ここにいるユダヤ人はテサロニケの者たちよりも素直であって、心から教えを受けいれ、果してそのとおりかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べていた。「使徒行伝17:11」

新年、明けましておめでとうございます!
「元旦」と言えば、大晦日の紅白歌合戦に観疲れて“寝正月”を過ごす人たちが大勢です。年の最後の日をテレビを相手に騒ぎ、新年の第一日目をベットで過ごす、私たちはこのようなライフ・スタイルをかつて体験したものです。元旦に新年の方向付けとして、霊的に一段高根に上る目標を立ててみませんか。冒頭の標語は聖書を棒読みにしないで、深く、丁寧に読みこなしながら、み言葉が血となり肉となる、即ち、み言葉から沢山の祝福を受ける者となることです。そこで、パウロが第一回ヨーロッパ宣教のときに訪れたべレヤの人たちの聖書に対する熱心さを取り上げ、“聖書の読み方モデル”を探ってみましょう。

素直に、心から受け入れる:
神の言葉に向かう時、素直な心が大事です。素直さがないと、最初から疑って構えます。疑って構えると、自分勝手に脳の中で交通信号が作動し、今は赤、今は青と命令を下すからです。まず、神の言葉は最初から最後まで“素直な気持ち”で聞く余裕が大切です。聖書を開く時に、聖霊が働きますから、疑いで聖霊の働きが遮断されないように注意したいものです。イエス様が“幼子のようにならなければ天国に入れない”と言われたが、幼子の素直さ、心の白紙の状態ではないか。ベレヤの人たちはそのような人でした。

果たしてそのとおりかどうかと・・:
み言葉を読むときに、質問、興味を持つことが大事です。英語のInquisitiveとう言葉は“見たがる、知りたがる”という意味です。子供がうるさいほどに“あれはなに、これはなに、、”としっこく挑戦してくる、あの興味の深さです。聖書を棒読みにしないで、不明な点、納得いかない節や文章を“果たしてどういう意味?”と調べ、或いは牧師に挑戦するのです。

日々聖書を調べた:
み言葉から祝福を頂くには日々聖書に向かうことが大事です。私たちの肉の糧も、一日に数回も頂きます。“日々”、“毎日”、同じことをし続けることは難儀の業、難儀の業をし続けることはその人の力です。足腰の強さも日々連続した運動と、思い出してする運動ではその強度に大変な違いがあります。今は便利な時代、聖書を読むのに、いちいち机に向かう必要はありません。手のひらの上で、膝の上でIpad, Iphoneを用いて聖書が読めます。ポケットにノートのできる準備をして、一日に何回も読み分納することができます。年間、聖書通読に大いに利用できます。

ベレヤの人たちの影響:
このようなベレヤの人たちのみ言葉に対する熱心さ、真剣さは異邦人、ギリシャ人の貴婦人たち、また男性にも影響を与えて、彼らがイエス様を信じるようになった、と17:12節は記録している。み言葉に対する姿勢は自分の霊的な向上と同時に、周囲の人たちへの影響となったのです。それは、み言葉を真剣に読む人は、み言葉を伝える人になるからです。また、周囲の人たちは彼らの生き様を見て、み言葉が真実であり、祝福であることを目撃するからです。
  
私たちも単に“聖書を読む人から、聖書を読みこなす人”になろうではありませんか。“よみこなしてこそ”自分自身に変化を体験し、周囲に影響を与えていくのです。
  
最後に、ヘブル人への手紙 4:2を調べ、上記のみ言葉と結びつけてみませんか。

前原利夫


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正月元日は聖日か? 神がモーセに命じられた「正月元日のなすべき使命とは」
    
2015年、明けましておめでとう御座います!

