「彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである。」 ローマ人への手紙章4章17節

新年明けましておめでとうございます!昨年、2017年の教会のみ言葉はヨハネの福音書10書から「イエス様はよい羊飼い」でした。その通り、イエス様は私たちの教会にとってよい羊飼いとなられて、教会が守られ、多くの霊的な祝福を頂きました。

今年、2018年のみ言葉はローマ書4章から「死人を生かし、無から有を呼び出す神」を信じて前進したいと考えます。新年は教会にも、個人的にも神様の大いなる働き、その不思議な力を体験するように大胆に信じて歩み出しましょう。

1) 小さい神認識を脱せ:

日頃、私たちの神認識は私たちの生活の中にはめ込まれてしまい、信仰のダイナミックさに欠けているように感じます。祈り求めるにしても、その大きさ、広さは生活の域を出ない求め方ではありませんか。私達の生活の領域が狭く、浅く、小さなコミュニティー、ミクロの世界に住んでいると神認識もついつい小さいものとなるでしょう。

小さな村に住んでいる人と、グローバルを駆け回っている人との間には、物の考え方、見方、寄せて来る問題、それに対応する考え方も違うものです。小さい所に押し込まれていると、自然と神認識も生活の領域を破れず、信じる神様も小さな神様となってしまうのではないでしょうか。極端に言うと、”村の神様”、”世界の神様” と大きな開きが出てくると思います。

ヘブル書の5章に、乳を飲んでいる者は幼な子で、義の言葉を味わう事ができない、だから堅い食物を味わえと、と勧め、励ましがあります。み言葉の深みを体験するためには、難しい神学の学びも大切です。大きな神様を体験するためには体験した事のない大海原に漕ぎ出すベンチャーも必要です。

2) 先人たちの神認識:

聖書は奇跡の書です。聖書の中心テーマは神様ですから、奇跡の書であることは当然です。神様は私達の信仰の先輩たちを通して様々な奇跡を見させてくださいました。

それは、先輩たちの信仰の応答でもありました。イエス様は彼らの信仰を見て、中風の者に「子よ、あなたの罪はゆるされた。」と、彼らの信仰に応えられ、アブラハムは行き先を知らないで出て行く信仰に報われました。

旧約の先人たちの神認識は彼らの小さな世界に拘束されず、天地万物を創造された偉大な神の働きを直視しました。彼らは、日が暮れると、夜空を眺めながら、神の存在を宇宙の中に確かめ、神と一対一で語られました。

「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」(詩篇19篇)。

神のみ手が先輩たちに臨み、神ご自身の大いなる働き、奇跡を示されたのです。 ヘブル書11章は先輩たちの偉大な信仰の紹介です。そのダイナミックな信仰は私達が聞いた事もない、神の奇跡によって力強く述べられているのです。

神の究極の力は無から有を創造するところに現れると思われます。無いものから有るものへの創造です、これは神だけの世界です。私達の高度技術の世界であっても、有るものから有るものを引き出すことに精一杯です。

しかし、信仰は神の世界に招き入れられるから無から有を創造する力を拝借することが出来ます。信仰の先輩たちはそれを実証しました。

3) 無から有を生む信仰:

一体、無から有を生む信仰とはどんな信仰でしょうか。分かり易く言えば”人間の手に不可能なことも可能と信じる”事です。非現実的な事でも、御手によって実現できる、と信じることです。

マルコの福音書10章で、イエス様は人には出来ないが、神には何でも出来る、と仰っています。ヨシュアは幾つもの奇跡を体験しました。

モーセと共に、エジブトで、紅海で、アラビヤの荒野で、ヨルダン川で、エリコで、そしてカナンの地で数々の神の業を見ました。無から有を引き出す神の奇跡です。「あなたの信じた通り、そのようになる」、とイエス様は仰いました。

新しい年、2018年、貴方の信仰が無から有を創造する主を信じ、ダイナミックな祈と共にスタートしましょう。大空を眺め、夜空を眺め、天地万物の主に、しっかり目をめて、歩み続けようではありませんか。

皆様お一人お一人の上に、創造主の豊かな祝福がありますようお祈り致します。

前原利夫


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「その名は平和の君ととなえられる!」イザヤ書9章6節

イザヤのメシヤ誕生の予言はおおよそ800年後にダビデの町ベツレヘムで成就します。イザヤ書6章はメシヤを「霊妙なる義士」「大能の神」「とこしえの父」そして「平和の君」として、その複数役割を予言します。

同書53章は苦難のメシヤを描き、打たれた傷により救いの道が開かれることを予言、マタイによる福音書1章はメシヤの誕生を歴史的に記録し、同27章でイザヤ書53章が成就、メシヤの十字架の苦難を述べます。こうして、メシヤの誕生を祝うこと二千年になります。

クリスマスを祝い、イザヤの預言である「平和の君」、キリストの平和について考えてみましょう。

1)義と平和:平和は争いがないところに存在し、争いのあるところは平和でありえません。しかし、必ずしも争いのない状態が平和であるとは言えません。平和は、義、正しさが支配するところにあり、義が支配するところには争いはないのです。

