2月12日の礼拝で、私は6章から「わたしは天からの命のパン」と題してメッセージを致しました。メッセージを準備しながら、これまで気が付かず読み過ごししていた箇所は6章の結びのペテロの信仰告白でした。読む毎に、6章のコンテックスの中で、よくもあのような信仰告白が出来たものだと、今更ながら教えられています。  

66ー67節に、「シモン・ペテロは答えた、”主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう。永遠の命の言を持っているのはあなたです。わたしたちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。”」 と、記されてあります。
 
このペテロの信仰告白は6章の冠と言えましょう。ペテロ、以下10人の弟子達(6章でユダは裏切り者と呼ばれている)は永遠の命を与える方はイエス様以外にいないと固く信じ、神の聖者と告白しました。ペテロは”だれのところに行きましょう”と、このかた以外に信じる者はいないと、告白します。

6章のコンテックスを整理していきます。

先ほど、6章のコンテックスと言いましたが、それを整理していきます。

1)感情的なメシヤ観:

五千人の給食の後、群衆はイエスを来たるべき大預言者と信じました。ある人たちはイエスをイスラエルの王にしようと追っかけました。イエス様は群衆を避けて、山に退きました。彼らに信仰が無いことを知っておられたのです。群衆はパンを食べて満足したからで、パンの増殖に気を取られ、その背後の力を見ることが出来なかったのです。

肉体的満腹感、イエスを王にすれば政治的権力を行使でき、民族の解放につなげる等、そのような思いがあったのではないか。しかし、そこには真のイエスの意図はなかった。彼らの感情的、利害関係の絡んだメシヤ観であった。真のイエスの姿を見失っていました。

2)ユダヤ的メシヤ観:

ユダヤ人や多くの人達が、ユダヤ人的なメシヤ観に捉われ、新しい物事、発想でイエスの話を聞くことが出来ないでいた。彼らは新しい皮袋を拒絶した。6章では”わざ”の意味が妨げになりました。彼らはわざとは行いを意味し、救いは行いによって得られるものと解した。

イエスが’わざ”とは神がつかわされた者を信じることが、神のわざである”、と説明しても理解できるものではなかった。目の前に立ち、話しているイエスが神からつかわされた神の子と信じることは不可能であった。彼らの中には旧約の学者がいたが、神からつかわされたと宣言するイエスを、旧約の予言に照らし合わす心の余裕もなかったのです。

彼らにとって、イエスは彼らが知っているヨセフの子、マリヤの子、単に人の子に過ぎなかった。真のイエスの姿を見失っていた。

3)光るペテロの信仰告白:

6章は真のイエスの姿を覆い隠す要素が幾つかあります。あのイエスと共に伝道したユダも、イエスの温かい懐に育ちながらもついに真のイエスの姿を見ることができずにいました。信仰を妨げる欲望の悲しい結末です。ペテロはそのような環境にあって真のイエスの姿から目を離すことはありませんでした。

かつて、ガリラヤ湖の海の上を歩いた時、風に気を取られて、溺れかけました。目の前のイエスから目を離したからです。人に周囲に惑わされてはなりません。6章におけるペテロは真のイエスの姿から目を話すことはなかったのです。「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょうか、、」。「神がつかわされた者を信じることが、神のわざである」。イエス様は言われた、「もしわたしの言葉のうちにとどまっているなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである」同8:31)。
    
I am His !, I am His !, と、共に、ペテロの信仰告白を叫びませんか!

前原利夫


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「すべての事について、感謝しなさい・・」
第一テサロニケ5章18節

“感謝、感謝、感謝”、この言葉は友が残した最期の言葉です。この言葉を聞いたとき、これが彼との最後の会話であろうと、悲しかった。この言葉が、今なお旧友の叫びとなって胸中に鳴り響いてやみません。

友、上原隆牧師は昨年11月20日午前3時過ぎに主の下に帰られました。人はいつか、必ず死ぬことが定められていると知りつつも、身内、友、教友との死別は痛いものです。

その痛みは在りし日の思い出で慰めて行くしかありません。良き友は深い思い出と模範的な生き様を残すものです。彼は最後の最後まで、忠実に主に仕え、喜びと希望の中に天に旅立って行きました。

友の癌との闘い:

上原牧師はリンフォーマ癌(リンパ性の癌)と2年半闘い続けた。リンフォーマ癌はCIDP(慢性炎症性脱髄多発神経炎)と言う病気を併発し、10万人に一人というまれな病気と闘いました。

CIDPは段々と右足の機能をとめ、痛みが治療できないほどになりました。電話で話す度に、この右足の痛みが話題となり、また私たちの祈りともなりました。

私も右足の回復が遅く、同病相憐れむと冗談を言ったものでした。天に帰る4週間前、彼の最後から二番目のメイルが届きました・・・

「前略、、いよいよリンフォーマの再発の可能性大です。来週の火曜日にその結果が分かり、その後の対処策が検討されると思いますが、厳しい事態が待っていることは確実のようです。後継者が来米するまで、健康を支えて下さるように祈っていますが、神の御心はどこにあるのでしょうか。体の隅々まで知っておられる神様の御手のなかに委ねて心は平安です。しかし、しなければならない多くの大切な仕事が待っている状況で、なんとか神様が耐えるだけの力を与えて下さるようにと祈っています。私と共に祈って下さい。中略、人生なにが起こるかわからないもの。そのことを強く教えられ、神様の前に畏れとおののきをひたすら教えられています。貴兄の上に主の守りと祝福がありますように!」