最近、学んだことですが仏教が日本に伝わったのが6世紀頃、その以前から日本は「正月」を特別な祭日としていたようです。

正月の1日から3日を「3が日」といい、今日でも日本全国休日です。因みに、今年は4、5日が週末で休みとなり、6日から仕事初めで長い正月休みです。

正月7日までを「松の内」と言い、いわゆる「正月」は松の内までだそうです。勉強不足の私は正月は1月のことであり、31日まであると思い込んでいました。元来、正月は「歳神様」(トシガミサマ)という神を迎え、家族の健康、その年の豊作の約束を祈願したそうであります。

日本の古い歴史の中に新しい年を迎え、元日に神事からスタートする習慣があったことに興味があります。それに、日本がこの習慣を始めた大昔、二千年前に出エジプト記40章で以下の記録に触れ、もう一度、その興味が深まり、「正月に対する心構え」を再考する元日となりました。

「主はモーセに言われた。“正月の元日にあなたは会見の天幕なる幕屋を建てなければならない”。」

「会見の天幕」とは人が神様に謁見する聖所、現代流では「キリストの体、教会」でありましょう。そこで、正月の元日にその天幕を建てなさいと命じられのですから、新しい年の初めに、先ず、第一に神様にお会いし、神の前にひざまずき礼拝する場を建て上げるという仕事初めです。元旦に,その年に神様とお会いする“場”を確保するようにとの教えでありましょう。その視点から信仰の父、アブラハムを考えてみましょう。

1.アブラハムから学ぶ(創世記12,13章参照):アブラハムがハランから力ナン入りを果したとき、先ず、シケムという村で祭壇を築いて神様を礼拝する場を確保しています(多分、アブラハムの時代には“正月”という時の概念は存在しなかったでしょう)。シケムからベテルの東に移動したときもまず祭壇を築いています。それから飢饉に見舞われてエジプトに下り、再び、ベテルに戻ったときも、矢張り、祭壇を築くことを忘れていません。

因みに、アブラハムのころの礼拝場は青空天上、モーセの時代からは“会見の場”、ソロモンの時代には“聖所”、現代は”教会“という礼拝の場が形を変えていることに気が付きます。勿論、神様は不変・遍在ですから、”場“に拘束されることはありません。

2.イエス様に聞く:イエス様は“先ず、神の国と神の義を求めなさい‘ と”先ず“、”第一にすべこと“、”優先順位“を教えておられます。この”先ず“は時、場を越えて神の国と義を求めよと命じられます。神の国と神の義を求めるとは”神の教え“を実行することを最優先することだと解釈します。モーセが年の第一日目に神様を礼拝するように命じられれば、アブラハムは移転先々でどこでも祭壇を築いておられる。

2014年を迎えました。私たちは元日をどのように過ごしたか、この機会に振り返ってみませんか。そして、これまでの正月の習慣・伝統的な過ごし方でいいものか、み言葉に照らし合わせて心を探る機会としませんか。伝統の中にみ言葉を見つける工夫が必要ではないでしょうか。「一年の計は元旦にあり」、「心機一転」等という素晴らしい教えもあります。モーセの正月の元日理解はその日は“聖日”です。伝統・習慣上の優先的発想からみ言葉を伝統・習慣の中に取り入れていきたいものです。皆様の上に新年、更なる大きい祝福がありますよう、お祈り致します!

Happy New Year!

前原利夫



働きの成果を無駄にするな、沢山、報いを受けよ!

“よく注意して、わたしたちの働いて得た成果を失うことがなく、豊かな報いを受けられるようにしなさい。”(第二ヨハネ8節)

上記の長老ヨハネの言葉を短く纏めます。初代教会の時代はキリスト教は新しい宗教として異端視され、社会的、宗教的、伝統的に外からの迫害の重圧の中を歩まざるを得ませんでした。イエス様を受け入れた者の大きなリスクでした。

内側からは、様々な反キリスト的な教えが蔓延、キリストが人間の姿になってこの地上に来られたことを否定、疑いを生じさせ、信仰を根こそぎしようとする異端者が教会の中にいたのです。このような憂いの中から、聖ヨハネはイエス・キリストを信じたものの、自らの救いを無駄にし、投げ捨てることがないように、その報から外れることがないように勧めます。

上記の言葉は、特に福音の働きをした伝道師、宣教師、兄弟姉妹に対して語られていることに注目しましょう。今日、福音の働きに参加している貴方も、私も、また教会もこのみ言葉の意味をしっかりと理解したいものです。私たちの働き、即ち、背後の祈り、訪問、時間をかけた交わり、教え、リソース等が無駄になり、魂が救われないまま放置され報われぬことがないためです。

1.種を蒔く働き人の務め:

種を蒔く人は、種を選び、土地を耕して、時を見計らって蒔きます。品種のいい種でも土地が耕されていなければ芽を出すのは困難、また時、季節を間違えてしまうと土の中で死んでしまいます。種は受け皿とタイミングが大事です。福音の種まきもこの原則ではなかろうか。誰に種を蒔くか、人選が大事で、いつ、その人に福音を伝えるか、よく魂が整えられているか祈りを重ねることです。パウロは第一コリント3章で、「わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である。」と教えます。貴方や私の責任は種を蒔くだけではなく、水をそそぐまで私たちの務めです。「水をそそぐ」とは、種を蒔かれた人への愛のケヤーです。その人が成長するのは神のみ手にある、とパウロは断言します。神の領域と種を蒔く人の領域がありますから、心配せず自分の務めに集中できます。

2.GVICの働き:

私たちの教会は色々なコンサート、講演会を取り入れて、福音の種まき、イエス様を知らない人との接点作りを試みています。多くの方々が皆様に誘われて礼拝、集会に出席します。しかし1、2度限りの方が大勢です。私たちは可能な限り蒔かれた種のファーロをします。しかし、現段階の働きは“種をまく”の領域で、“水をそそぐ”、“愛のケヤー”が十分整っていません。この点が私たちの教会の大きな務めであり、種まきの成果を失っている大きな損失です。教会はイベント、コンサートで終わってはならず、それは寧ろスタートとして取らえていかなければなりません。“水をそそぐ”ことは私たちの領域です。世話人会は今年、この“水そそぎ”を具体的に進めて参ります。そのために、イベント、コンサートを拡げないで、“水そそぎ”に集中することを最優先します。

3.From event mode to movement mentality:

この表現は以前もご紹介しましたが、”Movement mentality” 即ち、種まきの次のレベル“水をそそぐ”、具体的なケヤー、交わり、教え、訓練がなされていかなければなりません。一年後、このことがなされたか、種まきの成果が無駄にならず、豊かな報いを期待して、共にEvent からMovementに発想の転換をしましょう。皆様の心からのお祈り、アクションをお願い致します。貴方の働きには“報い”が約束されているのですから!

前原利夫


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エリシャの神:神の容器は無限!

「そこで彼女は神の人のところにきて告げたので、彼は言った、 “行って、その油を売って負債を払いなさい。あなたと、あなたの 子供たちはその残りで暮すことができます“」列王記下4章7節

上記の一節は預言者エリシャの言葉です。エリシャは大預言者エリヤの愛弟子でBC850年頃、イスラエルで大活躍をした人物です。彼の下にも預言者の弟子たちがいましたが、その一人が借金を抱えたまま死んでしまいました。債権者は主人の死とともに奥さんに借金取立てに来て、二人の子供を人質に奴隷として連れて行こうとしました。未亡人(この言葉は好きではありませんが)はその苦痛を師のエリシャに訴え助けを求めました。この話は正に現代版ではありませんか。同書4章をお読み下さい。ここでエリシャと彼の信じる神の容器の無限さを考えてみましょう。

1.エリシャ、弟子への思いやり:
エリシャという預言者は気性の激しい性格の人でした。小さな子供たちが彼を“はげ頭よ、のぼれ、はげ頭よ、のぼれ”と嘲り、馬鹿にしたので激怒して子供たちを呪ってしまいます。子供といえども大人、預言者への尊敬を失したことを赦さなかったのです。ホット・テンパーでした。しかし、自分の弟子たちに対する思いやりはことの外深くあった印象を受けます。当時も今も神に仕える人の宿命は“貧しい”という負債を背負っているようです。借金を担がされた妻の試練、借金代わりに二人の息子が今奴隷として人質にされようとしているこの苦境、彼女の心境を計り知ることは出来ません。母の子への深い思い、まして父が残した借金のために子供が奴隷になるのは胸が張れ裂けんばかりです。エリシャはこの借金苦に脅えるやもめに神の哀れみ深さを惜しみなく示しました。

 2.エリシャ、必要以上に応える:
エリシャはやもめに家に換金できるものがあるか(財産)と訊ね、先ず生活と返済能力を確かめます。その家には「一びんの油」しかないとの返事。この油は高価な香油か或いは日常使用する油であったかわかりませんが、換金できる唯一の財産ではなかったでしょうか。或いは借金苦に悩むやもめの生活費の全てであったのです。預言者は彼女に命じます。家に空瓶んがなければ隣近所から沢山の空き瓶を借りてくるようにと。“少しばかりではいけません”、“もっと器を持ってきなさい”と命じます。預言者の心の中には借金返済だけではなくそれ以上に助けてやりたいという目論みがあったのです。なんと、神の憐れみ!

