学の夢が療養所の中で再燃しました。当時、沖縄の若者に提供されていた米政府の留学制度がありましたがそれにパスすることは難しいと消極的でした。従って、ハワイに戻った宣教師のカネシロ・スタンリー師にご相談してハワイに留学できるようにと内心目論でいました。しかし、神様は後日それ以上に素晴らしい道を開いて下さいました。

もう一つの学びはギリシャ語の学びでした。独学ですから自己流は避けられず、アルファベッとからスタートしました。しかし、中々興味がありヨハネの手紙をギリシャ語で読みながら少しばかりかじった経験があります。ギリシャの学びは後々新しい学びをするときに自信をもってチャレンジする勇気を与えてくれました。また、聖書、信仰書を多く読む機会を与えてくれたのはこの療養所でありました。療養生活は知的にも霊的にもステップ・アップの機会となりました。これは神様からの「将来への道場」であったのでしょう。

「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。 これによってわたしはあなたのおきてを 学ぶことができました。」詩篇119篇

若い方々、お耳を貸して下さい。貴方は今、壁、問題に直面していますか。真正面からその問題に取り組んで下さい。貴方の問題は貴方の目標への最短距離です。挫け、嘆き、諦めは将来への敵です。今、学び将来に備えるのです。 次回もまた「将来への道場」から涙の体験をお伝えします。



第3回 青年時代の試練

就職後、2, 3年経た年の暮れでした。風邪を引き、熱が出、咳き込みが激しく、寝汗を掻く日々が続きました。“まさか”と思いながら、また友人たちの勧めもあり保健所を訪ねました。心の中では“肺結核”ではないかと恐れ恐れ重い足を運びました。熱を計り、レントゲンを撮りました。当時は即時にレントゲンの結果は出ずに数日後にその結果を知るために出向いたことを思い出します。医師から“貴方は肺結核です。暫く療養が必要です”との宣告は、僕にとっては正に死の宣告のようでした。50余年前の結核治療はかなり進歩したとは言え、未だ死亡者を出す重病でした。私の病状はそう進んではいませんでしたが、肺には既に小さな空洞が2,3あったことを今思い出します。当時、新しく開発されたストレプトマイシンは即効力があるという新薬でそのお世話になりました。お蔭で副作用が併発して内耳炎を長年患い、これには夜も昼も悩まされました。

さて、結核を患い、青年前原はこれからどうなるか、どうするかと心配でなりませんでした。問題が二つありました。当面の経済問題と将来の問題でした。保健所からは療養所のベットが空くまでは自宅療養をしなさいという指示を受けていました。治療費は無料でしたので一人の生活に困ることはありませんでしたが、暫く仕事ができない、収入の道が完全に閉ざされることになりました。私は重い心で会社に辞職願を出しました。ところが副社長が“前原君、君の療養中はサラリーの70%を支給するから早く元気になり、復職しなさい”という全く予想してなかった励ましの言葉を頂きました。心から神様に会社に感謝しました。

私はこのような会社の特別扱いに何故だろうかと考え、これまで会社にどのような貢献をして来たかと自問自答しました。特に貢献というのはありませんが、一生懸命、忠実に仕事を果しました。それと就職するや否や、私は率先して毎朝「便所掃除」をしました。これが唯一の貢献かもしれません。時々、社長は好意的に僕を自宅に招いてくれました。社長宅は当時アメリカ人が住む住宅地で庶民の我々の住む地域ではありませんでした。“前原君、君も将来このような家に住むようになり、香港やアメリカの本社に出張して飛び回るようになるよ、一生懸命やれよ”、と励ましたてくれました。 経済問題が片付いた今、私は数ヶ月の自宅療養をすませ、那覇から北にある療養所に向かいました。そこで待っていたのは様々な学びの機会でした。ま た、青年時代の反省の機会として神様はここに導いたのでありましょう。やがて療養所が私の“将来の道場”になるとは思いもつかぬことでした。 新約聖書(第二コリント12章)にこのような励ましの言葉があります。

“ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。
わたしの力は弱いところに完全にあらわれる“。それだから、キリストの力
がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。 だから、
わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まり
とに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。

