When I Survey The Wondrous Cross – Fernando Ortega

「彼らはイエスを受け取った。そして、イエスはご自分で十字架を負って『どくろの地』という場所に出て行かれた。彼らはそこでイエスを十字架につけた。イエスと一緒に、他の二人の者をそれぞれ両側に、イエスを真中にしてであった」 ヨハネ 19:17、18

真に感動的なこの賛美歌が生み出されたのは1707年、聖餐式の準備中のこと。そして同年に出版された珠玉の「聖歌・宗教歌」の中で発表されました。原語での曲名は「奇跡なる十字架を思う時」となっていますが、元々は「キリストの十字架、世界を磔刑にかけること」でした。

その歌詞には、十字架上のキリストの死にある驚くべき愛に対する作者アイザック・ワッツ個人の大きな感謝が綴られています。当時の会衆賛美は重々しい調子で詩篇を繰り返すものでしたから、個人の思いを綴ったこの歌詞は「霊ではなく人間が書いた」ものとして大論争となりました。

死にゆく救い主の姿を鮮烈かつ印象的に紡ぎだすその歌詞は当時としては稀有であり、18世紀のクリスチャンをより深い礼拝と賛美の経験に誘ったに違いありません。神学者のマシュー・アーノルドが「英語で書かれた賛美の中で最も素晴らしい」と呼んでいることも注目すべき点でしょう。

5歳でラテン語、9歳でギリシャ語を学ぶなど神童だったワッツは、成長と共に、詩篇を復唱するだけの賛美を行う英教会のスタイルに違和感を覚えるようになり「神への賛美を歌うことは天に最も近づく礼拝の一部であるが、私たちの賛美はこの世界で最悪のパフォーマンスである」という言葉を残しています。生涯を通して600を超える賛美歌を残したワッツは、今日「イギリス聖歌制作の父」として知られています。

峯岸麻子 

マタイ26:28、ルカ7:47、ローマ5:6-11、ガラテヤ6:14参照                            
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September 22, 2017, Kenneth Osbeck,
Published by Kregel Publications, Grand Rapids, MI 
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信仰の先輩方との学び、同年代の仲間との歩み、若者達との交わり…それぞれの世代の神の家族と過ごす信仰生活は私に沢山の霊的栄養を注いでくれました。

特に教会のユースパスター達と歳が近かった事もあり、色々な教会ミニストリーを同労者のような思いを持ってお手伝い出来た事、また彼ら献身者の歩みを間近にいつも見て学べていた事が、私の根無しの信仰が一気に揺るぎないものになっていった大きな要素かと思います。

また、教会での聖書講座の学びも受講し続けていく事で初めて、礼拝メッセージで聞くだけではない、聖書そのものを探り理解を深めていく信仰の歩みの基礎を身に付ける事が出来ました。

大きな教会という事もあり、多方面に働きが広がっている恵まれた環境下にありましたが、その中でもやはり賛美、音楽ミニストリーには深く関わらせて頂き、多くを学ぶ機会を与えられました。

単純に音楽の才能、技術の有無ではなく、生きた供え物としての賛美を捧げるべく霊的に整えられていかなければならない…その芯の部分をチームで一致して持ち続けられるよう、礼拝の賛美奉仕者は共に学ぶ機会を定期的に持っていました。そこで賛美の本質、賛美者としての責任に初めて触れ、練られ成長させて頂いたと思います。

また伝道目的のゴスペルクワイヤやコーラスミニストリーに関わらせて頂く中で、神様が私達に与えて下さった音楽が、そして歌詞からくるメッセージが沢山の人々の心を開かせ、主の愛を知り救いに導かれる光景に、文字通り数えきれないほど立ち会う恵みに預かりました。

これらは神様が私に音楽の賜物を与えて下さった流れで関わる事の出来たミニストリーですが、そこで私は音楽活動そのものには携わらず、グループ内の管理や活動の裏方を担当させて頂いていて、自分がそのような奉仕をとても好きである事、喜びを持って仕える事が出来る事に自分自身が気付いた時ともなりました。

「仕える」事が私に与えられた賜物!と主にあって胸を張れる…何という恵みでしょう!