義は人間の定める義ではなく、神ご自身が定める絶対的な義、正しさでなければならない。人間の義は相対的で、国、時や場によって義の尺度が違うからです。神は唯一、唯一の義なのです。

詩篇85篇10、11節「いつくしみと、まこととは共に会い、義と平和とは互いに口づけし、まことは地からはえ、義は天から見下ろすでしょう。」。ダビデは義と平和とは互いに口づけすると教えます。義と平和は口づけするほとに近いもの同士です。

いや、一体とも言える。義が実践されるところに、平和を楽しみ、義が尊ばれるところに、平和が支配します。イザヤは来たるべきキリストを「霊妙なる義士」、「Wonderful counselor」とはっきりと、政治を司る君であると予言しています。

神の義は天から見下ろすように、平和の君によって制定されなければならない。そこに平和が生まれる。「もろもろの山と丘とは義によって民に平和を与えるように。」(詩篇72:3)。「そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りく、、、」とある通りです。(イザヤ9:7)

2)平和は十字架の業による:パウロはコロサイ人への手紙1章20節で「その十字架の血によって平和を作り、万物、すなわち。地にあるもの、天にあるものを、ことごとく、彼によってご自分と和解せて下さったのである。」と語ります。

先ず、平和は神と人との和解、また人と人との和解がなければ作れない。エデンの園以来、神と人と、人と人との間には、和解しなければならない敵対、争い、罪が存在している。だから、先ずその罪が溶けて、赦されて和解の道が開かれるべきである、と説きます。

その道を備えたのが、グルゴタ丘の十字架のイエスの血です。平和は罪、悪の赦し合いがなければ決して作れません。人間と神との隔て、人と人との隔てが取り壊されなければならない。家庭内の隔たり、国家間の隔たり、民族間の隔たりの壁が取り壊されます。これらは、イエスの十字架を見上げて解決されます。「キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、、、。」とある通り、平和の君は隔ての中垣を壊す作業をします。

3)神の子は平和を作る:イエス様は山上の教えで「平和をつくりだ出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう」、と語られました。

多くの人たちが平和運動を口にして行進しますが、それは平和を作り出す運動でしょうか。真の平和愛好者は、平和を作る者でなければなりません。それは、神の義を噂守することから始まります。ピースメーカーは神の子と呼ばれると、イエス様はその責任の重大さを教えます。私たちは家庭で職場で、争いを静める役割を担っています。平和は御霊の実の一つでもある。

パウロは私たちの伝える福音は「平和の福音」であり、また私達が信じる神は「平和の神」であると彼の書簡で語ります。平和の福音を伝える者は自ら平和を作る者らしく、また、平和の神を信じる者は、私達は平和を作り出す使者、「平和の君」の子でありたいと願います。

イエス様の誕生。
おめでとう御座います!

前原利夫


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感謝祭コンサート  | 会堂購入、あれから10年を迎えました!

私達が一つになってこの会堂を購入して早いもので10年を迎えました。2007年11月の暮れにエスクローをクローズしたのが昨日のようです。この間の事を思い出しながら、主な出来事を振り帰ってみましょう。まず、この事を実現させて下さった神様に感謝致します。そして、お祈りと献金して下さったお一人お一人にお礼申し上げます。

1)ホテルから会堂へ:

1994年9月、GVICはホテルでスタートしました。ホテルの一階の部屋をレントしての礼拝でしたが、だんだんとレントも高く、またサンディースクールの子供達の集る場所、週中の祈祷会の集う場所がありませんでした。

勿論、レントはありますが、そのような余裕はありません。やがて、 Chosen People’sの会堂をレントするように導かれ、落ち着きました。暫くして、その教会の土地は不動産投資家に売却されて、私達は仕方なく移転先を探すことになりました。

移転の約束の日が近づいても行き先が決まらず、もう一度ホテルに戻ることを検討していました。その困った状況を知ったO氏が会社の倉庫の一部を使って良いと、好意を寄せて下さって移ってきたのが今の場所でした。しかし会社の急成長でスペースが必要となり、移転を余儀なくされました。

暫くして、続く会社の急成長で、この建物が手狭となり売却することになりました。神様は不思議な方法で私達が購入することができるようにして下さいました。O氏からも大きなサポートを頂きました。感謝!

2)$1,300,000の購入資金:

建物を購入する機会を得たものの、資金が問題です。教会、皆んなで祈りました。まさに、6ヶ月奇跡の祈りでした。奇跡の資金が次から次へと集まり購入の目安が立ちました。そのあらましを追ってみます:
*教会全体の財源は購入前おおよそ$150,000の手持ち、ファンドレイジングで4人の方が各$10,000を献金、 総計$200,000以上の献金となりました。

*O氏が$200,000の融資を提供し、後日、献金として相殺、*日本のK氏から10,000,000円 ($85,000)、*X氏が$500,000、*そしてハワイの財団から$350,000 を7年ローンで組みました。こうして、神様は奇跡の資金を短期に備えて下さいました。因みに同財団からのローンは2年前にCalifornia Trust Bankから融資を受けて完済、現在$195,000のバランスが残るのみとなりました。感謝!

