Kim_Family

今月から、このGVICのホームページ上で、私の人生にイエス様がどのように関わって下さったかを証させて頂けることを、感謝致します。

私は今夏でクリスチャンとなって20年になります。まずはイエス様を知ることになる私の背景からお話し致します。

小さい頃から、私には何となく「バレたら嫌だな」という痛みがありました。その「バレたら。。」というのは、両親が不仲である事。そして、父親が立派でない事でした。

お酒に酔っぱらっては母を怒鳴り、威張る父。それに居たたまれない母は、「アコちゃん、お父さんは情けない。家で威張って、外では口がきけない。馬鹿な男と結婚すると一生苦労する」というのが口癖でした。ですから、私は、父が「ちゃんとしたお父さん」ではないと思い込んで育ちました。

私の中の痛みは、その傷が時々うずくのですが、私はそれでも明るく元気でした。でもあるとき、私たち家族に大きな新しい問題が起こります。それは、私の末の弟が学校へ行けなくなる「登校拒否」となった事でした。

以来、私の家族に1つの石が投げ込まれました。この石に家族全員が揺さぶられました。父は更に怒る人となり、お酒と遊びに逃げました。母は、我が子のために、必死に勉強し、動きました。私も妹も、この問題の渦に巻き込まれる中で、自分の事は何一つ親に相談できませんでした。

この様な状況なら家族が崩壊してもおかしくないのに、なぜか、家族の回復の為に其々がが問題を見つめるように変わって行きました。神を知らない私たちは、様々な神様に頼み、良いと思う事は何でもしました。しかし、これらは弟の心を苦しめるだけで、全く彼は癒えませんでした。

一生懸命この状況から脱出しようと頑張る彼に、私たち家族は、「この子は登校拒否児、引きこもり、家庭内暴力」というレッテルを貼り付けていたのです。なぜなら、私たちは自分が良いと思う事を信じて、自己中心によって物事を考えていたので、全てが悪い状態に堕ちて行きました。どん底、真っ暗中で、神様は私たちを教会へと導いて下さるのです。

キム・明子


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ゴスペルベンチャーインターナショナル教会
Gospel Venture International Church (GVIC)
17811 South Western Avenue, Gardena, CA 90248 U.S.A.
www.gospelventure.com/

アメリカへ、私と息子たちの挑戦

私は高知県生まれの東京育ちです。家庭はクリスチャンホームでした。中学、高校はキリスト教主義の女子校に通い高校1年のクリスマス、信仰告白をしてクリスチャンになりました。

体育大を卒業後21年間母校の高校で、体育を教えていました。1988年に離婚し2人の息子を引き取った後、新しいことに挑戦したいという気持ちが常にありました。そんな時アメリカ移住希望者の抽選が始まり、応募したところ永住権に当選したので仕事をやめ、1992年に姉と弟の住むLA、ノースリッジに移住して来ました。こちらに来た時、住む家と、母教会の教会以外何も決まっていませんでした。高校を卒業した長男と、13歳の次男と3人での挑戦でした。     

1993年の5月に姉と二人で、日本の家庭料理を出すレストランを始めました。この店は一人でも気軽に食事が出来おふくろの味を楽しんでもらい、何らかの形で神様のことを伝えることが出来たらという思いでスタートしました。1994年1月には、ノースリッジの地震で、自宅も店もダメージを受けましたが、あきらめずに朝から晩まで働いてきました。

2007年5月に店を閉めました。しばらくゆっくりしようと思っていたその矢先の8月に次男が交通事故で28歳という若さで天国へ行ってしまいました。彼は、救急救命士の仕事をしていました。婚約してさあこれからというときでした。(二人の息子に、よきパートナーが見つかりほっとしていたところでした)

この時から私の人生は一転してしまいました。自分では、タフで少々のことではへこたれない性格だと思っていたのですが、何も出来なくなり直ぐ泣いてしまうので、人と会うのもいやになってしまいました。家に閉じこもりひどい鬱状態でした。しかしその間も、聖日礼拝と聖書を読むことだけは続け神様から離れることはしませんでした。

息子の思い出がいっぱいあるノースリッジは辛すぎたので、トーランスのほうへ引っ越してきました。そんな時GVICを紹介され、礼拝と聖書を読む会に出席するようになりました。苦しんでいる私に神様は、確かに私に日々語りかけてくださっていました。

Mitch Sekine Memorial Fund

mitch_sekine-174x300志半ばでの次男の死を悼み、友人、家族により“Mitch Sekine Memorial Fund” が2010年に設立されました。この奨学金は、彼の学んだUCLAのパラメディックのクラスで救急救命士を志す学生の育成を支援し、社会に貢献することを目指しています。こういう形で道仁が永遠に生き続けることは、私だけでなく家族、友人の心の痛みを癒し、生きる支えにもなっています。

次男が亡くなって5年目を迎えた2012年には奨学金を集める特別のファンドレージングをしました。私は、彼の好きだった料理を中心に料理の本を書き、その売り上げを寄付することが出来ました。そして、2014年に2回目のファンドレージングをしました。この時も私は料理の本Vol.2を書き売り上げを寄付することが出来ました。

恵美子の簡単料理教室と創作活動

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恵美子の簡単料理教室もゴスペルベンチャーインターナショナル教会(GVIC)をお借りして2013年から毎月第2木曜日に開催させて頂くようになりました。教室では、私の本から一品選んで作っています。

この年は、ニットソーイングとも出会い、ここから発展して今では、洋服を作ったり、着物や帯を使ってバッグを作ったリサイクルで、小物を作ったりと毎日創作活動に余念がありません。お料理教室のエプロンも、私がデザインして作りました。

2012年12月沖縄出身の主人と再婚し、人生のパートナーも与えられました。こうして、悲しみのどん底から抜け出せるよう、神様は私に次々思ってもいない課題を与えてくださいました。今では、次はなんですか?と課題が与えられるのを楽しみに前向きに生きることが出来”人生で今が一番幸せ”と思えるようにもなり感謝で一杯です。  

宮良(みやら)恵美子

日本の家庭料理、日本の家庭料理Vol.2(各1冊$20)ご希望の方は、恵美子までお問い合わせください。
esekine2 [at] hotmail.co.jp

1年半のアメリカ、ミシガン州での留学生活は、思った以上に大変だった。初めての寮生活で、まづ困ったことは、日本の大学で学んだ英語がさっぱり通じなく、彼らのアメリカン・イングリッシュもちんぷんかんぷんだった。毎朝、アメリカ人のルーム・メートが部屋を出る時に「ハンギング・ゼア~~~!」と言って出て行くのだった。

私は「彼は私に天井のどこかに首をつって、ぶら下がれと言っているのだろうか?彼は日本人の私が嫌いなのでは?」と朝から苦しみ悩むのだった。学校に行くと、なぜかクラスのみんなが一生懸命ノートを見てるので、「なぜノートを見ているですか?」と尋ねると、「今からテストがあるの知らないのか?」と言われ、心臓が止まりかけたのだった。