 3.エリシャ、神の油は無限量:
「求めよ、さらば与えられん」とはイエス様の言葉ですが、これと同じ事をここでも教えます。神様が“求めよ”と仰るときにはそこに量的な制限、限界のニュ-アンスは全くありません。やもめは一びんしかもっていませんでしたが隣近所から空き瓶を借りてきました。そして借りてきた空き瓶はすべて神の油で溢れ満たされました。瓶の容量や本数に限界があっても神が注がれる油は無限量、無限大です。注がれる油は空き瓶がないから途中でストップしたのです。祝福を止めるのは人間の側です。 そこで、私に今必要なものはなんであろうか。空き瓶が何本あるのか、またその大きさ、等、そして自分の霊的なニーズ、神の油をどれほど必要としているか等、内面的な祝福を探ってみませんか。神の油は聖霊様です。

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2014年6月

周囲の人たちが次々に、、、、  “また天国は、良い真珠を捜している商人のようなものである。” マタイ13

最近、私の周囲の友人、知人が次から次へとこの地上の生活とお別れをする方々が多い、実に驚きです。この方もまだまだ働かれる年令で亡くなられ、先日、記念会が持たれたばかり。大企業の社長として敏腕を揮い成功を納めたが、病気の回復もなく、2年間戦い、ついに愛するご家族とお別れとなった。近くに住んでおられたが、気が付いたら治療のために引越され、それっきり、二度と会うことも、語ることもなかった。

今年一月、親戚の結婚式でシアトルまで出かけた。その間、二度の電話メッセージがあった。距離的なことで頻繁な交流はなかったが心が通じる親しい間柄であった、その方の奥様から名前だけ残したメッセージ、急いで電話を返しても返事もない。数日後、ご主人が亡くなったとの訃報に触れた。奥様がドクターアポに行っている間の“死亡”だとのこと。

ご主人はコンピュータに向かっていて、“貴方、行って来るよ”、と12時半に出て、3時半に帰宅した。“帰ってきたよ”、と返事を期待しても、何の返事もない。妙に静かだ。裏庭にも姿が見えない。コンピュータの前にうつむいたまま体が冷たくなっていた、と奥様は涙ながらに語られた。

私たちは3時間先の命も分からない。  先月、小学校の恩師がお亡くなりになった。もう、60年前にさかのぼるが睦子にも私にも思い出のある先生だ。OCに住んでいたので時々お邪魔して、昔話に花を咲かせたものである。お亡くなりになつたその夜、ICUで最後のお別れとなった。お葬式は“グレイブ・サイド”でなされ、私も“恩師の贈物―藤の花”と11年前同師から頂いた藤の花の思い出を話した。今もあの藤は裏のべランダの大きな植木鉢に生き生きと育っている。

知人、友人が亡くなられるのは悲しく、寂しいことです。 マタイ福音書16章“たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。” どんな立派な人でも、成功した人でも“3時間先の命”すら読めない。私たちは最後の“死の切り札”を持っていなければならない。

イエス様の十字架の罪の贖い、これが“死のとげ”を取り除く、最後の勝利の切り札だ。私たちはこの最後の切り札、イエス様の救いを家族や友に持ってもらいたいものです。

私たちの最後の宝は永遠不朽の“キリストにある救いです”。この宝さえあれば、死の谷もどこも恐れることはないのです。私たちの周囲に次から次へと最後のお別れがやってくる、これはやがて、自らが体験しなければならない動かせない“事実”です。イエス様はこの宝を探せ、とこう仰っています: “また天国は、良い真珠を捜している商人のようなものである。”