3)捧げる証:

会堂購入のチャレンジを顧みながら、ある方は次のような証をして下さいました。「現金があるから捧げたのではない、ローンを組んでの献金でした。

これは財産を失いかねない大きなチャレンジであったが、主はこの事を通して、多くの人たちと新会堂を共有し喜ぶことができた。また、この会堂は次世代の福音の拠点としてこの地域で長い宣教活動ができる。マルコの福音書に石膏の壺を割ってナルドの香油をイエス様の頭に注いだとあります。

また、ヨハネの福音書では、ナルドの香油の芳香が家中にただよったとあります。宝物の壺は割らなければ価値がないし、割ってはじめてナルドの香油が家一杯麗しい匂いを放つものです。この香はナルドの香油よりも芳しい、キリストの香りではなかったか」と証をしました。
そうです、教会の一人一人の真剣な祈りと捧げ物があれば、今回のフアンド・レイジングも目標を達成することができます。

イエス様のお言葉:「また彼らに言われた、『 聞くことがらに注意しなさい。あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられ、その上になお増し加えられるであろう。』」マルコ4:24

前原利夫



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「エリシャは彼に『弓と矢を取りなさい』と言ったので・・・」    列王記下13章15節

列王記下13章の記録によると預言者エリシャは死ぬ病気にかかっていた。そのエリシャを見舞いに参上したのが北イスラエルの王ヨアシ(BC 801-786)である。王は涙を流して最期のお別れに、こう叫ぶ「わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ」と。その臨終の枕元で王に応えたのが冒頭の言葉「矢と弓を取りなさい」である。エリシャは命が尽き果てる最後の最後まで国を守る事を心配し、死の床から最後の予言を王に託すのである。

1)エリシャの余力:

ヨアシの父エホアハズは北イスラエル王国を17年治めたが、彼の時代はスリヤに軍事的に悩まされ、王ハザエルの手に支配されていた。エリシャはこの敗北の辛酸をなめたのである。自分の死後、スリヤの支配から開放される事を願ったエリシャの予言は、王ヨアシが弓を取り、戦いに勝利することである。エリシャは「それをもって地を射なさい」と命じたので、王は3度射てやめた。

エリシャは怒り「あなたは5度も6度も射るべきであった」と言う。エリシャの予言通り、ヨアシはスリヤを3度うち破り父エホアハズがスリヤに奪われた戦利品を取り返した。5、6度地を射ていたら、他に多くの勝利を得ていたであろうに・・。

臨終の中でも国を思うエリシャの心は、私たちに「余力を残すな」の生き方を教えましょう。こと引退を早々と成し遂げ、余生を楽しもうと考えるのは世の常、一つの目的を成し遂げると余力が出来、一休みしたいものです。しかし、信仰の先輩たちは余力を惜しんで残す事なく、いや、余力が尽きるほどに最後まで神に仕え働いたのである。

2)パウロの余力:

パウロは身体が自由な身である限り国境無きがごとく国々を飛び回った。福音を語らないことはわざわいであるパウロの活動は凄まじい。パウロの宣教活動を妨げた様々な苦難を見ると彼には人生の余力などあるはずがない。燃え尽きたであろう(第二コリント11章参照):投獄、死に直面、8回の鞭打ち、石打、難船、川の難、盗賊の難、同国民の難、異邦人の難、都会の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難、不眠、飢えかわき、寒さ、裸、そして諸教会の心配、等。

このような肉体的な拷問、更に教会を心配する精神的苦痛に余力などがあるはずがない。パウロはスーパーマンです。更に、獄屋に閉じ込められたパウロは、獄中書簡を残し、肉体の拘束があってもなくても、限界ギリギリ働き続けた。

3)イエス様の余力:

パウロが宣教活動で飛び回れば、イエス様は罪の赦しの福音を伝えるのに余力を残さずに働かられた。イエス様は十字架にかけられる前の晩、拷問を受けます。翌日は十字架の上で一人の強盗を天国に迎え、そして「父よ、彼らをおゆるし下さい。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです。」(ルカ23章参照)と、福音の赦しを最期息がつき果てるまで語られた。

4)私達の余力:

私たちもエリシャのように最後まで 弓を取り地を射ることができるでしょうか。最近、癌を患っている主にある友からのメイルに、”わたしも最後まで弓を射る”と力強い言葉がありました。私達は余力を残して、この地上を去ろうとしているのでしょうか。貴方の知恵、知識、エネルギー、タラント、財政に余力がありませんか。天に積む宝は地上に残す余力よりも永遠です。
 