神様の御心は私たちの手の届くところにはありません、彼は最後の最後まで時間を惜しみ、体に鞭打ち、残された奉仕に精進しました。礼拝メッセージも痛む右足を労わりながら腰掛けて、召される前の週まで奉仕されました。

友の思い出、北米邦人への宣教情熱:

上原牧師は百合子夫人と共に、北米の邦人伝道の情熱に燃えていました。沖縄での伝道の機会がありましたが、彼らは未知の北米宣教の導きに全てを委ねました。1975年であったか、彼は単身北米宣教の下調べに乗り込んできました。私はハワイでの学びを終え、家族でロスに移動して未だ数年でした。彼をモンテベロの小さなアパートに迎え、共に数週間過ごしました。その間、三人の娘たちも連れて、グランド・キャニオンを案内することになりました。11月も感謝祭の頃、ラスベガスを経て、グランド・キャニオンの入口、フラグスタッフという町に投宿することになりました。その夜、私は彼の部屋を訪ねて、母教会のこと、恩師のこと、神様の不思議な導き、なぜ二人がこの知らない町で祈っているか等、神様の深い摂理を考え、感謝しました。彼は熱心に邦人伝道のために祈りました。翌朝、モーテルを出ると車は雪に深く埋もっていました。彼の雪の中の祈りは今も燃えるように伝わってきます。

友の記念会、2月25日:

友の記念会は彼が奉仕したワシントンDCの教会で執り行われます。私の体調は十分ではありませんので参列することができず、悔しいやら、悲しいやら残念です。沖縄から恩師の運天康正先生と奥様の君子先生が参列します。

先生ご夫妻は昨年も沖縄からDCへお見舞いに行かれ、私の見舞いにも来て下さいました。先生は高齢で決して丈夫な体ではありませが、弟子を愛する恩師の姿に私たちは只々感動し、感謝しました。この恩師ご夫妻を迎えての記念会は百合子夫人に大きな慰めとなり、力となることでしょう。

”感謝、感謝、感謝”、たとえ友の死を悼むとも、最期の言葉は主と共に生きていることの証であり、時きなば、この痛みも喜びの再会となるでしょう。

「死は勝利にのまれてしまった。
死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。
死よ、おまえのとげは、どこにあるのか。」

 第一コリント15章55節
  
前原利夫


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「わたしはよい羊飼いである。よい羊飼いは、  羊のために命を捨てる。」ヨハネによる福音書10章11節

十二支によれば今年は酉年です。どんな幸運を運ぶのでしょうか。私たちの教会は”よい羊飼い”の年として、新しい門出をしたいと願います。よい羊飼いは、他でもないイエス様です。イエス様は”わたしはよい羊飼いである。よい羊飼いは、羊のために命を捨てる”と語られました。幸運を運ぶのではない、貴方や私たしたち羊のために命を捨てられるお方です。

2017年は “イエスはよい羊飼い”  をテーマに皆さんとご一緒に励まし、慰めを頂き学びを進めたいと願っています。先生方には、新年礼拝からヨハネによる福音書からメッセージをして頂きます。毎週、一章毎に祈り、チャレンジして参ります。

イエス様はご自分を指して”よい羊飼い” と呼ばれましたが、悪い羊飼いもウロウロしているからです。
  

1)悪い羊飼い:

この類の羊飼いは強盗のような羊飼いです。羊を飼い、世話するのではなく羊を餌食とします。盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするために、羊の囲いの中に紛れ込んだり、柵を飛び越えてきます。また、雇われ羊飼いは全て金銭問題で羊を飼います。悪い羊飼いは打算的だから「金の切れ目は縁の切れ目」で逃げていきます。世にはこの様な偽羊飼い、偽キリストが徘徊しています。よい羊飼いからの警告です。

よい羊飼いはどんなお方でしょうか?
 
 

2)よい羊飼いは門である: 

羊の囲いは安全で平和な囲いです。この囲いにはたった一つの門、入口しかありません。安全、平和、安らぎを求める羊は全てこの門から出入りしなければなりません。山頂に達するのに幾つも方法や道があるといいます。しかし、救いの門はたった一つ、狭い門、イエス様の門です。囲いの中で魂が慰められ、癒されるのです。地上的には、この囲いはキリストの体、教会です。また、天上的には来たるべき神の家です。この門を潜り抜ける者が神と永遠に住まうのです。わたしは道であり、真理であり、命である、、、とイエス様は申されました。
   

3)よい羊飼いは先頭で導く:

羊が囲いの中から外の牧草地に出る時、それぞれの羊がバラバラに出て行くのではない。羊飼いが先頭に立ち、羊たちが迷わないように導くのです。羊は迷いやすい動物です。人間も迷いやすく、騙されやすい性格です。よい羊飼いの指導、先導がないと行き先不安、危険です。緑の野、草の茂る牧草地を知っているのはよい羊飼い一人だけです。悪い羊飼いはよい羊飼いが先導している限り、羊を攻撃することはありません。
  