そんな私にとって唯一大きな慰めとなったのは、アメリカに来て、カリフォルニアのコスタ・メサ市にある「カルバリー・チャペル」という教会でのすばらしい経験だった。

当時3,000名入る教会堂で毎晩チャック・スミス牧師による「聖書の学び」の時があり、英語の良くわからない私にも、日本語の聖書を開きながら学ぶ時、イエス・キリストの愛が心の奥深くにまで満ちてくるのだった。また、毎週土曜日の夜7時半から「マラナサ・コンサート」と言って、クリスチャン・ロック・バンドによる伝道集会が持たれ、ヒッピーのような長髪とひげの彼らが日本の一般のバンド以上に上手な演奏で、しかし神様を賛美してるのだった。

演奏が終わってから同じようにロング・ヘアーの牧師が聖書を開いて説教し始めるのだった。そして、「今夜あなたも、イエス・キリストを救い主として心に迎い入れませんか?」と言うと、100人近い若者達が、講壇前に来るのを見て、とても感動したのだった。

ミシガン州の苦しい生活の中で、「いつか日本の教会にも、このような賛美伝道で救われる若者達が起こされる日を期待しよう!」と自分に励まし続けたのだった。「ハンギング・ゼア~~!」それは「(苦しくてもあきらめずに)頑張れ!」という意味だということを知って、初めて、アメリカ人の優しさを知るのだった。

織田恭博


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ゴスペルベンチャーインターナショナル教会
Gospel Venture International Church (GVIC)
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私が74歳に至って洗礼を受けイエスの恵みを乞いたいと思った背景には急激な人生の変転がありました。この4年間に40年間共にした妻を無くしその後わずか9ヶ月で今度は自分自信が半身不随になったのです。

ごく軽い首の手術だと誘われて行なった頚軟骨の手術の直後突然骨髄神経の損傷をこうむるこになってしまったのです。病院やリハビリ施設で前原牧師夫妻の訪問をうけ聖書の朗読と恵み溢れる祈り受けたのが洗礼への最初のステップと成りました。

4年前までの自分は自らの力と努力で切り開けば全ての事が成就され人生での幸せが勝ち得られると信じていました。確かに成功は得たと思っています。それらの成功で足りうると過信していたのです。

以前から神の存在は信じていましたがイエスキリストへの信仰の道に入るところまでは到ってなかったのです。また渡米45年以上になっていましたが夫婦共に来たことのある教会はGVICのみで今思えばやはり神の導きがあってこの教会に誘ざなわれたのだと感じています。

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4年前までの自分の人生は一見恵まれ過ぎるほど幸運の恵みを受けていました。長崎市の貧乏な家庭に生をうけました。

両親の愛に強く支えられ進学トップ高校であった長崎東高校を卒業し早稲田大学に進学しました。卒業後高度成長に入ろうとする日本のサラリーマン社会を飛び出そうと思いました。

サポートを受ける縁も持っていないアメリカ・ロスアンジェルスへと留学を決したのです。念願だったUSCに進学して修士課程を卒業しBSを取得し、その後更にパート・タイムの輸入業の職を得て働きながらMBAを得ることが出来ました。その後は順調で幸運なキャリアーが待っていました。

又USCで会ったピアニストの安村尚子(沖縄首里出身、武蔵野音大・USCピアノ科卒)と当時はあまり知られていなかったパロス・ヴェルデスのガラスの教会で結婚しました。互いに助け合うパートナーであるだけでなく芸術・音楽を共に分ち楽しむ幸せな結婚生活でした。

一方僕の方はUSC卒業後はフォード自動車 (ミシガン州・デトロイト在)の国際部門の極東担当スタッフに就職、当時の日本のマツダ自動車の買収交渉や日本フォード設立をデトロイト本社で勤めることが出来ました。その功でヘンリーフォードII世の1977年の来日に随行し住友銀行との最終交渉や日本経団連との記者会見などを補佐しました。

日本フォード役職(営業本部長)に在職した事で渡米直後に取得したアメリカ永住権(グリーンカード保持者)を継続することもできました。その後チャンス到来で成長期のトヨタ自動車(現在の“TMS”、Toyota Motor Sales,USA)に1986年に転職することが出来たのです。

米国Private Distributors(中東海岸地区・南部5州・テキサスを含むガルフ5州)担当Sales Administration Managerまた後年はトヨタ・レキサス車のグローバルな輸出輸入(Global Distribution/Marine Logistics)拡大の担当役員として 勤め安楽な退職の準備をしていたのです。ところが全く予期しないことが起りました。

尚子は2004年頃までは友人のVOCALISTと共演でリサイタルを繰り返していましたが その後は長年患っていた腎臓病が悪化し透析する日々になりました。その為その頃から急激に体力を無くしピアノも殆ど弾かなくなったのです。丁度唄うことが出来なくなったカナリヤの様でした。あれやこれやと腎臓移植の方策を調べました。日本では血縁親族以外の移植は不可能でした。

そのため親族に頼みましたが申し出がなっかたのでUSでの望みを祈っていました。然しUSでは移植は出来ても他人のマッチングする腎臓提供者が何時現れるか待っておられなくなりました。

最後の手段としてお金で移植腎臓を買わざるを得ないこととなりフィリピンでの移植をするべく最終的に2007年12月初めにLAを2人で発ちマニラに向かいました。12月9日に入院、12月13日の朝に満面の笑顔で移植手術室に入って行きました。

手術が予定より長くかかり、しかも昏睡状態のままで手術室からICU室に移菅されそのまま眠り続けていました。12月14日の早朝に状況急変しついに息をひきとりました。一瞬が程遠く又長い苦渋に満ちた空白のように
思われました。

現地フィリピンで火葬し沖縄で葬儀を済ませ、翌年の2008明けてから帰米しその後働く気力も失くしてしまいました。長年勤めた米国トヨタから退職するように準備をしました。その準備の1つとして右手の軽い痺れを治すべく神経外科医と相談しMRIを撮ったところ首の軟骨除去のための手術が必要とのことでした。手術は1日か2日で退院出来るものでその後は通院しフォローアプをすればいいと言われその年の8月末に行なうべく準備をしました。手術の日は自分で車を運転し病室に歩いて入っていきました。

2008年8月28日のこの日を境として自分で立ち、歩き、自由な生活が出来る最後の日となることとは夢にすら思いませんでした。 その日手術後5時間ぐらい経過した頃両足が硬直し動かなくなったので担当看護士に緊急処置のテストを頼みましたが右往左往するばかりで何もしてくれません。担当外科医が到着したのは翌朝になってからでした。 直ぐに2回目の手術になりその結果知らされた事はまったく想像に絶するものでした。

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骨髄神経が破壊され3箇所で死滅していることまた骨髄神経は自らの活生能力をもっていないとゆう驚き仰天する診断でした。その5日後SAN PEDROのリハビリ病院に移され療養を続けました。

病院やリハビリ施設で前原牧師夫妻の訪問を何度か受けました。その度ごとに聖書朗読とイエスへの祈りをいただいたのです。そのなかで 詩篇121篇“私は高い山に向かって目をあげる。わが助けはどこから来るであろうか。 わが助けは天と地を造られた主からくる。何か祈ることがあれば山に向かって祈りなさいと“を朗読してもらいました。

