前号ではイエス様の受難を考えましたが、その受難に勝利し、甦られ、人類の罪を赦される使命を完成されました。ハレルヤ!イエス様が復活された時、その顕著な出来事を追ってみましょう。

1)週の初めに復活された:

四福音書はイエス様が復活されたのは週の初めであると記録しています。週の初めとは現在の日曜日に当たります。その前日は土曜日で安息日です。弟子達はイエス様の復活以来、礼拝は復活を記念して日曜日に行われました(使徒20:7, 第一コリント16:2)。日曜日に礼拝を開く事はユダヤ教と決別するために歴史的に大事なことでした。ユダヤ教は土曜日を安息日として礼拝しました。

もし、復活後も土曜日に礼拝していたら、ユダヤ教と区別がしにくく、また、安息日の規則に従わねばならない。イエス様は安息日を守られ、会堂で教えられましたが、復活の新時代には日曜日の礼拝が誕生したばかりのキリスト教にふさわしい礼拝の日となりました。また、ユダヤ教と決別するためにも、礼拝がシナゴグ、ユダヤ人会堂ではなく、家の教会、家庭集会がスタートしました。新時代の新しい福音伝達の革命は礼拝の日と礼拝の場所でした。

2)復活は神の直接的介入:

四福音書ともイエス様が葬られた墓の封印を解かれたのは、超自然的であると記録しています。墓の封印は大きな石がころがされてあったとあります。それに、ロマの番兵も厳重に見張っていました。その墓から主が甦られたのです、どのようにして? 墓の園に天使が現れた、白い着物を着た二人の若い者が空っぽの墓の中にいた。最も鮮明に記録している福音書はマタイの28章2節、” すると、大きな地震が起った。

それは主の使いが天から下って、そこにきて石をわきにころがし、上にすわったからである。” 。天使は大きな封印した石の上にすわっている、何という勇ましい姿、勝利のポーズではありませんか。復活は勝利、主は勝利の主です!このマタイの観察はイエス様が捕縛された時に、彼らにこう語られた事を思い出させる、”あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者は、剣で滅びる。それとも、わたしが父に願って、天の使いたちを十二軍団以上も、今つかわしていただくことができないと、あなたは思うか。”。神の直接的介入なしにイエス様の復活はあり得ない。

3)ガリラヤで復活の主と再会:

イエス様は十字架にかかる前から弟子達に、ガリラヤで会うからそこに行くように命じていました。なぜ、復活後にガリラヤで会うことが大切なんでしょうか。復活後も二つの福音書は弟子たちにガリラヤに行くように命じています。弟子たちはガリラヤ、彼らの故郷に戻りましたが、イエスの約束を信じて、そこで待っていたわけではない。

マタイの4章にイザヤの言葉が引用されています、” 、、、異邦人のガリラヤ、暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、死の地、死の陰に住んでいる人々に、光がのぼった。”。この言葉の次の聖句は、この時からイエス様は悔い改めよ、天国は近づいた、と宣べはじめられたとあります。ガリラヤで福音宣教は開幕され、そのガリラヤに最後の復活の栄光の姿を現される事をお考えになったのでしょう。また、弟子たちに先回りして、失望せる彼らを励ますためでもあろう。イエス様は私たちにとってもそういうお方です。

4)すぐ行け、急いで行け!:

マタイの福音書は他の福音書よりも、復活の様子が 躍動的です。行きなさい、すぐ行け、急いで立ち去れ、急いで行け等、この良き知らせを直ぐに弟子たちに、人々に伝える事が急務である事を伝える。復活がなければキリスト教の存在はない、十字架の救いの業の完成は復活の事実にあります。復活を伝える事は緊急時のトップ記事であり、昔なら夕刊の”号外版”です。

主の復活の報告は待ったなしです。マグダラのマリヤは復活の知らせを受けると、走って行ってペテロとヨハネに伝え、それを聞いたペテロとヨハネは一緒に走り出して墓に向かった。復活の事実を確認しようと墓に走り向かい、それを確認するとまた墓から走り出した。このような福音はかつてなかったからである!復活の感動と50日後のペンテコステ、聖霊降臨の力を受けて、弟子たちが様変わりを体験したことはご存知の通りです。

皆さん、復活のイエス様は勝利の主です、このお方以外に救いはありません。巷では多くの魂が刻々失われていきます。福音の伝達は急務です、直ぐに伝えるべき Good News !

まず、近くの家族、友人、仲間達、エルサレムから、お伝えしませんか。

イエス様は甦えられた、Happy Easter!
                   