黒澤倫子



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議員ヨセフとイエスの体:

イエスの体を十字架の上から引き取り方を願いでた人はヨセフという人物で、聖書は彼についてほんの少し語るのみです。また、主の甦りの大感動の陰で、主の体の葬りの関心は薄れたのです。

マルコの福音書15章はヨセフはイスラエルの議会の議員であったと紹介し、人違いがないようにと、ヨセフはアリマタヤという町の出身であったと加えている。

ヨセフは、イスラエルの地位の高い政治家でまた金持ちであった。彼はユダヤ人をはばかって秘かに弟子になったとあり、サンヒドリンの議員たちと宗教上の違いで波立たせたくなかったことでしょう。自分の中に仕舞い込んでいた方が、自分の信仰を保持するにいいと考えたに違いない。

しかし、彼は神の国を待ち望んでいる弟子として、真剣な信仰者であった。その信仰をイエスの中に信じていたのです。総督ピラトはヨセフの申し出を許可した。

イエスの体を洗うヨセフ:

もしピラトがヨセフに許可を与えなかったら、一体誰がイエスの体を引き下ろし、どこに葬ったことでしょうか。ヨセフは70人の議員の一人であり、律法を守る人物としてユダヤ社会では大変信頼された政治家であった。

ピラトに弟子や一般市民が願い出ても、勿論、許可はなかったであろう。イエスの体の取り下げは、どこの墓に葬るかは、埋葬後のセキュリティー管理対策に大事である。

マタイの最後の章はユダヤ人の指導者たちは、弟子たちが盗み出した、と共謀し嘘のニュースを流すことになったが、このようなことから守らなければならない。ピラトが知り信頼できる人、信頼できる 安全な墓に葬られねばならない。議員のヨセフはまだ使ってない新しい墓を所有していた。ピラトにとって、どれもこれもヨセフが最適で安全であると判断したに違いない。

ここでも、神の絶妙な二人の巡り合わせ、タイミングを見たいものです。 ヨセフは流れ出
る涙を拭きながら、我が師イエスの体を十字架から下しました、数人が手伝い、体が痛まないように、ゆっくり、ゆっくりと下ろしました。ヨセフの手に、着物にイエスの流した血がしたたりつきました。

ヨセフはそれを拭きさろうともせず、これこそ私の罪の贖いの証拠、と涙で感激したに違いない。弟子たちにとって、イエスの十字架の血は“宝血“(ホウケツ)、贖いの血、宝の血潮です。それを文字通り目撃し、直接携わった弟子ヨセフの生涯の最高の特権としたことでありましょう。

彼はイエスの体を墓に納めるために亜麻布を買ってきた。そして、イエスを墓に納め、墓の入り口に石をころがしておいた。

異色の二人の弟子、議員ヨセフと指導者ニコデモ:

ヨハネの福音書19章はヨセフとニコデモの二人がイエスの葬りに関わったと記している。とても興味深い記録である。

ニコデモの登場は同書の3章とも関連づける事が目的であろうが、他の福音書と並べて読むとそれ以上のことが見出せます。上記でヨセフは亜麻布を買い求めてきたが、葬りの香油を買っていません。

ヨセフが意図したら買える人です。ところが、それを買って葬りの準備をしたのはニコデモです。ニコデモは香油(没薬、沈香)百斤を持ってきた。

イエスは香油が塗られて、そして亜麻布で巻かれて墓に納められたのです。これがユダヤ人の習慣です。ここで、ヨセフとニコデモは事前にそれぞれの役割を相談していたと考えることができよう。イエス様は同3章で、ニコデモのことを「あなたはイスラエルの教師」と呼んでいるが、彼はパリサイ人で、一説ではサンヒドリの議員であったと言われている。

二人はお互いによく知っている中である。ヨセフもニコデモも、ここ大事な時に登場し、11弟子や他の弟子たちができない働きを任され、神に大いに用いられました。

もし、ヨセフやニコデモが弟子の一人でなく、単に政治家の一人としてイエスの体の取り扱いをしていたら、神の救いの業が政治家、未信者の働きで推し進められた一面ありと歴史に残ったことであろう。

しかし、神の働きは、それがどんな働きであろとも、弟子の手によって進められ、完成されなければならない。弟子であればこそ、ヨセフもニコデモも信仰と愛でイエスの体を労り、真心から葬ることができたのです。神はそれに応えて、三日後にイエスを甦らせました。

私達も小さな弟子と自分で思っても、イエス様はこのような私たちでも喜んでくれます。小さい者は小さいなりに、主は用いいて下さいます。主が貴方に声をかける時、“主よ、私を用いいて下さい“と
返事を期待されておられます。

Happy Easter!