病室で何度も復唱しました。心揺さぶるおもいでした。退院した時は体力が激減し体重も30ポンド減ってしまいました。前原牧師夫妻に紹介をうけた真船圭子さんの毎日の心こめた食事に支えられて健康を取り戻すことができたのです。真船さんの到来はイエスの導きのように感じています。

photo3神の導きに従い、洗礼を受け、自分が受身的に祈るだけでは恵みは与えられ無いはずです。自分の頭の中に蠢いていた大切な問いでした。もう過去は戻らない、この与えられた肉体的条件で絶望から如何に這い上がる力を得るかとゆう問いでしいた。過去に振り替えるのでなく現在から将来に向かって如何に生きるかとゆう問いでした。

謙虚な自分に立ち返りそこから出発することだと思ったのです。健康の許すかぎりGVICの礼拝に行くように勤めました。教会の兄弟姉妹たちとの心温まる友情が励みになりました。洗礼に決意したことを真舟さんに話したところ森田のりえさんが同様に洗礼を受けるとことをすると知り歓喜しました。

更に洗礼を受けることを沖縄の義妹(安村文代)に伝えたところ敬虔なクリスチヤンである彼女は心から喜んでくれました。渡米し参加出席してくれると言うのです。妻尚子の昇天記念と洗礼の日を合わせたスケジュールが決り、義妹の励ましと愛に支えられて洗礼を受ける心の準備ができました。 文豪トルストイ(アンナ・カレリーナ、戦争と平和)やドストエフスキー(罪と罰)は数々の名著のなかで人間の愛・憎しみ・嫉妬・欲を隈なく描いていますが最終的なメセージはイエス・キリストの愛を求め祈ることだと断言しています。

絶望から希望へ、不可能から可能への祈りを続け、愛を求めるようにと提言しています。 聖書はイエスが我々一人一人を慈しみ愛を与えてくれるといってくれています。

“わたしの目にあなたは高価で尊い、―――”。(イザヤ43章4節)。

このことばを之から導きの星としようと思っています。どれ程信仰に献身できるかは未だ自信はありません。自分の身の回りに居る人たちを慈しみ、幸せを分ちあえる努力をしようと思っています。

食事の前には祈りをするようになりました。現在は真船さんとはLos Angles SymphonyやLos Angeles Operaの定期公演に欠かさず出かけ楽しんでいますし、才媛の森田さんとは僕の好きな旅行記の話題、絵画、西洋文明史や日本史上等のトピックスを歓談する友人です。

鳥羽正一


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明治学院大学を卒業した私は、英語の教師になることをあきらめ、翌年1974年にバンダービルト宣教師ご夫妻と共にアメリカに来た。聖書と音楽を学ぶためにアメリカに来たが、夏休みの間知らないアメリカ人ご夫妻の家にホーム・ステイすることになった。

しかしまだ英語を話せない私は部屋に鍵をかけてホームシックで泣いてしまった。数日してやっと祈りはじめ、その頃通読していた「エレミヤ書」を開くと、エレミヤ15:16に「私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。

万軍の神、主よ。私にはあなたの名がつけられているからです。」とあり、神様が心に語ってくださったのでした。涙を拭きながら祈り終わった後、私はギターを弾き、そのみことばから歌を作ったのでした。(帰国後、ザ・メッセンジャーズで演奏し、レコーディングの1曲ともなった)

9月に聖書と音楽を学ぶためにミシガン州にある「Grand rapids School of the Bible and Music」という学校に行ったが、当時少し髪の毛が長かった私は、入学早々学長室に呼ばれて「You must cut your hair!」と怖い顔で言われたのだった。

「こんな保守的な学校には居たくない!カリフォルニア州に戻りたい!」と思っていた私に、その夜再び主は「エレミヤ書42章10~11節」から私に語るのだった。「もし、あなたがたがこの国にとどまるなら、私はあなた方を建てて、倒さず、……。あなたがたが恐れているバビロン王を恐れるな。彼をこわがるな。―主の御告げ。-私はあなたがたとともにいて、彼の手からあなたがたを救い、彼の手からあなたがたを救い出すからだ。」

「暖かで住みやすく、音楽の盛んな教会カルバリーチャペルもあり、カリフォルニア州戻りたい!」と思っていた私に、主は、「カリフォルニア州に戻らないで、ここミシガン州に留まりなさい。

あの恐ろしい学長を恐れる必要はない!私がお前と共に居るのだから!」と言うのだった。

織田恭博

英会話と教会 | 証・織田恭博(2)
https://www.gospelventure.com/?p=418

英会話と教会 | 証・織田恭博(1)
https://www.gospelventure.com/?p=418


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「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

英会話を教えてもらおうと訪ねた外人は、日曜日の朝に私を教会へと連れて行った。仏教の家で育った私は、「いえ、あの~、僕違うんです…..。」と言ったが、「ド~~ゾ、ナカニ、ハイッテ、クダサ~イ!」と教会の中に入れられた。

私にとって宗教に頼る人は、「弱い人間や年寄りたちが行く所!」と思っていたのだが、中からお婆ちゃんが笑顔で、「ようこそいらっしゃい!」とやさしそうに言うのだった。驚いたことに、そこにはお年寄りばかりではなく、私と同じ若者達もいたのだった。今まで「老人の集い」とか、「若者の集い」とかはあったが、お年寄りから若者達までいろいろな年齢層の人々が一緒にいるこのような風景は、見たことがなかった。彼らは決して強そうではないが、しかし私にはない何かを持っているのを感じた。

私は「決してアメリカの(その頃の私は、イエス・キリストはアメリカ人と思っていた)宗教などにだまされはしないぞ!」と厳しい顔つきをしながら、生まれて初めて「礼拝」というのを体験した。日本語の歌だが、よく意味のわからない歌を彼らは歌い出し、その後「天のお父様!」と言い始めたのだ。

『ここにいる人々は、みんな父親を亡くした人々の集まりなのか?』 そして初めて聖書のお話を聞いたが、チンプンカンプンだった。それでも、礼拝後にアメリカ人の宣教師やその子供たちと片言の英語で話すことが楽しみで、それからは毎週教会に行くようになった。

しかしクリスチャン達には「神様なんか本当は存在しないんだ!」「日本は仏教国なので、アメリカの宗教はいらない!」などと、今思えば生意気なことを言っていた。それでもなぜか、クリスチャン達は決して腹を立てず、いつもニコニコしながら接してくれるのが、とても不思議だった。

北海道生まれの私は小さな頃からの音楽好き。戦後ロシヤで捕虜生活を経験したという父が流す「トロイカ」などのロシヤ民謡や、クラシック曲を耳にしながら育った記憶がある。

中学時代はあの「ビートルズ」が現れ、ギターを買うお金もない私は、ベニヤ板にギターの絵を描いての独学。中学校では器楽部に入り、フォルンを担当し、ベートーベンの「運命」などを練習した。そして高校では合唱部に入り、先生から厳しい発声の訓練を受け、時には泣きながら帰宅したのを覚えている。

それでも辞めずに部活に熱中していた私は見事に大学受験に失敗。卒業後札幌の予備校に行った。しかし、学生時代から英語も好きだった私は、「いつか英語でアメリカ人と話せるようになりたい!」という思いがあったので、ある日電話帳を開き、アパートの近くにあるカタカナの名前の家を訪ねた。

