Fairest Lord JesusFairest Lord Jesus

「なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。」コロサイ1:16

キリストの美と徳を声高に称えるこの素晴らしい歌詞は、私たちの心を賛美に、そして「美しい救い主」に導きます。すべての美の源であり本質であるイエス。そのイエスと自然を見事に対比させたこの歌詞に、私たちの心は神への畏怖の思いで満たされ、私たちの救い主は、神のあらゆる創造物にも、天使にも勝る存在であると知るのです。

この讃美歌の起源は不詳で、12世紀、聖地への過酷な旅を続けるドイツ人十字軍戦士たちによって歌われたという説があります。また、ジョン・フスの信奉者たち、1620年、血みどろの対抗宗教改革粛清の中でボヘミアから逃げ出したモラビア人たちが発祥という説もあります。『イエス きみはいとうるわし』は、彼らが落ち着いた先(現ポーランドの一部)に住む敬虔な農民たちが始めた民謡賛美というのです。

父なる神の栄光を私たちに表してくださる公正な神のひとり子。この賛美の歌詞は、彼に対する信仰と喜びにあふれ、何世紀もの長きにわたり、クリスチャンを祝福してきたのです。

峯岸麻子

ヨハネ1:1、3、14、5:23、20:31、ピリピ2:9-11、コロサイ1:13、15、2:9、へブル1:2、3参照
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September 22, 2017, Kenneth Osbeck,.
Published by Kregel Publications,Grand Rapids, MI
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ゴスペルベンチャーインターナショナル教会
Gospel Venture International Church (GVIC)
17811 South Western Avenue, Gardena, CA 90248 U.S.A. Tel.(310) 527-6112
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渡米後、最終的に導かれた教会は、LAダウンタウンにあるメガチャーチで、信徒3,000人中、日本人は私が2人目という教会でした。そこでも、すべて神様が備えて下さっていたので、恵まれた素晴らしい教会生活が始まりました。

毎週、毎週、「来週は、どんなメッセージが語られるのだろう?」とすごく楽しみで、いつも期待でいっぱいの礼拝でした。本当に教会に行くのがとても楽しくて、次第に家庭集会や平日の礼拝にも行き始めました。

 そんなある日、その教会のホームページを見ていたとき、驚いたことに、約1,300の説教がアップロードされているのを見つけました。それは、創立以来、過去7年間の聖日の主題説教と平日礼拝の講解説教などでしたが、その時は、本当に宝物を見つけたように、すごく嬉しかったです。それは、毎週楽しみにしていた説教が、一気に1,300も見つかったからでした。

その日から、私は、それらの説教をiPodで毎日約5時間、3年の間、聞き続けました。特に講解説教は、1節1節丁寧に解き明かされるので、御言葉の深い解釈を学ぶ良い機会となりました。ローマ書10章17節に「信仰は聞くことから始まる」とありますが、この御言葉を聞く時を通して、私も少しずつ神様のことや信仰について知って行くようになりました。

また、この教会には、クリスチャンが学ぶための多くのプログラムが準備されていたのでで、私は「弟子訓練」、「創造論」、「祈り」、「聖霊」、「癒し」など様々なコースの学びを終えました。

当時は、学生だったので比較的、時間の余裕があり、このような信仰生活が可能でしたけど、当時の私にそのような環境を与えて下さった神様に心から感謝しています。

そして、この教会で学んだことは、その後、私がBIOLAの大学院に進学し、神学や宣教学を学ぶ際に、本当に大きな助けになりました。

川口朋子 


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「・・・ダビデは言った、『主よ、どうぞアヒトベルの計略を愚かなものにしてください』」。 サムエル記下15章31節

最近、ダビデ王に興味が増し、サムエル記を何度も繰り課して読んでいます。読むたびにダビデの人柄、神の僕としてまた王として、多く学びます。それ以上に、ダビデに対す神の取り扱い、厳しさや憐れみ深い事を教えられます。ダビデは祈りの人でした。