4)よい羊飼いは命を捨てる:

イエス様はヨハネ15章でこう語られる”人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない”、と。イエス様は私たちを極限まで愛され、ご自分の命を十字架上に投げ出されました。こうして、私たちの救いの道が開かれ、罪の問題が解決されたのです。よい羊飼いは囲いの中の羊、また囲いの外の羊のためにも命を捨てられた。その命は強制されてではなく、みずから進んで捨てられるのです。よい羊飼いは再び命を得ることができるからです。

5)よい羊はよい羊飼いの声を聞き分ける:

私たち羊はよい羊飼いの声をよく聞き分けなければなりません。偽者の羊飼いは本物の声に似せるからです。誰の声か聞き分けることは私たちの責任です。門が一つであることを見分けることも私たちの責任です。巷の悪い羊飼い、偽キリストを見分けることも私たちの責任です。よい羊はよい羊飼いに倣います。

”主は牧者のようにその群れを養い、
そのかいなに子羊をいだき、
そのふところに入れて携えゆき、
乳を飲ませているものをやさしく導かれる。”

今年はよい羊飼いの年です!
    
前原利夫


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卑しい身分に徹した神の子、メシヤ
            
もう、12月です。全教会に喜びと希望、全人類に救いの道を開いたメシヤキリストのご降誕を祝う聖なる月です。メシヤの誕生と生涯はレッド・テープの栄光の花道ではなく、人が顔をしかめるような苦難の道であった。神は神であられることを放棄されたからです。

その卑しい、貧しい道を考えてみましょう。  ルカによる福音書2章は “初子を産み、布にくるんで、飼葉おけの中に寝かせた。、、”と語っています。

1.  イザヤ書53章の予言:

メシヤの苦難の道は同53章を語らずには進められません。メシヤ誕生の750年前、イザヤは”彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた”、とあります。メシヤの誕生、その生涯はこの威厳もなく侮られた道であった。パウロはピリピ書2章でこう語る”かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異らず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。” “かえって”、この表現は神の意思、選択である。

2. 卑しい身分で誕生:

人に捨てられるメシヤ 、十字架の死が定められたメシヤの誕生もそれに相応しい誕生でなければ話の辻褄が合いません。人に捨てられるメシヤが王宮で誕生し、豪華なライフスタイルで、十字架の死に従順なメシヤがローマ皇帝の保護の下に誕生することは矛盾です。名もない田舎の一処女の胎を借り、出産のモーテル宿も断わられて、動物小屋の片隅に誕生してこそ、メシヤにふさわしい誕生であろう。エルサレムの裾野のベツレヘムで誕生したものの、育ちは北のガリラヤの寒村ナザレの村であった。人類のメシヤは”ナザレ人”と呼ばれ、ガリラヤからなんの良いものが出るか、と侮られた。

3. 卑しい大工の職業:

肉の父ヨセフは石工の職業であった(マタイ13章)。家族は4人の弟、複数の妹、そして両親と家族は少なくて9人で構成していた(マルコ6章)。長男イエスは父の家業を継いで石工の大工であった(マルコ6章)。当時は、自給自足が原則のライフスタイル、大工の仕事がなけれな現金収入がなくなる。何時も仕事があるとは限りません。経済的にも豊かでない生活であったろう。ルカの福音書9章は”きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない。”とイエスの貧しい一面を記録している。石工の仕事は厳しく、特に暑い夏のイスラエルは重労働であったろう。石工の筋肉労働が後々の拷問や十字架を背負う体力作りに貢献したという人もいる。イエスの手足は石や斧で傷を受けたに違いない。

4. 卑しい弟子たち:

指導者の質はその弟子達の質で分かると言う。確かに、優れた指導者は素晴らしい経験、教育を積んだインテリの弟子達に囲まれている。失礼ながら、メシヤの弟子達はガリラヤの漁師、お金に目のない人、売国奴と呼ばれた税金取り立て人、国粋主義の人がメシヤを取り囲んでいた。無学の漁師達、貪欲な弟子、過激な弟子達は中央のエルサレムのお偉方の目にどう映ったことでしょうか。メシヤは烏合の衆と思われたこれらの人々を敢えて選り抜き、ご自分の側近とし大切な使命を授けた。弟子の選択はみ心に叶うものであった。人が見捨てるような者を探し出し、岩の中から堀出し、やがて宝石の様に磨かれた。私達も、この方メシヤの弟子の一人ではありませんか。

5. 卑しい階級の人たちに福音;

メシヤの働きは社会の下層階級の人々から始められた。病人、売春婦、収税人等、ユダヤ人の忌み嫌う人達であった。ご自身が侮られ、見捨てられた様に、メシヤは敢えてその様な卑しい人たちに神の国を伝え、救いを与えて人生に革命を起させた。癒された病人の数は数え難く、神の栄光を現す者となり、売春婦の改心はメシヤに仕える者となった。弟子の中には収税人もいた。

福音の革命、栄光の主:卑しくこの地上に誕生し、天の父の業をなされた主は、卑しいままで天にお帰りになったのではない。イスラエルの民は来るべき神の国を見、弟子達は神の国に命を賭け、エルサレム、ユダヤ、サマリヤ、そして地の果てまで福音を伝えた。卑しいとはこの世の人の目に映ることに過ぎない。神は永遠の計画の中に、ご自分の愛する独り子イエスをひと時人間の姿とし、栄光を捨てることをお許しになられた。そこに、私たちの救いがあるのです。神の視点と人間の視点は異なり、神の愚かさは人の知恵にまさる、とパウロは指摘する。

私たちのために卑しくなられたイエス・キリストを褒め、ご降誕をお祝い致しましょう。

Merry Christmas!