すると背の高い外人が出てきた。初めて外人と話す私は、恐る恐る「あの~、英語勉強したいんですが…。」すると、その大きな外人が「ワッカリマシタ!ソレデ~ワ、コンドノニチヨウビノアサ、イラッシャ~イ!イイトコロ、ツレテッテアゲマ~ス!」と言うのです。

その日は確か水曜日頃だったので、「どうして明日来て下さいと言わずに、3~4日後なのかな?」と不思議に思った。とにかく日曜日の朝再びその外人の家に行ったところ、「サ~、イキマショ~!!」と彼の家族と共に車に乗せられ出発した。「きっと景色の美しい所にピクニックでも連れて行ってくれるのだろう!」とウキウキしながら「外人の鼻は高いな!ワッ、青い目だ!」と、初めて真近かに彼らの顔を横目で見ながら思うのだった。

すると30分ほどで「ツッキマシタ!オリテ~クダサ~イ!」と言われて下りると、そこは美しい野原ではなく何と教会の前だった。仏教の家で、しかしどちらかと言えば無神論で育った私は「僕、違います!」と言ったが時は遅し!

織田恭博


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主の恵みに囲まれて!ハレルヤ! 恵み深い主に心から感謝致します! 本日は、1000回記念礼拝の感謝会の場を借りて、GVICの歩みを共にふり返ってみたいと思います。    

私たちは1994年9月4日、日曜日、LAホーリネス教会の礼拝後に、敬愛します溝口先生や教友に囲まれ、祈っていただいて、永年お世話になったホーリネス教会を後にし、翌週の9/11にサウスベイの地区での第一回の礼拝を捧げさせて頂きました。早いものであれから19年、本日、ちょうど1000回目の礼拝を捧げることができました。その間の主の守り、恵を感謝致します。

一口に1000回と申しましても、心の中で雨や嵐が荒れ狂うことがあった中で、一日たりとも休むことがなく、礼拝を捧げさせて頂きました。信仰薄く、足りないづくしの私たちにとっては、奇跡というほかありません。弱くてどうしようもない、私たちのために、主は憐れみの手を伸べてくださり、愛する祈りの友や、先生方、多くの助け手を与えて下さったのです。ここまでこれたのは、ひとえに主の恵みであることを思い感謝で一杯です。今日、喜びを共にしていて下さる皆様のご理解と心からのご協力、ご奉仕、そしてお祈りがあったればこそ!と感謝は尽きません。   

神様は無から有を造られる方です。何もなかつたGVICも、今こうして礼拝堂が与えられ、サウンドシステム、台所等が備えられ、徐々にではありますが、一つ一つ整えられてきました。そういう神の恵みの中で、愛する教友と共に、    ”心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして神である主を愛せよ”    ”あなたの隣人を自分自身のように愛せよ。”   と言われる。命のもとなる主を崇め、愛して、お互いに励まし合って生かされているこの恵み、幸いを感謝せずにはおられません。   

さて、第一回目の礼拝はヒルトンホテル(今のダブルツリー)で行いました。私達の他にどなたが礼拝を共にして下さるかと期待とかすかな不安が心をよぎりましたが、以前、我が家で共に聖書の学びをした三羽ガラスの三人の友(川名さん、小野さん、今は天に召された真山さん)が奥様と共に、そして加藤ご夫妻や近所の方々が礼拝を共にして下さいました。

どんなに励まされ、力付けられたか知れません。それから4年間のホテルでの礼拝はどんなことがあろうと主に守られた楽しいものでした。大きなカートにスピーカー、キーボード、音響機材やOHプロジェクター、そして聖書や賛美歌などを積み込んで搬入しセットするのも仕事の一つでした。セットが済むと、私はホテルの入り口に備えた礼拝案内の傍で、ワクワクしながら礼拝に来る人を待ち、案内したものです。

娘たちには英語部LAホーリネスに続けて行くように勧めましたが、結局、ともに礼拝をするようになり、愛子はキーボードで伴奏をしてくれて助かりました。小さな群れでしたが、救われる魂が与えられ、主が共にいて下さって、和やかで心から主を崇めることが出来ました。この上ない喜びでした。   

四年後の98年には、「礼拝堂を与えて下さい」との祈りに主が応えて下さり近くのメシヤニック・ジューの会堂がレントできました。土曜日はユダヤ人が会堂を使用し、日曜日の早朝は中国人教会、その後11時から私達が礼拝を捧げるという恵みに与りました。会堂が週日にも使えるようになり、火曜日の午後一時から、野木村姉と共に二人で「聖書を読む会」をスタートし、現在、辻本先生の下に20人前後で学びを続けています。

それと平行して水曜日の夜と、祈祷会を開くようになりました。更に充実した活動ができるようになった最中に、2006年12月、「この建物は売却したいので2月13日までには移転するように」との通告を受けました。 再び、礼拝堂探しが始りました。主の導きで、当時還元水会社の倉庫(その前はパン屋さん)であつたこの建物が、オーナーの大城ご夫妻の配慮から格安のレントで建物を使用、通告ぎりぎりで1月28日に無事移転しました。

数週間かけて改築し礼拝にふさわしく整ってから、ほっとする間もなく、またしてもこの建物から立ち退かなければならなくなりました。建物が売りに出されたのです。折角の聖書の学び、祈祷会、諸集会の場所を失いました。私達は礼拝堂が与えられるよう再び祈りながら、4ヶ月後にこの場所からホテルに移ることのになりました。  

2007年5月に古巣のホテルに戻り、礼拝はホテル、SSの子供たちは大きな部屋のときは後方で、或いはホテルのホールを使用し、祈祷会は藤村俊次さんの”わんぱく塾”、昼間の聖書を読む会はトーランス市庁舎の図書室の小さな一室が与えられ、両集会とも休むことなく継続することができました。そのような時も、一同、心を一つにして感謝することができました。私達は再び、礼拝堂が与えられるように祈り始めました。   

神様の憐れみとまたオーナーの寛大な配慮でかつて使用した倉庫を買うことができ、再び、この場所に戻り、現在のように改装しました。2007年11月に購入を完了、早6年が経ちました。ところが、教会堂としての使用許可申請、増改築の目まぐるしい日々が続くなかで、トーランス市からの許可が難しいとの情報が入り、祈りに専念しました。

あのヨシュアが主の御声に従って、エリコの町を7日間廻って勝利を得たことに倣い、その年の8月11日から9月17日を”エリコの城壁期間”と定め、都合の付ける方々が集い、一日一回、六日間、そして七日目は七回、祈りを込めて、トーランス市庁舎の周囲を、廻ったものです。また、市との交渉で協力して下さる弁護士も与えられ2009年8月の最終公聴会では満場一致で教会使用の認可が下りました。公聴会に参加した私達は外に出るや全員飛び上がって喜び、主に感謝を捧げたものです。   

それからは誰はばかることなく、十字架を掲げることができ、多くの方々のご奉仕により会堂が整えられ、十字架の傍らには感謝記念に桜が植樹され、庭も会堂も一つ一つ整えられつつ進んでいます。今後はトイレの拡張改装、外側の、パーキング場の整備が残るのみとなりました。   

感謝のことに2010年9月に本日司会をして下さっているDavid 先生、明子夫妻が与えられ、念願の英語のミニストリーを開始することができました。 2011年6月には会堂の奉献式を感謝の内に迎えることができました。これからも日英両語のミニストリーがさらに祝され、神の僕に相応しく、清められ、整えられ、お互いに愛し仕え合い、つねに御声をかけて下さる主に従い、福音宣教のために捧げていきたいと願っています。

この建物は以前は普通のパン屋さんでしたが、今は命の泉の湧くパン屋さんです。多くの方々が日本へ帰国しました、また、八人の方々が天に召されて行きました。私達はこの世で、そして、神様の御前で再会できる希望に生かされています。   本日、くすしくも、次の2000回礼拝へむけての第一歩を、皆様と共に踏み出すことが出来たこと、心から主に感謝します。    

“主に感謝せよ。主は恵みふかく、そのいつくしみはとこしえに絶える ことはない!”詩篇136:1 

アーメン!

