私達は6月から8月までエペソ人への手紙1章から6章までを礼拝メッセージとして学んでいます。エペソ書は結構難しい箇所もあり、特に前半は後半よりも更なる学びが要求されます。学者によってもテーマの取り方も違うが、1章10節が太極的な視点から好ましいと思われます。

「時がついに満ちて、実現します。いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。」

時はついにきました。イエス様が栄光を受けるべき時、十字架の時がきました。この世の権力者は与えられた権力,武力によつて国民を一つにまとめ上げようとしますが、イエス様は十字架の贖い、十字架の愛によって世界を一つに集められます。世の権力と救い主の権力はここに違いがあります。

今号はあまり聞きなれない言葉「キリストの高挙」と言うテーマを考えてみます。そして、私たちもキリストの高挙に与る聖徒であるという特権を再認識しましょう。

1)私たちは聖徒?:パウロの書簡では宛先の教会の信徒を聖徒と呼んでいます。エペソの教会や問題だらけのコリントの教会にも聖徒と呼んでいます。私たちは “Saint” と聞くだけで、雲の上の人のようで、この世の私たちには相応しい呼び方とは思いません。しかし、何故、パウロが敢えて聖徒と名付けたかは“彼らがイエス様と結びついていたからだ“、とタカヨシ先生は解釈されました。まさにその通り、貴方がイエス様と繋がっていたら、貴方は聖徒です。この聖徒たる身分には大きな大きな報いがやってきます。神様からの約束です。

2)キリストの高挙:高挙(コウキョ)という日本語は辞書にも見つかりません。キリスト教用語で高く掲られる、高く引き上げられる“ という意味です。イエス様が十字架の死から復活し天の父の右に座されたことです。1章20,21節にキリストの高挙の聖書的意味があります。

「神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すベての名の上に高く置かれました。」

イエス様は十字架上で死に、葬られ、3日目に復活され、そして父のみ元に昇られ、この世界とこれから来るべき世界を一つに集められるお方です。死者、腐れ果てるべきである体が、生きた者となり、世界を治められるようになられたことは、谷底から無限の天の高さまで引き上げられたのであります。イエス様も弟子たちも十字架の苦難を“栄光“ と呼んでおられたのはこの高挙が予定されていたからです。

パウロは1章で「栄光の富」を深く知るように祈れと勧めます。それはキリストの高挙であり、「神の絶大な力を知るように祈れ」と勧めるのは、神は無から天地を創造される力、キリストの高挙を成し遂げる偉大な力を知るようにとの祈りです。それは単に、知識としての祈りではなく、やがてすべての聖徒がキリストの高挙に与る からであります。

3)高挙に与る聖徒たち:パウロが1章で祈れ、祈れと勧めるのは、キリストの高挙に私たちが与る事を知るためです。知識は大事ですが、自ら体験することと比べることのできないものです。特に、栄光の富に永遠に与る光栄に浴するわけですから、私たちは聖徒である事を誇り、神の絶大な力と愛が、かつて罪人であった者に与えられる特権、栄光を深く知りたく思います。私たちが天国に招かれるということは、イエス様を信じたからですが、その背後に神の無限の愛と力が働いておられるからです。イエス様も十字架を前にして、心騒ぐ弟子たちにこう約束されました。

 

「あなたがたは心を騒がしてはなりません。 神を信じ、またわたしを信じなさい。 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」 ヨハネの福音書 14章1~3節

 

聖徒たち、貴方も私も初穂であるイエス様に倣い、やがて栄光の富を受ける時がきます! イエス様はその準備のさきがけになられました。

 

前原利夫



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「彼は雇人であって、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いであって、わたしの羊を知り、わたしの羊もまた、わたしを知っている。」 ヨハネの福音書10章13, 14節

ヨハネの福音書の特徴は弟子であるヨハネがイエス様のことをこの方はこういうお方であると“ズバリ“宣言していることです。冒頭の1章に「すべてのものは、これによってできた。」と創造主であると宣言し、「見よ、神の子羊」とメシヤであと証言している。

イエスご自身は「わたしは世の光である」「わたしは良い羊飼いである」と人類の救い主であると宣言された。冒頭の「よい羊飼い」について考えてみましょう。

1)偽の羊飼い:同10章は良い羊飼いのキャラクターと並行して偽りの羊飼いにつても紙面を割いています。また偽の羊飼いを雇われ羊飼い、盗人、強盗とも呼ばれています。

彼らは正門から入らずに、牧柵を越えて羊の群れの中に入って来ます。羊の群は教会です。正門はイエスご自身ですから、そこは完璧に守られて崩されることはありません。

彼らは雇われ兵士のように戦場で自分の命が危なくなると、守ることを止めて逃げ去ります。牧柵が野原にある時は、羊飼いは野獣に襲われるとこもある。真の羊飼いは羊の群れに命を張る羊飼いです。わたしは良い羊飼いとはそのようなお方です。

2)よい羊飼い:12、14節に「わたしは良い羊飼い」とある“良い“ は“カロス“というギリシャ語 だそうです。同義語で“アガソス“ という言葉がありますが、前者は魅力的、力があり、誠実なという意味合いがあるという。