前原利夫


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今年のイースターは4月21日にあたり、その前の週は受難週です。今号はイエス様の受難、次号では復活を考えてみましょう。イエス様の苦難は ゲッセマネの園の血の汗を流す祈り、ユダの裏切り、ペテロの三度の否み、ユダヤ人による捕縛、ピラトの下での裁判、そして十字架の死で肉体的、霊的受難の極限に達します。ゲッセマネの祈りでみこころがなりますようにと祈られた主は、十字架の上で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか)と祈られた。父なる神の御心を求めながら父に見捨てられたメシヤの苦難の深さを知る術はありません。

今号のテーマはこの様な苦難をイエス様はどう乗り超えられたか、それは一言で言えるものではないが「沈黙」ではなかったか。「イエスは黙っておられた」、「イエスは一言もお答えにならなかった」、「イエスは何を言われても、ひと言もお答えにならなかった」と大祭司、総督ピラトや長老達の前に沈黙で対応された。

1) ゲッセマネの祈り:

イエス様はよくお一人で祈られました。バプテスマのヨハネがヘロデ王の下で首をはねられ殉教した時も世から静かに退き祈りました。ゲッセマネの祈りは最後の晩餐の後の祈りで、ご自分の時が目の前にあることをご存知でした。この時、3人の弟子達を同行しての祈りでした。彼等の執り成しの祈りを期待してのことであろう。

しかし、ここでもイエスの期待に応える弟子たちではありませんでした。イエス様はご自分の痛みを忘れたかの様に、弟子達を三度も励ましますが、私達のように弱い彼等でした。イエス様は血の汗を流しつつ、迎える十字架の死、罪の贖いの苦しみの中祈りました。苦難に勝利する沈黙はこのような祈りの戦い、御心を求める中から会得するものではないか。

2) 旧約聖書に立つ沈黙:

イエスの十字架はマタイの26、27章のテーマですが、他の福音書にも並行記事があるとおりです。イエス様はこの受ける苦難は当然であり、避けられない苦難である事を旧約聖書を拠り所としておられる。大祭司、律法学者、長老達を目の前に人の子は自分について書いてあるとおり去っていく、また彼等に捕縛された時、預言者たちの書いたことが成就するためであると語られた。

ご自分がイスラエルが待ち望んでいたメシヤである事をはっきりと言われた。だから、大祭司があなたは神の子キリストかと聞かれた時、イエス様は「あなたの言うとおりである」と答えられた。多くの偽証、侮り、侮辱、嘲弄に沈黙を守りながらも語るべき真実、真理については憚らない。イザヤ書53章は苦難のメシヤがひたすら沈黙することを記録しています。

3) 剣に代へて沈黙:

裏切り者のユダが大祭司を捕縛に案内した時、ペテロは大祭司に仕える僕の耳を切り落としたとあります。イエス様はその僕の耳に触れてお癒しになりました。そして「剣をとる者はみな、剣で滅びる」と戒められた。それは武力行為、たとい正当な理由であっても、剣をとる事を禁じられました。ご自分を裏切る人に、また不当に裁く宗教家や政治家に対してです。イエス様は天の父に願えば「天の使いたちを12軍団以上も、今つかわしていただくことができないと、あなたは思うか」とご自分を守る軍団がおられる事を言われた。

古代ローマ兵の1軍団兵は5,000 – 6,000兵士からなるという。剣をとる者は剣で滅びると教えられたイエス様はご自分も武力をもって裏切り、不当な裁判に応戦しまんでした。ただ沈黙を守られた。イザヤ書2:4「、、、こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて、すきとし、そのやりを打ちかえて、かまとし、国は国に向かって、つるぎをあげず、、」と、ご自分が平和の君である事を敵の中で証された。

私達はこの地上で様々な試練、予期せぬ悪口、侮り、侮辱等を受けるものです。身じかな人からは辛いものである。しっぺ返しの誘惑に負けないようにイエス様のように「一言も答えられない」沈黙の力を学びたいものです。神様は私たちが耐えられないような試練は下さらない。「イエスは言われた、『父よ、彼らをおゆるしください。彼らはなにをしているのか、わからずにいるのです。』」と十字架の上から祈られた。(ルカ23:34)

沈黙は力、勝利です!    

前原利夫


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「主はヨセフのゆえにそのエジプびとの家を恵まれたので、主の恵みは彼の家と畑とにあるすべての持ち物におよんだ。」 創世記39章5節

創世記のヨセフのサクセスストーリーは実にドラマそのものである。また、これ程に人を励まし勇気づける聖書物語は少ない。17歳の頃に異母兄弟達に虐められ、エジプトに奴隷として売り飛ばされ、罪の濡れ衣を被り、獄屋にぶち込まれ、そこから這い上がってエジプトの総裁の身分にまで出世したストリーは痛快そのもの。

何度読んでも飽きることはない。神でなければ作れないシナリオだ。読む度に新鮮なアイデアが生まれてくるようである。先ず、彼が成功する前、即ち仕える身分であるのに、周囲の人を祝福して富ましていくことだ。私達もそのように人様の祝福になりたい。

1. 貧しくても人を富ますことが出来る:


私たちは先ず自分の成功、祝福を第一に優先する。それは誰も咎めることができない。自分が健康でなければ人を強くすることができず、自分が豊かになって初めて人を恵むことが出来ると考える。人助けは自分から始まり、それから人様を考える、これは常識です。ところが、ヨセフの場合はエジプトの役人に仕える身で、その主人の財産を増やしていく。