前原睦子

世界ではじめてのクリスマス

illust

山内修一

世界ではじめてのクリスマスは

ユダヤのいなかのベツレヘム

宿にもとまれず 家畜小屋で

マリヤとヨセフの二人だけ

赤子のイエスさま 草の産着

ゆりかご代わりのかいばおけ

優しい笑顔に見守られて

恵の光が照らすだけ

グローリヤ インエクチェルセス ディオ

②~③ 省略

信仰をもってから、私の人生観と価値観は変わってしまった。
クリスマス…あっ、それはキリストの誕生日。

サンタクロースがプレゼント持ってきて子供たちの靴下に入れてくる。大人たちはキャバレーでダンスしてワイン飲んで、帰りにクリスマスケーキぶらさげて、クリスマスツリーの下に置いたりして…。

ノーノー、とんでもない。ほんとのクリスマスは、違うんだ。聖書読んでごらん。

私は、どうしたらクリスマスの事実を世の人に伝えられるか、考えた。そして思いついたのがこの題名。

始まりはこうだったんだよ。
この曲には、思いがけない思い出がいっぱいある。

テレビのスイッチをひねったら、この曲が突然流れてきた。山口県のフランシスコ・ザビエル記念礼拝堂の

サンデースクールの歌声だった。
後でわかったことだが、日本の‘カトリックの教会では、全国統一の讃美歌集を用いている。幼稚園児がSスクールでそれらの歌を覚えて、大きくなって自分たちの子供を同じ教会に通わせると音楽教育のサイクルが出来上がるというわけだ。みなさんのクリスマスはいかがですか?


イースターの朝には

1)イースターのあしたには
まっ白なゆりの花

イエスさまのよみがえり  しのんで飾りましょう

暗いほろびの墓より   白い衣によそって

勝利の命へと
よみがえられたイエスさま

2)主を心からしたって
泣きぬれていたマリヤ

み使いのことばに
ふしぎな胸のたかなり

なんというこの驚き
なんというこのよろこび

きよらかなお姿の
なつかしきロボニ、イエスさま

3)イースターのあしたには
大きなよろこびで

涙をぬぐわれた
やさしいいマリヤのように

悲しい心はぬぐわれ
希望のよろこびにふるえて

イエスさまを賛えましょう
イエスさまにお逢いしましょう

1975年3月、自分で歌うために作曲した。だから、テキストのヨハネ20;11-18までを、静かな声で朗読する。

これが、歌うよりむずかしい。ラビは先生でラボニは大先生ということで、ここにマリヤの感動があらわされている。朗読がうまくゆくと、歌うのはわりとやさしい。ミロデーが感情を表現しやすいように流してある。

マグダラのマリヤが、おどろきのあまり胸を押えて、墓の入り口から弟子たちのところへ駆けてゆく姿が見えるだろうか。

さて、訂正を一つ。3月の飛脚の証で(すばらしき主イエスの愛)は(すんばらしけ主イエスの愛)でした。方言のなまったところを子供たちがよろこんだ、ということで、羽鳥先生が説教タイトルに借用したものと、そのせいでした。


野に咲く百合の花

野に咲く百合の花は み神の命のままに

だれも見ていなくても きれいに装うでしょう

青空飛ぶ小鳥は み神の命のままに

だれも聞いていなくても きれに歌うでしょう

あしたは明日のこと この日を大事にして

だれも見ていなくても つとめに励みましょう

夕焼けのもえる頃は 百合の花も小鳥も

ひと日のわざを終えて 静かに祈るでしょう

み神のみむねの中で  全てをゆだねきって

心からささげましょう  感謝のいのりを

この曲は1971年3月の作、当時私の家族は埼玉県浦和市に住んでいました。

ここから職場まで片道電車で一時間半。東京世田谷区の梅ヶ丘の駅で下車。ここから急ぎ足で職場まで6分。

車中でまとめた曲想を忘れないうちに、ノートに書き留めたりしたものです。

さて2011年、New Year のスタートラインです。
イエス様が宣教をスタートされた第一声は、

この有名な山上の垂訓。マタイ伝5章1節から7章の最後まで声に出して読んでみましょう。

途中でつっかえたら、はじめからやり直すつもりで、おちついて、ゆっくりと。

大体25分から30分で終わります。それでは皆様、ハッピーニューイヤー!


忘れないで

1. 忘れないで いつもイエスさまは

きみのことを みつめている

だからいつも 絶やさないで

胸の中にほほえみを

2. だけどいつか 激しい嵐が

きみのほほえみ 吹き消すでしょう

だからいつも はなさないで

胸の中の みことばを

3. 忘れないで 悲しみの夜は

希望の朝に かわることを

だからすぐに よりもどして

いつものきみを ほほえみを

自分で書いた歌で、自分がなぐさめられたというあかし。

2月20日(日)

SDの中村章先生から電話をいただいた。ロマリンダで開かれた年会で、上記の歌が歌われ、

小原牧師や沢山の参加者から私によろしくとのことだった。
この週、私は大変だった。

2月21日(月)

体調をくずしてねていたが真夜中、急に発熱、体のふるえがとまらない。

911のNo.を思いだせなくて、祈っていたら、いつのまにか寝込んで、朝を迎えていた。

薬(ピル)の組み合わせの
トラブル。

2月23日(水)

夕方6時台所で皿を洗っていた。皿が落ちて割れ、するどい破片が右手首に突き刺さった。隣家のYさんに助けを求め、トーランスの救急病院に運ばれた。家に戻ったのは午前1時。応急措置がよかったとドクターにほめ

られた。

2月24日(木)

長男がラスベガスからトーランスに用事で来て、午後訪ねてきた。台所の血跡をみて、さすがにおどろいた。
25日は傷の治療。薬針の形で傷はくっついていた。

2月26日(土)