次回は“道場”からの体験をお届け致します。



第2回 青年時代に学べ

就職先が決まらないままに高校(那覇商業)を卒業、下宿先から田舎に帰りました。いつ就職が決まるのか先が見えない僕には悶々とした毎日でした。今アメリカ経済の不況で失業中の人が大勢いますが同じような気持ちです。数ヵ月後に、採用通知(コルゲート歯磨き製品関係の総代理店)が届いたときは飛び上がり喜びました。これで苦労している兄の家族を少しでも助けることもできると。暫く田舎から通勤しましたが、那覇に引越し休んでいた教会にも出席するようになりました。

沖縄聖書教会は宣教師がハワイに帰国した後、若い牧師を迎えていました。それが奇遇か、かって高校の化学の先生でした。当時、30才にならない牧師は大学講師と牧師の掛け持ちで、若くエネルギッシュで三度の飯よりも学ぶことが好きな学者でした。この先生との出会いは神の導き、青年時代の僕に学ぶことと神を信じることがどんなに大切かを深く教えてくれました。

このような牧師でしたから多くの若者たちが教会で聖書や他のことを広く学びました。 私は高校ではバスケットボールの選手、沖縄代表で全国インターハイに出場、キャプテンでバスケに明け暮れたスポーツマンでした。その私に牧師はこう言いました、 “君たちは朝から晩まで運動場で走り廻っているがどんなに速く走っても馬には勝てないね。馬に勝てないような無駄なことはするな。” この言葉は強烈に私の胸を突き刺しました。なんと時間を無駄にしているか、時間を大事にし、将来のために使っているだろうか深く反省させられました。

そのこともあって、聖書と好きな英語の勉強にいそしむようになりました。学ぶ意欲は米国留学という夢に挑戦する力になりました。 恩師、運天康正牧師の指導の下に1960年12月24のクリスマス・イブ、今は牧師として活躍している友人と二人で洗礼を受けました。 人との出会いは将来のコースに大きな影響を与えるものです。出会いを大切にまたその人のいいものを盗む程に活用したいものです。知識を広げ、深め、学問をする人は神の存在を謙虚に認めることがスタートラインであることも教えられました。そして、神との出会いこそ人生の祝福であることも、、、

「主を恐れることは知識のはじめである」(箴言、旧約聖書)



第1回 生い立ち

「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って 『わたしにはなんの楽しみもない』と言うようにならない前に、、」伝道の書12章1節

私は幼少の頃から宗教心があったようです。ただ、どの神が本当の神様か知りたいと、あの神かこの神かと日記帳に無造作に書き並べていました。昔、小学校の校門の近くに、貧しいコンセントで建てられた村の小さい教会がありました。登校前、数人の友達と教会に入り、黒い服を着た先生が大きな黒表紙の本からなにやら話をしています。その中で幽かに覚えている話は、 「神様はめんどりが雛をその羽で覆い隠すように、私たちを守って下さる」という話でした。 後日、この話は聖書の中にある教えであることが分かりました。あれから何十年も経ちましたが、神様はそういうお方ですね。体験が証明します。

高校3年、卒業をまじかに控えた時、将来の進路に迷いました。進学か就職の道か。将来はどうなるんだろうか、心配、不安でした。5年生の時から兄に育てられた私は、これ以上兄のお世話になることはできない、寧ろ4人の娘たちを抱えた兄を助け恩返しをしなければならないと思いました。 そこで就職の道を選びました(もっとも進学準備もできていなかったこともありますが)。 そんな人生の岐路に立たされ、右か左かという不安なときに、教会へ足を運びました。この教会は校舎の裏側にあるハワイ二世の宣教師が建てたこじんまりした教会でした。勇気を振り絞りながら二階のドアをトントンと叩きました。迎えに出てきたのは奥様で、奥へ通されました。初めて出会う人でしたが、その牧師夫妻の神々しさ、心の温かさ、そしてタドタドシイ日本語の祈りが20歳の若者の心配事を包み込んでくれました。 丁度、めんどりが雛を囲むように。あの時以来、イエス様を信じてよかったと思っています。 これまでの人生、祝福で一杯です。