後者は単に道徳的なという意味があり、前者とは開きのある言葉と言われている。イエスはカロス的な羊飼いですね。羊飼いは羊をできる範囲内で守ればいいのであって、命まで張る必要は義務付けられてないはずだ。

あれは良いポリスマンだと評価されても、市民の命を守るために自分の命を張るであろうか。しかし、イエス様は「良い羊飼いは、羊のために命を捨てる」とおっしゃる。雇い 羊飼いは狼が来ると逃げるが、良い羊飼いは命を投げ出して狼と戦い守るのである。アモス書3章12節に良い羊が獣と戦う姿を描いています。

   「主はこう仰せられる。『羊飼いが、雄獅子の口から、二本の足、あるいは耳たぶを返すように、、』。」

羊が今獅子に喰われ、その2本の足は既に口の中で噛まれている時、良い羊飼いはその獅子に向かって戦いを挑み、自分の羊の足を取り戻すのであります。取り出された獅子は、羊飼いに向かい襲いかかってくるであろう。良い羊飼いはそれも覚悟で我が羊を守るのであります。

イエス様は私たちを悪魔の餌食から守るために、自らをあの十字架の上に釘付けにし、血を流して私たちを救われたのです。良い羊飼いは十字架のイエス・キリストのお姿です。

3)よい羊、羊の群れ:私達はこの良い羊飼いに囲まれ、守られた羊の群れであります。その羊の群れは、門を知り、牧柵を知り、羊飼いの声をよく知っている。門を間違えると偽りの羊飼いに惑わされ、牧柵の外に迷い出ると強盗羊飼いに殺され、声を聞き違えると取り返しのきかない教えに惑わされてしまう。

良い羊が偽りの羊飼いにつかないように、先頭の良い羊飼いに従っていきましょう。この方に従えば救われ、いつまでも牧草にありついて満たされるからです。

前原利夫



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「主を尋ね求めよ、義を求めよ、柔和を求めよ」 ゼパニヤ書2:3

ゼパニヤ書は3章から成る短い予言書で、ハガイ書、ゼカリヤ書、マラキ書が続き旧約聖書は結びます。あまり知られない予言書で、多くの人が開くのに手間どるほどに読まれない書物です。ゼパニヤはヒゼキヤ王の五代目にあたり、ユダの王ヨシャの時代の預言者でした.

ヨシャ王(Josiah, BC 640-609)はソロモン王より16代後、歴史的な宗教改革を成し、幼少の頃に王座につき信仰厚い側近によって育てられ、もっとも敬虔な王として尊敬されました。その彼の業績は列王紀下22−24章、歴代誌下34章に記録されている。

ところが、有終の美は飾れず、晩年、エジプト軍を迎え撃ち、敗北し戦死した。その頃からユダの国運は急に傾いてきたと言われている。多分その頃であろうか、ゼパニヤはこれからのユダ、エルサレムを案じて、民が不信仰に至らないように強力な警告を発する。

その内容たるは終末的な警告で、現代の私たちが備えをすべき警告ではなかろうか(是非、一読下さい)。

ゼパニヤは3つのことを求めよ、さもなくば神の裁きから逃れることはできないと警告する。終末になると、我々もこの3つが求められるであろうと想定して、今から励もうではありませんか.

1「主を求める」:神を求めずして信仰はない、イエス・キリストを求めずして、救いはありません。神は私達を探し求める方ですが、私達はそれに応えなければなりません。

そして、神を主として受け入れ、真から従って行くことです.「主よ、主よ、」と声だけ張り上げては、真に従っているとは言えません.私達の信仰が実も質もない信仰かどうかを深く吟味したいものです。

イエス様を「主」と呼ぶとき、それは日常生活の中で、主のみ声に聞き従うことを意味します。例えば、貴方の ご主人の言いつけを実行し、会社のボスの命令をきちんと実行するように、目に見えない、声が聞こえなくても、主のお声は忠実に守らなければなりません。

それは堅苦しいく思われるが、主を求めるとは、主を信じ、信じたものに従っていくことを意味する。預言者ゼパニヤは「主は良いことも、悪いこともしない」という人を罰する、と警告します。

神は中途半端な方ではありません、主は従うものを祝福し、不従順で信じない者を裁かれる.イエス様が再び来られる時、主は私達を裁きに来られるのです.

2「義を求めよ」:義を求めなさいとは、単に良いことを求め、行いなさいということではありません.良いこととは、神の視点から良いことで、人間の視点らではない.マタイの6章は「まず神の国と神の義を求めなさい」とあります。

神を求めることを優先にすれば、私達の求める必要なものは神ご自身が準備してくださる、との約束です.人間の社会では必要な物を先に受けて、それから神を求める宗教ごとに進むのである.神が全知全脳であるが故に、神を優先するのである。パ

ウロはこの世と妥協してはならないと警告する、しかし私たちの思いは、この世の喜び、楽しみ等に憧れます.私達は神の品性を備えて磨きを受け、御国に入る者に相応しいものとして整えられるのです.神の義を求めることは、神を求めることによって学んで行くことです.義を求めるとは神への姿勢です.