番頭さんが主人を祝福する逆転の姿です。持てる人を更に豊かにしながら妬みがない。冒頭のみ言葉にあるように「主はヨセフのゆえに、、」 役人ポテパルの財産、所有物をどんどん増していく。ヨセフは奴隷の身分で仕えているのだが。ヨセフの父ヤコブが若い頃、叔父のラバンに仕えていた事を思い出す。兄エサウから逃れてハランの地で20年奉公するが、ヤコブの働きが叔父の財産を増やしていく。

彼はヤコブが祝福をもたらす事を知りカナンの地に帰そうとしない。その子ヨセフも自分は何も持たない。でも人を富ます不思議な器であった。この姿はイエス様の姿ではないか。

2. 逆境の中でも富むことが出来る:


私達は富む条件に整えられた環境は必須と考える。逆境、不利な状況の中では自分の力、リソースは生かされないという先入観があるからだ。確かに向かい風よりも追い風が吹くと帆船も人生も楽です。

いつも追い風の様に環境が整えられ、自力に外部の力が加わると思うように事が進むでしょう。しかし、ヨセフは仕えながら周囲を富まし、逆境の中で自ら富む者となった。彼の父も長い奉公の中で富む者となった。ヨセフはエジプトでは最悪の奴隷の身分、そしてポテパルの妻の誘惑事件で自由を剥奪されて獄屋にぶちこまれ、そこで信頼を受けて獄屋の責任者となる。言うまでもない、彼の10人の兄弟はヨセフを妬み、井戸に放り込み、エジプト行きの商売人に売り渡した。

ところがその様な逆境の中から、僅か13年でエジプトの総裁の身分となる。奴隷から獄屋へそして総裁の座へ!後は、彼のスクセス・ストリートが続く。 私達が逆境の中では富めないと考えているときは、主が共におられるという信仰の基本を忘れている。もし、主が共にいませば、不可能はないという信仰でどの様な環境をも受け止め、進むことを教えられる。主が共におられる時、主が私達に代わって働かれるからだ。

 

3. 主が共におられるから:


ヨセフの歩みを辿ると、そこに主がヨセフの傍におられると繰り返し記録されている。インマニュエルの神が投げ込まれた井戸に、閉じ込められた獄屋に、またパロの夢の解き明かしの傍におられたのです。

父ヤコブは臨終の床で12人の子の将来を予言し祝福する。以下はヨセフへの特別な祝福である; 「ヨセフは実を結ぶ若木、泉のほとりの実を結ぶ木、その枝はかきねを超えるであろう。」「あなたを助ける父の神により、また上なる天の祝福、下に横たわる淵の祝福、乳ぶさと胎の祝福をもって、あなたを恵まれる全能者による。」(創世記49:22、25)

父はヨセフが神の恵みで祝福された子供であることを十分知っていた。私達の存在が周囲の人々の祝福となり、益となれると考えたことがあるでしょうか。

もし、逆な事を期待しているなら、神はこのような小さい私達をも用いて下さることを信じよう。貴方が神の傍に立たなくても、神はいつも貴方の傍におられる。信じますか。
パウロは「だれでも、自分の益を求めないで、ほかの人の益を求めるべきである。」と教える。 (第一コリント10:24)            

前原利夫


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「そして、御言を行う人になりなさい。、、、」
ヤコブの手紙1章22節

新年おめでとうございます!
新しい2019年は冒頭のみ言葉をご一緒に実行する者として成長したいと願います。

”行う人”になるには、それなりの意思強固、信仰が求められます。 「言わ易く、行いは難く」と言われるとおりです。言行不一致ではこの世の中では通用しません。不言実行型でなければなりません。

成功の秘訣をご披露:以前、こんなビジネスセミナーが大阪のホテルであったそうです。セミナーの講師は成功した家具店の社長、当然聞きに来た多くの出席者は同業者の家具店を経営している競争会社の人達であった。

講師は彼の経営理念、その成功の秘訣を一つ一つ丁寧に競争会社を前にご披露した。同業者たちは大変感動してセミナーに聞きいったという。セミナーが終わり記者会見となりました。「大勢の同業者、競争会社の前でどうして成功の秘訣を教えたんですか。御社に影響すると思いませんか」と記者が質問しました。講師は答えました「秘訣を聞いても、皆な実行しないから心配ないよ。」と。

賢い人、愚かな人:イエス様は山上の説教(マタイ5〜7章)で「、、、であれ」「、、、であれ」と何度も何度も繰り返します。それは私たちの霊的な状態を整えなさいということです。しかし、説教の結びである7章では、わたしの話を聞いても行わない者は「砂の上に自分の家を建てた愚かな人」と呼んでおられる。イエス様が説教を終わられると群衆はその教えに感動して、律法学者のようではなく、権威ある者のようだと教えを称賛した。

けれど、教えの素晴らしさを称賛しても、群衆の中から何人がイエス様を信じたでしょうか。また、イエス様はこうも言われた「それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人」と呼んでいる。

 成功したいと願いながら、その秘訣を聞き、教えられても実行しない人は確かに愚かな人です。成功の機会が与えられているが実行しない。神の国に招かれ、門が開かれ、救いの道が開かれているのにすすみ入ろうとしないなら、私達は確かに愚か者とよばれるであろう。

