「神の世界を見る!」創世記15章5節

「そして、彼を外に連れ出して仰せられた。『さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。』さらに仰せられた。『あなたの子孫はこのようになる。』」

2020年は全世界が自分の小さな世界に閉じ込められた年であった。それが国や州からの命令であろうと自宅という世界が活動の場となった。自粛命令の下に教会も閉鎖、ビジネスも”Essential “以外は在宅勤務、かなり解放されても、今もレストラン等のビジネスがロックダウン中である。

これらのビジネスが倒産に追いやられるのは当然だ。このような社会・生活環境の中では物事が消極的、否定的となり、前向きの発想がもぎ取られてしまう。また、現実的に前向きの計画が難しい。

アブラハムはビジョンを失いかけていた:

しかし、私たちはアメリカ市民33万人以上の命を奪い取ったコロナウイルスにいつまでも恐れてはならない。この悲劇の中でも、その束縛、閉じこもった小さな世界から、神様の声を聞き、神の世界に出て行かなければならない。

神はアブラハムを召して、大きなビションを与えました(創世記12章)。人間にとって神のビジョン達成は不可能としか思われません。100才のアブラハム、10才違いの石女のサラの間に子供ができる、そしてその根から世界に子孫が星のように増え広がる、このビジョンを信じる人間はこの世にいるであろうか。アブラハムは迷った、本当か、いや無理だ、約束を失いかけていたに違いない。

彼にはエリエゼルという信頼できる僕がいた。アブラハムはこの僕に相続させようと目論んだ、その時です、神はアブラハムを外に呼び出して

「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。そして、あなたの子孫はこのようになる」と、アブラハムの約束、信仰を回復したのです。アブラハムが義と認められたのはこの時である。

神の世界を見る:

神は実物教育の専門家であられる。アブラハムに夜空に輝く無数の星を見せて奮起させた。アブラハムは夜空の星をこれまで何度も見ていたであろう。

住まいの天幕を一歩出れば、天の河、天から降るような星の群れが手に取るように近い。しかし、神様が星を数えよと言われた時から、アブラハムの星を見る目は変わった。空の星を一つ一つ数えて、自分の懐に大事にしまったに違いない。

ついでにアブラハムの曾孫に当たるヨセフの夢に出る星も子供(兄弟たち)を指している(創世記37章)。これまでの星は神の被造物、今見る夜空の星は自分の子供達だ。アブラハムは毎晩夜空の星を数えて、ビジョン達成がいつであろうかと楽しんだに違いない。

私たちも外に出ましょう、神の声に耳を傾けましょう。そして、天を見上げ、そこに輝く星の群れを数えるロマンを楽しみましょう。神の世界を眺めよう。小さな束縛された家から、この生活環境から神の世界に出ましょう。神様はアブラハムに上のみ言葉を13章、15章、そして22章で表現を変えて繰り返している。

そして、イサクには26章、ヤコブには28章で約束を繰り返している。それは、神を信じる者が、神の世界を見る、神の大きな世界観で生きよということでありましょう。天の星のように、地のちりのように、海の砂のような無限な数、広さ、宇宙大のスケールの世界観、発想において、神に似るようにと教えておられる。

無限の星の中に、ちりの中に、砂のなかに、神の無限の力がある。神様は私たちが小さく生きることを望んでおられるでしょうか。大胆に神様を信じて倣うことではないでしょうか。神様はご自身のイメージを私たちが反映し、引き継いでいくことを望んでおられるでしょう。

イエス様はガリラヤの田舎で育ちましたが、その働き、発想はいつも世界的、グローバルを軸にした行動でした。イエス様は人類の救いのために誕生し、弟子たちを訓練して世界宣教に遣わされ、私たち一人一人に全世界に出て行き、福音を伝えよと命じておられる。イエス様に倣い私たちも小さな我が家から神の世界に出ましょう。

2021年は恐れず神の世界、新しいビジョンを求めて進もうではありませんか。私たちの教会も新しいビジョンに立ち上がるよう祈ります‼

Happy New Year!

前原利夫



ゴスペルベンチャーインターナショナル教会
Gospel Venture International Church (GVIC)
17811 South Western Avenue, Gardena, CA 90248 U.S.A.
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クリスマスおめでとうございます。

今日、クリスマスが何のお祝いか知らない人が意外と多いのに驚きます。イエス・キリストの誕生日を祝う特別な日です。どうして特別でしょうか。

私たちは2月22, 12日、ワシントンとリンカーン両大統領の誕生日を休日として、彼らの偉業を称え、お祝いします。

クリスマスはイエス・キリストの偉業を称えて祝う日です。どんな偉業ですか、その偉業は「人類の救い」のために誕生されたからです。イエスの名前、Jesus は「神は救い」 (Jehovah is salvation )という意味です。クリスマスは神様のその偉大な働きを祝う日です。

1「迷える一匹の羊を見つけ喜ぶ」:

この人類の救い、Jesus について短く考えてみましょう:新約聖書の中に、沢山のストーリ、譬え話があります。とりわけ、「迷える一匹の羊」の話は有名です。100匹の羊がおりましたが、そのなかから1匹だけ、仲間からはずれて、どこかに迷い出てしまいした。