前原利夫


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” 主に感謝せよ、主は恵み深く、
そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。”        詩篇136篇1節

感謝祭おめでとうございます!

一年の経つのは早いものです。私事で申し訳ありませんが一年前の私はウォーカーで弱々しく歩き、また、前立腺の術後の痛みや不規則な排尿との闘いでした。あの痛みはこれまで体験のない我慢が限界に達したような激痛でした。ところが、痛みは不思議なもので治ってしまうと跡形もなく”ケロット” として痛み前の体に戻り、恰も痛みを体験しなかったように感ずるものです。

そのような体を癒すメカニズムを感謝しなければなりませんが、得てして、私たちは痛みの経験を愚痴り、不平を撒き散らす者です。私たちは過去の痛み、悲劇、苦難からの癒しを心にとめて、全ての良きものの源であられる主に感謝を捧げたいものです。

上記の詩篇136篇は宮詣での歌としても知られています。エルサレム神殿に上る時、”主に感謝せよ、主は恵み深く、” と叫ぶと、”そのいつくしみはとこしえに絶えることがない”、と呼応しながら、宮に入ったようです。136篇1-26節を要約、感謝の叫び声に耳をすませましょう。(是非、136篇をお開き下さい)

1. 唯一創造主へ感謝、1-9 節:

ダビデは1節の”主” とはどのようなお方であるか賛美します。このお方は”もろもろの神の神’、”もろもろの主の主”であり、”ただひとり大いなる方” として唯一天地万物を創造された神であるとします。天を創り、水を満たし、光を創って夜と昼を分けられたお方です。

このお方はアブラハムをカナンに召し入れ、モーセを解放者として遣わしイスラエルの民を奴隷の軛から解き放った大きな業をなされたお方、このお方以外に、人間の歴史に直接介入されたお方はいません。唯一創造主の存在と私たちの日々の生活に関わる主のみ業に感謝を捧げましょう。

2.大いなる業:奴隷の解放者に感謝、10-16節:

真の奴隷解放者は神ご自身であってモーセではない。モーセは主が命じた事を実行しただけです。主は敵の動きを熟知されるが、モーセは自分の味方の動きすら把握できない者でした。今、プロも大学もフットボールで週末は湧いています。

コーチの采配は直接勝敗と結びつきます。神はイスラエルの民を奴隷の地エジプトから導き出したコーチ、モーセはコーチのメッセンジャー的な存在でした。紅海を分けるようにモーセに命じ、ナイル川を血の川に変え、雹を天から降らされたのは神ご自身の業でありました。ダビデはおおよそ450年前、苦しめられた先祖イスラエルの民をエジプトの地から解き放された神に深い感謝を捧げます。

3.  大いなる業:領有地を与えられた神に感謝、17-22節:

この節から神が働かれた時と場所がエジプトそしてシナイ半島からカナンの地に移ります。カナン入口を阻むアモリ人、パシャン人を取り除き、乳と蜜の溢れるカナン入りに舗装道路を敷かれたのは神ご自身であられた。

約束された土地であったがまだ領有地ではなかったからです。カナン入りを果たし、定着して初めて国民としてのアイデンティーが誕生します。領有地なしの国民はあり得ない。イスラエル国民の産みの親はアブラハムでもない、モーセでもない、それは神ご自身であられる。

4. 卑しい者の身分を引き上げるお方に感謝、23 – 26節:

23節に”われらが卑しかった時に”とあります。”卑しかった”とは身分が低く侮られていたことです。イスラエルの民は400年の奴隷の身分から自由な領地が与えられ、人間の支配から神の愛の世界に引き上げられました。 モーセは荒野で40年羊飼いであったが、200万人といわれたイスラエルの民の長となった。ダビデ自身を言えば、卑しい羊飼いであったが彼を王座に据えられたのは神ご自身であった。

パウロは自らを”罪人のかしら”と呼んだ。 その卑しい身分を聖徒パウロにまで引き上 げたのはイエス様の福音の力です。私たちもかつては神の国から遠い者、そのような私 たちを神の家族、天国を国籍とする身分に引き上げて下さったのは福音の力です。

5.還元する感謝:

神様から頂いた健康、家族、仕事・ビジネス、財政、教会、信仰生活を支え祝福して下さる神様に感謝し、そしてその感謝を還元することを学びましょう。Tさんは主がビジネスを守り、祝福して下さっていることに感謝し、それを具体的に還元したいと先日教会に申し出ました。

それは、今年の感謝祭ランチはすべてTさんの負担で私たちに美味しいランチを準備して下さるとのことです。なんと素晴らしい感謝の還元でしょうか。ご婦人の方は料理作りの労から解放されます。お楽しみに。お友達をお誘い下さい。今年の感謝祭は例年と一味違う感謝祭になりましょう。私たちも具体的に感謝を表そうではありませんか。

感謝!