眼が覚めたら咳が泊まらない。体がだるい。風邪の再々発。

熱いみそラーメンをたべたら、咳が小休止。よしや!というわけで原稿をかいている。


友よ歌おう

友よ歌おう 救いのみわざ

あの日あのとき きいたよきおとずれ

罪にしずむ 世人のために

イエスは十字架で 血しおながし

すばらしいみ神の 愛をしめされ

永遠のみちに まねかれたのだから

友よ語ろう 十字架のことば

語りつづけよ 「世の光」として

皆さん、一緒に歌って下さい(イエス・キリストの)救いのみ業を。

私はあの日(1960年頃)23才の時でした。絶対安静の病室、そう、肺結核の重症で、喀血が続いていました。

枕元のラジオから、福音放送「世の光」が流れていました。

だれでも重荷を負っている人は私(キリスト)のところに来なさい。あなたがたを休ませてあげましょう。

それは私のように罪(さまざまの苦しみ)に沈んでいる人たちのため、イエス様が身代わりとなって、

十字架にかかいり血
(あがないの)を流してくださった。

これは神(天のお父さま)の私に対する愛の表現でした。

信仰をもって神さまを見上げると永遠の命を与えて下さるのです。

皆さん、一緒に聖書をひらいて下さい。神さまのことばをききましょう。それは暗闇の中に輝く光となって、、、

注:この曲は同名の映画(友よ歌おう)の中に収録されています。


雪ふる夜は

1) 雪ふる夜は 耳をすませて

静かにイエスの み声を聞こう
雪より白く 罪の汚れを

清めてくれた イエスのみ声

2) 雨ふる夜は 故郷としのび

信仰の友に 便りを書こう

涙を流し 祈ってくれた

優しい友の 愛のゆるし

3) 星ふる夜は ギターつまびき

み神のわざを 賛えて歌おう

み旨のままに 造られた世界

希望の光 輝く世界

今から約50年前、私は療養所を出てから、青森福音キリスト教会書店に仕事をみつけた。

そして毎週日曜、キリスト教会に出席した。24才の頃だった。

ある冬の礼拝後、私はKさんと二人で雪道を帰っていった。彼は言った、

「山内さん、つまり信仰というのは、毎日祈っていると自然にわかってくると思うけれど、、」。

そして今日は特別に凍っているからといって、自分の着ていたジャンパーを私の背中にかけてくれた。

Kさんはまだ独身で建具師であり、おれは学がないからと言っていたけれど、

後年、このジャンパーを着る度に、彼の素朴な信仰の姿を思い出された。

翌年私は、その母教会「青森福音キリスト教会」のサポートを受けて神学校に入学した。

現在の東京基督教大学で、当時は校舎が東京都杉並区浜田山にあった。
この曲を書いた1971年私が東京声専音楽学校(現在昭和音楽大学)を卒業した年で、

これから伝道音楽の活動を始めることになる。

この年(友よ歌おう)というタイトルの歌集をPBA(太平洋放送協会)から出版され、

この歌集は32ページ、手書きで第6集まで出版した。1976年これが一冊にまとめられ、

いのちのことば社(友よ歌おう)ヒットソング集として刊行された。

又、この前年クリスチャンAVセンターより伝道映画(友よ歌おう)が作られた。


ドロローサ

私の罪のために 重い十字架負わされ

あざける人の中を耐えてゆかれたイエスよ

ドロローサ ドロローサ カルバリーの丘へ

ドロローサ ドロローサ のぼってゆく道

私の胸の中に 刻まれた主の十字架

いばらの冠つけて 祈られる主の姿

ドロローサ ドロローサ 悲しみの丘へ

ドロローサ ドロローサ のぼっていく道

私は行こう今日も 主の歩まれた道を

血汐のあとをたどり 十字架を負ってつづこう

ドロローサ ドロローサ よろこびの丘へ

ドロローサ ドロローサ のぼってゆく道

血汐の道はつづく 十字架の跡のこして

あがないの丘越えて 父なる神のみ座に

ドロローサ ドロローサ のぼってゆく道

神学校卒業の春、私は召命(Calling)という問題にぶつかった。

私は牧師に向いていない、ということであった。

誰もいない学校のチャペルで、迷い、苦しみ、祈っていた。

その時、迫ってきた聖句があった。「

「・・・自分を捨て、自分の十字架を負うて、私に従ってきなさい・・・」(マタイ16:24)

召命とは、一体何だ?
私はうなだれて、悲しみの道(ビア・ドロローサ)を歩き出した。

ろくな才能もない男が、
30才近くなって、これから音楽の学びを始めるだと?

PBA(太平洋放送協会)に就職し、東京西世田谷バプテスト教会の副牧師として雇われ、

夜学の音楽学校で学び始めた。
それは5年間続き、その間に私は結婚して、子供も生まれていた。

1967年頃、カルバリの丘は遠く感じられた。


夕日静かに

 夕日静かに 山辺に燃えて

たそがれの訪うとき

やすらかに主の 愛の迫りて

我が心を満し給う

来り給え 我が心の賤家に

宿り給え 再び来る日まで

神学校の二年生のとき、校舎が東京都杉並区浜田山から都下、

国立市の郵政局に近い広々とした郊外へ移転した。 1963年の春のことである。

鉄筋コンクリートの校舎と男子寮は完成したが、女子寮の方は間に合わず、

校舎の三階を使うというあわただしさであった。

国立は国分寺と立川の中間にあり、音楽大学や一橋大学のキャンパスがある学園都市である。

夏休みになって私はふるさとの青森へは帰省せず、学校に残って、アルバイトに精を出すことにした。

沖縄出身の学生など、4~5名の仲間もいた。校庭の草刈、道の工事など、なんでも引受けた。

校庭から谷保駅を眺めると、信州のアルプスが遠くに見え、その背後に富士山がうっすらと霞んでいた。

夕日はアルプスの山並みの上に沈んで行くが、次第に左側から右側に移動して、ある時期富士山頂に落ちる。

落日は赤々と燃え、私たちの心もあかく照らす。
息を呑む美しさだ。再臨の輝きだ。

汗を拭き、カッター(除草機)を片付けて、寮へ戻る。
が、食堂は夏休みで閉鎖されている。

小銭をポケットに、夕暮れの街へ仲間と出かける。


シャローム

シャロームシャロームまた逢う日まで

シャロームシャローム神のみめぐみ

シャロームシャロームまた逢う日まで

シャロームシャローム

豊かに豊かに豊かに1972年2月の作。

この頃、愛知県民の森,屋外ステージを囲んで、高校生、短大生のキリスト教大会が開かれた。

集会の終わり頃、みんなで、シャロームを歌った。

私はこの曲に合わせて、大声で祈りのことばをかぶせた。

そして数人の学生がステージに駆け上ってきて歌ったのである。

聖霊の感動が人々を包んだ。

もう一つ。古今組の吉沢さんから電話をもらった。

「あんたの曲シャロームを、テキサスのある教会で日本人の人々が歌っていたよ。」

なんでも福島県の農業視察団の青年たち40人ほどが、交換会のとき歌ったらしい。

クリスチャンのグループでない人々だったということで吉沢さんがびっくりしたらしい。

会津若松教会の高橋牧師は私の友人である。

教会の近くにある商業高校の生徒手帳には私の作品が5-6曲集録されてあった。

作品は様々の小さな流れにのって、いろいろな場所に散らばってゆく。

もう15年くらい前のはなしであるが。


すばらしき主イエスの愛は

すばらしき主イエスの愛は
広く深い(おっ!)
すばらしき主イエスの愛を
たたえて歌いましょ

(おっ、おっ!)

