ヨハネの福音書2章は当時の結婚式の様子を伝え、若い2人の門出を祝福する4福音書の中でもここだけの記録である。

他の福音書の中には賢い花嫁、愚かな花嫁が取り上げられ、再臨に備えた警告的な譬である。

しかしここの2章の結婚式はカナと言う町、ガリラヤ湖から西に13、4KMに位置する小さな田舎で開かれた唯一麗しい結婚式の宴会である。

イエス様、弟子たちが招かれゲストになっているが、どのような関係であったかはわからない。ある伝説によれば、ここの花婿はヨハネ自身であるという説であります。

ヨハネの母はイエスの母マリヤの姉サロメであリ、イエスの一行は親戚の結婚式に出席していたことになりましょう。ーここは伝説ですー 

イエス様がカナまで足を運ばれたと言うことは、あの忙しい伝道活動の中にあって、この結婚式がどんなに大事なイベントであったかを示しています。若者にとつて結婚式が超大事である事は言うまでもないが、神のご計画をこの結婚式を舞台に顕そうとされた最初のみ業がここにあります。

神の業、奇跡はメシヤであることを示すのです。その時が来たのである。「わたしの時はまだきていません」(4節)は神の定めた時であって、例えイエスの母であっても、人間の定めた時ではないのです。イエスには天の父からのみ業を示された通りに実行される時があるのです。

この田舎の町でイエスは公生涯最初の奇跡を行い、メシヤとしての名声を上げる。しかし、この大事な歴史的な布告を中央のエルサレムを避け、ガリラヤ湖の繁華街を避けたのは心に留めて置くべきです。ついでに、12弟子のナタナエルはカナの出身地であります。

 ユダヤ人の家庭には清めのために6つの水がめが常備してあったようです。普通は手足を洗い清める水が入っていたのです。ここにヨハネが6つの水がめを持ち出したのは、イエスがこれから葡萄酒を満たすという展開のためだけではないように思われます。

この6つの水がめを水でいっぱい満たしなさいと、イエスは命じました。イエスが敢えて水で満たせと命じたのは、正真正銘の水であったということです。これが最高の葡萄酒に変わります。

ユダヤ人は数字の7を完全数と呼び、6は不完全を表すと言われる。数字の12も完全数ですね。ここで、宴会場でゲストに差し出す葡萄酒が不足するというハップニングが起こり、恥ずかしいことであり、不足、準備不足、不完全を意味します。当時の祝宴は1週間も続いたそうです。

若い2人の最良の日が準備不足で近辺の恥になってはなりません。その不足、不完全さを補い、私達のそれを補い、イエスが完全なお方であり、神の業は完全であるという働きを現します。当時の葡萄酒は葡萄酒2と水3の割合でできた水で薄めた葡萄酒が一般的であったと言われ、ここの祝宴でも同じような質の葡萄酒であったでしょう。

イエス様が水から葡萄酒に変えたものは100%純粋の葡萄酒でした。イエス様の奇跡は宴会の不完全さを完成されたものにしたばかりか、宴会のレベルをグーッと引き上げたのであります。

お陰で彼らは満足し「どんな人でも、初めによいぶどう酒を出して、酔いがまわったころにわるいものを出すものだ。それだのに、あなたがたは、よいぶどう酒を今までとっておかれました。」 神の働きは最善のものへ、最高のものへと私たちを祝福して下さる。神は私たちを祝福しながら、ご自分も栄光を受けられるのです。

神の働きの完全さは人間が関わる余地がないという点にもあります。母マリヤの願いを敢えて退け、また料理頭は新しい葡萄酒がどこから来たかわからない状態でした。料理頭は婚宴が始まる前から、どれだけの量が必要か、またどれだけの量が残っているかと、常に目を見張っているはずです。

宴会の総指揮管も危機を助けた新しい葡萄酒がどこからきたかわからなかった。しかし、母や水を汲んだ僕たちは知っていた、これはイエスの働きの証人が必要であるからです。証人はこの奇跡を至るところで証しをしたことでありましょう。

神の私たちに対する働きが完全であることを期待しましょう。主はさらに恵みを増し加え、完全な祝福を以って満たそうと準備しておられる。空っぽの器、空っぽの水瓶を主の前に差し出しましょう。私たち自身も、空っぽになって、聖霊様の満たしを期待しましょう。

「料理がしらは、ぶどう酒になった水をなめてみたが、それがどこからきたか知らなかったので、」 ヨハネ2:9
               
前原利夫



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「すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように.こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」

この個所は以前から、チャレンジを受けていたみ言葉で 、エペソ書の学びを深める良い機会となりました。限られた紙面で、先月8月号に前半を取り上げ、①パウロの祈る姿、②1章の祈り、3章の祈り、③愛の広さを紹介いたしました。

今号は①愛の長さ、②愛の高さ、③愛の深さを続けてご紹介致します.人知を超えた神の愛を模索するは、み言葉をもってする外ないでありましょう。

1)キリストの愛の長さ:キリストの愛が罪人も善人も、或いは信じる者も信じない者も両極端をカバーするように大きな広さであれば、それに比例して、その愛の長さも測ることができないほど長いです。