前原利夫


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世界で一番美しい言葉:I love you! ヨハネによる福音書3章16節

 
英国でキリスト教の偉い先生方が比較 宗教の会議の準備をしていました。仏教との比較、イスラム教、ヒンズー教、そしてユダヤ教との比較を論じていました。キリスト教で教えているのに、他の宗教では教えてないものはないか、等と話し合っていました。キリストの受肉、復活や天国の教えも他宗教にも類似した教えがあります。彼らは議論しながら中々結論に達するこが出来ません。 そこに、協議をしている先生方の部屋をC S Lewis博士が通り過ぎようとして立ち止まりました。”先生方、何をガヤガヤ話しているのですか”、と尋ねました。”はい、ルイス先生、これこれ、、です”、と応えました。博士は”それは簡単です、神の恵みですよ!神の恵み!”、と回答されたとの事です。

1.  神の恵み:神の恵みとは一体なんでしょうか。

聖書の”恵み”とはただで受けるものです。報酬は労働やサービス対する対価です。恵は条件なしに受け取るものです。最近、こんな心温まる祖父母と孫の関係を聞き、何か自分がしたような気分で爽やかな話です。孫は大学二年生で週に20時間近くアルバイトをしている。父から譲って貰った古車の修理が最近続き、新しい車が欲しいな〜と思っていたという。と言ってもアルバイトの稼ぎは雀の涙ほど、ダウンペイペントが貯まるまでは大学を卒業してしまいます。

その話を祖父母が耳にし、ある晩孫と話し合ったとのことです。祖父母は孫にダウンペイメント$5,000をオファーしました。ビックリした孫は” You do not have to do”、と遠慮しました。祖父母は孫の名前を呼んで”Because we love you:”, と応えて、サラサラとチェック書き、その場で手渡したとのこと。チェツクを書いた祖母は何の痛みも惜しさも感じなかったとのこと。その夜、祖父母はベットの中で孫への愛を更に深く感じた、という証しに励まされました。

孫は祖父母からただで受けました。これ恵みです。祖父母は孫へ無条件で与えました。これ愛です。神と人間とはこのような愛と恵みの関係にあります。人間は受ける側、神は与える側、この原則は変わることはありませ。恵みと愛はコインの表と裏みたいなものです。

2. I love you の神

1) 貴方が知らなくても:神は貴方が神を知らなくても貴方を愛しています。神は知られているとか知られてない、という状況下で愛するのではありません。神の愛は無条件で普遍的です。神を知らなくても神は私たちを愛さずにはおられないのです。太陽も雨も差別なく注がれるように愛しています。赤ちゃんは誰が両親か分かりませんが、両親は自分を知らないからと赤ちゃんを愛さないでしょうか。それ、神の愛です。“しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。”(ロマ書5章)

2) 天から降りて人を探す:一般の宗教は人が神を求める姿が圧倒的です。ですから、自然と人の考えや希望、要求が信じたい神に反映するのです。聖書の神は上から下に向かう法則です。神が私たちを捜し求めて祝福を与えようとしておられるのです。探すとは、人が神から離れているからです。ルカ15章の失われた1匹の羊、失われた一枚の銀貨は神の人を求めてやまない姿です。今日も、貴方を探しておられます。

人は天に昇ることは出来ません。だから、神はこの地上に降りてこられたのです。神の子、メシヤとして人間の形をまとって二千年前にこられました。”キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守しべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた、、。”(ピリピ書2章)

3) わたしの目には尊い:人は他人のあら探しをします。しかし、神様は完全なお方ですのに私たちは神様の目には尊いのです。神様は愛せずにおれないご性格だからです。
 ”あなたはわが目に尊く、重んじられるもの、わたしはあなたを愛するがゆえに、、、” イザヤ書43:4  Since you are precious and honored in my sight, and because I love you,,”

神の恵みは不可解なほど深く、
神の愛は大水も覆うことができない。

前原利夫 


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“するとウジヤは怒りをはっし、香炉を手にとって香をたこうとしたが、、”歴代志 26章19節

ここ数ヶ月、歴代志の王達の信仰や彼らの業績に興味があり、メッセージに取り入れたり学んでいます。歴代志上下は南のユダ王国の歴史を綴る貴重な歴史資料です。8月の礼拝メッセージでヒゼキヤ王を取り上げ、彼の霊的リバイバルを学びました。今号では、祝福されたウジヤ王がついに王座から転落、そのドラマを考えてみましょう。

1)サウル王とウジヤ王:

サウル王(BC1020)はイスラエルの初代の王、ウジヤ王(BC783ー42)はヒゼキヤ王から4代遡る王です。サウルは王位に着いた頃は大変用いられたが王権と祭司権を混乱、やがて王座から転落する。ウジヤも52年の長期政権でエルサレム、ユダ王国を繁栄に導くが、やがて王権と祭司権を混乱、王座から転落する。二人の共通点は彼らの”心の高ぶり”であった。