前原利夫



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「まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」 ルカ 18:17

この賛美歌は、聡明なプリンストン神学校の教授にまつわるエピソードから生まれました。この教授は卒業式の際には、必ずこのような言葉を贈っていました。「皆さん、聖書のこと、この世界のこと、私にはまだまだ分からないことが沢山あります。しかしその中でひとつだけ確信していることがあります。

それは『主はわれを愛すると聖書は語られ。よって、われ、主を愛することを知れり』ということです。そして皆さん、私たちにはこの確信があれば十分なのです」

この賛美が、他のどの賛美よりも、子供たちに親しまれてきた曲であることは間違いないでしょう。アナ・ワーナーのシンプルな言葉が賛美歌の詩となったのは1860年のこと。以来、今日においても、アメリカ以外の国で救われたばかりの信徒が最初に習う賛美歌のひとつとなっています。 
 
この賛美歌の歌詞は、姉のスーザンと共著した本の中で完成されました(『Say and Seal』同書は今日もベストセラーとなっています)。それは、登場人物の一人、リンデン氏が死の床にあるジョニー・ファックスという子供を慰めるために読んで聞かせた詩という形で書かれています。

この詩に曲をつけたウィリアム・ブラッドリーは、当初、単純な4連しかなかった詩に、ブラッドリーは自身の手でコーラスを付け足しました。アメリカにおけるゴスペルソングの黎明期にその発展に寄与した人物の一人であり、当時の公立校および教会における児童唱歌のパイオニアとしての評価を受けています。

1862年に出版した彼の賛美集に収められたこの賛美は、すぐに大きな反響を呼ぶこととなりました。

峯岸麻子

創世記33:5、詩篇127:3、マタイ11:25、
マルコ10:16参照                              
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よちよち歩きのクリスチャンとして日本に帰国した私は、夫の次の勤務先となる栃木県で生活する事となりました。

新しい土地で人の繋がりもなく、受洗した教会からの強い勧めもあって、最初の数ヶ月は毎週東京にある教会に通いました。しかし、電車で往復数時間ずつかかるような教会生活はあっという間に疲れ果て、次第に私は教会から離れたいという思いばかりが頭に浮かぶようになりました。

海外で救われた後に日本に帰国するクリスチャン、その生存率(?)は3割に満たないと言います。聖書の種まきの例えのように、芽は出したものの、根をじっくり張って栄養をたっぷり受け取ったり、またイバラを一緒に取り除いてくれる助け手がいない種は簡単に死んでしまいます。

私も本当に危なかった…あのまま苦しい気持ちで、ただ強制的に教会に足を運んでいたら、あっという間に枯れてしまった事でしょう。少なくとも、神様がまた私を引き戻して下さるまでに相当の回り道をしていたかと思います。

しかし良いお方である主は、私にとってのベストな土壌をきちんと用意して下さっていました。

地元で集える教会を見つけたいと方針を変えた私は、ネット検索をして出てきた教会を順番に訪ねてみようと思い立ちました。そして、検索結果の最初に上がってきた教会が「峰町キリスト教会」でした。

その教会の日曜礼拝に緊張しつつ顔を出したところ、LAでの共通の知り合い、また夫の会社で働いている教会員の方、海外駐在経験のある姉妹…と、瞬く間に何かしらの繋がりがある人達を沢山紹介してもらいました。(今でこそこのような経験はクリスチャンあると分かっていますが、当時の私にはかなり衝撃で、1日にして栃木が急に身近に思える場所となりました。)

峰町キリスト教会は教会員約600人という北関東有数の大きな教会でしたが、各世代のリーダー達が沢山起され、スモールグループや各活動も大変活発な”活きた体”の教会で、芽を出したばかりの私にとっては霊的栄養たっぷりのフカフカの土壌でした。 (次回に続く)。