父が望む子供:イエス様はパリサイ人にむかいこんな譬を語られた(マタイ21章参照)。ぶどう園を経営しているお父さんに二人の子供がいて、兄にぶどう園で働けと言いました。兄は「おとうさん、参ります」と生きのいい返事したが、でも行きませんでした。弟は「いやです」と断ったが、心を変えて、ぶどう園に向かいました。父の望み通りにした子は誰かいうまでもない。

  ”そして”の接続詞:冒頭のみ言葉を考えてみましょう。「そして、御言を行う人になりなさい、、、」。 ”そして”という接続詞があるのは大事な点です。この”そして”は前の節から続き、繋がっているという意味ですね。前節を読みますと、一つは「心に植えつけられている御言を、すなおに受け入れなさい」とあります。明らかに、神の言葉の種が蒔かれたクリスチャンの心です。従って、行う人は心に蒔かれたみ言葉に従って事を行うべき、これが原則になります。

心の中にあるみ言葉を無視したり鎮圧してはなりません。もう一つは、「御言には、あなたがたのたましいを救う力がある・」とあります。ですから、自らの魂を損なうような行いではなく、魂を救いに導く行いでなけれななりません。ここで、まとめると魂に蓄えられたみ言葉に従い、救いに至るような行いが求められていると解釈できよう。

「そして、御言を行う人になりなさい。」この言葉に「おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはならない。」と続きます。聞いて実行しない人をおのれを欺く人だとヤコブは厳しく諭します。聞いた言葉がたとえ自分の益になる事でも、それをしっかり実行する人は少ないです。 イエス様はこのような人を愚かな人と言っておられる。愚かになりたくありません!

新年、今年こそ、御言を行う者となりましょう、一人で頑張らずに、お互い助け合い、励し合い、御言を行う賢い人となりたく願います。

Happy New Year 2019!
              
前原利夫


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救い主イエス,王の降誕、おめでとう御座います!
  
「ひとりのみどりごがわれわれのためにうまれた、、、」 イザヤ書9章6節

冒頭のイザヤの預言はおおよそ750年後にベツレヘムで誕生したイエスの上に成就する。みどりご、男の子がわれわれに与えられた。同9章7節はこのイエスの地上での役割を明確に預言する。

民を救う救い主であられると同時に、それは「ダビデの位に座し、その国を治め」られます。メシヤの初臨の姿は国を治める「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの神」として預言者イザヤは記録する。メシヤは王でもあられる。

かつて収税人であって、イエス様の弟子になったマタイは、旧約聖書から多く引用し、その光を師であるイエス様に当てて、マタイの福音書を書き上げている。当時の律法学者とは違い、マタイこそ真の律法学者である。マタイは救い主メシヤを”王”としても描写している。そこで、メシヤが王である姿を追ってみましょう、

私達の視点をメシヤは救い主であるという単一の役割から、救い主であり王であられるという二重の重要な役割を担ったメシヤであることに移しましょう。王としてのメシヤの役割は救い主の陰に隠されているからである。

冒頭のイザヤの「ダビデの位に座し、その国を治め」の預言は、マタイの1章の冒頭にメシヤの系図、ジニオロジーに反映されている。「アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図」とある。神はアブラハムを召して、「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。、、

地のすべてのやからは、あなたによって祝福される。」(創世記12章参照)。これは霊的な意味と同時に、国を治めるという立場の人物を指してのことでもある。アブラハムから14代後、ダビデ王が誕生、そしてイスラエルを治める王となる。

ダビデ王はイスラエルの名王、歴史に登場する王たちの模範的な王として40年君臨する。そのダビデ王家からイエス、メシヤが誕生する。イエスは王家の血を引いたメシヤである。

イエスが誕生した時、東方から博士たちがエルサレムに到着、拝みに来ました。博士たちは「ユダヤ人の王としてお生まれになったかたは、どこにおられますか。」とメシヤを王として迎えている。

また、当時、王であったヘロデは祭司長、律法学者に調査を指示し、メシヤの生誕地を旧約聖書から調べさせた。彼らはミカ書から「、、、わが民イスラエルの牧者となるであろう。」とヘロデ王に伝える。旧約においては王は度々羊飼い、牧者にたとえられている。

ヘロデ王はこの子を生かすことを恐れて、ベツレヘムとその附近の地方にいる2歳以下の男の子を殺害した。この残酷さは旧約の預言が確かであり、ヘロデ王の調査が事実であることを裏付けるものである。幼子イエスは両親に抱かれて一時エジプトに逃れる。

弟子のマタイに限らず、弟子たちの中にはイエスが救い主であると信じたいよりも、むしろイスラエルの王であると信じていたようである。弟子の一人、ナタナエルは「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」と告白する。(ヨハネ1:49)

また、イエス様ご自身も、十字架にかかる前、総督ピラトとの問答で「あなたがユダヤ人の王であるか」との問いに、イエスは「そのとおりである」と答えられた。

イエス様が最後のエルサレムに入城された時、ロバにお乗りになり、町中が騒ぎ、群衆に迎えられた。ロバは平和の象徴、平和の君のエルサレム入りである。群衆は上着を道に敷き、声たからかに神を賛美し、叫んだ「主の御名によってきたる王に、祝福あれ。天には平和、いと高きところには栄光あれ」。