弓と矢を取りなさい! 信仰の先輩たちに倣い、最後まで余力を惜しまずに使命を貫こうではありませんか。  

前原利夫


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ヨナ書は4章からなる短編でそのメッセージは白と黒のように明白です。神はニネベの民の魂を救うために預言者ヨナをニネベに遣わします。ヨナはその使命から逃れよと企てます。古代ニネベはティグリス川を北上した地点にあり、昔20万人の人口を抱えた時代もある大きな町でありました。

神がヨナを送られた時は12万人の異邦の国であった。ヨナは神の命令に背き、ニネベを避けて”渡りに船”タルシシ(スペイン)に逃亡した。ヨナは神の遍在を忘れたのか、神が海の中、船の中、いや魚のお腹の中までも探し出すことはないと判断したのでしょうか。しかし、大きな魚に吐き出され、神の使命を帯びて目的地に向かいました。

1.神のメッセージ:

ヨナへの神のメッセージは明白で、それは「40日を経たらニネベは滅びる」。ヨナは民へこの警告を告げる事を躊躇した。ニネベの町を巡るのに3日路を要したがヨナは一日路だけ町を回り警告し、途中でやめました。

それは、ニネベの人達が悔い改めて神に立ち返ったからでした。そこで神はニネベを滅ぼさず救済しました。神の本心は警告を通して、彼らを救う事である事をヨナは重々知っていたであろうに。彼は神が計画を変更したことに憤慨しました。それは神からの使命に中座し、12万人の救いをないがしろにしたヨナには不愉快であったのです。

2.神の実物教育:

神はこの憤慨するヨナに魂の救いこそ重大問題であることを実物教育でお見せになります。ヨナはニネベの人達が気になり、彼らが或いは神が何をなさろうとしておられるか見極めようと町のはずれに退き小屋を建てた。暑い夏であったのでしょう。

神はその暑さを防ごうととうごまをエアコン代わりに彼の頭上に作られました。しかし、神様は翌日暑さのなかでこのとうごまを枯らされた。ヨナは再びこの神のなさることに苦言「生きるよりも死ぬ方がわたしにはましだ」と。

ヨナは枯れたとうごまのために嘆き、暑さのためには嘆いても、12万人の救いのために嘆かず中途半端に使命を果たさなかった、主はヨナの苦言にこう応えられる「、、、あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまさえ、惜しんでいる。ましてわたしは12万あまりの、右左わきまえない人々と、、、ニネベを、惜しまないでいられようか。」

3.神の懲らしめ:

私が入院していたある日、看護婦に苦情を叩き、その晩口の中で何度も同じ苦情を繰り返していた不愉快なその夜、前歯のクラウンが舌の上にコロリと転がり落ちてきた。そのタイミングは私への神の警告として受け止めざるを得ませんでした。そのいきさつは、入院する時にどのようなクスリを摂っているか窓口で調べます。そこで、リストを出しました。それには薬の種類、何時にどのクスリを摂るか書いてあります。ナースはそれに従って朝、昼、夜と食事と一緒に配ります。

ところが、幾つかの薬の時間帯がまちまちで、ある薬は変更になっている。そこが、看護婦への苦情の始まりだ。再三、オリジナルに戻せと言っても戻らないい、夜摂るべき薬が元に戻るまではその薬は摂らないと拒絶しました。

ところが看護婦は他の4、5種類の薬をみんな引き下げてしまったのだ。そん日は朝と昼のクスリを摂らないでいた。それで、あの看護婦に不平を漏らし、夜まで文句をたれていた次第。神は私の口を塞ごうと前歯に触れて”Shut up”と言われたのです。この問題の歯は以前から少し動いてはいたが、どうして入院中のその時、口を開いて苦情を並べている時に・・。神の介入でした。

どのような高価な歯でもあの看護婦の魂ほど高価なものはないのだ。歯の治療費も$2750とびっくりだ。神は私の苦情を厳しく戒められました。その時、ベッドの上で、悔い改め、平安の中に深い眠りについていました。

「また、ある者たちがつぶやいたように、つぶやいてはならない。つぶやいた者は、「死の使い」に滅ぼされた。」 第一コリント10章10節
                     
前原利夫


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8月のこの欄の原稿は6月に既に書き終わっていましたが、主の導きであろうか7月19日の祈祷会で起こった別の事をシェヤーするように導かれています。世話人会と当夜参加した8人にはこのことを既にメイルでお知らせし、また皆さんからの反応もメイルで受け取っています。

1. クリスチャンのホームレス:

とあるホームレス(以下MMと称す)が教会のパーキングで寝ていました。日本人女性です。寒いと言うので祈祷会ですが、どうぞと中にと案内しました。中に入るとすぐ、彼女はピアノに向かい”Amazing Grace”  を弾き、彼女の伴奏に合わせ歌いました。その時、MMさんはクリスチャンかな〜と思いました。

その後、聖歌402「丘に立てるあらけずりの」のリクエストが上がると、楽譜なしに弾き始めました(期せずして今月の賛美の紹介です)。そこで、MMさんはクリスチャンだと確信しました。クリスチャンでない人がこの歌を弾けるはずがないからです。