黒澤倫子

 「・・彼らは何をしているのか、わからずに いるのです」 ルカの福音書23章34節

イースター・サンデーも近付きました、今年は4月4日に迎えます。2 月17日から受難節(レント)が始まり3月27日までの40日間になります。四旬節(40)とも呼ばれ、イエス様の苦難を覚え、共に主の苦しみを味わう時です。3月28日はパーム・サンデーを迎えイエス様のエルサレム入城です。その日から受難週迎え金曜日にあの贖いの十字架にかかりました。三日後、日曜日(4/4) に死から甦られれました。イエスは十字架上で“7つの祈リ“を祈られ、人類の救いを完成されました。今号は「、、彼らは何をしているのか、わからずにいるのです。」と、主が祈られた祈りをご一緒に考えてみましょう。

1. 「、、彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」、ルカ23:34:

このイエス様の祈りほど、他人の罪や悪をまるで存在しなかったかのように応答している言葉や祈りはないでありましょう。この応答は十字架の上で苦しみ、痛み、血を流し、死を目前にした時に発られた祈りす、また今、現在目の前で拷問、苦しめている人たちに憐れみの言葉をかけられているのです。

この祈りの言外には「もし、あなたがたが状況を知っていたら、このわたしをこのようには取り扱わなかったであろう」というニューアンスがあり、深い慰めを誘うものである。

私達もかつては無知無力、情報不足から多くの過ちを犯し、罪に至らせたこともありました。そのような状況下にあっては、イエス様は大目に見て下さるのであります。パウロは「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。」と、罪のままの私たちを愛していて下さると教える。

ローマ5:8。無知が罪を生みます。無関心も罪を生みます。不信仰は信仰を拒絶することだから罪となります。私達は知るべき事を知らなければなりません。イエス様はこのような私たちを愛し、十字架の救いに招き入れて下さったのです。

2. 「さて、兄弟たちよ、あなたがたは知らずにあのような事をしたのであり、あなたがたの指導者たちとても同様であったことは、わたしにわかっている。」使徒行伝3:17

この言葉はペテロがイエスを十字架の処刑と断罪した指導者と群衆に語られた言葉であります。ペテロは彼らに向かい、あなたがたはピラトがイエスを赦そうとしたが、聖なる正しい方を十字架にかけた、と彼らの罪を責めます。

しかし、その行為は“知らずにした“事であると、慰めている。その中にはあなた方の律法学者、指導者達も無知であった。律法学者は旧約聖書からメシヤの到来を知るべきであったはず、しかし知るべき彼らも無知のために大きな罪を犯してしまった。指導者、国民に預言者たちが遣わされていたはずですが、彼らはこのような人たちも殺してしまった。それも無益なこと、無知の罪はいつまで赦されるであろうか。

3. 「そして、ひざまずいて、大声で叫んだ、『主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい。』こう言って、眠りについた。」使徒行伝7:60。

ステパノの長いメッセージの後の最後の祈りです。あの長いメッセージを迫害の中に支えた霊力はどこから来たのであろうか。

その力はここの祈りの中にあろう。自分を石で撃ち殺している群衆に、主よ、天上のイエスを呼んで、赦しの執り成しを捧げるのです。ステパノは天を見上げ、イエス様が天の父の右に立っておられるのをご覧になった。通常、イエス様は父の右に座っておられる、ここでは“立っておられる“。なぜでしょうか、瞑想しましょう。

受難節を迎え、イザヤ書の53章、マタイの福音書26, 27章、また他の福音書の苦難の記録を読み、私達の罪のために砕かれた苦難のイエスを心にとめましょう。苦難の深さは私達の罪の深さではありませんか。

前原利夫



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Aretha Franklin – “Walk In The Light” UNRELEASED LIVE 1987

「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」 Iヨハネ 1:7

光に歩むとは、キリストが地上におられた時のように歩むということ。すなわち、自らの行動のすべてにおいてキリストの生き様を真似て生きるということです。光に歩む時、私たちの道は輝きを帯びるのです。

その人生にはしっかりとした目的があり、愛と温かさ、そして他者の必要を満たしたいという気持ちが溢れます。愛に満ちたこの人生は、単になんとなくセンチメンタルな気持ちを持って過ごすということではなく、行動による人生を送るということです。

ところが、人生におけるこの基本的な性質を小さく捉え、聖句の中に通常とは違う「深い」真理を見いだすことや自分とは違う意見を持つ人々と議論を戦わすことに時間を費やすことに時間を使ってしまうことが間々あります。

