~救いの証 3~

 アメリカでの新しい生活が始まり私は環境の違いに戸惑いながらも学生生活を過ごしていた。日系2世の父はいつもにこやかで優しいとしかたとえようのない人で生涯家族を大切にし、私の事も深い愛情をもって育ててくれました。一つ難をいえば宗教に関しては仏教にやや傾いていたことぐらいでした。

学校と自宅を往復するだけの毎日だった私にある時母が広告で見つけたと言って日系混声合唱団というコーラスグループがありそれに参加してみたら?という母の言葉に私もすぐ同意してその週末からメンバーにさせてもらいました。当時は私が最年少でしたが何人かのお友達もできて週1回の練習日を私は心待ちにするようになりました。

その合唱団にはとても声の大きいそして素晴らしい歌声のお兄さんがいてもちろんリーダーとしてメンバーを統一されていました。その方は後年牧師になられました。

安藤英世先生です。メンバーのなかに中村さんというご夫妻がいらして奥様の幸子夫人は大熱心なクリスチャンでした。ある時「今度の日曜日何してる?」と夫人から聞かれ、うっかり「何もしていません」と答えてしまった私はその週の日曜から幸子夫人の送迎付きで教会に通う事となりました。

今思えば教会に導いて下さった幸子夫人には感謝しかありません。しかし当時の私は日本語礼拝でもなかなか馴染めず毎週日曜がやってくると「どうしてこういう事になってしまったのか?」と自分に問いかけ聖書を読むこともしませんでした。

教会に行きだした私を母は喜んでいたみたいですがあれこれいう事はなくただ必ず「今日の教会はどうだった?」と私に問いかけ、何を聞かれても礼拝後の交わりで頂いたお菓子が美味しかった話しかしない馬鹿娘を目の前にして「それでも楽しかったのなら良かったね」と笑っていました。

きっと母はいつかの神様のタイミングで私の心に光が差し込む事を確信していたのだと今になって思います。求めれば必ず答えが返ってくる、、そのような事にも気付くことなくフワフワした気持ちで通っていた教会もやがて勉強がとても大変な時期に差し掛かった事を理由に私はまた離れていきました。

そしてそれからやがて大人になって再び教会のドアーを開けるまではてしなく長い年月がかかりました。しかし私のみならず仏教に傾いていた父までがクリスチャンとなる日が後年訪れることは神知るのみ、すでにその時決められていた救いの道でした。   

 西原ジュリー

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