預言者イザヤも11章で私達の王をこう描く:「正義をもって貧しい者をさばき、公平をもって国のうちの柔和な者のために定めをなし、その口のむちをもって国を撃ち、そのくちびるの息をもって悪しき者を殺す。

正義はその腰の帯となり、忠信はその身の帯となる。」さあ、クリスマス!、人類の救い主、世界を治められる平和の王の誕生。平和の君、律法によらず、愛によって治め、導かれる真の永遠の王をお迎えしましょう。

前原利夫


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「万事を益となす神」 ローマ章8章28節:

「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、
万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知ってる。」

前号で書きましたが、私達がLAホーリネス教会を出た時は、私達二人だけ送って下さい、それ以外の一切の援助もヘルプも求めませんと、立ち上がりました。思いの外、多くの困難が待ち構えて試みの時でした。礼拝場所(9月号で紹介)、経済、また牧師不在の問題と戦うことになりました。

1)経済的試練の中でスタート:

教会を始めた1994年という年は私達には試練の時でした。1992年はLA暴動の時でした。LAの中小企業が軒並みに打撃を受けた年で、特に、韓国のクライアントを多く持っていた私の仕事は、例年の半分以下の収入でした。

借金し、それでも足りないので将来の退職金、保険金をみんな崩してしまいました。神様、このような最悪の時に、どうして教会開拓に乗り出せと言うのです。経済的に困難な中での難産でした。

しかし、一旦、神様に誓ったことから逃げ出す事は出来ません。信仰を持って進むしか道はありません。厳しい財政の戦いの中でしたがホテルでの礼拝、伝道は喜びでした。特に、魂が救われ、洗礼を受ける人がいると大きな祝福、恵み、慰めでした。

2)牧師不在でスタート:

当時、私はフルタイムの牧師になるつもりはなく、神様からの明確な召もありませんでした。遣わされるであろう牧師の補佐をするつもりでした。仕事をしながら、教会の財源にしたいと思い願っていました。さ〜大変、教会はスタートした、礼拝もスタートした、牧師はいない、いなければ私が立つしかありません。神様は私を崖ップチに立たせて、後ろから背中を押し出すのです、私は困りました。

メッセージの準備も、出張先のエアーポートやホテルで準備をすることもしばしばでした。多くの訓練を受けましたが、喜びでした。 神様の計画は、”お前がわたしのために福音を語れ” であったのです。誰にも頼るな、誰をも期待するな、自分で福音を伝えなさい、経済も誰にも頼るな、自分で立て、私がついている、これが神様の御心でした。そこにも、“ただ、ただ主の恵み”があったのです。

神様は万事を益となすお方です:

1)パウロの権利放棄の伝道型教会
財政的に試練のなかでスタートしましたが、神様は日本からローカルからクリスチャンの会社を与えて下さいました。財政は挽回、祝福されました。そして、私も主から訓練を受け、進む事が出来ました。神様はフルタイムの牧師を遣わされないで、私を立てて下さって、伝統的な教会と違う型の教会作りをさせて下さいました。”無報酬主義の教会”を。

第一コリント9章16節;「それでは、その報酬はなんであるか。福音を宣べ伝えるのにそれを無代価で提供し、わたたしが宣教者として持つ権利を利用しないことである。」私はこの9章を「権利放棄の宣教論」と呼んでいます。

私個人にも語られたみ言葉でもあると受け止めています。私たちの教会は稀に見るユニークな無報酬主義教会となりました。主は信じる者を見捨てられないお方です。

2)教会を追い出されたが会堂購入:
ホテルで礼拝する事は最悪の手段でした。神様、福音を伝えるのに場所が必要です、与えて下さい、しかし神様が導かれたのはホテルでした。ホテルで約4年、そこからユダヤ人の chosen peoplesの教会に移り、そこで8年経った時に、立ち退きを命じられました。

また、新しい場所のために祈り出しました。探せど、探せど、適切な場所が見つかりません。転々と場所を移るのは一時的で、やがて恒久的な場所が準備されていたからです。私達の祈りに勝る計画、奇跡と思われるようにこの会堂を購入できました。主は良いお方と賛美にありますが、実に神様は最高、最善のお方です。

最後に、教会はビジョンに生きる:

私達の教会は先ず、魂の救いを第一として働いています。前述の教会開拓案に4、5年したら、GVICは日英で150人の教会に成長したいとビジョンがあります。私達はすでに24年、50人そこそこ、ビジョンに遠いです。皆さん、祈り、救われる魂が起こされるよう福音を伝えよう。

もう一度、この創立記念日、我らの救い主イエス様にすべての栄光をお返します!ただ、ただ主の恵み!によって創立され、今日まで支えられているのです。

前原利夫


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「主が家を建てられるのでなければ、
建てる者の勤労はむなしい。、、」 詩篇127:1

Founder’s Day : GVIC 創立記念日(上)

今年6月の年次報告会で、世話人会を代表して前原牧師から下記の報告がありました。

「今年2018年から9月の第二日曜日を「GVIC創立記念日」として定め神様に感謝を捧げる日とする。」私たちの教会がトーランス市のホテルで第一回目の礼拝を捧げたのは1994年9月の11日、第二日曜日でした。来年、創立25周年を迎えることになります。主イエス様に感謝、 ハレルヤ!