キリストは、相手がクリスチャンか否かを問わず、他者への柔らかな愛に溢れていました。このようなキリストの愛がないなら、それはキリスト者としての証がたたない人生となり得るのです(Iコリント13:1-3)。

光に歩むことは、現在形です。日々、神様を新しく経験することです。神様の誠実なご性質、そしてこれまでの神の導きを思い出すことは、常に私たちを助けてくれます。しかし過去に受けた恵みは、主と共に歩む現在の、今日の奇跡と一緒に捉えられなければなりません。

この賛美を書いたバーナード・バートンは、イギリス人の「クエーカー教徒詩人」として知られています。彼は一介の銀行窓口職員として一生を終えましたが、その文才は当時の文学界のリーダーたちに認められていました。出版された彼の十冊の詩集から、二十ほどの詩が賛美歌になっています。

今日も「光に歩む」経験をしましょう。

峯岸麻子

詩篇36:9、ヨハネ8:12、ローマ12:10、
IIコリント4:6参照

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無事に実家に戻った後は日々仕事に追われ、充実しているようで刹那的な生活を送っていましたが、2009年結婚に伴い、夫の駐在勤務で南カリフォルニアに移り住む事となりました。

海外生活が初めてだった私は、アメリカ人の友人が欲しい&英語が話したいという動機で、英語のバイブルスタディに参加するようになりました。

毎週数人の姉妹達が自宅を訪れ、私1人に対して時間を割いて聖書を教えてくれる…どうしてこの人達はここまで私に親身になってくれるのだろう?と、その熱意に不思議な思いでいましたが、彼女達はいつも「あなたがJesusを知る事が私達の願いだから」と真剣に、時には涙ぐんで話していました。

その思いに応えたいという気持ちもあり、私自身も熱心に聖書を開くようになってしばらく、有名な”放蕩息子のたとえ”の箇所を読む機会が訪れました。

私にとってはその一文一文がまさに自分の過去を見るようで、そこで恥ずかしさと共に、忘れかけていた「赦された喜び」が今一度思い起こされたのです。

かつて母が私に示してくれた愛を通して、神様が私に個人的に示して下さっている無条件の愛が”体験”として理解出来ました。こんな私をも愛して下さるなら、素直に委ねて受け入れられたいと、心から思えたのです。以前は主に委ねる人生を歩む母を馬鹿にしていた、高慢で自己中心の私は180°変えられました。

こうして2010年秋に洗礼を受けたのですが、その際に日本から届いた母の手紙には、99匹の羊のたとえと、母が私の救いの為に10年祈りを積んでいてくれた事が書かれていました。主は祈る者に必ず応えて下さる。これほど励まされる真実はありません。

その後、日本語での聖書の学びや交わりの必要を感じ始めた私は、GVICで開かれたコンサートに訪れた事を機に、日本帰国までの1年余りをGVICでも過ごさせて頂くようになります。右も左も分からなかった幼い私を温かく迎え入れて下さったGVICの皆様には感謝の思いでいっぱいです。

そして、2012年頭に夫が栃木県へ転勤となり、日本に帰国致しました。(次回、日本での信仰生活について)

黒澤倫子



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四福音書はそれぞれ特徴がありイエス伝を語っている。マタイの福音書は「王」としてイエスを描き、マルコは「人の子」、ルカは「メシヤ・救い主」、そしてヨハネは「神の子」として描いている。

四福音書の共通のテーマはイエスは救い主であり、神であられ、受肉して人類の罪の贖いのために十字架にかかり死に、そして三日目に復活されたと記録している。新約聖書全体はイエスの救いは唯一であり、唯一の信仰のモデルであり、この方をとうしてのみ天国に行けると証言している。イエスは救い、信仰、御国への道である。

 1) 「この人による以外に救いはない」使徒行伝4:12

この言葉はペテロとヨハネが大祭司の一族、律法学者、役人、イスラエルの指導者の前で恐れもなく宣言した言葉である。二人は生まれながらの足のきかない男を宮で癒した。その癒しはナザレ人イエス・キリストの名前で本来の足に完全に戻しました。

癒された男の奇跡は、イエスを信じる多くの人々を興し、イエスの名前がエルサレム中に広がり始めた。使徒達がイエスの復活の話をすると5000人の大勢の人達が信じた。その前に3000人の群衆がイエスを信じているから、ペンテコステ以来短時間で8000人の新弟子がエルサレムに満ち溢れた。