マタイの福音書18章の1万タラントの負債ある者が赦された神の愛は無限に長い神の愛を物語ります。

ペテロがイエス様にお尋ねしました、「兄弟がわたしに対して罪を犯したら、いくたび赦さねばなりませんか」と。イエス様は7倍を70倍までにせよ、との返事です。

これは単に掛け算九九ではありませまん。490回赦せとは永遠に赦しなさいという意味ですね、

私達の長い、長い罪のリストを没にして、罪を罰しないのであります。罪を490回犯しても、その罪の長いリストを取消して下さるのです。

イエス様はそのお話の中で、王様が1万タラントの負債を抱えた人の借金を赦した、と話します.一万タラントとは大変膨大な金額です。1タラントは6000デナリ.1万タラントは10,000 x 6,000 です。

この数字は返済できない数字です、6千万デナリ、だから王様もその僕を赦したと言いました。イエス様の愛の長さはここに見られます、無限の罪の赦し、返せないほどの借金、それを帳消しするのであります。赦されない罪、それを綺麗さっぱり赦される。

皆さん、1デナリは1日分の日給に等しいです。デナリで貴方の生涯を考えてみましょう。人の一生が50年働くとすると、生涯でおおよそ13,000デナリ稼ぐことになります。

すると10,000タラント稼ぐのに4615人の人たちが50年かけて稼がないと返済できない負債です.神はそのような無限、天文学的な負債、罪を赦される長い長いといえる愛をお示し下さいました。

2)キリストの愛の高さ詩篇に神の愛の高さ深さを表すのに、天と地、また雲にまで及ぶと表します。私達も比較にならない事や差があり過ぎることを“雲泥の差“と言いますね。雲は天を表し、泥は低地を表します。神の愛は天高く、それに比べると人の愛は低地のように低いのです。ダビデは詩篇でこのように称えます。

「主よ。あなたの恵みは天にあり、あなたの真実は雲にまで及びます。あなたの義は高くそびえる山のようで、あなたのさばきは深い海のようです。あなたは人や獣を栄えさせてくださいます。

主よ。神よ。あなたの恵みは、なんと尊いことでしょう。人の子らは御翼の陰に身を避けます。彼らはあなたの家の豊かさを心ゆくまで飲むでしょう。あなたの楽しみの流れを、あなたは彼らに飲ませなさいます。」詩篇36篇5~8節

3)キリストの愛の深さ:「あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。あなたは、咎を赦し、ご自分のものである残りの者のために、そむきの罪を見過ごされ、怒りをいつまでも持ち続けず、いつくしみを喜ばれるからです。

もう一度、私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ入れてください。」 ミカ書 7章18~19節

海の底が深いように、その深いところに私たちの罪を投げ込んで、足で踏みつけて、海の底から浮き上がってこないように、沈めるのであります。これほどに神の愛は深いのであります。太平洋の深海の底に深く深く捨てられていくのです。

皆さん、一旦赦された罪は2度と再び地上に浮かび上がるようなことはありません。神の愛はそのように深いのであります。インターネットによると、200メートル以上の深さを深海と呼び、100メートルの深さは人間が潜れない限界という。

世界で一番深い海は10,000メートルで、それは飛行機が飛んでいる高さと同じくらいと言う。神様が私達の咎も罪も海の深みに投げ込まれると、それはこのような深海でありましょう。神の赦しは完璧で安心です。

キリストの愛は巨大な立方体の入れ物のように、私たちを包み込みます。大空のような広がった風呂敷で私たちを包み込みます。

「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」ヨハネ15章13節

前原利夫



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私たちは6月から8月まで、この3ヶ月間エペソ人への手紙を学んでいます。タカヨシ師が同書をテキストとして選び、日語部と英語部が同じ御言葉を学び、同じ方向に向かって歩み、成長することを願っての選択でした。

今回は奉仕にキム明子姉、タカヨシ師、小生、3人がこのチャレンジを受けることにし、明子姉が4回、タカヨシ師が6回、小生が3回の割り当てを受けました。

私は6、7月と、パウロの祈りの個所にぶっつかり、特に3章14−21節のパウロの祈りに大きなチャレンジを受けました。この個所は以前から、チャレンジを受けていたみ言葉で 、学びを深める良い機会となりました。限られた紙面ですから、今号と9月号に学びを纏めました。

1)パウロの祈る姿:3章14、15節はパウロの祈る姿です。ローマの獄中ですが膝をかがめ、天地の全ての父である唯一の父にエペソの信徒のために祈るのである。ユダヤ人の祈るポーズは天を仰ぎ、両手を上げて祈る、パウロは逆に獄中のコンクリートにしがみつくように祈り、場所に構わず主の臨在に打たれた祈る姿である。それも、エペソの信徒が神の愛を更に深く理解するようにとの励ましの祈りである。