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2014年5月

“わたしの恵みはあなたい対して十分である”  第二コリント 12:9

  飛脚3月号で“パウロ書簡に七つの祈り”と題してご紹介しました。今号はその締めくくりとして、パウロの祈り“三度主に祈った”、を取り上げます。

パウロの祈りは“わたしの肉体に一つのとげが与えられた”、その“とげ”を取り去るようにとの主への願いです。三度も祈ったというのは三回祈った、という分けではなく、何度も何度も祈ったということです。果たして“とげ”とは何でしょうか。このとげは精神的なものか肉体的なものか諸説があります。私は“わたしの肉体に、、とありますから、そのまま文字通り解釈して肉体的な弱さと受け止めています。具体的には肩が丸い“セムシ”、“慢性的偏頭痛”、或いは“眼疾”とゲスのレベルです。どんな“病気”であったかよりも、その“とげの痛み”の激しさです。このとげを“わたしを打つサタンの使い”と呼ぶほどですから、痛みの深さが精神的にも及んでいたことでしょうか。

さて、同12章は、パウロのパラダイス体験、即ち、超霊的体験の歓喜から書き出します。この地上から引き上げられ、天上での見神体験(神と合間見える体験)を述べます。このような見神体験のケースは新旧約を通しモーセ、イエス様、そしてパウロの体験、三ケースだと思われます(再チェックが必要)。元々、コリント教会はパウロの使徒職が本物かどうかと疑いの目で見ていましたので、この体験は“正真正銘の使徒”、いやそれにも勝る大きな証であったはずです。従って、この体験はパウロにとっては大きな誇りであり、公表すべきものであったに違いありません。しかし、パウロはその道を選ばずに、敢て、自分が生涯抱えてきた問題、即ち、“弱さ”、“不完全さ”こそ、主に誇るべきと、言明するのです。聖人パウロの逆説的信仰の生き方です。

 冒頭の“わたしの恵みはあなたに対しては十分である”、この言葉はパウロの三度の祈りへの応えですが、何故、“十分”なのか考えてみませんか。

① 私たちはすでに主の恵みの中にいるのです:
その恵みの故に、祈る特権、 主の御前にでることが出来るのです。数えてみよ、主の恵みです!

② 私たちの弱さは主が働く機会です:
私たちは弱さ、不足、不完全さを沢 山、背負っています。私たちが完全で弱さがなければ主が働く余地などありません。“主よ、私の弱さ、欠乏のゆえにお働き下さい”、と祈り求めてこそ、主が介入し、働き始められます。信仰の祈りは自分で働くことを求めることではない、主が働かれることを求めるのです。だから、パウロは言う、“わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからだ”、と。

③祈りが応えられたことを見逃すな:
私たちの祈りはしばしば希望の解決案を祈ることが多いです。しかし、主が祈りに応えられるときは色々な形をとり、解決案とは全く違うことがあります。そこで、別な形で祈りが応えられているのに気付かないことが多くありませんか。(使徒行伝12章参照)。

(4)“主のみ旨がなりますように”:
私たちの全ての祈りはこの祈りで閉じ たいものです。自分の希望、願いを押し付けるような祈りか、神の応えに祈りを合わせるか、大きな違いです。イエス様のゲッセマネの祈り、また本テーマのパウロの祈りも、このことを教えていませんか。   私たちの祈りの知識が更に深くなると平行して、祈りの生活も更に深くなり、主のみ心を探り知る祈りとなりますように、祈りつつ。

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2014年4月

イースター、おめでとう御座います  “イエスは生きておられる!”、ルカ24章23節

レント(四旬節):
今年のイースターは4月20日に当たります。“今年”とは毎年イースターの日が移動するからです。昨年は3月30日、来年は4月5日です。その経緯については後日の学びとして、特にカトリック教会、私達プロテスタント教会もそうですが、イースター前の40日をレントとして主の受難を心に留めて日々を過ごすという伝統的な教えがあります。

「灰の水曜日」(Ash Wednesday)という日から46日間をレントと呼びますが、その間の日曜日は除かれます。今年は3月5日が「灰の水曜日」で、イースターの 4月20日まで46日間、しかし、イースターサンデーの前の6回のサンデーは体を休める日として除かれます。40日という数字は聖書の中で意味のある数字です:40年間の荒野の生活、40日のモーセの断食、40日のイエス様の断食等、苦難の体験と結びついた40日です。   「灰の水曜日」、なぜ、“灰”をかぶるのか、これは旧約聖書から明らかです。懺悔、悔い改める者が頭に灰をかぶった習慣から来たわけで、旧約ではヨブ、エステル王妃、ヨナが遣わされたニネベの王たちが灰をかぶり神の前に祈っています。また、イエス様の言葉の中にも“灰をかぶる”話があります(マタイ11章参照)。