祈祷会の後に自分はクリスチャンだと話してくれました。彼女は集会中は牧師室で休み、集会後に家庭内暴力で追い出され、仕事のことや教会のことなどを30分ほど話しました(紙面の関係で多くを割愛します)。

2.神様が投げた小石:

私達はMMさんにどう対応すべきか、世話人会に図り、教会のポリシーに従ってシェルターを紹介すべきか、しかしそのような時間の余裕はありません。今彼女が必要なのは今晩の宿泊です(夕食済)。私はこの方を教会のミニストリーとして取り扱うべきと確信した、それは1)主にある姉妹である、2)特に問題のあるホームレスではない(後で間違いであることを知る)、3)回復後教会に仕える等。私はとりあえず近くのホテルを3日予約し、その晩はホテルで泊めることにしました。

そして、近くの安いレントを探し、教会を通して心身ともに回復が出来るように、と提案しました。冒頭のイエス様の言葉の前半に「、、、わたしの弟子であるという名のゆえに」とあります。ところが、翌日夜、ホテルから苦情の電話があり”周囲の人々に大きな迷惑をかけている、MMさんをすぐ引き取るように”と。初対面は優しいが、段々と大声を出したり、恐ろしくなります、との苦情でした。

3.  波紋に乗った愛:

私はこの出来事は神様が小さな池に小石を投げて、その波紋、反応を見るためであろう、決して偶然ではないと考えました。そして、MMさんの事を世話人、祈祷会に出席した皆さんにメイルし、皆んなが読めるようにCCにしました。皆さんから返事が来ました。

しかし、ある人達はCCせずに、私にだけにメイルを下さいました。CCなしのこれらの三通のメイルが印象的です:その中に 1) MMさんのことを心配して、以前の勤め先にコンタクトし、彼女がどんな人であったかと、問い合わせた内容でした。MMさんに対しての真剣さがわかります、2)シェルターを案内するのは簡単だが、教会で助けようと、愛の励まし、3)3つ目はホームレス一般に疑問を投げかけながらも、まとまった献金をホームレス基金に捧げる、とのEメールでした。

神様が投げた小石にこの様な愛の波紋が起こされたのです。ある姉妹の電話は”私達の顔が見えたね”。そうです、皆様の愛の顔が数時間付き合ったホームレスの姉妹に反映したのです。私たちの教会は健全です!

4. 冷たい水一杯の愛:

金曜日、21日、ケヤーギバーに早く来てもらい、10時前にホテルに迎えに行きましたが、MMさんは部屋から出て見つかりません。折角、シェルターにはベッドが一台空きがあるのに。先着順ですから空きがなくなるかもしれない。リハビリを終わり、その帰りにホテルに立ち寄ろうとすると、ホテルからMMさんがいるよ、すぐ来て下さいとの電話。車を停め先のシェルターの空きを確認すると、もうありません。

ダウンタウンのUnion Rescueまで行こうとホテルに向おうとすると、ホテルからの電話”あの人は誰かと出て行った”、と。私たちは着替えを買うお店を調べ、またみつわの電話レンタルのお店から電話を届ける準備をしていました。残念でした。せめてシェルターに届けようと思いましたが、私たちの思いや手の届かないこととなりましたが、彼女の安全を主のみ手に委ねるしかありません。

私は皆さんへの最後のEメールに今回の出来事を次のように纏とめました;

『神様が小さな池に小石を投げました。 小さな波紋がそれぞれの愛を運んで来ました。
愛は色々な形で波紋に乗りながら、隣の波紋と重なり大きな波紋となりました。』

前原利夫


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ヨハネの福音書のテーマの一つは「イエスヨハネの福音書のテーマの一つは「イエスは誰か」「Who is Jesus?」と言えます。

今号はこのテーマに挑戦します。同福音書を開く度にこのテーマに注意を払いながら読んでいました。他の福音書にない特徴です。

今回、皆さんと1章から21章まで学びながら、私は1章毎に「イエスは誰か」を念頭に入れてノートしてきました。そのノートをベースに同福音書は「イエスは誰か」をどの様に証しているかまとめてみます。お断りしておきますが、ご紹介します資料は再度の確認チェック(三回チェックしましたが)が必要です。

しかし、今回の学びの範疇では問題がないと判断し、タイトルは「イエスのプロフィール」として進めます。口語訳聖書を使いました。

1.「イエスのプロフィール」の意味:


ヨハネの福音書で「イエスは、、、である」という宣言文章は直接であれ間接的であれ、イエスのプロフィールと解釈した。「イエス」を指した「キリスト」や「彼」や「ヨセフの子」のような代名詞もイエスと同等とした。プロフィールはイエスをメシヤ或いは神と肯定することだけではなく、否定的な呼び方、嘲笑もその一つとした。ある者はイエスは悪霊にとりつかれているなどと頭から否定し、敵対したほどである。