2) 1章の祈り、3章の祈り:この二つの祈りには共通点があり、それはエペソ教会の信徒たちが神の業を深く知るように、1章ではそのために「知恵の霊」と「啓示の霊」を受けるようにと祈リます。3章では愛の広さ、長さ、高さ、そしてその深さを理解できるように祈れとの祈りです。パウロの祈りはエペソの教会に大事なことは神の力を知ること、栄光の富を知ること、そしてキリスの愛の大きさを知ることです。神のみ業を深く知ることは神に更に近付けよということであり、私たちの教会にも同じ祈りがなければなりません。

3)18、19節の「愛の広さ、長さ、高さ、その深さ」:
同節のみ言葉は「すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」。

一体この愛は誰の愛かと疑問を持つ人は多かろう。ある人は神の愛、教会の愛、救いの業、十字架の愛、或いはキリストの愛、という色々な見方があるようです。私はキリストの愛であると直感的に理解していました。19節は「また人知をはるかに超えたキリストの愛を知って、」とありますから、この愛の広さ、長さ、高さ、深さは人知をはるかに超えた愛であり、キリストの愛しかないと解釈できよう。
それでは、愛の広さ、長さ、高さ、深さを順序よく取り上げて、今号は「愛の広さ」をご紹介し、「長さ、高さ、深さ」は来月に取り上げます。

4)「愛の広さ」とは:キリストの愛は両極端を抱擁する力、愛です。母親が赤ちゃんを愛する愛、愛されているかどうわからなのに愛する愛です.キリストの愛は罪人であれ善人であれ、その隔たりを超えて愛する愛です.敵であっても味方であっても、その両極端を愛する幅の広い愛です。

ローマ書5:8「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」

ローマ書5:10「もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、、」

イエス様は、山上の教えで、こう語られました。マタイの福音書 5:43以降〜隣人を愛し敵を憎めと、これが旧約聖書の教えであった、しかし、イエス様は敵を愛し、あなたを迫害するもののために、祈りなさい、天の父は悪い者の上にも良い者の上にも太陽をのぼらせておられる。兄弟だけに挨拶することは特別なことではない、このようなことは異邦人でもしている。自分を愛する者を愛したからとて、特別なことではないと教えられました。

イエス様の愛は端っこから端っこで、上から下まで、その愛の抱擁力は広い、両極端、上下の隔たりを超えて広い愛を持って貴方を私を愛していておられる。

世界の悪い者も良い者も、愛の風呂敷で包み込むような懐の広い愛です。極限の愛の広さです。もし、天の父の子供になりたければ、天の父のようになりなさい、とイエス様はおっしゃる。続く、、

前原利夫



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私達は6月から8月までエペソ人への手紙1章から6章までを礼拝メッセージとして学んでいます。エペソ書は結構難しい箇所もあり、特に前半は後半よりも更なる学びが要求されます。学者によってもテーマの取り方も違うが、1章10節が太極的な視点から好ましいと思われます。

「時がついに満ちて、実現します。いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。」

時はついにきました。イエス様が栄光を受けるべき時、十字架の時がきました。この世の権力者は与えられた権力,武力によつて国民を一つにまとめ上げようとしますが、イエス様は十字架の贖い、十字架の愛によって世界を一つに集められます。世の権力と救い主の権力はここに違いがあります。

今号はあまり聞きなれない言葉「キリストの高挙」と言うテーマを考えてみます。そして、私たちもキリストの高挙に与る聖徒であるという特権を再認識しましょう。

1)私たちは聖徒?:パウロの書簡では宛先の教会の信徒を聖徒と呼んでいます。エペソの教会や問題だらけのコリントの教会にも聖徒と呼んでいます。私たちは “Saint” と聞くだけで、雲の上の人のようで、この世の私たちには相応しい呼び方とは思いません。しかし、何故、パウロが敢えて聖徒と名付けたかは“彼らがイエス様と結びついていたからだ“、とタカヨシ先生は解釈されました。まさにその通り、貴方がイエス様と繋がっていたら、貴方は聖徒です。この聖徒たる身分には大きな大きな報いがやってきます。神様からの約束です。

2)キリストの高挙:高挙(コウキョ)という日本語は辞書にも見つかりません。キリスト教用語で高く掲られる、高く引き上げられる“ という意味です。イエス様が十字架の死から復活し天の父の右に座されたことです。1章20,21節にキリストの高挙の聖書的意味があります。

「神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すベての名の上に高く置かれました。」

イエス様は十字架上で死に、葬られ、3日目に復活され、そして父のみ元に昇られ、この世界とこれから来るべき世界を一つに集められるお方です。死者、腐れ果てるべきである体が、生きた者となり、世界を治められるようになられたことは、谷底から無限の天の高さまで引き上げられたのであります。イエス様も弟子たちも十字架の苦難を“栄光“ と呼んでおられたのはこの高挙が予定されていたからです。

パウロは1章で「栄光の富」を深く知るように祈れと勧めます。それはキリストの高挙であり、「神の絶大な力を知るように祈れ」と勧めるのは、神は無から天地を創造される力、キリストの高挙を成し遂げる偉大な力を知るようにとの祈りです。それは単に、知識としての祈りではなく、やがてすべての聖徒がキリストの高挙に与る からであります。