3月27日(日)の礼拝、午後の食事をすごしながら、この歌を私は心の中で叫びつづけていました。

この歌は1971年発行の(友よ歌おう)第一集に収録したものである。

この頃私はギターを肩に、日曜学校の生徒たちと、この歌をよく歌った。

おっ!というところはこぶしを上につき上げる。

羽鳥明先生の説教のタイトルが「すばらしき主イエスの愛」となっていたこともある。

3月27日、改築された新会堂が初めて公開された。これはすばらしい。

いやすゥばらしい!音響がいい。さんび指導者の声が、きれいに、はっきり聞こえる。

サックスの特別さんび。滝元先生のパンチの効いた若々しい説教。

ちょうど焼肉をレタスに包んで、
からみそをたっぷりつけてほおばった味わいだ。これゃうまい。

滝元先生の息子さんたちを中心にしたグロリシンガーズというバンドがあった。

当時(歌集を発行していた頃)P.B.A.のゴスペルフォーク・ジャンボリーに毎回参加してくれた。

今、その中の一人が新城教会、つまり滝元先生の後をついで、主任牧師をしておられるとのこと。

GVICは名前がユニークだ。これから英語部もスタートする。内容も充実していく。

私は闘病中で体は動かない(声が出ない)

けれど、心の中で“おっおっ!”と こぶしをつきあげて、明日の夢をみている。


赤いばら

赤いばらを あなたにあげよう

飾ってごらん あなたの胸に

イエスさまが 十字架の上で

流してくれた まっかな血汐が

あなたの心で 激しく燃えて

愛の命が めざめるように

小さなばらも いっしょにあげよう

さわってごらん あなたの指で

イエスさまが 十字架の上で

ひたいにかぶった いばらの冠が

あなたの心を 鋭く刺して

罪の痛みを 感じるように

葉っぱの零で 濡らしてあげよう

のばしてごらん あなたの腕を

 

イエスさまの 十字架の下で

マリヤの頬を ぬらした涙が

あなたの心を やさしくうるおし

救いの恵みに ひたれるように

ある朝職場で、後輩のWさんからばらの花一輪もらった。さっそく机の上の花びんに飾る。

なんと鮮かな色!花自身はそれに気付かないのに、、、。

ということで浮かんできたのが上記の詩。1972年6月の日付がある。

それからしばらく経って「赤いばら」というタイトルのカセットテープが送られてきた。

ヒュペル・クリストというバンドの演奏。

う~む、上手い。特に「ちびたザァカイ」のアドリブは最高!


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証・劉清心

6月・主に召命された2

前回に引き続き渡米する経由について分かち合いたいと思います。伝道者になる確信を持ってから、ずっと神様に祈りました。大学卒業してからどうしたらいいですかと主の御心を求めました。

自分の考えで三つことの選択がありました。一つ目は日本で就職してお金貯めてから日本の神学校で学ぶこと、二つ目はそのまま中国に帰って神学校にいくこと、三つ目はアメリカの神学校にいくことのでした。

アメリカの神学校は評判がいい、クリスチャンが一番多い国だとよく聞かされました。決めるまで切実に主の御心を求めました。ある日ディボーションしている時に主の御言葉が与えられました。

創世記の12:1(主はアブラハムに言われた。あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、私が示す地に行きなさい)と、この御言葉を考えながらその三つの選択の中でアメリカに行くのは主の御心だと信じました。

しかしアメリカに行くのは一番不可能なことでした。その時全然英語喋れないし、お金もないし、アメリカに行くビザを取るのも大変でした。現実の自分を直視すると、どう考えてもそれは不可能でした。しかし主を仰ぎ見る時に、主から与えられた御言葉を思い出し、心に平安と喜びもあった上で、アメリカに行くのは主の御心だと確信ができ、大学卒業してからアメリカに行くと決断をしました。

約一年間ぐらい毎日切実に祈りました。やっと大学卒業する前に、主が道を開いてくださいました。バイト先のオ-ナさんを通して、アメリカに来るビザの週類をサポートしていただいて、保証人にもなって、最後にアメリカに来る必要な費用も全部出してくださって順調に渡米できました。主の働きなしにはどんな仲いい友達でも、自分がどんな優秀でも、そこまで助けてくれる人はいないと思います。主の御心であれば、主が全ての必要を備えてくださいます。

愛する兄弟姉妹、私たちは神様の子供として、主の御心を求めて、信仰によって歩むことは主に喜ばせる生き方だと思います。第二コリント5:7(目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです)今回の飛脚は最終回になります。ご愛読ありがとうございました。

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5月・主に召命された1

この世の中の価値観は地位が高く才能があり、成績が優秀な人はよく人に認められる。しかし主は人間が見るようには見ない。「容姿や背の高さに目を向けるな。私は彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが主は心によって見る。」(サムエル記上16:7)
 

日本で毎年,AnisJapanというクリスチャンキャンプに参加しました。キャンプで韓国から来た牧師のメッセージを通して、特別な感動を受け以前のことを思い出しました。救われた家族と変えられた自分、厳しい環境の中でずっと助けてくれた主を思い出した時に、自分の人生の全てを主に捧げて、伝道者になりたいという決断を出しました。

現実の生活に戻ると、経済的なことが不安で両親に幸せな生活を与えたいというのが一番でした。そんな生活の中で受けた感動を忘れ、自己中心な生活をしても主がずっとそばにいて、私の祈りを聞いてくださいました。

聖霊様の導きにより、恵みあふれた生活、哀れみ深い主の姿を見せてくださり、キャンプで受けた感動を思い出し、主の前で泣きながら悔い改めました。その時,世の光、地の塩として神の国を広げて行きたいという決断をしました。

しかし、自分の将来と経済的な生活、両親の世話をも主に委ねられませんでした。そこで切実に主に求めました。もし主が本当に私を主の弟子にするならば私の両親を祝福し、経済的にも満たして、私が完全に両親のことを心配ないようにお願いいたしますと主に祈りました。

祈りが聞かれ、両親の関係、経済的にも祝福され、やっと大学三年生の時に伝道者になると献身する確信ができました。主に三回も呼ばれて、心から主の召命に従う決心をしました。
愛する兄弟姉妹私たちそれぞれ神様から頂いてる使命があると思います。学歴や経歴や才能などがなくても、偉大な主を仰ぎ見て、自分を主に捧げる心があれば、主が私たちのすべての必要を満たします。

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4月・逆境の中で働く神様

長い人生の中で、誰でも逆境の生活を経験することがあると思います。しかしみんなそれぞれ逆境に対応する方法が異なると思います。

18歳で日本に行って日本語が全く話せないし、1ヶ月経ってお金がなくなって、外国で一人で不安な心でいっぱいでした。不安の中で今まで頼ってきた神様に祈り始めました。二つの祈りのリクエストがありました。一つはバイトが見つかって生活ができるようにということと、大学に入れるようにという二つの祈りでした。

バイトを探すには日本語が必要だし、日本語が喋れない私は毎日切実に祈りました。主の導きにより、一週間後には友達の紹介でお皿を洗うバイトが見つかりました。店長は優しくていつも私を助けてくださいました。