羊飼はその失なわれた迷える羊を放り出して、残りの99匹を連れて、帰るでしょうか。それは無責任な羊飼ですね。

良い羊飼は最後の最後まで、迷える羊を探し出し、見つけ求め、元気な羊達のところに戻るのです。その時に、聖書は「見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰ってくる」とあります。

羊飼が羊をかついで帰るとは、喜びがどんなに大きいか、深いかを意味します。あるいは迷える羊は傷付いていたのでしょうか。可哀想に、羊飼は傷付いた羊を肩に載せて帰りました。人間が動物をかつぐのです。

迷える羊とは、神から離れた人間の姿ですね。羊飼は神様のことです。すると、神から離れた人間が、神様の下に戻る時、神様はその人をかついで、懐に抱いて大喜びなさる、ということですね。

神が貴方を喜ぶ姿、私を喜ぶ姿を想像してみて下さい。皆さん、神様が貴方を喜んでくださていると考えた事がありますか。神様は貴方を喜んでおられるのです。この迷える一匹の羊の話に、神様が喜ぶ姿を発見します。

2「放蕩息子を迎え喜ぶ」:

多分、迷える一匹の羊の話よりも、「放蕩息子」の話が広く伝えられ、愛されたストーリーかもしれません。二人の息子を持つお父さんがいました。次男がお父さんに要求して、私が頂くべき財産を今下さい。気前のいいお父さんは次男坊に財産の半分を分けてやりました。

次男坊は財産をもらい、父の下から遠く離れた町に住みました。父の目の届かない所にいることをいいことに、財産を湯水のように使い果たしました。お金を貯めることは年月のかかることですが、お金はすぐなくなります。

飲んだり,食ったり,ギャンブル,女と遊び回ると,One millionはすぐなくなるであろう。昔,親戚の兄さんが,ある村の人を指して彼は大酒飲みだと言って、彼のお腹には何百坪の水田が入っていると皮肉っていました。お腹の中には沢山のものが入るのであります。飲んだり食ったり,遊んだりがお腹に入ります。

父から遠く離れても,父の優しさは忘れる事ができない。そうだ,お父さんの所に帰ろう,彼は決心しました。この彼の気持ちを,聖書はこう言っています、

“立って、父のところに行って、こう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。」” 。一方,父は次男の帰りを一日千秋の思いで待っていました。息子を迎える父の喜ぶ姿を聖書はこう表現します:

“『 そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。” 

帰りを願う息子の心境よりも、喜び迎える父の姿がクローズアップされます。皆さん,これ以上説明することもありません。

知って頂きたい。迷える一匹の羊を見つけ出し、肩に乗せて大喜びの神,また、若き人生を無意味に浪費した青年を、ありのままの姿で迎えて宴会を催す、神の寛大な愛、人間に対する救いの業をみましょう。

神が一番喜ぶ姿は、人間が神に戻ることでありましょう。私は18歳の時にイエス様の救いに預かりました。以来、60年、神様の祝福を頂いてきました。

皆さんの中で、神様をもっと知りたいという方はおられませんか。今が時です。クリスマスは救いの時です。今がチャンスです!

貴方にクリスマスの喜びと祝福が届けられますように!

前原利夫



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何か季節感、実感の伴わないような挨拶です。4月からスタートしたロックダウンは対外との交流は締め出され、夏の行事も取りやめ、季節を告げるスポーツもまばら、皆さんとの交わりもないこの頃は、外にも内にも今一つ活気が見えません。

感謝祭を迎えるのに、例年のような活力が感じられないのは私だけでしょうか。しかし、主の恵みは数えて見ると10本の指では納められないほど多くありましょう。

今号は、私達の霊的成長を点検しながら、主が私たちを探出して救い上げ、信仰を支えて成長せしめ、私たちに期待している働きを、コロサイ書から学んで見ます:すなわち、救、信仰、そして伝える、この3つの永遠的喜びと感謝をご一緒に考えてみましょう。

1)救を感謝する:

「神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してく下さった。」(コロサイ書1:13)。私達はかつては救を知らない、神なしの世界を彷徨ていました。その世界は“この世“と呼ばれ、人間がその時代時代に蓄積した知恵です。客観的な知恵、主観的な知恵もあり、一時的で身勝手な知恵もあります。

その中で、罪を知らず、世の物差し定規として誇りつつ、生活を満足していました。ところが、イエスはそのような生き方は“やみの力“として退け、私達に“光の力“を示して下さいました。

私たちに光の世界を見せ、霊の目で闇の世界を見させ、神の視点から何が善か、何が悪かを判別できるようにして下さいました。そして、私達の命が、キリストと共に神のうちに隠されている事を示され、十字架の救に至らせて下さいました。貴方を、私を闇の世界から御子の愛の世界に移し救って下さったイエス様に感謝します!