3)高挙に与る聖徒たち:パウロが1章で祈れ、祈れと勧めるのは、キリストの高挙に私たちが与る事を知るためです。知識は大事ですが、自ら体験することと比べることのできないものです。特に、栄光の富に永遠に与る光栄に浴するわけですから、私たちは聖徒である事を誇り、神の絶大な力と愛が、かつて罪人であった者に与えられる特権、栄光を深く知りたく思います。私たちが天国に招かれるということは、イエス様を信じたからですが、その背後に神の無限の愛と力が働いておられるからです。イエス様も十字架を前にして、心騒ぐ弟子たちにこう約束されました。

 

「あなたがたは心を騒がしてはなりません。 神を信じ、またわたしを信じなさい。 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」 ヨハネの福音書 14章1~3節

 

聖徒たち、貴方も私も初穂であるイエス様に倣い、やがて栄光の富を受ける時がきます! イエス様はその準備のさきがけになられました。

 

前原利夫



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「彼は雇人であって、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いであって、わたしの羊を知り、わたしの羊もまた、わたしを知っている。」 ヨハネの福音書10章13, 14節

ヨハネの福音書の特徴は弟子であるヨハネがイエス様のことをこの方はこういうお方であると“ズバリ“宣言していることです。冒頭の1章に「すべてのものは、これによってできた。」と創造主であると宣言し、「見よ、神の子羊」とメシヤであと証言している。

イエスご自身は「わたしは世の光である」「わたしは良い羊飼いである」と人類の救い主であると宣言された。冒頭の「よい羊飼い」について考えてみましょう。

1)偽の羊飼い:同10章は良い羊飼いのキャラクターと並行して偽りの羊飼いにつても紙面を割いています。また偽の羊飼いを雇われ羊飼い、盗人、強盗とも呼ばれています。

彼らは正門から入らずに、牧柵を越えて羊の群れの中に入って来ます。羊の群は教会です。正門はイエスご自身ですから、そこは完璧に守られて崩されることはありません。

彼らは雇われ兵士のように戦場で自分の命が危なくなると、守ることを止めて逃げ去ります。牧柵が野原にある時は、羊飼いは野獣に襲われるとこもある。真の羊飼いは羊の群れに命を張る羊飼いです。わたしは良い羊飼いとはそのようなお方です。

2)よい羊飼い:12、14節に「わたしは良い羊飼い」とある“良い“ は“カロス“というギリシャ語 だそうです。同義語で“アガソス“ という言葉がありますが、前者は魅力的、力があり、誠実なという意味合いがあるという。

後者は単に道徳的なという意味があり、前者とは開きのある言葉と言われている。イエスはカロス的な羊飼いですね。羊飼いは羊をできる範囲内で守ればいいのであって、命まで張る必要は義務付けられてないはずだ。

あれは良いポリスマンだと評価されても、市民の命を守るために自分の命を張るであろうか。しかし、イエス様は「良い羊飼いは、羊のために命を捨てる」とおっしゃる。雇い 羊飼いは狼が来ると逃げるが、良い羊飼いは命を投げ出して狼と戦い守るのである。アモス書3章12節に良い羊が獣と戦う姿を描いています。

   「主はこう仰せられる。『羊飼いが、雄獅子の口から、二本の足、あるいは耳たぶを返すように、、』。」

羊が今獅子に喰われ、その2本の足は既に口の中で噛まれている時、良い羊飼いはその獅子に向かって戦いを挑み、自分の羊の足を取り戻すのであります。取り出された獅子は、羊飼いに向かい襲いかかってくるであろう。良い羊飼いはそれも覚悟で我が羊を守るのであります。

イエス様は私たちを悪魔の餌食から守るために、自らをあの十字架の上に釘付けにし、血を流して私たちを救われたのです。良い羊飼いは十字架のイエス・キリストのお姿です。

3)よい羊、羊の群れ:私達はこの良い羊飼いに囲まれ、守られた羊の群れであります。その羊の群れは、門を知り、牧柵を知り、羊飼いの声をよく知っている。門を間違えると偽りの羊飼いに惑わされ、牧柵の外に迷い出ると強盗羊飼いに殺され、声を聞き違えると取り返しのきかない教えに惑わされてしまう。

良い羊が偽りの羊飼いにつかないように、先頭の良い羊飼いに従っていきましょう。この方に従えば救われ、いつまでも牧草にありついて満たされるからです。

前原利夫



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「主を尋ね求めよ、義を求めよ、柔和を求めよ」 ゼパニヤ書2:3

ゼパニヤ書は3章から成る短い予言書で、ハガイ書、ゼカリヤ書、マラキ書が続き旧約聖書は結びます。あまり知られない予言書で、多くの人が開くのに手間どるほどに読まれない書物です。ゼパニヤはヒゼキヤ王の五代目にあたり、ユダの王ヨシャの時代の預言者でした.