2)王と祭司のチームワーク:

サウル時代のイスラエルの民はこれまでの神聖政治を好まず、王政政治を選択した(詳細はサムエル記上8 章参照)。神は祭司であり預言者であるサムエルを通して、民の選択に譲歩する。微妙な言い方ですが、神はこの事を民の我儘として容認し、警告と共に王政政治の機能、働きの骨組みを諭す。

しかし、人間の知恵や努力で国民の福祉や防衛は覚束ない。そこで、神は民が選ぶ王の傍に祭司を指名して、ご自身の意図を王に伝えるようにされた。祭司サムエルはサウル王とダビデ王に、後年、ダビデは預言者ナタンを側近とされた。ウジヤ王には祭司ゼカリヤ、ゼカリヤの死後、祭司アザリヤを立てられた。王と祭司のチームワークは神聖政治の真髄である神の御心、公平さ、神の愛を政策に反映するためである。従って、祭司の助言を無視することは神の御心を無視することになる。

3)ウジヤ王の豊かな繁栄:

ウジヤ王は長期政権を通して国民を豊かにした。農事、治水で貯水池の建設、町々の建設、領地拡大で経済も軍事力も拡大した。また、当時、新兵器の飛道具を開発する技術者を抱えていたと、興味ある記録がある。この豊かな繁栄の恵みに与った事を、歴代志の著書は”彼は神を恐れることを自分に教えたゼカリヤの世にいる間、神を求めることに努めた。彼が主を求める間、神は彼を栄えさせられた。”(歴代志下2:5)とある。しかし、言外に、ゼカリヤの死後、ウジヤ王はどうなったかと不安な響きがしないでもない。

4)高ぶりは滅び:

王座の頂点にいたウジヤ王の転落はゼカリヤの死と共にきた。また、ゼカリヤの後継者である祭司アザリヤを軽率に扱った。王の高ぶり頂点に達した。ゼカリヤと共に歩ん時は、神を恐れたが、その恐れの心は消え失せ、権力を笠に祭司の務め、霊的務めに口出しした。彼は国の繁栄を自分の手柄と思い、祭司の職務である宮に入り、祭壇で香をたこうとした。この職務は祭司の領域であって祭司権のある者の務めである。

例え王でも越境できない聖域である。アロンの子孫で香をたくために清められた祭司たちのする務めであった。ウジヤ王の高ぶりは王権と祭司権の混乱で、祭司の働きは神の使命の達成であることを忘れていたのある。高ぶりは神の領域まで自分の領域とする程に恐ろしいものである。ウジヤ王はたちまちにらい病に撃たれ、王座から転落する。死ぬ日までらい病を患ったと記録されている。

最後に、ウジヤ王の高ぶりから ㈰自分の領域と他人の領域を知る、㈪神の祝福の原則を忘れるな、㈫ 悔い改めの機会を失うな。
私たちも心して主の前にへりくだり歩もうではないか。

高ぶりは滅びにさきだち、
誇る心は倒れにさきだつ、 箴言16:18

前原利夫


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わたしはあなたの定めを喜び、あなたのみ言葉を忘れません。 詩篇119:16

聖書をよく理解するために、私たちは”キーワードを探せ”とよく言います。鍵言葉は、マスターキーが幾つものドアを同時に開くことが出来るように、難しい聖句を解く助けをします。

私はガラテヤ書、エペソ書そしてピリピ書の学びから、文章の中に”軸”を探し出す読み方に気が付きました。

軸とは”物事の中心”です。組織やグループの活動の中心は軸です。私たちの教会の活動の軸は何でしょうか。それはみ言葉を伝える福音宣教がGVICの活動の軸です。この中心である軸に向かって教会の活動は展開しています。

ちなみに、貴方の生き方の軸は何でしょうか。しばし、沈黙、祈りの中に”自分の軸”、そしてその”軸を据えている土台”を考えてみませんか。

もう一度繰り返すと、文章の中で軸になるものが見えてくると、周辺のものが中心である軸に向かって書かれている事が見えてきます。軸が分かると全体の構成、どのように骨組みが組み合わされているか分かります。

軸が見えないと、周辺がバラバラで中心に結びつける事が出来ずサブタイトルが見えません。軸は周囲の物を中心に向けさせる力があり、周囲の物が中心へとなびいていくのです。

例えば、先月学んだピリピ書3章の読み方、そこで軸を探します。17節”わたしにならう者となってほしい”とあります。この言葉を軸として捉えていくと、3章全体の構成がよく見えて、周囲が軸に向かってなびいているように読めます。

パウロは自分の過去、人生の変化、現在の目標、未来について話していることがはっきり分かります。ドラマチックに言うと、ここ3章はパウロの人生の過去編、革命編、現在編、未来編とサブタイトルから構成されています。

17節の軸に向かって周辺を整理し解釈してみましょう。

軸: ”わたしにならう者となってほしい” 。

 

1. 私の過去:

1〜6節:パウロはここで”肉の頼み”という表現で、過去の自分が誇りにした生き方を話します。それは、ユダヤ人の誇り、特権とした割礼、イスラエル民族であること、即ち、神の選びの民であることの誇りです。