私が教会の創立記念日を祝う伝統を最初に体験したのはロスアンジェルス・ホーリネス教会でした。素晴らしい伝統だと思いました。

1990年3月31日

1990年3月31日であったと思いますが、その日は北米ホーリネス教団の第一回リニューアル・リトリートの二日目でした。午後の休憩時にリトリートセンターの森の中を一人散策しながら、”主よ、教会の名前は何にいたしましょうか”と祈りながら、名前を模索していた時でした。これまで幾つかの候補名がありました

。”venture” という言葉は名称のどこかに入れたいと考えてはいました。その時です、”Gospel Venture”と上から閃光のように閃いてきました。聖霊様の促しであったであろう。まだ、教会の場所も定まらない前に名前が先に出来上ってしまいました。

睦子と私は、1980年代の頃から”ビジネマン伝道”をしたいと祈り、何らかの形でビジネスマンのために立ち上がり、伝道する事を使命と示されつつありました。しかし牧師への明確な召命は得ていませんでした。将来のため神学校で学びを始めました。

仕事を終わり、夜の6時や7時頃からの学びはチャレンジで、深夜までアサインメントととっ組むことしばしばでした。やがて決断し、私達が立ち上がるべき時がきました。

1991年1月21日

1991年1月21日、私はホーリネ教団の常務委員会(私もその一員)に「サウスベイに教会開拓」をしたい趣旨のプロポーザルを提出しました。プロポーザルは1992年1月からサウスベイで日本語部教会を開拓し、数年後に英語部も開拓するという主意でした。

この教会開拓のためホーリネス教団と前原が財務を折半し、教団は一人の牧師を派遣し、前原は補佐するというリクエストでした。この プロポーザルの特徴は教団側と個人がチームとなり、教会開拓を始めるという、教団側には初めてのことでした。ところが、この類の教会開拓案は時機尚早、前例がないとして却下されました。当時、LAホーリネスに出席していた私達は、祈りの中で、信仰のベンチャーに乗り出しました。

プロポーザルを出してから3年半が経過し、私達は礼拝の場所を探し歩きました。アメリカ人の教会は大きいし、沢山の部屋がある、レントするには問題ないとタカをくくっていましたが、現実は厳しいものでした。教会で門前払いに会ったこと数回でした。このような教会にはなりたくないと思いながら、次の候補を探し歩きました。

やっと、落ち着いたのがホテル、当時の Holiday Innでした。ホテルと部屋の契約を済ませ、キーボード、音響機材、聖書、聖歌、礼拝に必要な品々を整え、第一回目の礼拝に備えました。

1994年9月11日

1994年9月11日、私達の教会の歴史の開幕となりました。ホテルの片隅の小さな部屋からイエス様を讃える賛美が流れていきました。時々、ホテルのゲストが廊下で立ち止まり覗いたりしました。睦子は礼拝が始まる10時半になるまで、ホテルの入り口で誰かを待っている様子、今日はこの方が礼拝に来てくれた、あの方が来てくれた、と嬉しそうに数えていました。

私達と一緒に開拓に参加した家族は4家族でした。一家族は天に帰り、一家族は日本に帰り、一家族は教会を変えました。それぞれに良き働きをして下さいました。私達がLAホーリネス教会を出た時は、私達二人だけを送り出して下さい、それ以外の一切の援助もヘルプも求めませんと、立ち上がりました。振り返ってみるとそれは主の恵みでありました。

4年後ホテルからチョーズン・ピープルズの教会に移転

4年後ホテルからチョーズン・ピープルズの教会に移転し、またホテルに戻り、そして2007年11月に本教会堂を購入しました。思えば、長くもあり、短くもある24年のGVICの創立記念です。主は多くの方々の祈り、励ましを備えて下さいました。

また、辻本先生、今は主の元にお帰りになられた美枝子夫人のお祈りを思い起こし、感謝に溢れます。創立記念日はこれらのことをなして下さった我らの主に全ての栄光がありますように、と主を讃える時です。

10月号は続編として、窮地に追い込まれても、尚、さらなる良い道を備えられる神様の業ををシェアいたします。 

前原利夫


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ゴスペルベンチャーインターナショナル教会
Gospel Venture International Church (GVIC)
17811 South Western Avenue, Gardena, CA 90248 U.S.A. Tel.(310) 527-6112
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私達の”希望”という概念は、”こうあって欲しい、あ〜なって欲しい” という自分の好きなことを実現してもらう事ですね。もし、希望が叶わなければ、また次の機会に希望をつなげはいいのです。

人間は希望を頼りに生きている様な者です。たとえ、その希望が霧のように消え失せるような性格であっても、生活になくてはならい大切なエネルギー源です。しかし、ここで、み言葉が語る”希望”について考え、真の希望を知り、真の希望に生きたいものです。