ヨシャ王(Josiah, BC 640-609)はソロモン王より16代後、歴史的な宗教改革を成し、幼少の頃に王座につき信仰厚い側近によって育てられ、もっとも敬虔な王として尊敬されました。その彼の業績は列王紀下22−24章、歴代誌下34章に記録されている。

ところが、有終の美は飾れず、晩年、エジプト軍を迎え撃ち、敗北し戦死した。その頃からユダの国運は急に傾いてきたと言われている。多分その頃であろうか、ゼパニヤはこれからのユダ、エルサレムを案じて、民が不信仰に至らないように強力な警告を発する。

その内容たるは終末的な警告で、現代の私たちが備えをすべき警告ではなかろうか(是非、一読下さい)。

ゼパニヤは3つのことを求めよ、さもなくば神の裁きから逃れることはできないと警告する。終末になると、我々もこの3つが求められるであろうと想定して、今から励もうではありませんか.

1「主を求める」:神を求めずして信仰はない、イエス・キリストを求めずして、救いはありません。神は私達を探し求める方ですが、私達はそれに応えなければなりません。

そして、神を主として受け入れ、真から従って行くことです.「主よ、主よ、」と声だけ張り上げては、真に従っているとは言えません.私達の信仰が実も質もない信仰かどうかを深く吟味したいものです。

イエス様を「主」と呼ぶとき、それは日常生活の中で、主のみ声に聞き従うことを意味します。例えば、貴方の ご主人の言いつけを実行し、会社のボスの命令をきちんと実行するように、目に見えない、声が聞こえなくても、主のお声は忠実に守らなければなりません。

それは堅苦しいく思われるが、主を求めるとは、主を信じ、信じたものに従っていくことを意味する。預言者ゼパニヤは「主は良いことも、悪いこともしない」という人を罰する、と警告します。

神は中途半端な方ではありません、主は従うものを祝福し、不従順で信じない者を裁かれる.イエス様が再び来られる時、主は私達を裁きに来られるのです.

2「義を求めよ」:義を求めなさいとは、単に良いことを求め、行いなさいということではありません.良いこととは、神の視点から良いことで、人間の視点らではない.マタイの6章は「まず神の国と神の義を求めなさい」とあります。

神を求めることを優先にすれば、私達の求める必要なものは神ご自身が準備してくださる、との約束です.人間の社会では必要な物を先に受けて、それから神を求める宗教ごとに進むのである.神が全知全脳であるが故に、神を優先するのである。パ

ウロはこの世と妥協してはならないと警告する、しかし私たちの思いは、この世の喜び、楽しみ等に憧れます.私達は神の品性を備えて磨きを受け、御国に入る者に相応しいものとして整えられるのです.神の義を求めることは、神を求めることによって学んで行くことです.義を求めるとは神への姿勢です.

3「柔和を求めよ」:終末に求めなければならない第三番目は「柔和」謙遜です.義が神への姿勢であれば、柔和は隣人への姿勢でしょう。

柔和はイエス様の品性の一つで、ご自身を「わたしは柔和で心のへりくだった者」であると言われた。山上の説教では柔和な者は地を受け継ぐ、即ちこの地上の祝福を頂くものであると祝福されました。パウロも御霊の実の中に柔和を入れて、神の国を継ぐ者の必修品性としている。

終末の時には良い実か悪い実か、羊か山羊かに見分けられ、区別される。世の終わりには御使いたちが来て、義人のうちから悪人をえりわける。主を正しく求めることは、この方が道であり、真理であり、命であるからです。

「主の怒りの日が、まだあなたがたを襲わないうちに。主の定めを行うこの国のすべてのへりくだる者よ。主を尋ね求めよ。義を求めよ。柔和を求めよ。そうすれば、主の怒りの日にかくまわれるかもしれない。」
ゼパニヤ書2章2節

前原利夫



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議員ヨセフとイエスの体:

イエスの体を十字架の上から引き取り方を願いでた人はヨセフという人物で、聖書は彼についてほんの少し語るのみです。また、主の甦りの大感動の陰で、主の体の葬りの関心は薄れたのです。

マルコの福音書15章はヨセフはイスラエルの議会の議員であったと紹介し、人違いがないようにと、ヨセフはアリマタヤという町の出身であったと加えている。

ヨセフは、イスラエルの地位の高い政治家でまた金持ちであった。彼はユダヤ人をはばかって秘かに弟子になったとあり、サンヒドリンの議員たちと宗教上の違いで波立たせたくなかったことでしょう。自分の中に仕舞い込んでいた方が、自分の信仰を保持するにいいと考えたに違いない。

しかし、彼は神の国を待ち望んでいる弟子として、真剣な信仰者であった。その信仰をイエスの中に信じていたのです。総督ピラトはヨセフの申し出を許可した。

イエスの体を洗うヨセフ:

もしピラトがヨセフに許可を与えなかったら、一体誰がイエスの体を引き下ろし、どこに葬ったことでしょうか。ヨセフは70人の議員の一人であり、律法を守る人物としてユダヤ社会では大変信頼された政治家であった。