3「柔和を求めよ」:終末に求めなければならない第三番目は「柔和」謙遜です.義が神への姿勢であれば、柔和は隣人への姿勢でしょう。

柔和はイエス様の品性の一つで、ご自身を「わたしは柔和で心のへりくだった者」であると言われた。山上の説教では柔和な者は地を受け継ぐ、即ちこの地上の祝福を頂くものであると祝福されました。パウロも御霊の実の中に柔和を入れて、神の国を継ぐ者の必修品性としている。

終末の時には良い実か悪い実か、羊か山羊かに見分けられ、区別される。世の終わりには御使いたちが来て、義人のうちから悪人をえりわける。主を正しく求めることは、この方が道であり、真理であり、命であるからです。

「主の怒りの日が、まだあなたがたを襲わないうちに。主の定めを行うこの国のすべてのへりくだる者よ。主を尋ね求めよ。義を求めよ。柔和を求めよ。そうすれば、主の怒りの日にかくまわれるかもしれない。」
ゼパニヤ書2章2節

前原利夫



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議員ヨセフとイエスの体:

イエスの体を十字架の上から引き取り方を願いでた人はヨセフという人物で、聖書は彼についてほんの少し語るのみです。また、主の甦りの大感動の陰で、主の体の葬りの関心は薄れたのです。

マルコの福音書15章はヨセフはイスラエルの議会の議員であったと紹介し、人違いがないようにと、ヨセフはアリマタヤという町の出身であったと加えている。

ヨセフは、イスラエルの地位の高い政治家でまた金持ちであった。彼はユダヤ人をはばかって秘かに弟子になったとあり、サンヒドリンの議員たちと宗教上の違いで波立たせたくなかったことでしょう。自分の中に仕舞い込んでいた方が、自分の信仰を保持するにいいと考えたに違いない。

しかし、彼は神の国を待ち望んでいる弟子として、真剣な信仰者であった。その信仰をイエスの中に信じていたのです。総督ピラトはヨセフの申し出を許可した。

イエスの体を洗うヨセフ:

もしピラトがヨセフに許可を与えなかったら、一体誰がイエスの体を引き下ろし、どこに葬ったことでしょうか。ヨセフは70人の議員の一人であり、律法を守る人物としてユダヤ社会では大変信頼された政治家であった。

ピラトに弟子や一般市民が願い出ても、勿論、許可はなかったであろう。イエスの体の取り下げは、どこの墓に葬るかは、埋葬後のセキュリティー管理対策に大事である。

マタイの最後の章はユダヤ人の指導者たちは、弟子たちが盗み出した、と共謀し嘘のニュースを流すことになったが、このようなことから守らなければならない。ピラトが知り信頼できる人、信頼できる 安全な墓に葬られねばならない。議員のヨセフはまだ使ってない新しい墓を所有していた。ピラトにとって、どれもこれもヨセフが最適で安全であると判断したに違いない。

ここでも、神の絶妙な二人の巡り合わせ、タイミングを見たいものです。 ヨセフは流れ出
る涙を拭きながら、我が師イエスの体を十字架から下しました、数人が手伝い、体が痛まないように、ゆっくり、ゆっくりと下ろしました。ヨセフの手に、着物にイエスの流した血がしたたりつきました。

ヨセフはそれを拭きさろうともせず、これこそ私の罪の贖いの証拠、と涙で感激したに違いない。弟子たちにとって、イエスの十字架の血は“宝血“(ホウケツ)、贖いの血、宝の血潮です。それを文字通り目撃し、直接携わった弟子ヨセフの生涯の最高の特権としたことでありましょう。

彼はイエスの体を墓に納めるために亜麻布を買ってきた。そして、イエスを墓に納め、墓の入り口に石をころがしておいた。

異色の二人の弟子、議員ヨセフと指導者ニコデモ:

ヨハネの福音書19章はヨセフとニコデモの二人がイエスの葬りに関わったと記している。とても興味深い記録である。

ニコデモの登場は同書の3章とも関連づける事が目的であろうが、他の福音書と並べて読むとそれ以上のことが見出せます。上記でヨセフは亜麻布を買い求めてきたが、葬りの香油を買っていません。

ヨセフが意図したら買える人です。ところが、それを買って葬りの準備をしたのはニコデモです。ニコデモは香油(没薬、沈香)百斤を持ってきた。

イエスは香油が塗られて、そして亜麻布で巻かれて墓に納められたのです。これがユダヤ人の習慣です。ここで、ヨセフとニコデモは事前にそれぞれの役割を相談していたと考えることができよう。イエス様は同3章で、ニコデモのことを「あなたはイスラエルの教師」と呼んでいるが、彼はパリサイ人で、一説ではサンヒドリの議員であったと言われている。

二人はお互いによく知っている中である。ヨセフもニコデモも、ここ大事な時に登場し、11弟子や他の弟子たちができない働きを任され、神に大いに用いられました。

もし、ヨセフやニコデモが弟子の一人でなく、単に政治家の一人としてイエスの体の取り扱いをしていたら、神の救いの業が政治家、未信者の働きで推し進められた一面ありと歴史に残ったことであろう。

しかし、神の働きは、それがどんな働きであろとも、弟子の手によって進められ、完成されなければならない。弟子であればこそ、ヨセフもニコデモも信仰と愛でイエスの体を労り、真心から葬ることができたのです。神はそれに応えて、三日後にイエスを甦らせました。

私達も小さな弟子と自分で思っても、イエス様はこのような私たちでも喜んでくれます。小さい者は小さいなりに、主は用いいて下さいます。主が貴方に声をかける時、“主よ、私を用いいて下さい“と
返事を期待されておられます。

Happy Easter!