1. 希望の永遠性:

第一コリント13章は信仰、希望と愛は永遠であると教えます。これらの3つが永遠であることはそこに霊的要素があり、神的要素があるからです。翻って、神的以外に永遠性はないし、霊的以外に永遠性はないでしょう。

イザヤ書の41章は、私達を贖い、助けて下さる希望がイスラエルの聖者であると教えます。イスラエルの聖者の事をMiqweh Israel、イスラエルの希望と言うそうです。即ち、神ご自身が希望そのものです。

この希望は霧の様に消え去ることはありません。私達は永遠性のない希望を懸命に求めていることに気が付かなければなりません。

イザヤ書41:14「主は言われる、虫にひとしいヤコブよ、イスラエルの人々よ、恐れてはならない。わたしはあなたを助ける。あなたをあがなう者はイスラエルの聖者である。」(”Your redeemer, the Holy One of  Israel” )

エレミヤ書14:7「イスラエルの望みなる主よ、悩みの時の救い主よ。”同17:13「またイスラエルの望みである主よ、あなたを捨てる者はみな恥をかき、、」
 

2. 信仰の先輩達の希望:

聖書の中で’神の友”と呼ばれた人物は2人だけアブラハムとモーセであったと思います。2人の信仰を見ると比例ない信仰の賜物が与えられています。モーセは敢えてこの世の富、名声、エジプトの栄光を塵芥のように捨てました。

それは、イスラエルの希望のゆえ、即ち来るべきメシヤを待ち望んだからであります。このイスラエルの希望のゆえに、艱難、苦難、数々の苦難を耐え忍び、キリストのゆえの艱難をも甘んじて受けたのです。

パウロもしかりです。ローマ書5:2「そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる」

パウロの希望は私達が希望と呼ぶような希望ではない。コリント第一の手紙13章では、おぼろげな神ではない、おぼろげなキリストではい、やがて、はっきりと完全なお方にお会いする希望に燃えている。アグリッパ王の前で弁明するパウロは「王よ、この希望のゆえに、わたしはユダヤ人から訴えられています。」と弁明。 (使徒行伝25:7)
  
私達の希望を確かめようではありりせんか。み言葉の希望は、今作り上げられたばかりの希望ではない、永遠から存在する希望です。この希望から全ての良きものが創造されるのです。この方に置く希望こそ、揺るぎない希望、先輩の先人たちはこの希望のゆえに生きる意味を見つけたのです。この希望が忍耐を授け、力を授けて、永遠に生かし続けて下さる希望です。

私達の希望はMiqweh of Israel、我らの希望、主のイエスキリスト!

前原利夫


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「・・しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。」

このみ言葉はパウロ自身の体験から出た言葉ではなかろうか。新約聖書の中で、パウロほどキリスト教を迫害し、自ら教会の迫害者と呼ぶ程罪深い者はいない。彼は福音の大敵であった。その罪深さを深く深く悔い改めるところに、恵みの深さを知ったのであろう。

何回も盗みを犯して赦される人と、一度、出来心から盗みをして赦される人とは、罪が赦されたと感謝する深さは違うはずである。

罪の取り扱い、恵みの深さが違う。罪の深さのどん底が深ければ、上まで引き上げられる恵みの高さと比例するものである。しかし、パウロは恵みを体験するために、罪を犯してはならないと、警告する。

マグダラのマリヤ、十字架の上で救われた強盗の一人も神の赦しの恵みの深さを知った人達でした。今号は、そのような体験をした元ゲリラ戦の総司令官であった極悪人を紹介する。今は逃げ隠れしながら300の教会を開拓している牧師に変わった。驚くべき主の恵みである。彼の名はCharya、匿名で紹介する。

5月11日、驚くべき証の報告が届いた。AAがカンボジヤで牧師を中心にセミナー、トレイニングを開いたときだ。老牧師風に見えた人がセミにーに参加したが、彼の背中は曲がり、片目は潰され、やっとこさ歩けるようで、全体がズタズタな体でした。彼を目の前にし、出席者はびっくりした。

このセミナーでは「罪人のかしら使徒パウロ」について学ぶことになっていた。彼はセミナーが終わったあとに、リーダーに告白した”私は罪人のかしらパウロよりも悪い人間です”と。

時は、1970年代、ポルポト ( Pol Pot)がカンボジヤを共産国にしようと革命を巻き起こし、ゲリラ戦術で掌握した。ポルポトは100万人から200万人の反対派を虐殺し、加えて20万人を餓死しさせた世界最大の虐殺人と言われている。この政権下に Charya は命をかけていたのである。彼はポルポト政権の総司令官として残虐で、Charyaの名前を聞くだけで恐れられたと言われる。彼は残酷極まりなく、生きた人の心臓を切り出し、目の前で殺すような恐ろしい人であった。 Charyaは何百人もの女性をレープした悪人であったと告白した。

ところが、 ポルポトの残酷な政権が終焉し、Charyaの奥さんがクリスチャンになった。そして、この残酷な悪人もイエス様を信じるようになった。福音の力は凄い。福音はダイナマイトのように、彼の悪全てを赦し、吹き飛ばした。