従来のユダヤ教の指導者たちがこの新宗教に恐れをなした。彼らは弟子達を捕え、投獄、処刑、迫害へと伸ばして行った。

このようなアンチ・キリスト教の環境でペテロやヨハネがこの人以外に救いはない、私たちを救う方はこの人以外に天下の誰にも与えられてないと正面きってチャレンジした。弟子達は迫害の波に乗るかのように唯一の救いの福音を伝えて進んだ行った。

2)信仰の導き手であり、また唯一の完成者である、ヘブル人への手紙12:2

イエス様は救い主、また同時にその救いを完成された唯一のモデルとなられた。イエス様の足跡を踏み歩ことは不可能ですが、私たちを前後から助けて共に歩んで下さるお方です。

天から遠く離れておられるのではなく、日々の生活の中に生きて、共に歩み、働いて下さるお方です。だからこのモデルに聞き従うことが可能です。

イエス様は恥をも厭わず十字架を忍び通したとあります、それは父なる神の右のみ座に座することが約束されていたからです。その光栄に預かるには十字架の苦しみでさえも取るに足りない苦しみでした。

私達が信仰を持つ事は安心立命を求めてではありません。この地上には多くの苦難、困難、また迫害が必ず襲って来るものです。しかし、やがて来るべき世界で受けるべき報酬、祝福は私達のイマージネイションをはるかに超えるものでありましょう。

3)唯一の道、唯一の真理、唯一の命である、ヨハネの福音書14:6

イエスの名声が高まり、また一方ユダヤ人達の陰謀も深くなってきた頃である。イエスは弟子達とガリラヤ湖の北ピリポ・カイザリヤの地方におられた時、イエスは弟子達に「人々は人の子を誰と言っているか」と尋ねられた。

弟子達はバプテスマのヨハネ、エリヤ、あるいは預言者の一人であると答えました。ペテロは「あなたこそ生ける神の子キリストです」とお答えになられた。

ペテロの告白はもっともである。おおよそ3年半イエスと寝起きし、神の子の生き様、愛、奇跡の業を日々目撃してきました。この人以外に救いはない、この人以外に生ける神のキリストはいないのである。

イエスキリスは私達を救い、導き、天の父の家に道案内をして下さる唯一のお方です。 私達はやがて御国に案内を受け、永遠に主の栄光の中に生き続けます。

ですから、選択を間違えては一生どころか、永遠の不覚、取り返しができません。唯一無二の天地の創造者、全人類の救い主は、神が人となられたナザレのイエス、大工の倅であります。

前原利夫



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「だから、わたしたちは、はばからずに言おう、/「主はわたしの助け主である。わたしには恐れはない。人は、わたしに何ができようか」 へブル13:6

クリスチャンにとって、この世界でしっかりと安定した信仰生活を送ること、また永遠のいのちへの確信を持つための源泉は御言葉にあります。生ける神が私たちに与えてくださる導きは明白で間違いがありません。神の導きは私たちにとって確固たる基礎であり、「主はこう仰せられます」と聖書に書かれた主の啓示です。

研究者たちは、長い間この賛美歌の作者を特定できずにいます。1787年、ロンドンにあるカーター・レーン・バプテスト教会の牧師であるジョン・リッポン博士が出版した『賛美選集』の中に登場したのが最初の記録です。リッポン牧師は、当時、絶大な人気と影響力を兼ね備えた牧師の一人でした。

この賛美歌の一番は、キリスト教信仰の基礎が、神の御言葉の上に成り立っていることをはっきりと告白しています。この内容を見るときに「神ご自身の言葉以上に、人間にとって神ご自身を完璧に啓示するものなどあるだろうか?」ということを考えざるを得ません。その後の歌詞は、御言葉からの尊い約束を歌い上げる素晴らしい賛美となっています。

二番:イザヤ41:10
「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。 驚いてはならない、わたしはあなたの神である」
三番:イザヤ43:2「あなたが水の中を過ぎるとき、わたしはあなたと共におる」
四番:Ⅱコリント12:9「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、「わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」
五番:へブル13:5『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない』

峯岸麻子

詩篇46:1、118:6,7, へブル13:5,6参照
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