前原利夫



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 「・・彼らは何をしているのか、わからずに いるのです」 ルカの福音書23章34節

イースター・サンデーも近付きました、今年は4月4日に迎えます。2 月17日から受難節(レント)が始まり3月27日までの40日間になります。四旬節(40)とも呼ばれ、イエス様の苦難を覚え、共に主の苦しみを味わう時です。3月28日はパーム・サンデーを迎えイエス様のエルサレム入城です。その日から受難週迎え金曜日にあの贖いの十字架にかかりました。三日後、日曜日(4/4) に死から甦られれました。イエスは十字架上で“7つの祈リ“を祈られ、人類の救いを完成されました。今号は「、、彼らは何をしているのか、わからずにいるのです。」と、主が祈られた祈りをご一緒に考えてみましょう。

1. 「、、彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」、ルカ23:34:

このイエス様の祈りほど、他人の罪や悪をまるで存在しなかったかのように応答している言葉や祈りはないでありましょう。この応答は十字架の上で苦しみ、痛み、血を流し、死を目前にした時に発られた祈りす、また今、現在目の前で拷問、苦しめている人たちに憐れみの言葉をかけられているのです。

この祈りの言外には「もし、あなたがたが状況を知っていたら、このわたしをこのようには取り扱わなかったであろう」というニューアンスがあり、深い慰めを誘うものである。

私達もかつては無知無力、情報不足から多くの過ちを犯し、罪に至らせたこともありました。そのような状況下にあっては、イエス様は大目に見て下さるのであります。パウロは「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。」と、罪のままの私たちを愛していて下さると教える。

ローマ5:8。無知が罪を生みます。無関心も罪を生みます。不信仰は信仰を拒絶することだから罪となります。私達は知るべき事を知らなければなりません。イエス様はこのような私たちを愛し、十字架の救いに招き入れて下さったのです。

2. 「さて、兄弟たちよ、あなたがたは知らずにあのような事をしたのであり、あなたがたの指導者たちとても同様であったことは、わたしにわかっている。」使徒行伝3:17

この言葉はペテロがイエスを十字架の処刑と断罪した指導者と群衆に語られた言葉であります。ペテロは彼らに向かい、あなたがたはピラトがイエスを赦そうとしたが、聖なる正しい方を十字架にかけた、と彼らの罪を責めます。

しかし、その行為は“知らずにした“事であると、慰めている。その中にはあなた方の律法学者、指導者達も無知であった。律法学者は旧約聖書からメシヤの到来を知るべきであったはず、しかし知るべき彼らも無知のために大きな罪を犯してしまった。指導者、国民に預言者たちが遣わされていたはずですが、彼らはこのような人たちも殺してしまった。それも無益なこと、無知の罪はいつまで赦されるであろうか。

3. 「そして、ひざまずいて、大声で叫んだ、『主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい。』こう言って、眠りについた。」使徒行伝7:60。

ステパノの長いメッセージの後の最後の祈りです。あの長いメッセージを迫害の中に支えた霊力はどこから来たのであろうか。

その力はここの祈りの中にあろう。自分を石で撃ち殺している群衆に、主よ、天上のイエスを呼んで、赦しの執り成しを捧げるのです。ステパノは天を見上げ、イエス様が天の父の右に立っておられるのをご覧になった。通常、イエス様は父の右に座っておられる、ここでは“立っておられる“。なぜでしょうか、瞑想しましょう。

受難節を迎え、イザヤ書の53章、マタイの福音書26, 27章、また他の福音書の苦難の記録を読み、私達の罪のために砕かれた苦難のイエスを心にとめましょう。苦難の深さは私達の罪の深さではありませんか。

前原利夫



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四福音書はそれぞれ特徴がありイエス伝を語っている。マタイの福音書は「王」としてイエスを描き、マルコは「人の子」、ルカは「メシヤ・救い主」、そしてヨハネは「神の子」として描いている。

四福音書の共通のテーマはイエスは救い主であり、神であられ、受肉して人類の罪の贖いのために十字架にかかり死に、そして三日目に復活されたと記録している。新約聖書全体はイエスの救いは唯一であり、唯一の信仰のモデルであり、この方をとうしてのみ天国に行けると証言している。イエスは救い、信仰、御国への道である。

 1) 「この人による以外に救いはない」使徒行伝4:12

この言葉はペテロとヨハネが大祭司の一族、律法学者、役人、イスラエルの指導者の前で恐れもなく宣言した言葉である。二人は生まれながらの足のきかない男を宮で癒した。その癒しはナザレ人イエス・キリストの名前で本来の足に完全に戻しました。