それは、あの詩篇を読むと、彼の祈りに感動せずにはおられません。ダビデは神の恵みに先導されて、100戦連勝、武将として国を治めます。しかし、ダビデは戦う前に、何度もこの戦いに出るべきか、避けるべきかを祈り求めます。感情に走らず、略奪に走らず戦いに備えました。それは祈りがあるからです。ダビデの戦いは主の戦い” で、国の軍事力に頼らずに、まず神の力に信頼を置いた戦いでした。

「ある者は戦車を誇り、ある者は馬を誇る。しかしわれらは、われわれの神、主の名を誇る。」(詩篇20:7)

一言の祈り:

本号では、ダビデの数々の祈りの中で最も短い、一言の祈りを取り上げ、その祈りの力、その祈りの深さを考えてみましょう(礼拝のメッセージで取り上げたが違った角度からアプローチ)。ダビデの一言の祈りがあります;

「・・・ダビデは言った、『主よ、どうぞアヒトベルの計略を愚かなものにしてください』」。

アヒトベルは父ダビデ王に反旗を翻したアブサロムに寝返りした武将でした。彼の戦略家としての実力は神に伺いを立てるようであると周囲から最高の評価を受けていた。ダビデ王の陣営を抜け出したことは、王にとっては戦略を大きく失った事になる。

そのアヒトベルの力を、神が愚かなものにするように、無駄、無益な計略となる様に祈るのは当然である。その祈りはアヒトベルの力の裏付けでもある。

もしこの一言の祈りがなかったなら:

神はダビデの友であるホシャイをダビデ陣営に送り込んで、アヒトベルと対決を見せるが、祈りがどの様にダビデ王を守られたかを考えてみよう。先ず1)ダビデの王位継続だ。アヒトベルの戦略に負けたダビデは、アブサロム陣営に殺されていたであろう。

アヒトベルは大勢の兵士達の首を狙わず、ダビデの首だけを狙った戦法であった。アヒトベルの戦法が実行されなかったために、ダビデは王位を継続できた。

2)もし、神がこの祈りに応えられないでいたら、ソロモンの壮大なエルサレム神殿の建立は、主のみ心であった計画とはいえ、工事の遅れ、建材の確保、何か支障が起こったかもしれない。ダビデはシリヤとの外交交渉で材木、技術者をエルサレムに導入する手立てをしていた。

3)ユダ族のダビデ王を通して数々のメシヤ予言は失敗した。詩篇の中にはメシヤの受難(詩篇22篇)や、イザヤ書のメシヤ誕生、ダビデの父エッサイの根からの誕生等がある。これらの予言は無残に成就せず、大きな失敗となっていたであろう。ひいてはキリスト教の存在もなかったであろう。

この様に、ダビデが王位継続をすることは予言、救い主・メシヤ、またキリスト教誕生の視点から、歴史的に必然でなければならない。 一言の祈り、何の重みのない祈りの様に感じられても、歴史的、救済的な含みの祈りである事に目を開きたい。

歴代志下6:19に預言者エリシャの一言、二言の勝利の祈りも参照下さい。

私達はイエス様の友の身分だ:神は私たちが祈り求めない先から私たちの必要を知っておられる。また、私達の祈りは何でも求められるものは叶えられるのである、それはみ心に沿った祈りであるならばです。

ヨハネの15章でイエス様は弟子達を僕の身分から友の身分に引き上げて、父から聞いたことを皆、あなたがたに伝えたと語られた。そして、弟子達がイエス様の名によって求めるものは、父がかなえて下さると約束されました。

ここに祈りの秘訣があろう。私達は主イエス様の友であり、イエス様と同じように天の父からの尊い情報を共有していることを。これ程の身分を頂いている事を信じ、これからの祈りに確信を持って捧げようではないか。それが、どのような短い、一言の祈りであっても、、。        

前原利夫


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Jesus paid it all hymn – lyrics
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「『さあ、来たれ。論じ合おう。』と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」イザヤ1:18

この讃美歌の作詞者は、エルビナ・ホールという一信者です。キリストの福音の基本的な真理は「完了した」の一言にあり、この真理はキリスト教信仰の基礎中の基礎となっています。ホールが書いたこの歌詞は、この真理をよく語っています。