2)信仰の堅持を感謝する:

「また、彼に根ざし,彼にあって建てられ、、、信仰が確立されて、あふれるばかり感謝しなさい。」(コロサイ2:7)。私たちは信仰に導かれると、あとは自分の力でやって行ける、やって来たと思うのであります。このような思いは信仰の破船の手前です。

信仰の堅持も神様からの贈り物と考えねばなりまん。信仰の歩みのモデルはイエス様です。信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ,走るのであります。

しかし、言うは易し、行うは難しいものです。信仰は日々の生活との戦いです。戦いがあれば、敗北者も犠牲者も出ます。私達の誘惑はこの世への愛です;お金、大言壮語、誇り、見栄、謗り、無節制、乱暴、不品行、偽善等、多くの誘惑と戦わねばなりません。

要するに、神よりも世の快楽を求めようとする罪の残滓との戦いです。祈りが妨げられ、御言葉から離れて1人で歩こうとするかです。しかし、イエス様は私達が倒れないように、天から執りなし信仰を支えて下さっておられるます。

「だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。」ロマ8:34

主イエス・キリストに感謝致しましょう。

3)福音の伝達を感謝する:

「わたしは、神の言をつげひろめる務めを、あなたがたのために神から与えられているが、、」(コロサイ1:25)。パウロは苦難をかってでも福音の伝達に励みます。同24節にはコロサイの教会のためには苦難を喜んで受けると、パウロは福音伝道の代償は“苦難“で結構ですと、その働きを誇ります。

「わたしが福音を宣べ伝えても、それは誇りにはならない。なぜなら、わたしは、そうせずにはおれないからである。もし福音を宣べ伝えないならば、わたしはわざわいである。」 第一コリント9:16.

パウロはコリントの教会の信徒に“わたしのような者になれ“と励まします。 福音を伝える事は神の僕の特権です。パウロは若いテモテに、またイエス様は父の下にお帰りになる前に、全世界に出て行け、世界の人々を弟子としなさいと、私たちに命じました。

私達も自らがやみの力から救われ、御子の愛の下に移された時の大きな祝福を隣の人に、親戚に伝える者となりませんか。そして、福音の伝達者として、私たちにその重大な任務をお任せしておられたのです。イエス様に感謝致しましょう!

私達の霊的な生涯はまずイエス様と会い、救を頂き、イエス様の生き方に似るようにと信仰の働きに励みます。そして、この信仰生活の祝福を隣の人に伝える喜びを体験するものです。救、信仰、伝達この基本を点検し、イエス様が共に歩んで下さっていることを感謝致しませんか。

Happy Thanksgiving!

前原利夫



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「あなたはわたしのために、嘆きを踊りにかえ、荒布を解き、喜びをわたしの帯とされました。」 詩篇30:11

「人を祝福する人」「神の祝福の管」に誰しもなりたいと願う者であります。それは人の喜びが自分の喜びにもなり、祝福を届ける幸いは、特別な祝福です。ところが、人を祝福する者は、自分も既に祝福を頂いていると想定します。使徒パウロが「受けるよりは与える方が、さいわいである」と教えています(使徒行20:35)。

しかしながら、多くの場合は自分が先ず祝福され、自分が最適な環境にいなければ、祝福を他人に届ける事は出来ないという前提に立っていると思われます。自分が所有して初めて、与えることが可能であると考えるからです。

創世記のヨセフの生き様からこの前提は間違いであり、人は自分が最適な環境にいなくても、いや最悪の環境でも周囲の人を祝福し、幸いを届ける管になれると証しします。祝福を準備している方は神様であり、人はその管の役割を演じるからです。

ヨセフの生き方を見ると、悲しむべき環境、嘆くべく環境、拘束された環境ですが、その中でも苦難の顔、嘆きの声等は見られず、聞かれず、喜びと踊りすら感じられる生き方です。たとえ牢獄でも、その中から他人に祝福を届け、喜びと踊りを届けています。

1)夢見る男ヨセフ:

彼が畑で仕事をしていると兄弟達の穀物の束、11の束がヨセフの束を拝みました。それからまた夢を見、その夢は11の星と、太陽と月が自分を拝みました。11の星は兄弟達です、太陽は父ヤコブ、月は母のことで、この夢は正夢となり、外国のエジプトでおおよそ17年後に実現します。神様はヨセフが人を祝福する人間になるように、そして自分が祝福を受ける前に、人を祝福する管に作り上げていきます。

2)奴隷の身で自由人を祝福:

奴隷は不自由ですが不自由しない自由な人を祝福します。仕える身でありながら、自分の上司を祝福します。これらは常識に反します、彼の身分や地位は、祝福を受ける側ですが、彼は祝福を届ける奴隷となり、上司を祝福する部下です。ヨセフは周囲の人々の嘆きを踊りに変える管でした。

3)パロ王の侍衛長を祝福:

ヨセフの奴隷としての最初の仕事はポテパルというエジプト王の侍衛長の財産を管理することでした。ポテパルは王を守る高官ですから多分多くの財産を所有していたことでしょう。創世記39章に、単に家の管理だけでなく、他に重要な仕事 (ビジネスの管理?)も与えられ、ポテパルの家が栄えたとあります。単なる家の管理や拭き掃除、維持ではない。このポテパルの財産を上手に管理し、実績を残し、他人の祝福となりました。これがヨセフの第一の祝福ですね。神様はヨセフを更に用いようとして、パロの側近に仕えさせた。これは神の知恵、将来への準備です。

4)獄屋でパロ王の側近を祝福:

ポテパルの妻の誘惑の果て、濡れ衣をきせられたヨセフは獄にぶち込まれます。しかし、その獄はパロ王の側近達の獄屋であり、パロ王に接近するのに好都合で一番近道でした。獄に近道があり、幸が隠されているとは、それは神様の知恵です。神が働かれるところには、宝も将来も隠されています。詳細を割愛しますと、ヨセフはやがてパロ王に謁見の機会を得、王に祝福を届ける管、全エジプトの宰相の地位を得ます。