癒された男の奇跡は、イエスを信じる多くの人々を興し、イエスの名前がエルサレム中に広がり始めた。使徒達がイエスの復活の話をすると5000人の大勢の人達が信じた。その前に3000人の群衆がイエスを信じているから、ペンテコステ以来短時間で8000人の新弟子がエルサレムに満ち溢れた。

従来のユダヤ教の指導者たちがこの新宗教に恐れをなした。彼らは弟子達を捕え、投獄、処刑、迫害へと伸ばして行った。

このようなアンチ・キリスト教の環境でペテロやヨハネがこの人以外に救いはない、私たちを救う方はこの人以外に天下の誰にも与えられてないと正面きってチャレンジした。弟子達は迫害の波に乗るかのように唯一の救いの福音を伝えて進んだ行った。

2)信仰の導き手であり、また唯一の完成者である、ヘブル人への手紙12:2

イエス様は救い主、また同時にその救いを完成された唯一のモデルとなられた。イエス様の足跡を踏み歩ことは不可能ですが、私たちを前後から助けて共に歩んで下さるお方です。

天から遠く離れておられるのではなく、日々の生活の中に生きて、共に歩み、働いて下さるお方です。だからこのモデルに聞き従うことが可能です。

イエス様は恥をも厭わず十字架を忍び通したとあります、それは父なる神の右のみ座に座することが約束されていたからです。その光栄に預かるには十字架の苦しみでさえも取るに足りない苦しみでした。

私達が信仰を持つ事は安心立命を求めてではありません。この地上には多くの苦難、困難、また迫害が必ず襲って来るものです。しかし、やがて来るべき世界で受けるべき報酬、祝福は私達のイマージネイションをはるかに超えるものでありましょう。

3)唯一の道、唯一の真理、唯一の命である、ヨハネの福音書14:6

イエスの名声が高まり、また一方ユダヤ人達の陰謀も深くなってきた頃である。イエスは弟子達とガリラヤ湖の北ピリポ・カイザリヤの地方におられた時、イエスは弟子達に「人々は人の子を誰と言っているか」と尋ねられた。

弟子達はバプテスマのヨハネ、エリヤ、あるいは預言者の一人であると答えました。ペテロは「あなたこそ生ける神の子キリストです」とお答えになられた。

ペテロの告白はもっともである。おおよそ3年半イエスと寝起きし、神の子の生き様、愛、奇跡の業を日々目撃してきました。この人以外に救いはない、この人以外に生ける神のキリストはいないのである。

イエスキリスは私達を救い、導き、天の父の家に道案内をして下さる唯一のお方です。 私達はやがて御国に案内を受け、永遠に主の栄光の中に生き続けます。

ですから、選択を間違えては一生どころか、永遠の不覚、取り返しができません。唯一無二の天地の創造者、全人類の救い主は、神が人となられたナザレのイエス、大工の倅であります。

前原利夫



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「神の世界を見る!」創世記15章5節

「そして、彼を外に連れ出して仰せられた。『さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。』さらに仰せられた。『あなたの子孫はこのようになる。』」

2020年は全世界が自分の小さな世界に閉じ込められた年であった。それが国や州からの命令であろうと自宅という世界が活動の場となった。自粛命令の下に教会も閉鎖、ビジネスも”Essential “以外は在宅勤務、かなり解放されても、今もレストラン等のビジネスがロックダウン中である。

これらのビジネスが倒産に追いやられるのは当然だ。このような社会・生活環境の中では物事が消極的、否定的となり、前向きの発想がもぎ取られてしまう。また、現実的に前向きの計画が難しい。

アブラハムはビジョンを失いかけていた:

しかし、私たちはアメリカ市民33万人以上の命を奪い取ったコロナウイルスにいつまでも恐れてはならない。この悲劇の中でも、その束縛、閉じこもった小さな世界から、神様の声を聞き、神の世界に出て行かなければならない。

神はアブラハムを召して、大きなビションを与えました(創世記12章)。人間にとって神のビジョン達成は不可能としか思われません。100才のアブラハム、10才違いの石女のサラの間に子供ができる、そしてその根から世界に子孫が星のように増え広がる、このビジョンを信じる人間はこの世にいるであろうか。アブラハムは迷った、本当か、いや無理だ、約束を失いかけていたに違いない。

彼にはエリエゼルという信頼できる僕がいた。アブラハムはこの僕に相続させようと目論んだ、その時です、神はアブラハムを外に呼び出して

「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。そして、あなたの子孫はこのようになる」と、アブラハムの約束、信仰を回復したのです。アブラハムが義と認められたのはこの時である。

神の世界を見る:

神は実物教育の専門家であられる。アブラハムに夜空に輝く無数の星を見せて奮起させた。アブラハムは夜空の星をこれまで何度も見ていたであろう。

住まいの天幕を一歩出れば、天の河、天から降るような星の群れが手に取るように近い。しかし、神様が星を数えよと言われた時から、アブラハムの星を見る目は変わった。空の星を一つ一つ数えて、自分の懐に大事にしまったに違いない。