ピラトに弟子や一般市民が願い出ても、勿論、許可はなかったであろう。イエスの体の取り下げは、どこの墓に葬るかは、埋葬後のセキュリティー管理対策に大事である。

マタイの最後の章はユダヤ人の指導者たちは、弟子たちが盗み出した、と共謀し嘘のニュースを流すことになったが、このようなことから守らなければならない。ピラトが知り信頼できる人、信頼できる 安全な墓に葬られねばならない。議員のヨセフはまだ使ってない新しい墓を所有していた。ピラトにとって、どれもこれもヨセフが最適で安全であると判断したに違いない。

ここでも、神の絶妙な二人の巡り合わせ、タイミングを見たいものです。 ヨセフは流れ出
る涙を拭きながら、我が師イエスの体を十字架から下しました、数人が手伝い、体が痛まないように、ゆっくり、ゆっくりと下ろしました。ヨセフの手に、着物にイエスの流した血がしたたりつきました。

ヨセフはそれを拭きさろうともせず、これこそ私の罪の贖いの証拠、と涙で感激したに違いない。弟子たちにとって、イエスの十字架の血は“宝血“(ホウケツ)、贖いの血、宝の血潮です。それを文字通り目撃し、直接携わった弟子ヨセフの生涯の最高の特権としたことでありましょう。

彼はイエスの体を墓に納めるために亜麻布を買ってきた。そして、イエスを墓に納め、墓の入り口に石をころがしておいた。

異色の二人の弟子、議員ヨセフと指導者ニコデモ:

ヨハネの福音書19章はヨセフとニコデモの二人がイエスの葬りに関わったと記している。とても興味深い記録である。

ニコデモの登場は同書の3章とも関連づける事が目的であろうが、他の福音書と並べて読むとそれ以上のことが見出せます。上記でヨセフは亜麻布を買い求めてきたが、葬りの香油を買っていません。

ヨセフが意図したら買える人です。ところが、それを買って葬りの準備をしたのはニコデモです。ニコデモは香油(没薬、沈香)百斤を持ってきた。

イエスは香油が塗られて、そして亜麻布で巻かれて墓に納められたのです。これがユダヤ人の習慣です。ここで、ヨセフとニコデモは事前にそれぞれの役割を相談していたと考えることができよう。イエス様は同3章で、ニコデモのことを「あなたはイスラエルの教師」と呼んでいるが、彼はパリサイ人で、一説ではサンヒドリの議員であったと言われている。

二人はお互いによく知っている中である。ヨセフもニコデモも、ここ大事な時に登場し、11弟子や他の弟子たちができない働きを任され、神に大いに用いられました。

もし、ヨセフやニコデモが弟子の一人でなく、単に政治家の一人としてイエスの体の取り扱いをしていたら、神の救いの業が政治家、未信者の働きで推し進められた一面ありと歴史に残ったことであろう。

しかし、神の働きは、それがどんな働きであろとも、弟子の手によって進められ、完成されなければならない。弟子であればこそ、ヨセフもニコデモも信仰と愛でイエスの体を労り、真心から葬ることができたのです。神はそれに応えて、三日後にイエスを甦らせました。

私達も小さな弟子と自分で思っても、イエス様はこのような私たちでも喜んでくれます。小さい者は小さいなりに、主は用いいて下さいます。主が貴方に声をかける時、“主よ、私を用いいて下さい“と
返事を期待されておられます。

Happy Easter!

前原利夫



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 「・・彼らは何をしているのか、わからずに いるのです」 ルカの福音書23章34節

イースター・サンデーも近付きました、今年は4月4日に迎えます。2 月17日から受難節(レント)が始まり3月27日までの40日間になります。四旬節(40)とも呼ばれ、イエス様の苦難を覚え、共に主の苦しみを味わう時です。3月28日はパーム・サンデーを迎えイエス様のエルサレム入城です。その日から受難週迎え金曜日にあの贖いの十字架にかかりました。三日後、日曜日(4/4) に死から甦られれました。イエスは十字架上で“7つの祈リ“を祈られ、人類の救いを完成されました。今号は「、、彼らは何をしているのか、わからずにいるのです。」と、主が祈られた祈りをご一緒に考えてみましょう。

1. 「、、彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」、ルカ23:34:

このイエス様の祈りほど、他人の罪や悪をまるで存在しなかったかのように応答している言葉や祈りはないでありましょう。この応答は十字架の上で苦しみ、痛み、血を流し、死を目前にした時に発られた祈りす、また今、現在目の前で拷問、苦しめている人たちに憐れみの言葉をかけられているのです。

この祈りの言外には「もし、あなたがたが状況を知っていたら、このわたしをこのようには取り扱わなかったであろう」というニューアンスがあり、深い慰めを誘うものである。

私達もかつては無知無力、情報不足から多くの過ちを犯し、罪に至らせたこともありました。そのような状況下にあっては、イエス様は大目に見て下さるのであります。パウロは「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。」と、罪のままの私たちを愛していて下さると教える。