5)私達の前提条件の間違い:

人を祝福するには、まず自分が祝福を受け、それから手渡すという常識の前提条件がいかに間違いであるかヨセフは証明してくれます。この発想は信仰の世界では通用しません。そこでは常識、経験、人間の科学よりも、信仰の力学、即ち神が働かられるかです。神は水をブドウ酒に変え、水の上を歩かせ、5つのパンで4、5000人をまかなう事ができるお方です。私達が神の祝福の管となりたいと願うなら、素手でも神はそれを成し遂げさせて下さいます。荒野に水を湧かせ、花を咲かせられるのは神の業です。私達も日頃から無から有を引き出す信仰にチャレンジしましょう。

ヨセフが逆境の最悪の中から、周囲の人々の祝福の管になれたのは、み言葉が繰り返しているように”神がヨセフと共におられた” からです。神と共に歩むから祝福がついてきます。そして、神はヨセフ自らを祝福なさることを決してお忘れにならず、エジプトの宰相として14年間、エジプトや隣接諸国の飢餓問題と戦い、解決します。神は嘆きを踊りに変えられる恵み豊かなお方です。

「悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり、貧しいようであるが、多くの人を富ませ、何も持たないようであるが、すべての物を持っている。」からです。(第2コリント6:10)

前原利夫



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新しいノーム: Newnorm

イエス様はここで旧約の律法を古い教えと呼び、ご自身の教え、即ち福音を新しい教えと呼ばれた。ぶどう酒とその皮袋の原則のように、古いぶどう酒は古い皮袋に入れ、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきと教えられた。同じように、ご自分の新しい教えは、古い律法という皮袋に入れるべきでなく、また古い律法という教えを、新しい教えの皮袋に入れるべきでもないと教えられた。

即ち、律法の時代の考え方と、福音の時代のものの考え方に大きな違いがあると指摘された。マタイの福音書5〜7章の山上の説教の内容を読めば、その意味がはっきりと理解されましょう。また、翻ってこの教えは、新時代にはその時代が要求するもので対応せよとも解釈できよう。

iphone/ipadの出現:ここ10年、私たちはiPhone, iPadの活用が膨大な上昇率で拡大し、手のひらのアイホーンで何でも出来る時代となりつつあります。以前こんな冗談を言ったものです、”私の小切手を Fax するから、貰っていいよ”、と。今は ID泥棒、バーチャル・バンキングでウカウカこんな冗談は禁物です。

スマホーンのIT時代に対応できない我ら高齢者、或いはITを避けている者は益々ついていけない時代になりました。コロナウイルス・パンデミックと重なり、ITの活用範囲は拡散し、新ノームのチャレンジと対応していかねばなりません。

これまで要求されなかったものが日常要求されるものとなりました。コンピューターが嫌だから、学びたくない等と言えない時代です。その様な言い訳は自分が取り残される時代、リーダーシップがないリーダーです。時代とともに新ノームが創造されていく、変化に対する対応がいつの時代にもリーダーの素質です。

新ノーム・Newnorm:この意味はこれまで普通でなかったものが普通になってきたことをいう。ロックダウで昼間何時間も家にいることが普通になった。それで以前よりも多く聖書を読むようになった。
アメリカ人はお金を節約するようになった。これらは新ノーム一例です。教会としては礼拝の持ち方、諸集会の持ち方が新しくなりました。3月の暮れからライブ礼拝、祈祷会もズームで再開するようになり、教会にとって新しい試みで、メッセージも賛美も奉仕者もライブでビデオで流れ、間違いも、言い訳もできません。

それからズームの活用も新ノームとなり、私はかろうじてズームを二ヶ月前から学びだしました。今はズームの時代、礼拝堂がなくても、一人一人が賛美し、メッセージも好きなところで録音され、編集者が各部分を巧みにつなぎ合せ、編集して礼拝が作りあげられるという便利な礼拝形式です。今は、多くの教会の礼拝形式はズームを介していると言う。

新礼拝媒体:会社はズーム媒体を会合や会議に取り入れ大いに用いている。私達は先月から祈祷会はズームで開き、10人前後の参加のお顔がスクリーンに現れる。教会にわざわざ行かなくても、勉強室、どこででも祈祷会に参加出来ます。多くの時間が節約出来ます。このような便利で、非常時の技術の恩恵はまさに福音の武器でありましょう。GVICには5人のズーム・グループがいて、私達を助けて下さいます。

黒澤姉、鈴木兄(俊)、キム明子姉、河野姉、そうして 榊原姉(結婚されて松本姉)。
5人の皆様に感謝申しあげます。

世代の交代: 私達は世代の交代は単に年齢的交代と考えてはいけません。それは時代に対応できない、新時代のニーズに応えられない事とも言えましょう。新ノームを果たせないではリーダーシップの責任を果たせないからです。新しいぶどう酒には相応しい皮袋があるのです。

私達が新時代の新ノームについていけない時、それは新時代の世代を喜び迎え入れ、自らは静かに道を譲るべきでしょう。私達はモーセがヨシュアに引き継いだ時、ダビデ王がソロモンに引き継いだ時、祝福をもって新世代に道を譲り、静かにバトンタッチをした姿をみたい。