この様に21章まで数えると約60回数える事ができる。イエスご自身がご自分を指して呼ばれたのも含まれている。同じ呼び方が繰り返されている場合はおおよそ90回を数えることができる。プロフィールの一部を紹介すると、例えば「世の罪を取り除く神の小羊」「教師」「命のパン」「あれはよい人だ」「罪人である」「人の子」「ユダヤ人の王ばんざい」「我が主」等である。

2.どんな人達か:


上記の60回のプロフィールはどんな人達が登場してイエスを「、、、」
と呼んだか、或いは信じたかリストしてみよう。そうするとプロフィールの内容が浮き彫にされて、この人或いはこの人達は誰かが多少とも想像がつくものである。

バプテスマのヨハネ、弟子達のナタナエル、アンデレ、ピリポ、ペテロ、ヨハネ、トマスです。そして、群衆、ある人達、サマリヤの人達、下役、兵卒です。個人的にはニコデモ、サマリヤの女、盲人、マルタ、マグダラのマリヤ、ピラトです。十二人の弟子達の中で7人はイエスのプロフィールに拘っていない。その中にユダがいるのは珍しいことではない。

3.プロフィールを5つに分類:


60回のプロフィールを内容により大まかにこのように分けた:1)神・メシヤと呼んだ、 2)王と呼んだ、 3)人と呼んだ、 4)喩えて呼んだ、 5)否定的、嘲笑的に呼んだ等。神・メシヤとした呼び方が全体の4分の1でイエスを人でもない、王でもない、神と宣言した(イエスご自身もこの呼び方を何度もしている)。

最後に、イエスのプロフィールがこの21章からなる福音書に60回も記録されているのは、この福音書が「イエスは誰か」「Who is he?」と追求したからでしょうし、また、プロフィールの数の大きさは、神・メシヤを記述する単線的な表現がないからでしょう。

誰が、一体神の無限の働きを一言、二言で的確に表す事ができましょうか。ヨハネは「ナザレのイエス」が真のメシヤであり神であられることを追求し、それを証するために多角的に多面的に「イエスのプロフィール」を同福音書至るところに取り上げられたに違いない。メッセージを準備する方には「イエスのプロフィール」はテーマを数多く提供するに違いない。

私たちはこの様な真の神様に信頼し、生活を委ねて歩んでいるのは何と幸いなことであろう。 (紙面の関係上、学びの結果をここにご紹介できませんが、興味のある方は私の学びの確認作業をして頂きたいと願います。ご連絡下さい。)
                  
前原利夫


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今年1月の第1礼拝からヨハネの福音書1章を学び初め、6月の第2礼拝で終章21章を学び終わります。今号は13章をメッセージした折に心に強く残った8節のイエス様の言葉「あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」この言葉をご一緒に考えてみましょう。この言葉は最後の晩餐でペテロに語られたとても重要で見過ごし出来ない主の言葉です。
 

弟子の洗足と十字架 「あなたはわたしとなんの係わりもない」 ヨハネの福音書13章8節 

結論から言うと、弟子たちの洗足はこれから十字架にかかり、罪を贖い、罪の赦しの 業をなそうとする予告、影であると考えています。勿論、メシヤの深い謙遜を示すモデルでありますが。一面人の足を洗うことは、当時、奴隷や僕のする事でありましたから、これは他人の罪をも背負う事と同じほど恥かしい業であったと思います。
 
これまで、この箇所を何度も何度も読みましたが、弟子たちの洗足はイエス様の謙遜を表すという枠内で理解してきました。ところが、今回弟子たちの洗足はそれ以上の意味があるように思わされています。弟子たちの足を洗うイエス様の姿が十字架のイエス様と重なり、ダブッテ見えるではありませんか。それは、イエス様がペテロに「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりわりもなくなる。」というイエスの言葉にその鍵があります。その辺から考えてみると、

洗足は十字架の影:

8節に、ペテロは、多分遠慮したのでしょうか、イエス様が足を洗おうとすると「わたしの足を決して洗わないでください。」と断ります。イエス様の返事は「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる。」。

このイエス様の言葉は、足を洗ってもらう事がどんなに大事か示唆しています。それは足を洗われなければならない者が避けられない、通らなければならない洗足です。イエス様の意図は足の汚れを落とすのは選択ではく必須条件であるという意味でしょう。十字架の罪の赦しも選択ではなく必須条件です。ここに十字架の影としての洗足があります。

ペテロはこれまで3年半朝な夕な主に仕えて福音に従事してきました。12弟子を代表する人物です。このペテロに向かって、どうしてイエス様が大変厳しく聞こえるような”あなたとは関係がない” とことの重大さがなく言えたのでしょうか。

それには、それなりに撤回できないイエスの理由があった筈です。弟子の洗足は単にイエスの謙遜を示す姿ではなく、翌日の十字架の影だからです。

洗足は罪の赦しの証:

洗足してもらった人は12人の弟子たちでユダもその一人です。主が足を洗われた時、ユダの心の中には既に悪魔が入り込んでいました。イエス様はそのようなユダの足をも洗いました。

十字架の贖いは全ての人類に対してで悪い人も、罪人にも有効であるからです。悪魔が入ったユダにさえも。ただ、受け入れるか受け入れないは十字架と係わりを持つか持たないかです。