そして、12部族の中のベニヤミン出身であること、要するに純粋のヘブル人としての民族的誇りを上げます。ヘブル人の特徴は代々守ってきたモーセの律法を実行すること、中でもパウロは律法学者として優秀な人物であったようです。

その名声、名誉、誇りはこの世のミリオネヤーの誇りよりも高いものであったろう。パウロは律法の義については落ちどのない者、完全な者と自画自賛するほどである。驚くべきことに、教会の迫害者であったことも過去の誇り、自慢であった。”私にならう者となれ”、これが、パウロの過去でありました。

 

2. 私は変わった、誰が私を変えたか:

7ー9節:パウロは過去の誇りを自分の現在に結びつけて、過去の一切を”キリストのゆえに損と思うようになった”、また、もっと強力な言葉で”それらのものをふん土のように思っている”、と現在から過去をなじる。何故、キリストのゆえにですか?

それはキリストを知る知識の価値、その絶大さから過去の誇りは比較にならないふん土、排出物、無駄で無価値な生き方であったからです。以前は、律法に命を賭けて救いを求めていた。

然るに、キリストを知ることによって、救いはキリストの十字架の中にあり、それを信じるだけで救いに至るからである、この救いの真理に霊の目が開かれたのです。マラソン競争の決勝点を目指して走っていたのに、走っても走っても、ゴールが見えない。なんと、傍らのキリストの中にただ飛び込めばいいことを知ったのです。私たちの難行苦行は救いの達成になんの益もない。

 

3. 変わった自分の目標:

10ー16節:パウロの生涯の目的は”キリストを知る”、”キリストの中に自分を見出す” ことに釘付けされた。10節で”キリストとその復活の力を知り、その苦難にあずかって、その死のさまに等しくなり”とあります。

難解な点ですが、キリストの生涯は苦難の十字架と勝利の復活に要約されますから、この二点にパウロの目標が絞られた。我々の霊性では発想も出来ない、パウロのキリストを追求する崇高な姿です。キリストにある一体論か。

最後、キリストにある自分の未来, 17〜21節:パウロは過去、現在、キリストを述べて最後に、来たらんとする神の国、私たちの国籍は天にある、と語る。

やがて、私たちの朽ち果てる体も、栄光のキリストの体に似てトランスフォームされる。パウロは死後の準備も漫然に整えている。 だから、”わたしならう者になりなさい”、とパウロは貴方に私に声をかけている。

前原利夫


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「ところが、主が言われた、”わたしの恵みはあなたに対して十分である、、、”」 コリント人への第二の手紙12章9節

私の生涯の中で2015年7月2日は忘れられない日となりました。一年を振り返り証と感謝を述べさせて頂きます。この病は、静かに足跡もなく忍び寄り、突然に一夜の大嵐の凄まじい激痛となり、私の肩から頭部に襲いかかった。2ヶ月近くの入院、ICUから2ヶ所のリハビリセンターに移動、在宅リハビリ、そして一年後の今も、リハビリに勤しんでいる。

1. 脊椎狭窄症の大手術:

聞いたことのない病名、この病気の恐ろしさは体験した人でないと知ることはない。私は臆病だからであろう、この病気は厳しく、大変な病気だ。思わぬ合併症との闘いも数々ある。

昨年6月29日、その日はアジアン・アクセス(Asian Access) の役員会、その晩は私の役員引退のお祝いであった。褒められ過ぎてか、睦子とルンルン気分で10時頃帰宅。その時、肩と頭部に激痛が走る、我慢が出来ない痛みだ。”おい、睦子肩を揉んでくれ”。彼女のマジックハンドのせいか、激痛が柔らいだ。翌日もAAの会議、特に異常はない。

その翌日、7月1日はいつものように会社へ、しかし気分がスッキリしない。その日は祈祷会の準備もあり、早々と退社。3時頃から準備を始めたが、ソファーに座り込み、片手に本を抱えて眠り込んでしまった。

1時間後、右手と右足が痺れ、自由に動けない。夜を迎え睦子のドライブで祈祷会へ向かった。痛みを堪えつつ奉仕を無事に全うした。見るに見かねて、兄弟が”先生、肩を揉んであげましょう”、と私は床に横たわった。しかし、何の効果もない。私達は、お礼にと近くのラーメン屋で夜食をとることにした。ところが、スープをすくう左手のスプーンがブルブル震えてすくえない。

そのまま病院へ走ることにした。夜の救急患者は一杯でバイオチェックを済ませ、そのまま入院とあいなった。ドクターはブレイン・ダメジか ストロークと判断、すぐMRIを撮った。しかし、そのような跡形はない。もう一度、首のMRIを撮ることになった。5、6人のドクターが集まり、何やらドヤドヤしている。娘たちも集まっている。即時、手術をすることになった。昨年の7月2日、忘れることが出来ない。肩から首にかけて30近くのステッチで溝が出来ている。

2. 主は教会のかしらなり:

早速、退院までの対策を立て、教会が混乱しない様にキム先生ご夫妻と相談。毎週の礼拝をどうするかが、一番の心配であった。織田先生、キム先生、明子さんの3人でローテイトすることになった。後日、辻本先生が奉仕に加わりました。祈祷会は織田先生が担当、毎週の礼拝プログラム、飛脚、それに対外的な連絡は明子さんが担当。