ズームの新星と共に、さらに新しい皮袋も準備しなければと、神様は世代交代の道をも示しておられるのでありましょう。

前原利夫



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8月号は戸羽正一兄のお証しを紹介致します。大きな深い困難の中からついに神様と出会う体験は感動的です。もし、このような困難や悲しみが貴方や私が経験したら、果たして神様を信じていたであろうか、いや神様を呪い、教会を呪い、信仰を嘲笑っていたのではなかろうかと思わされます。

私達前原家は戸羽兄が教会に来られる前から存じ上げていたご夫妻でした。それは、娘の愛子が、天にお帰りになられた尚子奥様からピアノのレッスンを受けていたからです。当時はまだGVIC は初めていませんでしたが、やがてご夫妻をお誘いするようになりました。暫くして奥様が亡くなられ、戸羽さんも手術を受けられたと聞き、お見舞いに参じました。二度目の病院訪問のときは同兄が全身動けずベットに横たわっていたあの光景はショックで私の脳裏から消える事はありまません。どうぞ、祈りつつお読み下さい。前原利夫

証:「主に委ね、勝利への道」 戸羽正一

COVID-19の 蔓延の為 他人との接触を避けて過ごす毎日、余裕の時間を利用して、聖書を読みました. 特にインスピレーションの湧く詩篇を朗読しています。私がこのGVIC教会を訪ねたのはピアニストだった亡妻が未だ元気でいた頃の14年前のことです。其れ以前の数年の間、すでに、彼女の腎臓は悪くなっており、透析を続けていましたが、体力がなくなり、移植が唯一の救う方法でした。然し、U.S.国内では、マッチする腎臓を得ることがほぼ不可能なため、移植を他国に求め、やっと、フイリピンで、マッチする腎臓をお金で買える事になったのです。

2007年の12月初旬に、入院しましたが、数時間後、昏睡状態で手術室から出て来ました。正常な意識に戻らないまま、急に、死を知らされたのです。驚き、呆然として、病院の地下部屋のモルグの一角に、ミクロの個体となった亡骸を抱きかかえて、唯々、号泣する自分でした。

彼女の沖縄の親戚と共に火葬と葬儀を現地で済ませ、LOS ANGELESに、単身で戻ったのは、翌年の2008年の1月末でした。暫くは何も手につかず、無気力なままの毎日でしたが、これを機会に長年勤めたTOYOTA(TMS)から退職を計画する内、今度は、自分の健康管理に注意するべく決心しましたが、自分の右腕に“痺れ”を感じ、主治医に神経外科医を紹介してもらい、首の MRIの断層写真で診断の結果、2008年の8月末に、ついに、外科手術をすることに決心します。

2時間の手術を終えて病室へ移動しましたが、その日の午前0時を回った頃、目が覚め、自分の両手の指先が曲がり、両脚が動かなくなっていたのに、仰天し、看護婦に叫び続けました。担当医者が事後のオープン手術を行ったところ、不適切な手術処理の為、両脚が動かなくなっていたのです。2度までも悲劇的運命に落されるとは想像をするさえできませんでした。自分の余命もその後、最長5年までなのではと、絶望感に苛まれる日々でした。

「わたしは山に向かって目を上げる。我が助けはどこから、来るだろうか、我が助けは 天と地を造られた主からくる」詩篇121篇1&2(口語訳)

その後、前原牧師に導かれ、2009年に2人の友人達と共に、GVICで洗礼を受けました。

「主によって喜びをなせ、主はあなたの心の願いをかなえてくださる」詩篇37−4節

「貴方の道を主に、委ねよ、主を信頼せよ。主が成し遂げてくださる」 同−5

その後、IP細胞(STEM CELL)を使った手術・治療などを ドイツ・DUSELDORFFやPANAMA-CITY(USでは未許可)に求めました。現在は毎日自宅で介護人のヘルプで1時間、全身ストレッチ体操とウェイトリフチングを励行しています。主は、12年前の絶望の崖淵から救いの手を差し伸べて下さっています。現在も生きる勇気と、そのた為の糧を下さっています。

更に、財政的な自由の恵みも下さいました。信頼できる人柄の フィリピン人の兄弟組の介護人と巡り会わせ、長期直接契約で、自宅に共に起居してくれていますので、家族のように大切にしています。趣味は、読書、CLASSIC MUSICや Los Angeles Opera定期公演購読者。こうして、聖書に親しみ、自らの道を主に求め、「主イエスに身を委ね」続けています。そうすれば「主が成し遂げてくださる」のだと思います。 



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「あなたのみ言葉はいかにわがあごに甘いことでしょう。密にまさってわが口に甘いのです。詩篇119:103」

2020年も後半に入りました。一年は前半よりも後半が足が早く、ハロウィーン、感謝祭、クリスマスとあっという間に2020年が過ぎてしまいます。ボヤボヤしていますと、私達はあれも、これもしなかったと後悔するに違いありません。そこで、折返しで聖書通読を自らに言い聞かせ最後までやり抜きましょう。み言葉は口に甘しで、食べれば食べるほどエネルギー補給源です(み言葉には糖尿の心配はありません)。

私達は3月後半から教会で礼拝ができず、他の集会もお休みです。しかし、自宅を礼拝の場として用いる事を努めて来ました。貴方の家も私の家も House of Worship. です。多くの方々が家で礼拝し、祈り、聖書をしっかり読み、霊的成長に励んでおられます。素晴らしいこと、主を崇めます!