ついでにアブラハムの曾孫に当たるヨセフの夢に出る星も子供(兄弟たち)を指している(創世記37章)。これまでの星は神の被造物、今見る夜空の星は自分の子供達だ。アブラハムは毎晩夜空の星を数えて、ビジョン達成がいつであろうかと楽しんだに違いない。

私たちも外に出ましょう、神の声に耳を傾けましょう。そして、天を見上げ、そこに輝く星の群れを数えるロマンを楽しみましょう。神の世界を眺めよう。小さな束縛された家から、この生活環境から神の世界に出ましょう。神様はアブラハムに上のみ言葉を13章、15章、そして22章で表現を変えて繰り返している。

そして、イサクには26章、ヤコブには28章で約束を繰り返している。それは、神を信じる者が、神の世界を見る、神の大きな世界観で生きよということでありましょう。天の星のように、地のちりのように、海の砂のような無限な数、広さ、宇宙大のスケールの世界観、発想において、神に似るようにと教えておられる。

無限の星の中に、ちりの中に、砂のなかに、神の無限の力がある。神様は私たちが小さく生きることを望んでおられるでしょうか。大胆に神様を信じて倣うことではないでしょうか。神様はご自身のイメージを私たちが反映し、引き継いでいくことを望んでおられるでしょう。

イエス様はガリラヤの田舎で育ちましたが、その働き、発想はいつも世界的、グローバルを軸にした行動でした。イエス様は人類の救いのために誕生し、弟子たちを訓練して世界宣教に遣わされ、私たち一人一人に全世界に出て行き、福音を伝えよと命じておられる。イエス様に倣い私たちも小さな我が家から神の世界に出ましょう。

2021年は恐れず神の世界、新しいビジョンを求めて進もうではありませんか。私たちの教会も新しいビジョンに立ち上がるよう祈ります‼

Happy New Year!

前原利夫



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クリスマスおめでとうございます。

今日、クリスマスが何のお祝いか知らない人が意外と多いのに驚きます。イエス・キリストの誕生日を祝う特別な日です。どうして特別でしょうか。

私たちは2月22, 12日、ワシントンとリンカーン両大統領の誕生日を休日として、彼らの偉業を称え、お祝いします。

クリスマスはイエス・キリストの偉業を称えて祝う日です。どんな偉業ですか、その偉業は「人類の救い」のために誕生されたからです。イエスの名前、Jesus は「神は救い」 (Jehovah is salvation )という意味です。クリスマスは神様のその偉大な働きを祝う日です。

1「迷える一匹の羊を見つけ喜ぶ」:

この人類の救い、Jesus について短く考えてみましょう:新約聖書の中に、沢山のストーリ、譬え話があります。とりわけ、「迷える一匹の羊」の話は有名です。100匹の羊がおりましたが、そのなかから1匹だけ、仲間からはずれて、どこかに迷い出てしまいした。

羊飼はその失なわれた迷える羊を放り出して、残りの99匹を連れて、帰るでしょうか。それは無責任な羊飼ですね。

良い羊飼は最後の最後まで、迷える羊を探し出し、見つけ求め、元気な羊達のところに戻るのです。その時に、聖書は「見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰ってくる」とあります。

羊飼が羊をかついで帰るとは、喜びがどんなに大きいか、深いかを意味します。あるいは迷える羊は傷付いていたのでしょうか。可哀想に、羊飼は傷付いた羊を肩に載せて帰りました。人間が動物をかつぐのです。

迷える羊とは、神から離れた人間の姿ですね。羊飼は神様のことです。すると、神から離れた人間が、神様の下に戻る時、神様はその人をかついで、懐に抱いて大喜びなさる、ということですね。

神が貴方を喜ぶ姿、私を喜ぶ姿を想像してみて下さい。皆さん、神様が貴方を喜んでくださていると考えた事がありますか。神様は貴方を喜んでおられるのです。この迷える一匹の羊の話に、神様が喜ぶ姿を発見します。

2「放蕩息子を迎え喜ぶ」:

多分、迷える一匹の羊の話よりも、「放蕩息子」の話が広く伝えられ、愛されたストーリーかもしれません。二人の息子を持つお父さんがいました。次男がお父さんに要求して、私が頂くべき財産を今下さい。気前のいいお父さんは次男坊に財産の半分を分けてやりました。

次男坊は財産をもらい、父の下から遠く離れた町に住みました。父の目の届かない所にいることをいいことに、財産を湯水のように使い果たしました。お金を貯めることは年月のかかることですが、お金はすぐなくなります。

飲んだり,食ったり,ギャンブル,女と遊び回ると,One millionはすぐなくなるであろう。昔,親戚の兄さんが,ある村の人を指して彼は大酒飲みだと言って、彼のお腹には何百坪の水田が入っていると皮肉っていました。お腹の中には沢山のものが入るのであります。飲んだり食ったり,遊んだりがお腹に入ります。

父から遠く離れても,父の優しさは忘れる事ができない。そうだ,お父さんの所に帰ろう,彼は決心しました。この彼の気持ちを,聖書はこう言っています、

“立って、父のところに行って、こう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。」” 。一方,父は次男の帰りを一日千秋の思いで待っていました。息子を迎える父の喜ぶ姿を聖書はこう表現します:

“『 そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。” 

帰りを願う息子の心境よりも、喜び迎える父の姿がクローズアップされます。皆さん,これ以上説明することもありません。

知って頂きたい。迷える一匹の羊を見つけ出し、肩に乗せて大喜びの神,また、若き人生を無意味に浪費した青年を、ありのままの姿で迎えて宴会を催す、神の寛大な愛、人間に対する救いの業をみましょう。

神が一番喜ぶ姿は、人間が神に戻ることでありましょう。私は18歳の時にイエス様の救いに預かりました。以来、60年、神様の祝福を頂いてきました。

皆さんの中で、神様をもっと知りたいという方はおられませんか。今が時です。クリスマスは救いの時です。今がチャンスです!

貴方にクリスマスの喜びと祝福が届けられますように!

前原利夫



ゴスペルベンチャーインターナショナル教会
Gospel Venture International Church (GVIC)
17811 South Western Avenue, Gardena, CA 90248 U.S.A.
www.gospelventure.com/


何か季節感、実感の伴わないような挨拶です。4月からスタートしたロックダウンは対外との交流は締め出され、夏の行事も取りやめ、季節を告げるスポーツもまばら、皆さんとの交わりもないこの頃は、外にも内にも今一つ活気が見えません。

感謝祭を迎えるのに、例年のような活力が感じられないのは私だけでしょうか。しかし、主の恵みは数えて見ると10本の指では納められないほど多くありましょう。

今号は、私達の霊的成長を点検しながら、主が私たちを探出して救い上げ、信仰を支えて成長せしめ、私たちに期待している働きを、コロサイ書から学んで見ます:すなわち、救、信仰、そして伝える、この3つの永遠的喜びと感謝をご一緒に考えてみましょう。

1)救を感謝する:

「神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してく下さった。」(コロサイ書1:13)。私達はかつては救を知らない、神なしの世界を彷徨ていました。その世界は“この世“と呼ばれ、人間がその時代時代に蓄積した知恵です。客観的な知恵、主観的な知恵もあり、一時的で身勝手な知恵もあります。

その中で、罪を知らず、世の物差し定規として誇りつつ、生活を満足していました。ところが、イエスはそのような生き方は“やみの力“として退け、私達に“光の力“を示して下さいました。

私たちに光の世界を見せ、霊の目で闇の世界を見させ、神の視点から何が善か、何が悪かを判別できるようにして下さいました。そして、私達の命が、キリストと共に神のうちに隠されている事を示され、十字架の救に至らせて下さいました。貴方を、私を闇の世界から御子の愛の世界に移し救って下さったイエス様に感謝します!

2)信仰の堅持を感謝する:

「また、彼に根ざし,彼にあって建てられ、、、信仰が確立されて、あふれるばかり感謝しなさい。」(コロサイ2:7)。私たちは信仰に導かれると、あとは自分の力でやって行ける、やって来たと思うのであります。このような思いは信仰の破船の手前です。

信仰の堅持も神様からの贈り物と考えねばなりまん。信仰の歩みのモデルはイエス様です。信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ,走るのであります。

しかし、言うは易し、行うは難しいものです。信仰は日々の生活との戦いです。戦いがあれば、敗北者も犠牲者も出ます。私達の誘惑はこの世への愛です;お金、大言壮語、誇り、見栄、謗り、無節制、乱暴、不品行、偽善等、多くの誘惑と戦わねばなりません。

要するに、神よりも世の快楽を求めようとする罪の残滓との戦いです。祈りが妨げられ、御言葉から離れて1人で歩こうとするかです。しかし、イエス様は私達が倒れないように、天から執りなし信仰を支えて下さっておられるます。

「だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。」ロマ8:34

主イエス・キリストに感謝致しましょう。

3)福音の伝達を感謝する:

「わたしは、神の言をつげひろめる務めを、あなたがたのために神から与えられているが、、」(コロサイ1:25)。パウロは苦難をかってでも福音の伝達に励みます。同24節にはコロサイの教会のためには苦難を喜んで受けると、パウロは福音伝道の代償は“苦難“で結構ですと、その働きを誇ります。

「わたしが福音を宣べ伝えても、それは誇りにはならない。なぜなら、わたしは、そうせずにはおれないからである。もし福音を宣べ伝えないならば、わたしはわざわいである。」 第一コリント9:16.

パウロはコリントの教会の信徒に“わたしのような者になれ“と励まします。 福音を伝える事は神の僕の特権です。パウロは若いテモテに、またイエス様は父の下にお帰りになる前に、全世界に出て行け、世界の人々を弟子としなさいと、私たちに命じました。

私達も自らがやみの力から救われ、御子の愛の下に移された時の大きな祝福を隣の人に、親戚に伝える者となりませんか。そして、福音の伝達者として、私たちにその重大な任務をお任せしておられたのです。イエス様に感謝致しましょう!