ホールがこの詩を書いたのは、ある日曜の朝、教会の聖歌隊待機部屋で牧師のジョージ・シュリックの説教を聞いている間のことでした。礼拝が終わった後、二人の間にはこんな会話が交わされたのではないでしょうか。

「先生に罪を告白します。今朝の先生のメッセージに集中していませんでした。神の愛と赦しを本当に知るには、というお話を先生が始めた途端、私たちに救いを与えるためにキリストがすでにしてくださったすべてのことを考え始めてしまったのです。そしてこの言葉が私の心に溢れ出てきて、書き留めなければならなくなってしまって」

すると牧師はオルガン奏者のジョン・グレープを呼びました。彼は「すべての主に負う」と題した楽曲を牧師に提出したばかりでした。

驚くことに、この曲がホールの歌詞にぴったり合ったのです。1874年に初めて出版されて以来、この曲は教会で、特に聖餐式で広く歌われてきています。

峯岸麻子

ローマ3:24-26、Ⅰコリント6:11、エペソ1:7-9参照

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最初の留学から帰国すると父が洗礼を受け、クリスチャンになっていました。それは、使徒16章31節に記録された聖書の約束どおりでした。神様は、長年の祖母と母の祈りに応えて下さいました。
その後、私はクリスチャンの両親とイスラエル聖地旅行に行きました。

特に印象深かったのは、ヴィア・ドロローサ、ゲッセマネの園、ガリラヤ湖、死海などでしたが、その旅を通して、私自身も受洗について考えるようになりました。考えながら、少しずつ聖書を学んでいくうちに「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。」(使徒2:38)、「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。」(マルコ15:16)、という御言葉に触れました。

そして、それらの御言葉に従い、洗礼を受けたいという思いが与えられたので、受洗に至りました。その背景には、二度目の留学先であるアメリカへの出発が迫っていたので、日本で受洗してから、クリスチャンとして旅立ちたい!という思いもありました。時間はかかりましたが、家族をはじめ、教会や学校の友人など多くの方々のお祈りと聖霊の助けにより、救いの恵みにあずかることが出来ました。

今、後悔していることは、もっと早くイエス様を信じていれば良かったということです。子供の頃から、この世の価値観ではなく神の国の価値観で生きて来ていたら、どんなに素晴らしかっただろうと思います。伝道の書12章1節に「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」とありますが、まったくその通りだと実感しています。

でも、また別の箇所に「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」(伝道の書3:11)とありますので、私の信じた時が「神様の時」だったのだと、感謝するばかりです。

    
川口朋子

聖書引用:聖書 新改訳
©1970,1978,2003 新日本聖書刊行会


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前号ではイエス様の受難を考えましたが、その受難に勝利し、甦られ、人類の罪を赦される使命を完成されました。ハレルヤ!イエス様が復活された時、その顕著な出来事を追ってみましょう。

1)週の初めに復活された:

四福音書はイエス様が復活されたのは週の初めであると記録しています。週の初めとは現在の日曜日に当たります。その前日は土曜日で安息日です。弟子達はイエス様の復活以来、礼拝は復活を記念して日曜日に行われました(使徒20:7, 第一コリント16:2)。日曜日に礼拝を開く事はユダヤ教と決別するために歴史的に大事なことでした。ユダヤ教は土曜日を安息日として礼拝しました。

もし、復活後も土曜日に礼拝していたら、ユダヤ教と区別がしにくく、また、安息日の規則に従わねばならない。イエス様は安息日を守られ、会堂で教えられましたが、復活の新時代には日曜日の礼拝が誕生したばかりのキリスト教にふさわしい礼拝の日となりました。また、ユダヤ教と決別するためにも、礼拝がシナゴグ、ユダヤ人会堂ではなく、家の教会、家庭集会がスタートしました。新時代の新しい福音伝達の革命は礼拝の日と礼拝の場所でした。

2)復活は神の直接的介入:

四福音書ともイエス様が葬られた墓の封印を解かれたのは、超自然的であると記録しています。墓の封印は大きな石がころがされてあったとあります。それに、ロマの番兵も厳重に見張っていました。その墓から主が甦られたのです、どのようにして? 墓の園に天使が現れた、白い着物を着た二人の若い者が空っぽの墓の中にいた。最も鮮明に記録している福音書はマタイの28章2節、” すると、大きな地震が起った。

それは主の使いが天から下って、そこにきて石をわきにころがし、上にすわったからである。” 。天使は大きな封印した石の上にすわっている、何という勇ましい姿、勝利のポーズではありませんか。復活は勝利、主は勝利の主です!このマタイの観察はイエス様が捕縛された時に、彼らにこう語られた事を思い出させる、”あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者は、剣で滅びる。それとも、わたしが父に願って、天の使いたちを十二軍団以上も、今つかわしていただくことができないと、あなたは思うか。”。神の直接的介入なしにイエス様の復活はあり得ない。

3)ガリラヤで復活の主と再会:

イエス様は十字架にかかる前から弟子達に、ガリラヤで会うからそこに行くように命じていました。なぜ、復活後にガリラヤで会うことが大切なんでしょうか。復活後も二つの福音書は弟子たちにガリラヤに行くように命じています。弟子たちはガリラヤ、彼らの故郷に戻りましたが、イエスの約束を信じて、そこで待っていたわけではない。

マタイの4章にイザヤの言葉が引用されています、” 、、、異邦人のガリラヤ、暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、死の地、死の陰に住んでいる人々に、光がのぼった。”。この言葉の次の聖句は、この時からイエス様は悔い改めよ、天国は近づいた、と宣べはじめられたとあります。ガリラヤで福音宣教は開幕され、そのガリラヤに最後の復活の栄光の姿を現される事をお考えになったのでしょう。また、弟子たちに先回りして、失望せる彼らを励ますためでもあろう。イエス様は私たちにとってもそういうお方です。

4)すぐ行け、急いで行け!:

マタイの福音書は他の福音書よりも、復活の様子が 躍動的です。行きなさい、すぐ行け、急いで立ち去れ、急いで行け等、この良き知らせを直ぐに弟子たちに、人々に伝える事が急務である事を伝える。復活がなければキリスト教の存在はない、十字架の救いの業の完成は復活の事実にあります。復活を伝える事は緊急時のトップ記事であり、昔なら夕刊の”号外版”です。

主の復活の報告は待ったなしです。マグダラのマリヤは復活の知らせを受けると、走って行ってペテロとヨハネに伝え、それを聞いたペテロとヨハネは一緒に走り出して墓に向かった。復活の事実を確認しようと墓に走り向かい、それを確認するとまた墓から走り出した。このような福音はかつてなかったからである!復活の感動と50日後のペンテコステ、聖霊降臨の力を受けて、弟子たちが様変わりを体験したことはご存知の通りです。

皆さん、復活のイエス様は勝利の主です、このお方以外に救いはありません。巷では多くの魂が刻々失われていきます。福音の伝達は急務です、直ぐに伝えるべき Good News !

まず、近くの家族、友人、仲間達、エルサレムから、お伝えしませんか。

イエス様は甦えられた、Happy Easter!
                   

前原利夫


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I Would Be True

「私は真実の道を選び取り、あなたのさばきを私の前に置きました」 詩篇119:30

「人から信頼され、強く、勇敢でありながら謙虚な人になりたい」と、強く願うのが、青年の常ではないでしょうか。利己主義・物質主義がはびこる今日では、その傾向が特に強いかもしれません。

「正しく清くあらまし」の歌詞は、20代前半のハワード・アーノルド・ウォルターが書いた詩で、『私の信念』という題がついています。1905年、成績優秀の称号と共にプリンストン大学を卒業したウォルターは、一年間英語を教えるために行った日本で『私の信念』を書き、故郷の母に送りました。

帰国後、ハートフォード神学校で学んだウォーターは、卒業を機にコネチカット州ハートフォード市にあるアサイラム・ヒル組合教会の補教師となります。ある日のこと、教会に来たメソジスト系の巡回伝道師であるジョセフ・ピークは『私の信念』の詩を読みます。音楽の知識は皆無であったピークでしたが、その詩に合わせたメロディーを口笛で吹いてみせたのです。