ある方は6月の中旬頃には既に2度も通読されたと証されました。ある方は初めて聖書を通読したと、その喜びを証されました。コロナ騒動で様々な活動、外出等が封じ込まれましたが、私達の霊は決して封じ込まれません。寧ろ、今の時を用いよとある様に、この不便な時に、主に 更に近付き、み言葉に親しみ、励まされています。

今号はお二人の方をご紹介して、み言葉を喜び、楽しんでおられるご様子を伺います;

戸羽正一兄:
[STAY HOME],[CLEAN HANDS],[KEEP SOCIAL DISTANCING]のモットーをなるべく守り、朝、昼、夜寝る前にイエスに1日元気に過ごされる恵に感謝の祈りを捧げています。毎日「新約聖書」を最低1時間は読み、おかげで、今日まで、「ガラテヤ人」への手紙」を終わり、今日から「エペソ人への手紙」の”’キリスト・イエスの使徒パウロからキリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ”から始めているところです。又、僕の趣味の読書も続けており、最近では「司馬遼太郎の作品」が好きで、彼の「対談集」を読んでいます。毎日両脚の運動とマサージもかかせません。すべて神の恵みという他はないと信じます。すべてに感謝です。」

戸羽さんはお身体が不自由ですが、忠実に礼拝に出席、またこの様にみ言葉に親しんでおられるから感謝です。(戸羽さんの投稿は数ヶ月前の原稿です)。

Potts.敏子姉:
「どうして? こうでなかったのに!満足されてなかったわたしに、そんな時、癒してくれるのは聖書だけ!と読み始めて気がついたときは、もうすでに癒やされていました 感謝。
喜んで受け入れるが根がないので、しばらくは信じていても、試練が来ると信仰から離れてしまう人たちのこと・・・、根がなかったのはこの私でした。

聖書の中で教えていただいた事に 嬉しくてなりませんでした。神様から祈りの重さ、知恵、そして真理を悟る力を頂いたのです。神様は私に信仰の強さ、試練に勝つ力をみ言葉を通して教えて下さったのです。神様って魔法使いみたい。 平安で生きていける最高の恵みを頂いたこと感謝 感謝! 感謝は尽きません、ハレルヤ!」

ご存知の様にPotts さんは昨年の9月に洗礼を受けられたばかりですが、み言葉のチャレンジを受けて、それに従い、信仰の軌道修正をなさっておられます。感謝です。

もし、皆さんの中で、聖書通読にチャレンジをされてない方、或いは、遅れておられるならば、まだまだ先は長いです。是非、今日からみ言葉を開き、神の言葉の甘さをお味わい下さい。
預言者エレミヤの言葉:「わたしはみ言葉を与えられて、それを食べました。

み言葉は、わたしに喜びとなり、心の楽しみとなりました。、、。(エレミヤ15:16)」

 

前原利夫



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今、TVや新聞で頻繁に使われる言葉は Pandemic と Coronavirus(新型コロナウイルス感染症)でありましょう。後者は世界をアメリカを襲い、私達が今戦っているビールスです。

Pandemic とは「世界的な疫病の大流行」という意味で、 Epidemic、「伝染病」の派生語である。私達にとってこのような世界の国々を揺さぶるパンデミックは初体験です。大統領が”見えない敵”と呼ぶコロナウイルスは2001年の9/11の惨事に勝ると言う政治家もいる。

全米の市民の100,000人 を犠牲にし、全米を自宅に閉じ込め、ビジネスを閉鎖し、1930年の経済恐慌に次ぐ4000万以上の失業者を出している。パンデミックは文字通り恐ろしい。

今号はインターネットの情報を活用して、近年の主なパンデミックをご紹介し、聖書の中からパンデミックの記事を考えてみる。

歴史のパンでミック

1)Spanish Flu, 1918-1920:スペイン・インフルエンザはヨーロッパ、アメリカ、或いは中国から世界に蔓延したと言われる(不明のようです)。1918年から1920年の間にこのインフルエンザが4波に分かれて襲い5000万から1億の死者を出したと言われる。それは当時の人口の3人のうち1人にあたる。アメリカでは50万から85万人、日本でも39万人の犠牲者を出している。当時は第一次世界大戦中、このパンデミックの影響で終戦を早めたと言われる。

2)Asian Flu, 1957 – 1958:アジヤ・インフルエンザは1957年、東アジア、シンガポール、香港から発生し、アメリカの海岸線の町々に感染者がでたと言われる。世界中で、110万の犠牲者、アメリカでは11万の死者を出している。

3) Hong Kong Flu、1968:ホンコン・インフルエンザは65歳以上の高齢者や持病持ちの病人が感染し易く、世界中で110万人の犠牲者を出している。幸いに、アメリカでは猛威を振るわなかったようだ。

その他、Swine Flu 、豚インフルエンザが2009年に流行したがアメリカでは12,000人の犠牲者を出している。私達は毎年冬になると風邪が押し寄せ何万人という死者を出していることを忘れてはならない。例に漏れず、高齢者が多く病死している。