ローマ5:8。無知が罪を生みます。無関心も罪を生みます。不信仰は信仰を拒絶することだから罪となります。私達は知るべき事を知らなければなりません。イエス様はこのような私たちを愛し、十字架の救いに招き入れて下さったのです。

2. 「さて、兄弟たちよ、あなたがたは知らずにあのような事をしたのであり、あなたがたの指導者たちとても同様であったことは、わたしにわかっている。」使徒行伝3:17

この言葉はペテロがイエスを十字架の処刑と断罪した指導者と群衆に語られた言葉であります。ペテロは彼らに向かい、あなたがたはピラトがイエスを赦そうとしたが、聖なる正しい方を十字架にかけた、と彼らの罪を責めます。

しかし、その行為は“知らずにした“事であると、慰めている。その中にはあなた方の律法学者、指導者達も無知であった。律法学者は旧約聖書からメシヤの到来を知るべきであったはず、しかし知るべき彼らも無知のために大きな罪を犯してしまった。指導者、国民に預言者たちが遣わされていたはずですが、彼らはこのような人たちも殺してしまった。それも無益なこと、無知の罪はいつまで赦されるであろうか。

3. 「そして、ひざまずいて、大声で叫んだ、『主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい。』こう言って、眠りについた。」使徒行伝7:60。

ステパノの長いメッセージの後の最後の祈りです。あの長いメッセージを迫害の中に支えた霊力はどこから来たのであろうか。

その力はここの祈りの中にあろう。自分を石で撃ち殺している群衆に、主よ、天上のイエスを呼んで、赦しの執り成しを捧げるのです。ステパノは天を見上げ、イエス様が天の父の右に立っておられるのをご覧になった。通常、イエス様は父の右に座っておられる、ここでは“立っておられる“。なぜでしょうか、瞑想しましょう。

受難節を迎え、イザヤ書の53章、マタイの福音書26, 27章、また他の福音書の苦難の記録を読み、私達の罪のために砕かれた苦難のイエスを心にとめましょう。苦難の深さは私達の罪の深さではありませんか。

前原利夫



ゴスペルベンチャーインターナショナル教会
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四福音書はそれぞれ特徴がありイエス伝を語っている。マタイの福音書は「王」としてイエスを描き、マルコは「人の子」、ルカは「メシヤ・救い主」、そしてヨハネは「神の子」として描いている。

四福音書の共通のテーマはイエスは救い主であり、神であられ、受肉して人類の罪の贖いのために十字架にかかり死に、そして三日目に復活されたと記録している。新約聖書全体はイエスの救いは唯一であり、唯一の信仰のモデルであり、この方をとうしてのみ天国に行けると証言している。イエスは救い、信仰、御国への道である。

 1) 「この人による以外に救いはない」使徒行伝4:12

この言葉はペテロとヨハネが大祭司の一族、律法学者、役人、イスラエルの指導者の前で恐れもなく宣言した言葉である。二人は生まれながらの足のきかない男を宮で癒した。その癒しはナザレ人イエス・キリストの名前で本来の足に完全に戻しました。

癒された男の奇跡は、イエスを信じる多くの人々を興し、イエスの名前がエルサレム中に広がり始めた。使徒達がイエスの復活の話をすると5000人の大勢の人達が信じた。その前に3000人の群衆がイエスを信じているから、ペンテコステ以来短時間で8000人の新弟子がエルサレムに満ち溢れた。

従来のユダヤ教の指導者たちがこの新宗教に恐れをなした。彼らは弟子達を捕え、投獄、処刑、迫害へと伸ばして行った。

このようなアンチ・キリスト教の環境でペテロやヨハネがこの人以外に救いはない、私たちを救う方はこの人以外に天下の誰にも与えられてないと正面きってチャレンジした。弟子達は迫害の波に乗るかのように唯一の救いの福音を伝えて進んだ行った。

2)信仰の導き手であり、また唯一の完成者である、ヘブル人への手紙12:2

イエス様は救い主、また同時にその救いを完成された唯一のモデルとなられた。イエス様の足跡を踏み歩ことは不可能ですが、私たちを前後から助けて共に歩んで下さるお方です。

天から遠く離れておられるのではなく、日々の生活の中に生きて、共に歩み、働いて下さるお方です。だからこのモデルに聞き従うことが可能です。

イエス様は恥をも厭わず十字架を忍び通したとあります、それは父なる神の右のみ座に座することが約束されていたからです。その光栄に預かるには十字架の苦しみでさえも取るに足りない苦しみでした。

私達が信仰を持つ事は安心立命を求めてではありません。この地上には多くの苦難、困難、また迫害が必ず襲って来るものです。しかし、やがて来るべき世界で受けるべき報酬、祝福は私達のイマージネイションをはるかに超えるものでありましょう。