イエス様は木曜日の夜に最後の晩餐、ゲッセマネの祈り、そしてユダの裏切りで拷問、金曜日に受難の十字架を背負い、ゴルゴタの丘で罪の贖いをされました。そして、葬られ、三日目の日曜日の朝に甦られたのです!イースターの朝です。以来、教会は復活された日を“主の日”として聖日礼拝を執り行っています。

イースター(復活祭):
主は最初にマグダラのマリヤに!イエス様が十字架におかかりになった時に、最後まで十字架のイエス様を見届けたのは数人の女性たちでした。その中に弟子たちの姿が見えなかったのは対象的ですね。一体、3年以上もイエス様の教えを受け、それを伝えていた弟子たちはどこに逃げ隠れしたのであろうか。安息日が終わり、その翌日、主が葬られた墓に思いを馳せ一目散に走ったのは女性たちでした。ヨハネによる福音書(20章)はイエス様が復活のお姿で最初ご自身を現されたのはマグダラのマリヤでした。彼女はかって“七つの悪霊”に取りつかれた女でした。しかし、主の赦しを受け、今は主を愛する人に変えられたのです。イエス様が弟子たちを差し置いて、この女性に最初に現れたことは、真実にイエス様を愛し、仕える人にご自身を先にお示しなさるということです。罪の増し加わるところに恵みも更に増すのです。このことを弟子たちからではなく、このマグダラのマリヤから学ぶこともイースターの恵みです。

11弟子たちは復活を否定!
女性たちが空っぽの墓を目撃、弟子たちに主の復活を伝えると、弟子たちは“愚かな話のように思われて、それを信じなかった”、と復活の事実を受け入れることができません。イエス様が十字架にかかる前、何度も復活の話をしたはずですのにその言葉と結び付きません。今日、多くの人たちが“死人の甦り”を愚の骨頂と片付けるのも無理からぬ発想です。葬られた墓の石が取り除いてイエス様のお姿が見えるように、私達の霊の目をふさいでいる心の石も取り除きましょう。イースターはイエス様の姿をはっきりと見る良き機会でありたい。私達はイースターのことを“復活際”と呼びます、“お祭りです”!ハレルヤ!主は甦られた!、主は、今生きておられる!

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2014年3月

パウロ書簡に七つの祈り!

新約聖書27巻のうち14巻はパウロが書いた書簡です(ヘブル書の著者の問題はありますが)。この14巻のうち、コリント、テサロニケ、そして弟子のテモテには二つの手紙があります。それを続編として一つの手紙として纏めると11巻になります。下記にみますように、パウロは8巻の中に”わたしは祈っている”と、主の前に膝をかがめて祈るパウロの姿が浮かんできます。

私達は3月の礼拝から暫く”パウロの祈り”と題して学び、そこからパウロの祈る姿、パウロの祈る内容などを学びとり、日頃の祈りの訓練、日常生活の中に実行して行きたいと願います。同労者であるエパフロスの祈りをご紹介し、3月からのメッセージのテキストのガイドとして用いて頂ければ感謝です。

パウロの祈り#1、
「宣教の道が開かれる」:パウロはローマに渡ることが長い祈りでありましたローマ1:9,10)、また、テサロニケの町にも宣教の道が開かれるようにもお祈りしています(第一テサロ3:9)。主はこの二つの祈りにお応え下さった。

パウロの祈り#2、
「兄弟たちの魂の救い」:ローマにいる同胞ユダヤ人、またイエス様を知らない同胞の民に、彼らが救われるように祈ります(ローマ10:10)ます。

パウロの祈り#3,
「祈りを勧め、励ます」:ピリピの教会に”ただ、なに事にも、感謝をもって祈りと願いをささげ、あなたがたの求めるところを神に申しあげるがよい”と、神に祈る祈りは感謝の中に捧げるよう勧めます(ピリピ4:4-6,テモテ第一2:1)

パウロの祈り#4,
「諸教会への感謝」:パウロは諸教会への手紙の中に、”いつもあなたがたを覚えて感謝している”、このような感謝の祈りで手紙を書き出しています(コリント第二9:14, 外)。