聖書のパンデミック:聖書のパンデミック

1) エジプトを襲う畜疫:出エジプト記9章
参照。モーセはこれまで4つの奇跡を持つてパロに立ち向かうが、彼は心を頑なにして神の民を去らせようとはしない。それで、神はエジプトの地を疫病で襲う、「主の手はもっとも激しい疫病をもって、野にいるあなたの家畜、すなわち馬、ろば、らくだ、牛、羊の上にのぞむであろう。」とエジプトの地は畜疫のパンデミックに襲われる。

2) ダビデ政権に襲う疫病:サムエル記下
24章参照ダビデはイスラエルの軍事力のために人口調査を実行します。側近のヨアブも大反対で、それはダビデが神の力に頼ろうとしない不信仰からでた人口調査であったからだ。その不信仰のゆえに、預言者ガデはダビデに3つの災いから一つを選択するように言い渡す。

(1)国に3年の飢饉

(2)3ヶ月敵の前に逃げ回る

(3)国に3日間疫病がくる

ダビデは(3)の3日間の疫病を選択するが、この疫病は強力で7万人の死者を出すまで猛威を振るった。ダビデ王はこのために悔い改めるのであるが、7万人の魂は再び戻ることはなかった。

3)再臨の前兆として疫病と飢饉:
ルカ21章参照。イエス様は再臨の前兆として偽預言者、自然現象の異変、疫病や飢饉が発生することを予告されました。その中で、現在の類似のパンでミックは疫病です。それはエジプトを襲った家畜のみならず、すべからく地球を襲う恐ろしい疫病です。

このように、人間の歴史はノアの大洪水のパンデミックから始まり、主が再び帰られるまでに、訪れを知らされず私たちを襲うことであろう。ノアの時代の人々は暴虐に満ち、エジプトの蓄疫は王の不従順、ダビデの不信仰で70,000人の市民が犠牲となった。

いずれも神から離れた道を歩む者への神の懲らしめである。これから来る疫病や飢饉、他のパンデミックが私達に臨むであろう、それに耐ええる信仰を今から養わなければなりません。イエス様は警告しています。

「だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。 このことをわきまえているがよい。家の主人は、盗賊がいつごろ来るかわかっているなら、目をさましていて、自分の家に押し入ることを許さないであろう」、マタイ24:42,43

今、コロナウイルスのワクチン開発を政府・民間企業が共同で開発に力を注いでいるが、早ければ今年中に完成するとの予想である。しかしワクチン開発は時間がかかると言われる。

因みに、アメリカで35年前にHIVが発生し、世界で3200万人の犠牲者を出したが、今尚ワクチンの開発は完成されてないとのこと。

主よ、この病める世界、痛める私たちを癒して下さい!  

前原利夫



ゴスペルベンチャーインターナショナル教会
Gospel Venture International Church (GVIC)
17811 South Western Avenue, Gardena, CA 90248 U.S.A.
www.gospelventure.com/


先日、TVを観ようと リモコンのボタンを押すと、数本の星条旗をバックに頭を下げ、大きな声で祈っている人がいました(議員さん?)。祈りの一部に、 「わが神よ、わたしはあなたにむかって顔を上げるのを恥じて、赤面します。

われわれの不義は積もって頭よりも高くなり、われわれのとがは重なって天に達したからです。われわれの先祖の日から今日まで、われわれは大いなるとがを負い、、、、。」 (エズラ記9章参照)。

私は彼が祈り終わる前に、これはエズラ記の祈りだと思い心に留めていました。そして、この祈りを聞きながら、現在、世界を巻き込み、揺さぶり15万人以上の人命を犠牲にし(4/18)、何千万という失業者を出し、社会、経済を混乱に陥れ収束の付かない現状を、この祈りの視点から見るように考えさせられました。コロナウイルスは一体何者か、なぜ、このような”見えない敵”が世界的に猛威を奮っているのか、多くの謎であります。

単に、中国から発生した伝染病だけでいいものか。

エズラの祈り:エズラはイスラエルのヒルキア王の息子(か孫)にあたり、バビロンの捕囚となり、何年かしてペルシャ王アルタシャスタの下にエルサレムに帰還した一人であった。彼は祭司で学者であって、エルサレムの城壁の崩れた様、そこに住む同胞が神から離れた生活に大きな罪を感じ、神の前に国家的懺悔の祈りを捧げます。エズラの祈りは”われわれの不義、われわれのとが”と国民の神に対する罪、不義です。それゆえに、神から見放され、イスラエルの誇りであり、国の中心であるエルサレムの城壁も神殿も破壊されているのです。

ダビデの罪:このエズラの祈りを思う時に、ダビデがまだ政権にあった時の大きな罪を思い起させられます。ダビデはイスラエルの軍事力強化のため人口調査を実行します。(サムエル記下24章参照)。側近のヨアブも大反対で、それはダビデが神の力に頼ろうとしない不信仰からでたプロジェクトであったからだ。その不信仰のゆえに、預言者ガデはダビデに3つの災いから一つを選択するように言い渡す。(1)国に3年の飢饉、(2)3ヶ月敵の前に逃げ回る、(3)国に3日間疫病がくる。

ダビデは(3)の3日間の疫病を選択するが、この疫病は強力で7万人の死者を出すまで猛威を奮った。ダビデ王はこのために悔い改めるのでありますが、7万人の魂は再び戻ることはない。毎朝、ニューヨークの知事はコロナウイルスの犠牲者を報告するが、厳しい面持ちである。夕刻、大統領は国全体の犠牲、失業者、経済刺激策を発表するが、厳しい面持ちである。