十字架は十字架を受け入れる人に対する罪の贖いの業です。ですから、十字架を受け入れる者は誰でもイエス様と係わりのある者で、受け入れない者は救いと係わりのない者です。足を洗う事を拒む人はイエスと係わりのない人で、足を洗ってもらう者はイエスの救いと係わりのある者です。

ここで、洗足式に与らない者は、罪の赦しの十字架を断る者として「あなたはわたしと係わりがない。」とペテロに警告したと思います。なぜ、これ程までに洗足式に意味があるのでしょうか。 洗足式は明日に控えた十字架を示すものであるからです、と考えます。

もし洗足式が十字架を表すものでなければ、どうしてイエス様はそのように厳しくペテロに「あなたはわたしとなんの係わりもない」と警告されたでしょうか。洗足は十字架の影です。

7節で、イエス様は「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるであろう。」と謎めいた言葉を残されている。

前原利夫


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5月14日、母の日を迎えます。礼拝に元ヤクザの井上宣教師をお迎えします。ランチは特別ランチで母の日をお祝いします。今号の飛脚は3人の先生方のお母様の証をしていただきます。

私の愛するお母さん  キム師:

母は、第2次世界大戦後に韓国に生まれ、1950年からの韓国戦争を目の当たりに育ちました。戦争で全てを失い、5人兄弟の末娘だった母は、満足な食事はできませんでした。
1969年、母は会計会社へ就職し、私の父と出会い結婚します。父は真面目によく働き、家を購入し、私が生まれました。

ある時、叔母がアメリカへ移民し、ビジネスをするための費用を父に相談しに来ました。父は家を売りお金を都合します。しかし、その直後に父の会社が倒産し、父は安定した仕事に就くことができず、経済的にとても厳しい日が続きました。しかし、そのような中であっても母は決して愚痴を言いませんでした。むしろ、朝から晩まで家でできる内職を見つけて働きました。

アメリカへ移民した時、母は40歳。工場やスーパーで働きました。私は母が働いていないところを見たことがありません。

母が50歳になって、低賃金でしたが、老人ホームにてベットメイキングの仕事につきました。一生懸命働いて、夜はアダルトスクールで英語と介護の勉強をしました。そして10年後、ベットメイキングからアクティビティディレクターと昇進します。今、母は70歳になりましたが、今もフルタイムで同じ老人ホームにて働いています。

家では父の世話、孫の世話をし、教会を休むことなく、奉仕もよくします。
私は箴言31章を読む度に母を思います。そして、主にこの母を心から感謝します…


私の母は今年の7月で92歳になります。 織田師:

「彼女は夜明け前に起き、家の者に食事を整え、….しかし、主を恐れる女はほめたたえられる。」(箴言31章15a、30b)。

私の母は今年の7月で92歳になりますが、息子達のそれとは似ても似つかないほど(?)髪の毛がふさふさ。ペン字、習字も驚くほどの達筆。息子達は既にぼけ現象が始まっているが、母の記憶力ときたら驚異的。

一時は白内障で虫眼鏡で聖書を読んでいた母だったが、数年前レイザー手術をしたら眼鏡なしでも見えるようになり、自分ばかりでなくお世話になった人のためにと以前高田姉宅で習った毛糸のマフラーをいくつも編んだり、何百ページもある本を2~3日で読むほど。

5年前トロントに住むアパートの屋内プールで「泳げない!」と言う母に泳ぎ方を教えたら数メートル一人で泳ぎ始めたのには周りにいる人も拍手。

80歳を過ぎてからコンピューターをさわってEメールを始めてから、今ではフェイスブックやラインなどで孫達と会話しているという母の「新しいことへのチャレンジ精神」にはまったく頭が下がる。

「70年も昔で忘れました!」と言いながら、日本語のわからない家内に「I love you!」と英語でスカイプしてくる。子供の頃目を覚ますと、早くから起きて母の料理する音が聞こえてきたが、今も母の料理は最高だ。1994年に父母共に洗礼を受けて以来、聖書を学び続けている母を私は誇りに思う。

私の母は、とても怖い母でした。李師:

私の母は、とても怖い母でした。子供たちは母親に甘えることはありませんでした。私たちの家は、韓国の由緒ある家で、父は国会議員。母は、梨花女子大を出た人で、美貌と知性をもっていました。威厳があり、家の人たちは勿論、父の政治家仲間も皆、父よりも母を怖れていました。私たちは、母が傍を通ると冷たい風がよぎるように感じたものです。家には、多くの女中がいました。

皆貧しい家の出で、奴隷のように使われていました。彼女たちは、時々銀のスプーンなどを盗むのです。家にある銀器は無数にあるのに、母には、それが盗まれるとすぐにわかるのでした。そして、女中部屋に直行し、盗んだ女中の風呂敷を開き、そのスプーンを見つけます。驚くべきことには、母にはだれがそれを盗んだのかわかるのです。