彼が一度仕えた、残酷なポルポトの残党は今なお逃亡中で、彼らから遠くはなれた無名の町に教会を建て、そこの牧師になり、教会は祝福され、成長した。それで、AAのセミナーに参加できるようになったとのことだ。

この二年間セミナーで訓練を受けながら、彼はリーダーに自分の過去を打ち明けた。そして”神様は私を決して赦さない”、と。リーダーは”神様にできないことはありません”、あのパウロをも赦された、Charya、神様はあなたを赦します、イエス様は十字架の上で貴方の罪の身代わりとなりすでに犠牲を払われた。 Charyaは罪の罪悪感から解放され、自由と解放を戴き、過去の恥ずかしい罪から赦されました。ハレルヤですね!

彼は神の恵みを真に体験し、信仰が強められた。そればか`りか多くの弟子を作つた。かつての仲間達をもイエス様に導き、教会のリダーを育て、今では300の教会を立てる牧師になっている。イエスの福音はこれほどまでに人を変える霊のダイナマイトです。

「・・しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。」

胸を打つ言葉ではありませんか。  

前原利夫


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今、私のメッセージはマルコの福音書を中心に「神の国」を学んいます。シリーズ第5まで準備しています。イエス様が語られる神の国、その具体性を理解しようと努めている。

学べば学ぶほど神の国の深さ広さを教えられます。マルコの福音書を中心にしていますが、他の福音書を参照しないと学びが前に進まない点もある。

今号は、メシヤの神の国の特徴と思われる革命的な宣言を3点取り上げる。当時、誰も考えもしない奇想天外的な発想・宣言だからである。

1.メシヤは律法の成就者:マタイの福音書5:17

「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するために来たのである」。このイエス様の言葉は、山上の垂訓の中にあり、その言葉の4節後、5章21節からは、旧約の戒めに対する改革があります。従って、この言葉は、これまでの旧約の戒めを完成するのは、メシヤであるご自分がなさるということです。み言葉にあるように、メシヤは古い戒めを無効にしたり、廃するために来られたのではない。神の国の律法は、メシヤの教えが土台であり、古い、しかもユダヤ人たちが継ぎはぎした律法を受け皿にしない新しいルールである、ということです。新しいブドウ酒は新しい皮袋に入れるという原則だ。受け皿が古いと、新鮮な入れ物までも腐れて、長持ちしません。福音書を読んで行くと、メシヤの改革する律法は、黄金律を 土台にした新しい神の国の秩序と言える。

マタイの7章12節:「だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である」。

「目には目、歯には歯」の同害報復法・同態復讐法も改革されて、下着を取るものには上着も与え、1マイル行かせようとする者には、その人と2マイル歩け、と神の国は教える。

2.人の子は安息日の主:マルコの福音書2:28

マルコの福音書は神の国は近づいた、と宣言すると同時に悪霊につかれた者の癒しを紹介します。 続いて、安息日の掟を破ったと訴えられた弟子たち、そして、ご自身が安息日に片手のなえた人の癒しをなさった。そこで、パリサイ人はなんとかして、神の律法を破ったイエスを殺そうと相談し始めた。

ユダヤ人にとって、安息日を厳守することは、病人が安息日に癒されることよりも大切なことでした。彼らにとって、安息日は命がけで守るべきことであった。従って、イエスがこの安息日問題を改革するということは、それこそ命がけの問題であった。彼らにとって、イエスは神の戒め、十戒の第四番目の律法を破って死罪に当たる犯罪者。しかし、安息日は人のためにあるのであり、人が安息日のためにあるのではない。これがイエスの安息日の理解である。

イエスは群衆にチャレンジする「安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」。「、、人の子は、安息日に もまた主なのである」。メシヤは律法を成就するために来られたのである。

3. 神のみこころを行う者は家族である:マルコの福音書3:35

イエスには4人の兄弟と数人の姉妹がいました。ある集会で母マリヤと兄弟、姉妹たちが、外にたち、イエスを呼ばせた。その時、イエスは群衆に向かい「わたしの母、わたしの兄弟とは、だれのことか」、と目の前の群衆を見まわして、語られた「ごらんなさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。

神のみこころをを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。神のみこころを行うの者が家族を構成するという発想は、驚くべきことです。ユダヤ人の同族に対してと異邦人に対する扱いは、神に選ばれた者と罪人との間にある隔たりのようなもだ。

家族は血のつながりで構成してるという長い歴史、伝統にチャレンジするばかりか、神のみこころを行う者は誰でも、異邦人、奴隷、女、子供、全ての人を家族として招いておられる。

キリストの名の下に、これらの発想は、画期的であり愛で支配する福音の寛大さ、公平さです。神の国はイエス様の黄金律によって治めるために作られている。規則は人を縛るためではなく、助けるためにある。福音を信ずる者は(神のみこころを行う者は)イエス様の名の下に家族であり、平等であり、霊の拡大家族の一員なのである。

それ!神の国は近づいた、そうです、貴方の中に、私の中に、神の国を今日迎え入れまようではないか!             

前原利夫


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