その後、イスラム教伝道のためインドに渡その後、イスラム教伝道のためインドに渡ったウォルターでしたが、劇症型のインフルエンザにより命を落とします。しかし、彼の『信念』は生き続け、その後、この賛美を歌った幾千もの人々に、神が私たちの人間性により多くの興味を持っておられることを、改めて実感させてきました。

仮に御国のために働いたとしても、神は私たちの行動よりも、心に興味をもっておられるのです。今日の社会では、どんなに清い心を持っていても、罪に陥ることは簡単です。神の真理に基づいた人生を送るためには、日々神の助けを求めなければいけません。この賛美は、このように神の助けを求めることの重要性を教えてくれるのです。

峰岸麻子

詩篇51:12、ⅠⅠコリント7:1、ピリピ4:8参照
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留学当時、私を教会に誘ってくれた友人は、信仰についてもよく話してくれました。例えば、私が「自分は正しくない者だから教会に行くには相応しくない」と言うと、彼女は「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人」(マタイ9:12)だから、そう思うほど教会に行くべきだと言ってくれました。

日本の教会の友人達も私が受洗に導かれるように祈ってくれていたようで、機会があるごとに十字架の贖いの話しをしてくれました。話しを聞きながら私は、聖書の基準で見るとき、自分には罪があるので、天国に行くのは難しいと思いました。

何故なら、聖書における罪とは「行い」だけでなく「思いによる罪」も含まれるので、例えば、心の中で人を憎んだら「殺人」(1ヨハネ3:15)、もしも、人を羨んで嫉妬したら「ねたみ」(ガラテヤ5:19~21)という罪になってしまうからでした。

でも、その友人は罪を悔い改め、イエス様を自分の救い主として信じるなら、現在・過去・未来すべての罪が赦され(使徒10:43)、天国に行くことが出来ると言いました。ただし、そのチャンスは、生きている命のあるうちしかないとも付け加えました。

その時、私は「救いのチャンス」には期限があり、死んでからでは遅いことに気付きました。だから、生かされている今!チャンスのあるうちに信仰告白をし、イエス様を自分の救い主として受け入れたい!そして、信じて、従って行きたいと思いました。

それは、ローマ書10章9、10節に「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」と記録されているからでした。

この留学時代の経験や友人を通して、私は再び教会に通い始めました。

川口朋子

聖書引用:聖書 新改訳
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今年のイースターは4月21日にあたり、その前の週は受難週です。今号はイエス様の受難、次号では復活を考えてみましょう。イエス様の苦難は ゲッセマネの園の血の汗を流す祈り、ユダの裏切り、ペテロの三度の否み、ユダヤ人による捕縛、ピラトの下での裁判、そして十字架の死で肉体的、霊的受難の極限に達します。ゲッセマネの祈りでみこころがなりますようにと祈られた主は、十字架の上で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか)と祈られた。父なる神の御心を求めながら父に見捨てられたメシヤの苦難の深さを知る術はありません。

今号のテーマはこの様な苦難をイエス様はどう乗り超えられたか、それは一言で言えるものではないが「沈黙」ではなかったか。「イエスは黙っておられた」、「イエスは一言もお答えにならなかった」、「イエスは何を言われても、ひと言もお答えにならなかった」と大祭司、総督ピラトや長老達の前に沈黙で対応された。

1) ゲッセマネの祈り:

イエス様はよくお一人で祈られました。バプテスマのヨハネがヘロデ王の下で首をはねられ殉教した時も世から静かに退き祈りました。ゲッセマネの祈りは最後の晩餐の後の祈りで、ご自分の時が目の前にあることをご存知でした。この時、3人の弟子達を同行しての祈りでした。彼等の執り成しの祈りを期待してのことであろう。

しかし、ここでもイエスの期待に応える弟子たちではありませんでした。イエス様はご自分の痛みを忘れたかの様に、弟子達を三度も励ましますが、私達のように弱い彼等でした。イエス様は血の汗を流しつつ、迎える十字架の死、罪の贖いの苦しみの中祈りました。苦難に勝利する沈黙はこのような祈りの戦い、御心を求める中から会得するものではないか。