大きなテーブルの上にうつ伏せに寝かされ、ムチ打たれる女中を、母は腕を組んで見ているのでした。

父が亡くなり、母が本当のクリスチャンになってからのこと、母が私に“こんな私でも、天国に行けるかしら”と訊きました。自分が女中にムチ打たせたことなどが思いだされて、そんな自分が天国に行けるのかと不安になったというのです。私はそれを聞いてびっくりしました。そして、慌てて“何を言っているんだ。イエスさまの十字架は、その為じゃないのか”と言ったのでした。

たぶん、母は、わかっていたのだと思いますが、振り返ってみて、自分のしたことが無性に悲しかったのだと思います。その母も16年前に主の御許に召されていきました。もう悩むこともないでしょう。「わたしは、あなたがたに平安を残します。・・・あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネの福音書14章27節) 

3人の先生方、ありがとう御座いました。キム先生のお母様、織田先生のお母様、主の祝福の中にいつまでもお元気で、李先生のお母様は救われて天に召されました。3人の先生方をGVICに遣わして下さったイエス様に、心から感謝致します。

母の日、お母様に、神様に感謝の日としてお過ごし下さい。

Happy Mother’s Day!

前原利夫


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フォークを捨てないで、最善はこれからです! (Keep your fork, the best is yet to come!)

末期ガンを患うあるご婦人が、この世とお別れの準備で身の回りを整理し始めました。牧師にお葬式の時の賛美歌、聖書の言葉、埋葬されるときの衣装、また、いつも使っている聖書も共に埋葬するよにお願い致しました。

相談の後、牧師が立ち去ろうとした時に、ご婦人は、何かを思い出したかのように”先生、ちょっとお待ちください”と興奮しながら呼び止め、そして、私を埋葬するときはこの手にフォークを握らせて下さい、と注文しました。牧師は何の意味だか分からないままに立ちすくんでいました。

ご婦人はこの事を説明し始めました:”先生、私はこの教会に長年出席し色々なソーシャル・イベント、ポトラクまたディナーに参加しました。メインの食事がすみ、後片付けが始まると、必ず誰かが ”フォークを捨てないで”、と叫ぶのです。私はこの事の意味を知っいるので、これから何が出るのかとても楽しみでした。

それは、柔らかい舌ざわりのよいチョコレートか煮込んだアップルパイが最後のデザートだからです。そこで、先生、棺の中で私がフォークを握っていると、会葬者はこれはどうしてですか、と尋ねるでしょう。その時、先生、”フォークを捨てないで、最善はこれからです”、” Keep your fork, the best is yet to come! とお話し下さい。

では、私たちの葬式後,何が最善を考えてみましょう。

1.死は滅ばされた:「主はとこしえに死を滅ぼし、主なる神はすべての顔から涙をぬぐい、その民のはずかしめを全地の上から除かれる。これは主の語られることである。」(イザヤ書25:8)。神が既に死に打ち勝っていることは新約以前の教えでります。死は罪を犯したためにその報復として人類が受けている処罰です。

もし、罪がなければ死も存在しなかったはずです。神が死を滅ぼすことができるのは、罪を犯すことのできない、完全なお方であるからです。第二テモテ1章10節はキリストの出現は確実に死を滅ぼしたと宣言する:「、、、キリストは死を滅ぼし、福音によっていのちと不死を明らかに示されたのである。」

葬式後の最善、それは次の次元の命に移されていくプロセスなんです。

2朽ちないものに姿変わりする:次の次元の命に移されるためには、肉体の死が新しく生まれ変わらなければなりません。それは復活という過程です。パウロは第一コリント15章でこう教えています:「ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終わりのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。」。死人は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられる、とパウロは教えています。

ラザロの甦りは復活の事実を群衆に証した。復活のイエス様の体は朽ちない体の見本ではなかろうか。空間に制限されることなく、閉ざされた戸を通り抜け、エマオの途上で弟子たちと語り、突然姿を消されるイエスの体は、朽ちるものから朽ちないものに変わる証拠ではないでしょうか。

葬式後の最善、私たちは永遠に生きる保証を頂いている。

3.我が住まい、新しいエルサレム:イエス様はヨハネの14章で「わたしの父の家には、たくさん住まいがある。もし、なかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。」と。この天の場所は私たちの永遠の住まいです。“マンション”となっている英訳もあるが、超高級マンションです。

黙示録21章は私たちの永遠の住いは新しいエルサレムであると指定している。マンションの設計、装飾品、建材はガラスの様な純金、宝石、碧玉、サファイア、めのう、ひすい、真珠、その他見聞きしたことのない宝石です!

パウロは自分が生きているのはキリストのためであり、寧ろ、死を選択しているのは新しいエルサレムを既に見ていたからであろうか。葬式後の最善、この地上の仮住まいから永遠のマンションに住所変更を出すことができる特権です。
   
信仰を持ちましょう、イエス様を愛しましょう、我らの最善は今この手にあります!

ハレルヤ、復活の主イエス・キリスト!

前原利夫


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