3)唯一の道、唯一の真理、唯一の命である、ヨハネの福音書14:6

イエスの名声が高まり、また一方ユダヤ人達の陰謀も深くなってきた頃である。イエスは弟子達とガリラヤ湖の北ピリポ・カイザリヤの地方におられた時、イエスは弟子達に「人々は人の子を誰と言っているか」と尋ねられた。

弟子達はバプテスマのヨハネ、エリヤ、あるいは預言者の一人であると答えました。ペテロは「あなたこそ生ける神の子キリストです」とお答えになられた。

ペテロの告白はもっともである。おおよそ3年半イエスと寝起きし、神の子の生き様、愛、奇跡の業を日々目撃してきました。この人以外に救いはない、この人以外に生ける神のキリストはいないのである。

イエスキリスは私達を救い、導き、天の父の家に道案内をして下さる唯一のお方です。 私達はやがて御国に案内を受け、永遠に主の栄光の中に生き続けます。

ですから、選択を間違えては一生どころか、永遠の不覚、取り返しができません。唯一無二の天地の創造者、全人類の救い主は、神が人となられたナザレのイエス、大工の倅であります。

前原利夫



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「神の世界を見る!」創世記15章5節

「そして、彼を外に連れ出して仰せられた。『さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。』さらに仰せられた。『あなたの子孫はこのようになる。』」

2020年は全世界が自分の小さな世界に閉じ込められた年であった。それが国や州からの命令であろうと自宅という世界が活動の場となった。自粛命令の下に教会も閉鎖、ビジネスも”Essential “以外は在宅勤務、かなり解放されても、今もレストラン等のビジネスがロックダウン中である。

これらのビジネスが倒産に追いやられるのは当然だ。このような社会・生活環境の中では物事が消極的、否定的となり、前向きの発想がもぎ取られてしまう。また、現実的に前向きの計画が難しい。

アブラハムはビジョンを失いかけていた:

しかし、私たちはアメリカ市民33万人以上の命を奪い取ったコロナウイルスにいつまでも恐れてはならない。この悲劇の中でも、その束縛、閉じこもった小さな世界から、神様の声を聞き、神の世界に出て行かなければならない。

神はアブラハムを召して、大きなビションを与えました(創世記12章)。人間にとって神のビジョン達成は不可能としか思われません。100才のアブラハム、10才違いの石女のサラの間に子供ができる、そしてその根から世界に子孫が星のように増え広がる、このビジョンを信じる人間はこの世にいるであろうか。アブラハムは迷った、本当か、いや無理だ、約束を失いかけていたに違いない。

彼にはエリエゼルという信頼できる僕がいた。アブラハムはこの僕に相続させようと目論んだ、その時です、神はアブラハムを外に呼び出して

「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。そして、あなたの子孫はこのようになる」と、アブラハムの約束、信仰を回復したのです。アブラハムが義と認められたのはこの時である。

神の世界を見る:

神は実物教育の専門家であられる。アブラハムに夜空に輝く無数の星を見せて奮起させた。アブラハムは夜空の星をこれまで何度も見ていたであろう。

住まいの天幕を一歩出れば、天の河、天から降るような星の群れが手に取るように近い。しかし、神様が星を数えよと言われた時から、アブラハムの星を見る目は変わった。空の星を一つ一つ数えて、自分の懐に大事にしまったに違いない。

ついでにアブラハムの曾孫に当たるヨセフの夢に出る星も子供(兄弟たち)を指している(創世記37章)。これまでの星は神の被造物、今見る夜空の星は自分の子供達だ。アブラハムは毎晩夜空の星を数えて、ビジョン達成がいつであろうかと楽しんだに違いない。

私たちも外に出ましょう、神の声に耳を傾けましょう。そして、天を見上げ、そこに輝く星の群れを数えるロマンを楽しみましょう。神の世界を眺めよう。小さな束縛された家から、この生活環境から神の世界に出ましょう。神様はアブラハムに上のみ言葉を13章、15章、そして22章で表現を変えて繰り返している。

そして、イサクには26章、ヤコブには28章で約束を繰り返している。それは、神を信じる者が、神の世界を見る、神の大きな世界観で生きよということでありましょう。天の星のように、地のちりのように、海の砂のような無限な数、広さ、宇宙大のスケールの世界観、発想において、神に似るようにと教えておられる。

無限の星の中に、ちりの中に、砂のなかに、神の無限の力がある。神様は私たちが小さく生きることを望んでおられるでしょうか。大胆に神様を信じて倣うことではないでしょうか。神様はご自身のイメージを私たちが反映し、引き継いでいくことを望んでおられるでしょう。

イエス様はガリラヤの田舎で育ちましたが、その働き、発想はいつも世界的、グローバルを軸にした行動でした。イエス様は人類の救いのために誕生し、弟子たちを訓練して世界宣教に遣わされ、私たち一人一人に全世界に出て行き、福音を伝えよと命じておられる。イエス様に倣い私たちも小さな我が家から神の世界に出ましょう。

2021年は恐れず神の世界、新しいビジョンを求めて進もうではありませんか。私たちの教会も新しいビジョンに立ち上がるよう祈ります‼

Happy New Year!

前原利夫



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