2) 旧約聖書に立つ沈黙:

イエスの十字架はマタイの26、27章のテーマですが、他の福音書にも並行記事があるとおりです。イエス様はこの受ける苦難は当然であり、避けられない苦難である事を旧約聖書を拠り所としておられる。大祭司、律法学者、長老達を目の前に人の子は自分について書いてあるとおり去っていく、また彼等に捕縛された時、預言者たちの書いたことが成就するためであると語られた。

ご自分がイスラエルが待ち望んでいたメシヤである事をはっきりと言われた。だから、大祭司があなたは神の子キリストかと聞かれた時、イエス様は「あなたの言うとおりである」と答えられた。多くの偽証、侮り、侮辱、嘲弄に沈黙を守りながらも語るべき真実、真理については憚らない。イザヤ書53章は苦難のメシヤがひたすら沈黙することを記録しています。

3) 剣に代へて沈黙:

裏切り者のユダが大祭司を捕縛に案内した時、ペテロは大祭司に仕える僕の耳を切り落としたとあります。イエス様はその僕の耳に触れてお癒しになりました。そして「剣をとる者はみな、剣で滅びる」と戒められた。それは武力行為、たとい正当な理由であっても、剣をとる事を禁じられました。ご自分を裏切る人に、また不当に裁く宗教家や政治家に対してです。イエス様は天の父に願えば「天の使いたちを12軍団以上も、今つかわしていただくことができないと、あなたは思うか」とご自分を守る軍団がおられる事を言われた。

古代ローマ兵の1軍団兵は5,000 – 6,000兵士からなるという。剣をとる者は剣で滅びると教えられたイエス様はご自分も武力をもって裏切り、不当な裁判に応戦しまんでした。ただ沈黙を守られた。イザヤ書2:4「、、、こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて、すきとし、そのやりを打ちかえて、かまとし、国は国に向かって、つるぎをあげず、、」と、ご自分が平和の君である事を敵の中で証された。

私達はこの地上で様々な試練、予期せぬ悪口、侮り、侮辱等を受けるものです。身じかな人からは辛いものである。しっぺ返しの誘惑に負けないようにイエス様のように「一言も答えられない」沈黙の力を学びたいものです。神様は私たちが耐えられないような試練は下さらない。「イエスは言われた、『父よ、彼らをおゆるしください。彼らはなにをしているのか、わからずにいるのです。』」と十字架の上から祈られた。(ルカ23:34)

沈黙は力、勝利です!    

前原利夫


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O love that wilt not let me go.

「主は遠くから、私に現われた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。」  エレミヤ書31:3

多くの思いが注がれ、芸術的な構成で産み出されたこの讃美歌の歌詞は、本当に素晴らしいものです。これは、敬愛されていたスコットランド人牧師、ジョージ・マチソンにより書かれました。

全盲であった彼は、執筆活動を「大いなる心の苦しみが生み出す実」と表現しています。目の見えない彼は、「心の苦しみ」を通じて様々なことを思い描きながら、歌詞を紡ぎ出したのでした。

はっきりとした証拠はありませんが、この讃美は妹の結婚式に際し、マチソンが自分の過去を振り返り書いたというのが通説となっています。当時、マチソンは、大学時代に知り合った女性と婚約をしていました。

しかし、妹の結婚式直前に、マチソンの視力が遠からず完全に失われるという診断がなされました。そしてマチソンがその事実を婚約者に伝えると、彼女は「私は、全盲の牧師の奥さんにはなりたくありません」と言ったのです。

恋人に拒否されるという苦い思い出を引きずっていたマチソン。だからこそ、決して破られることのない永遠の愛を思い、このように美しい歌詞を生みだすことが出来たのかもしれません。

この地での人間としての苦しみや困難があったとしても、神の永遠の愛の内に休みましょう。この讃美の歌詞が、そのようなあなたの心の支えになりますように。

峰岸麻子

ローマ8:35-39、Ⅰジョン3:1、黙示録1:5、6参照
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