パウロの祈り#5,
「弟子テモテへの祈り」:弟子テモテに再会したい願いと、主に立派に仕えるように祈る師の姿が見えます(テモテ第二1:3)

パウロの祈り#6,
「更に祝福へ、更に愛を深めよ」:パウロはエペソ教会が霊的に引き上げられ、また愛の成長を祈ります(エペソ1:15-19, 3:14-19)

パウロの祈り#7,
「自分の癒し」:パウロは肉体のとげ(持病か体の異常)を取り去るように主に祈ります、しかし、主の応えは”わたしの恵みは十分だ”でした(コリント第二12:7-9)。

パウロはエパフロスもコロサイの人々のために祈っているよと、彼の祈りをコロサイの教会に紹介します。それは”神のみ旨に堅く立て”という友の祈りであった。 因みに、パウロの祈りは順不同で、私が祈りの内容を中心に纏めた祈りです。また、パウロが”、、、祈った”という祈りは各書簡合わせて10数回読むことができます、また、’祈り”という言葉を使用しなくても、主に訴える、叫ぶ場面もありますでしょう。

  祈りは神様とのライフラインと言われるように、祈りなしではクリスチャンライフはないし、清く生きることもおぼつかない。また、主イエス様も祈りを通して厳しい境遇を乗り越えられたのです。

“キリストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈と願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである。”
(ヘブル書5章)

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2014年2月

働きの成果を無駄にするな、沢山、報いを受けよ!
“よく注意して、わたしたちの働いて得た成果を失うことがなく、 豊かな報いを受けられるようにしなさい。”(第二ヨハネ8節)

上記の長老ヨハネの言葉を短く纏めます。初代教会の時代はキリスト教は新しい宗教として異端視され、社会的、宗教的、伝統的に外からの迫害の重圧の中を歩まざるを得ませんでした。イエス様を受け入れた者の大きなリスクでした。内側からは、様々な反キリスト的な教えが蔓延、キリストが人間の姿になってこの地上に来られたことを否定、疑いを生じさせ、信仰を根こそぎしようとする異端者が教会の中にいたのです。このような憂いの中から、聖ヨハネはイエス・キリストを信じたものの、自らの救いを無駄にし、投げ捨てることがないように、その報から外れることがないように勧めます。

上記の言葉は、特に福音の働きをした伝道師、宣教師、兄弟姉妹に対して語られていることに注目しましょう。今日、福音の働きに参加している貴方も、私も、また教会もこのみ言葉の意味をしっかりと理解したいものです。私たちの働き、即ち、背後の祈り、訪問、時間をかけた交わり、教え、リソース等が無駄になり、魂が救われないまま放置され報われぬことがないためです。

1. 種を蒔く働き人の務め
種を蒔く人は、種を選び、土地を耕して、時を見計らって蒔きます。品種のいい種でも土地が耕されていなければ芽を出すのは困難、また時、季節を間違えてしまうと土の中で死んでしまいます。種は受け皿とタイミングが大事です。福音の種まきもこの原則ではなかろうか。誰に種を蒔くか、人選が大事で、いつ、その人に福音を伝えるか、よく魂が整えられているか祈りを重ねることです。パウロは第一コリント3章で、「わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である。」と教えます。貴方や私の責任は種を蒔くだけではなく、水をそそぐまで私たちの務めです。「水をそそぐ」とは、種を蒔かれた人への愛のケヤーです。その人が成長するのは神のみ手にある、とパウロは断言します。神の領域と種を蒔く人の領域がありますから、心配せず自分の務めに集中できます。

2. GVICの働き
私たちの教会は色々なコンサート、講演会を取り入れて、 福音の種まき、イエス様を知らない人との接点作りを試みています。多くの方々が皆様に誘われて礼拝、集会に出席します。しかし1、2度限りの方が大勢です。私たちは可能な限り蒔かれた種のファーロをします。しかし、現段階の働きは”種をまく”の領域で、”水をそそぐ”、”愛のケヤー”が十分整っていません。この点が私たちの教会の大きな務めであり、種まきの成果を失っている大きな損失です。教会はイベント、コンサートで終わってはならず、それは寧ろスタートとして取らえていかなければなりません。”水をそそぐ”ことは私たちの領域です。世話人会は今年、この”水そそぎ”を具体的に進めて参ります。そのために、イベント、コンサートを拡げないで、”水そそぎ”に集中することを最優先します。