神の癒しを乞う!:今回のこの大混乱は人間から発生したことは間違いない。人間の不注意、準備不足、等色々な要因があると思う。人間の高慢さ、何でも出来るという自惚れへの警告ではないか。科学万能、現代医学の賞賛等私達は多くを誇っている。

しかし、今回の新型ウイルスに対しては全く対策術がない。たかが小さなウイルス、ひねり潰すことができるような小さなものだが、世界最高の医学を備えたアメリカ陣営でも対応できない。世界が小さな細菌に翻弄されている始末だ。私達は医学界に大きな敬意と賞賛を送るものですが、一方人間の知識の限界、理性の限界をここでも知らされている。人間の力で何でもできるという高慢さを捨て、神の偉大さを謙虚に受けとめていきたいものである。

祭壇を築く:ダビデは自分の犯した罪を認めて悔い改め、預言者ガデの指示のようにアラウナという人物の土地を買い上げ、そこに祭壇を築き、燔祭を捧げて国民の癒しを祈ります。ダビデはアラウナの土地を買わずに一時借りることもできたが、敢えて費用をかけずに犠牲を捧げない、と土地、燔祭の代価を払う。これはダビデの悔い改めの真剣さである。神はダビデの祈りを受け入れ、災いはイスラエルの上にとまりました。

この非常時の時、やがてトンネルの先の灯りが見えようとしている今、私達は世界、中国、日本、アメリカ、地域の町々のために祈りましょう。また、悔い改めの心で、教会のために、家族のために、自分のために祈ろうではありませんか。

主は全ての栄光を受けるにふさわしいお方です。私たちをお癒し下さい!

前原利夫



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「なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着るからである。」第一コリント15:53

人々はイエスが死から復活された事を信じる事が出来ません。死から甦ることは不可能と考えるのですね。自然の営みは 、枯れて死んでいく草木も春になると勢いよく土を破り、弾けるように芽を吹き出します。

1)「不合理なるゆえに我信ず」:

教父テルトリアヌスは(160ー220?)はキリストの教えの集合体を”新約聖書”と最初に名付けた教父だそうです。彼は 「不合理なるゆえに我信ず。神の子が誕生した。

それは恥ずべきことのゆえに、恥としない。神の子が死んだ。そして葬られ復活した。それは愚かなることのゆえに全く信ずべきことなり。それは不可能であるがゆえに確かなことである。」 と、言われた。

信仰には不可解な点がなければ信じるに値しないというのです。不合理、不条理、不可解があって信仰の対象になるというわけですね。

2)エジソン博士の復活信仰:

トーマスエジソンが英国のある新聞社から”来世”について意見を求められました、その時にエジソンはこう答えています:「死後における生命の継続は、私のかわいい信仰です。

この信仰は、単に私の心の要求ではない。私の来世信仰を迷信であるかのように証明しようとしてくれる人を、ありがたいと思いません。」と記者へ返事したそうです。

エジソン博士はイエス様の甦り、復活、そして、死後の後に新しい世界がある事を信じていたのです。あの様な偉大な科学者が、人間理性の限界を知り、愚かに見えるキリストの十字架の救いと、復活をしっかりと信じていたのです。

「十字架の言は、滅びゆく者には愚かであるが、救いにあずかるわたしたちには、神の力である。」 (第1コリント1:18)

3)罪の赦しと義とせられる、十字架と復活:

ヨハネの福音書23:19は「すべてが終わった。」 と十字架上のイエス様は叫び、やがて息を引きとる寸前の祈りです。その意味は神の子の使命であった人類の罪の贖いがこの十字架上で完成したということです。

パウロは 「主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、甦へらされたのである。」と記録しています(ローマ書4:25)。十字架は罪の赦しであり、復活を信じるにことにより、全ての罪が赦され、正しい者、義とされるとは神の約束です。それは罪の死から希望に生きるという意味であります。

イエス様の復活は死の刺を捥ぎ取り、死に勝利したというだけではありません。それはアブラハムが信じて義とされたという、神の義認の裏付けでもありましょう。十字架の死は罪の赦し、復活は信仰の義認を証しします。十字架と復活は表裏一体、切り離す事はできません。

4)私達の永遠の希望、復活:

復活は私達の永遠の希望です。キリスト教の葬式と他の宗教の葬式との大きな違いは、前者は賛美に満たされて明るく、一方後者は暗く、悲しい雰囲気です。その違いは復活を信じるキリスト教とそれがない他の宗教の違いです。復活がなければ死は最後であり、その向こうには何も存在しません。復活は永遠の世界へと広がっていきます。

ですからクリスチャンの家族の死は一時的な地上のお別れであり、いつかまた再会できるという大きな希望のゆえに、自然、葬式が悲しみを乗り越えて希望に包まれるわけです。お葬式の式次第に’” In celebration of,,,,”とあるのは偶然ではありません。その人の死を悼むよりも、その人の生涯が祝い、やがて来る再会の希望を期待します。

イエス様はマルタに言われました;「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとえ死んでも生きる。」(ヨハネの福音書11:25)

Happy Easter!

前原利夫



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