大事な要件は従来通りに世話人会で相談、実行することになった。この新しい奉仕はこれまでの奉仕に更に重なるもので皆さんがどんなにか大きな働きをなさっているか。勿論、紙面で紹介されてない多くの奉仕もあります。報酬も殆ど皆無である。元々、私がいるから教会が動いているとは微塵だに思ったことはない。まさに、その通りです。

教会のかしらは主イエス様です。この貴いお方が教会のかしらであり、全てを取り仕切っておられるお方です。栄光が主イエスにあります様に、そして、GVICの全ての祈る人々の上に、とくに多くの奉仕を担っている先生方の上に、祝福を祈るものです。

3. ”わたしの恵みは十分だ”:

これはパウロが肉体のトゲを取り去るように3度も祈った時に、主がお答えになられた言葉です。弱音を吐いたり、落ち込んだり、薬のせいか気分がすぐれない時など、主からの恵みを忘れて勝手に振る舞い我儘を言ったりするものです。

その時、この言葉が励ましとなり、自分の祝福され、恵まれた環境を一つ一つ思い起こさせる言葉である。 リハビリ中、何の不足もなく全てが満たされ、自分の希望通りに生活が出来る事は幸いです。

私にとって”主の恵みは十分です”、いや、完全です。1日も早くフル奉仕に戻るようリハビリに励んでいます。どうぞ、ご奉仕と祈りをもって支えて下さるようにお願い致します。

前原利夫


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ガラテヤ書のまとめ

私たちは4月から6回にわたりガラテヤ書を学びました。三人のメッセンジャーが担当しましたが、一人のメッセンジャーが解釈する場合とアプローチに違いがあり、また、強調点にも違いがある。個性的で豊かで良い経験と言える。エペソ書、ピリピ書の学びも複数メッセンジャーで続きます。

今号では、ガラテヤ書の総括として、以下三ポイントでまとめてみました。

1. キリストにある自由:

5章1節に”自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。、、”とあります。ガラテヤ書はキリスト者の自由の書、律法主義との闘いであった。行い、規則を守る事を救の条件としたユダヤ教と決別の闘いでもあった。パウロの闘いは信仰による救い、キリストの十字架を擁護して叫んだ。パウロは5章13節でもキリスト者の自由を叫ぶ。

5章1節はガラテヤ書の分水嶺と言えよう。1章から4章までは上記のテーマで続き、5章1節がその結論と言えよう。そして、パウロは5、6章でキリスト者の倫理、御霊 の実を紹介する。キリストによって自由とされた者の歩み方である。イエス・キリストを信じることによって正しく生き、その生活姿勢によって信仰の正しさを証していくのである。これこそが真のキリストにある解放である。

2. キリストの清さに生きる:

キリストに解放されて自由に生きるキリスト者に具体的に 清く生きることを教える。キリスト者の自由は自由奔放に生きることではない。清く生きる原動力である御霊の助けを求め、愛をもってお互いに仕え合うことを勧める。互いにいがみ合い、食い合っては双方とも滅びの道だと警告する。人、清く生きずして互いに平和に生きることはできない。5章の19節 にきて、あの有名な肉の人と霊の人、御霊の実を語る。

キリストなしの生活とキリストと共に歩む生活を対象する。私達も9つの御霊の実を結ぶ努力をしようではないか。更に、パウロはさまようキリスト者を優しい心で導くように諭す。しかし、悪い行いの果を知りながら悔い改めない者にはキッパリとその実を刈り取ると強く警告する。私達弱い人間は、目の前に落とし穴を見ながらそこに足を運ぶことがある。悪い結果を知りながら、悪い種を蒔いてはならい。

3. キリストを誇りとする:

パウロは6章1節で”しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇りとするものは、断じてあってはならない。”、と宣言する。この十字架の誇りはガラテヤ書の総決算、結論を一言で表したものではないか。この誇りのために律法主義者と闘い、十字架の救いを取り除こうとする者を呪う程にパウロは闘う。かつては、この十字架を呪い、十字架を糞味噌のように迫害した者の革命的改心であった。今や、パウロの喜びは全てキリスト中心であり、パウロの歓心事もキリストの以外にはない。

彼は叫ぶ”生きているのは、もはや、わたしではない。キリストがわたしの内に生きているのである。”、と。第一コリント9章の引用が許されれば“わたしが福音を宣べ伝えても、それは誇りにはならない。なぜなら、わたしは、そうせずにはおれないからだ。”。ガラテヤ書を閉じるにあたり、パウロ自身の手書きで“わたしは、イエスの焼き印を身に帯びているのであるから”。私たちは如何ほどに十字架の福音を感謝し、誇りを持ってイエスの福音を隣人に伝えているであろうか。

2000年前のガラテヤ書はやがて15世紀の宗教改革者達の心を揺さぶり目覚めさせ、マルチン・ルターに率いられヨーロッパ全国に霊の覚醒をもたらした。今日、私達もキリストにある救いと自由の中に祝福を頂いている。キリスト共に清く歩み、イエス様を誇りにしようではありませんか。

前原利夫