3. From event mode to movement mentality
この表現は以前もご紹介しま したが、”Movement mentality” 即ち、種まきの次のレベル
“水をそそぐ”、具体的なケヤー、交わり、教え、訓練がなされていかなければなりません。一年後、このことがなされたか、種まきの成果が無駄にならず、豊かな報いを期待して、共にEvent からMovementに発想の転換をしましょう。皆様の心からのお祈り、アクションをお願い致します。貴方の働きには”報い”が約束されているのですから!

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2014年1月
正月元日は聖日か?
神がモーセに命じられた 「正月元日のなすべき使命とは」

2014年、明けましておめでとう御座います!

最近、学んだことですが仏教が日本に伝わったのが6世紀頃、その以前から日本は「正月」を特別な祭日としていたようです。正月の1日から3日を「3が日」といい、今日でも日本全国休日です。因みに、今年は4、5日が週末で休みとなり、6日から仕事初めで長い正月休みです。

正月7日までを「松の内」と言い、いわゆる「正月」は松の内までだそうです。勉強不足の私は正月は1月のことであり、31日まであると思い込んでいました。元来、正月は「歳神様」(トシガミサマ)という神を迎え、家族の健康、その年の豊作の約束を祈願したそうであります。

日本の古い歴史の中に新しい年を迎え、元日に神事からスタートする習慣があったことに興味があります。それに、日本がこの習慣を始めた大昔、二千年前に出エジプト記40章で以下の記録に触れ、もう一度、その興味が深まり、「正月に対する心構え」を再考する元日となりました。

主はモーセに言われた。”正月の元日にあなたは会見の天幕なる幕屋を 建てなければならない”。

「会見の天幕」とは人が神様に謁見する聖所、現代流では「キリストの体、教会」でありましょう。そこで、正月の元日にその天幕を建てなさいと命じられのですから、新しい年の初めに、先ず、第一に神様にお会いし、神の前にひざまずき礼拝する場を建て上げるという仕事初めです。元旦に,その年に神様とお会いする”場”を確保するようにとの教えでありましょう。その視点から信仰の父、アブラハムを考えてみましょう。

1.アブラハムから学ぶ(創世記12,13章参照)

アブラハムがハランから力ナン入りを果したとき、先ず、シケムという村で祭壇を築いて神様を礼拝する場を確保しています(多分、アブラハムの時代には“正月”という時の概念は存在しなかったでしょう)。シケムからベテルの東に移動したときもまず祭壇を築いています。それから飢饉に見舞われてエジプトに下り、再び、ベテルに戻ったときも、矢張り、祭壇を築くことを忘れていません。因みに、アブラハムのころの礼拝場は青空天上、モーセの時代からは“会見の場”、ソロモンの時代には“聖所”、現代は”教会“という礼拝の場が形を変えていることに気が付きます。勿論、神様は不変・遍在ですから、”場“に拘束されることはありません。

2.イエス様に聞く

イエス様は“先ず、神の国と神の義を求めなさい‘ と”先ず“、”第一にすべこと“、”優先順位“を教えておられます。この”先ず“は時、場を越えて神の国と義を求めよと命じられます。神の国と神の義を求めるとは”神の教え“を実行することを最優先することだと解釈します。モーセが年の第一日目に神様を礼拝するように命じられれば、アブラハムは移転先々でどこでも祭壇を築いておられる。

2014年を迎えました。私たちは元日をどのように過ごしたか、この機会に振り返ってみませんか。そして、これまでの正月の習慣・伝統的な過ごし方でいいものか、み言葉に照らし合わせて心を探る機会としませんか。伝統の中にみ言葉を見つける工夫が必要ではないでしょうか。

「一年の計は元旦にあり」、「心機一転」等という素晴らしい教えもあります。モーセの正月の元日理解はその日は“聖日”です。伝統・習慣上の優先的発想からみ言葉を伝統・習慣の中に取り入れていきたいものです。皆様の上に新年、更なる大きい祝福がありますよう、お祈り致します!Happy New Year!

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