二つ目は大学に入りたいと強く願いました。自分の人生を変え、家族に幸せを与えるには最低大学の学歴が必要だと思ったからです。しかし、高校に行かずに、毎日遅くまでバイトをし、勉強する時間がない私は疑わず毎日主に祈りました。

日本語学校で一年間勉強して関西で評判のいい龍谷大学に入学しました。学校で先生に期待される学生ではなかつたのですが、こんなに小く、力のない私にも、主がずっと逆境の中で共にいて、助けてくださり、主の恵みの満ち溢れる日々でした。厳しい環境の中にいても、嵐の中にいても、イエス様を信じ、聖霊様の力によって、逆境を乗り越えることができる。

逆境は神様が演じる舞台であって、逆境を通して信仰が成長することができ、忍耐力を生じるんです(ローマ書の5:3-5)そればかりでなく、苦難をも誇りとします。私たちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望は私たちを欺くことがありません。私たちに与えられた
聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
 

愛する兄弟姉妹、私たち行き詰まった時に、神様の働きを信じて、順境でも逆境でも主に感謝しましょう。   

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3月・日本で洗礼を受け、変えられた

愛する兄弟姉妹、先輩の皆さん、神学校の第二学期がスタートしました。GVICに来て九ヶ月になりますが、皆さんの祈りと愛とサポートを受け、学ぶことができて心より深く感謝しております。これからも主のため、魂の救いのため、、みなさんと一緒に頑張りたいと思います。
 

今回は僕が日本で洗礼を受けた恵みを分かち合いたいと思います。僕は中国での不良生活をやめようと努力しましたが、ギャンブルの誘惑と弱さに負けてどうすることもできず日本留学を決断し、2006年に18才で渡日しました。

日本語はまったく話せないし、経済的にも余裕がなく、ただひたすら神様に頼っての渡日でした。日本で朝鮮族の兄弟姉妹の伝道に導かれ、韓国人の教会に行って信仰生活を始めました。日本に行く前にクリスチャンになったけれども、イエス様、聖霊様の役割は分かりませんでした。神様だけお父さんのような方でずっと頼っていました。その教会の担任先生から洗礼を進められ、洗礼のクラスで一緒に勉強し、それを通して、イエス様と聖霊様の役割を学ぶことができました。

2006年8月17日にAnis Japanというキャンプで洗礼を受けました。その時、自分のすべての罪を深刻に悔い改め、イエス様の血潮によって、私の罪が赦され、聖霊様の力によって、私の不良の心を取り去って、生まれ変わったことをすごく感じました。

イザヤ書53書5節、”彼が刺し貫かれたのは私たちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは私たちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、私たちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私たちは癒された。”
愛する兄弟姉妹、自分の思いや努力だけで自分の弱さと罪に打ち勝つことはできません

ただ聖霊様の導きによって、イエス様を信じ受け入れれば、すべての罪が赦され、素晴らしい人生を歩むことができます。主イエス様は本当の平安と喜びを与えようと待っておられます。

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2月・家族を通して救われた(2)

2014年は今年の御言葉の様に「働きの成果を無駄にするのではなく豊かな報いを受けられるように」、皆さんと主のために奉仕したいと思っています。

今回も引き続き私の信仰生活を紹介します。両親は離婚せず、関係を回復するようになりました。しかし、私は勉強する気がなくなって中学校を卒業して不良の生活、イエス様を信じながらも自分の弱さに負けてギャンブルをし始めました。家族は神さまに守られ、神様に恩返しをしようという気持ちが強くありながら、ギャンブルの誘惑に打ち勝つことが出来ませんでした。

その頃、できるのは毎週の日曜日に教会に行って礼拝をすることでした。牧師の説教の中で、神様に十分の一を捧げれば、その10倍、100倍の報いが与えられると教えられました。私はギャンブルする前に必ず神さまに祈りました。十分の一を捧げますからキャンブルに勝たせて下さいと。なぜかというと家族のために祈ってきて、神様は答えられると信じたからです。相手は大人にもかかわらず毎回勝ちました。母親は私の堕落の様子を見てよく泣いていました。それで、何回もギャンブルをやめる決断をしました。しかし、それは一時的で元のキャンブル好きな自分に戻っていました。その時人間の弱さどうすることも出来ません。

そのまま平日はギャンブル、日曜日は絶対教会に行きました。毎回勝ったお金の十分の一も必ず神様に捧げました。そんな生活が15から18才まで三年間続きました。人間の目で見たら私みたいな少年は人生観がないと思われるかもしれません。しかし、これを通して私は神様の慈しみと哀れみを深く感じ、信仰の土台を据えるきっかけとなりました。

詩篇の139篇の13節
“あなたは、私の内臓を造り、母の胎内に私を組み立ててくださった”
、とあります。

礼拝を捧げることによって神さまとの関係が深くなり、十分の一を捧げることによって神さまは天の窓を開き、祝福を限りなく注がれます。これからも愛する兄弟姉妹と共に礼拝を守り、十分の一献金を守り、信仰生活をして行きたいと願っています。

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1月・家族を通して救われた(1)

主にあって愛する皆さんとともに祈りあい、ともに成長している事を主に感謝します。中国から来ていまアメリカの神学校, International Theological Seminary(ITS)で勉強している劉 清心と申します。半年前に聖霊様の導きによってGVICに来て愛する兄弟姉妹と出会って恵みと平安の中で一緒に信仰生活してきたことも感謝です。これから約5,6回の飛脚を通して自分が救われた体験、恵みなどを皆さんと分かち合いたいと思っています。今回はどうやって救われたについて書かせていただきます。

いまの時代は家族が一番サタンに狙われる対象であり、一旦家族がばらばらになると子供の心は傷つき、不幸な人生を歩むことになります。それがいまの世の中の現状です。

私は5歳の時から心に強い信念がありました。その信念は家族が幸せになることでした。しかし幼い頃の願いは順調に行かずに、逆の方向に発展していきました。8歳から両親が喧嘩し始め、父はギャンブルをしたり、夜帰らずに二人の関係が相当悪くなって、13歳までに本当に離婚まであと一歩の距離でした。その状況を見てすごく悲しくなり、よく泣きました。

もし二人が本当に離婚したら、私はこの世の中で生きる希望がなくなり、勇気もなくなるし、死んでもいいと思うような気持ちでした。こんな人生の絶望がいっぱいのときに家の近くの教会の牧師さんが私と母にイエス様を信じて、あなたの家族を快復することができると教えてくれました。私はもう本当に自分で何もできない状況でしたので、信じて見ようと決断してそれから祈り始めました。その時から母と教会に行き始め、教会に行って賛美して説教を聞いて母は毎回平安な心を持って家に戻りました。

こんな状況が続いて母の心が徐々に離婚から離れて行くようになり、私はこれを見てやっぱり神様が存在しているんだと信じて、その後も母と毎週日曜日に教会に行きました。

神様の働きで母の心は優しくなって、父は母の変えられた様子を見ると自分もすごい罪悪感を感じて家族に申し訳ないと反省し、それからお互いに離婚する気持ちがなくなりました。

現在、苦しみや悩みの家庭にいる兄弟姉妹、イエス様が疲れた者、重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう(マタイの11:28)と語っています。

一緒に信仰を持ってすばらしい人生を歩みましょう!

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