私達の霊的な生涯はまずイエス様と会い、救を頂き、イエス様の生き方に似るようにと信仰の働きに励みます。そして、この信仰生活の祝福を隣の人に伝える喜びを体験するものです。救、信仰、伝達この基本を点検し、イエス様が共に歩んで下さっていることを感謝致しませんか。

Happy Thanksgiving!

前原利夫



ゴスペルベンチャーインターナショナル教会
Gospel Venture International Church (GVIC)
17811 South Western Avenue, Gardena, CA 90248 U.S.A.
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「あなたはわたしのために、嘆きを踊りにかえ、荒布を解き、喜びをわたしの帯とされました。」 詩篇30:11

「人を祝福する人」「神の祝福の管」に誰しもなりたいと願う者であります。それは人の喜びが自分の喜びにもなり、祝福を届ける幸いは、特別な祝福です。ところが、人を祝福する者は、自分も既に祝福を頂いていると想定します。使徒パウロが「受けるよりは与える方が、さいわいである」と教えています(使徒行20:35)。

しかしながら、多くの場合は自分が先ず祝福され、自分が最適な環境にいなければ、祝福を他人に届ける事は出来ないという前提に立っていると思われます。自分が所有して初めて、与えることが可能であると考えるからです。

創世記のヨセフの生き様からこの前提は間違いであり、人は自分が最適な環境にいなくても、いや最悪の環境でも周囲の人を祝福し、幸いを届ける管になれると証しします。祝福を準備している方は神様であり、人はその管の役割を演じるからです。

ヨセフの生き方を見ると、悲しむべき環境、嘆くべく環境、拘束された環境ですが、その中でも苦難の顔、嘆きの声等は見られず、聞かれず、喜びと踊りすら感じられる生き方です。たとえ牢獄でも、その中から他人に祝福を届け、喜びと踊りを届けています。

1)夢見る男ヨセフ:

彼が畑で仕事をしていると兄弟達の穀物の束、11の束がヨセフの束を拝みました。それからまた夢を見、その夢は11の星と、太陽と月が自分を拝みました。11の星は兄弟達です、太陽は父ヤコブ、月は母のことで、この夢は正夢となり、外国のエジプトでおおよそ17年後に実現します。神様はヨセフが人を祝福する人間になるように、そして自分が祝福を受ける前に、人を祝福する管に作り上げていきます。

2)奴隷の身で自由人を祝福:

奴隷は不自由ですが不自由しない自由な人を祝福します。仕える身でありながら、自分の上司を祝福します。これらは常識に反します、彼の身分や地位は、祝福を受ける側ですが、彼は祝福を届ける奴隷となり、上司を祝福する部下です。ヨセフは周囲の人々の嘆きを踊りに変える管でした。

3)パロ王の侍衛長を祝福:

ヨセフの奴隷としての最初の仕事はポテパルというエジプト王の侍衛長の財産を管理することでした。ポテパルは王を守る高官ですから多分多くの財産を所有していたことでしょう。創世記39章に、単に家の管理だけでなく、他に重要な仕事 (ビジネスの管理?)も与えられ、ポテパルの家が栄えたとあります。単なる家の管理や拭き掃除、維持ではない。このポテパルの財産を上手に管理し、実績を残し、他人の祝福となりました。これがヨセフの第一の祝福ですね。神様はヨセフを更に用いようとして、パロの側近に仕えさせた。これは神の知恵、将来への準備です。

4)獄屋でパロ王の側近を祝福:

ポテパルの妻の誘惑の果て、濡れ衣をきせられたヨセフは獄にぶち込まれます。しかし、その獄はパロ王の側近達の獄屋であり、パロ王に接近するのに好都合で一番近道でした。獄に近道があり、幸が隠されているとは、それは神様の知恵です。神が働かれるところには、宝も将来も隠されています。詳細を割愛しますと、ヨセフはやがてパロ王に謁見の機会を得、王に祝福を届ける管、全エジプトの宰相の地位を得ます。

5)私達の前提条件の間違い:

人を祝福するには、まず自分が祝福を受け、それから手渡すという常識の前提条件がいかに間違いであるかヨセフは証明してくれます。この発想は信仰の世界では通用しません。そこでは常識、経験、人間の科学よりも、信仰の力学、即ち神が働かられるかです。神は水をブドウ酒に変え、水の上を歩かせ、5つのパンで4、5000人をまかなう事ができるお方です。私達が神の祝福の管となりたいと願うなら、素手でも神はそれを成し遂げさせて下さいます。荒野に水を湧かせ、花を咲かせられるのは神の業です。私達も日頃から無から有を引き出す信仰にチャレンジしましょう。

ヨセフが逆境の最悪の中から、周囲の人々の祝福の管になれたのは、み言葉が繰り返しているように”神がヨセフと共におられた” からです。神と共に歩むから祝福がついてきます。そして、神はヨセフ自らを祝福なさることを決してお忘れにならず、エジプトの宰相として14年間、エジプトや隣接諸国の飢餓問題と戦い、解決します。神は嘆きを踊りに変えられる恵み豊かなお方です。

「悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり、貧しいようであるが、多くの人を富ませ、何も持たないようであるが、すべての物を持っている。」からです。(第2コリント6:10)

前原利夫



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