ヨハネの福音書のテーマの一つは「イエスヨハネの福音書のテーマの一つは「イエスは誰か」「Who is Jesus?」と言えます。

今号はこのテーマに挑戦します。同福音書を開く度にこのテーマに注意を払いながら読んでいました。他の福音書にない特徴です。

今回、皆さんと1章から21章まで学びながら、私は1章毎に「イエスは誰か」を念頭に入れてノートしてきました。そのノートをベースに同福音書は「イエスは誰か」をどの様に証しているかまとめてみます。お断りしておきますが、ご紹介します資料は再度の確認チェック(三回チェックしましたが)が必要です。

しかし、今回の学びの範疇では問題がないと判断し、タイトルは「イエスのプロフィール」として進めます。口語訳聖書を使いました。

1.「イエスのプロフィール」の意味:


ヨハネの福音書で「イエスは、、、である」という宣言文章は直接であれ間接的であれ、イエスのプロフィールと解釈した。「イエス」を指した「キリスト」や「彼」や「ヨセフの子」のような代名詞もイエスと同等とした。プロフィールはイエスをメシヤ或いは神と肯定することだけではなく、否定的な呼び方、嘲笑もその一つとした。ある者はイエスは悪霊にとりつかれているなどと頭から否定し、敵対したほどである。

この様に21章まで数えると約60回数える事ができる。イエスご自身がご自分を指して呼ばれたのも含まれている。同じ呼び方が繰り返されている場合はおおよそ90回を数えることができる。プロフィールの一部を紹介すると、例えば「世の罪を取り除く神の小羊」「教師」「命のパン」「あれはよい人だ」「罪人である」「人の子」「ユダヤ人の王ばんざい」「我が主」等である。

2.どんな人達か:


上記の60回のプロフィールはどんな人達が登場してイエスを「、、、」
と呼んだか、或いは信じたかリストしてみよう。そうするとプロフィールの内容が浮き彫にされて、この人或いはこの人達は誰かが多少とも想像がつくものである。

バプテスマのヨハネ、弟子達のナタナエル、アンデレ、ピリポ、ペテロ、ヨハネ、トマスです。そして、群衆、ある人達、サマリヤの人達、下役、兵卒です。個人的にはニコデモ、サマリヤの女、盲人、マルタ、マグダラのマリヤ、ピラトです。十二人の弟子達の中で7人はイエスのプロフィールに拘っていない。その中にユダがいるのは珍しいことではない。

3.プロフィールを5つに分類:


60回のプロフィールを内容により大まかにこのように分けた:1)神・メシヤと呼んだ、 2)王と呼んだ、 3)人と呼んだ、 4)喩えて呼んだ、 5)否定的、嘲笑的に呼んだ等。神・メシヤとした呼び方が全体の4分の1でイエスを人でもない、王でもない、神と宣言した(イエスご自身もこの呼び方を何度もしている)。

最後に、イエスのプロフィールがこの21章からなる福音書に60回も記録されているのは、この福音書が「イエスは誰か」「Who is he?」と追求したからでしょうし、また、プロフィールの数の大きさは、神・メシヤを記述する単線的な表現がないからでしょう。

誰が、一体神の無限の働きを一言、二言で的確に表す事ができましょうか。ヨハネは「ナザレのイエス」が真のメシヤであり神であられることを追求し、それを証するために多角的に多面的に「イエスのプロフィール」を同福音書至るところに取り上げられたに違いない。メッセージを準備する方には「イエスのプロフィール」はテーマを数多く提供するに違いない。

私たちはこの様な真の神様に信頼し、生活を委ねて歩んでいるのは何と幸いなことであろう。 (紙面の関係上、学びの結果をここにご紹介できませんが、興味のある方は私の学びの確認作業をして頂きたいと願います。ご連絡下さい。)
                  
前原利夫


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今年1月の第1礼拝からヨハネの福音書1章を学び初め、6月の第2礼拝で終章21章を学び終わります。今号は13章をメッセージした折に心に強く残った8節のイエス様の言葉「あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」この言葉をご一緒に考えてみましょう。この言葉は最後の晩餐でペテロに語られたとても重要で見過ごし出来ない主の言葉です。
 

弟子の洗足と十字架 「あなたはわたしとなんの係わりもない」 ヨハネの福音書13章8節 

結論から言うと、弟子たちの洗足はこれから十字架にかかり、罪を贖い、罪の赦しの 業をなそうとする予告、影であると考えています。勿論、メシヤの深い謙遜を示すモデルでありますが。一面人の足を洗うことは、当時、奴隷や僕のする事でありましたから、これは他人の罪をも背負う事と同じほど恥かしい業であったと思います。
 
これまで、この箇所を何度も何度も読みましたが、弟子たちの洗足はイエス様の謙遜を表すという枠内で理解してきました。ところが、今回弟子たちの洗足はそれ以上の意味があるように思わされています。弟子たちの足を洗うイエス様の姿が十字架のイエス様と重なり、ダブッテ見えるではありませんか。それは、イエス様がペテロに「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりわりもなくなる。」というイエスの言葉にその鍵があります。その辺から考えてみると、

洗足は十字架の影:

8節に、ペテロは、多分遠慮したのでしょうか、イエス様が足を洗おうとすると「わたしの足を決して洗わないでください。」と断ります。イエス様の返事は「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる。」。

このイエス様の言葉は、足を洗ってもらう事がどんなに大事か示唆しています。それは足を洗われなければならない者が避けられない、通らなければならない洗足です。イエス様の意図は足の汚れを落とすのは選択ではく必須条件であるという意味でしょう。十字架の罪の赦しも選択ではなく必須条件です。ここに十字架の影としての洗足があります。

ペテロはこれまで3年半朝な夕な主に仕えて福音に従事してきました。12弟子を代表する人物です。このペテロに向かって、どうしてイエス様が大変厳しく聞こえるような”あなたとは関係がない” とことの重大さがなく言えたのでしょうか。

それには、それなりに撤回できないイエスの理由があった筈です。弟子の洗足は単にイエスの謙遜を示す姿ではなく、翌日の十字架の影だからです。

洗足は罪の赦しの証:

洗足してもらった人は12人の弟子たちでユダもその一人です。主が足を洗われた時、ユダの心の中には既に悪魔が入り込んでいました。イエス様はそのようなユダの足をも洗いました。

十字架の贖いは全ての人類に対してで悪い人も、罪人にも有効であるからです。悪魔が入ったユダにさえも。ただ、受け入れるか受け入れないは十字架と係わりを持つか持たないかです。

十字架は十字架を受け入れる人に対する罪の贖いの業です。ですから、十字架を受け入れる者は誰でもイエス様と係わりのある者で、受け入れない者は救いと係わりのない者です。足を洗う事を拒む人はイエスと係わりのない人で、足を洗ってもらう者はイエスの救いと係わりのある者です。

ここで、洗足式に与らない者は、罪の赦しの十字架を断る者として「あなたはわたしと係わりがない。」とペテロに警告したと思います。なぜ、これ程までに洗足式に意味があるのでしょうか。 洗足式は明日に控えた十字架を示すものであるからです、と考えます。

もし洗足式が十字架を表すものでなければ、どうしてイエス様はそのように厳しくペテロに「あなたはわたしとなんの係わりもない」と警告されたでしょうか。洗足は十字架の影です。

7節で、イエス様は「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるであろう。」と謎めいた言葉を残されている。

前原利夫


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5月14日、母の日を迎えます。礼拝に元ヤクザの井上宣教師をお迎えします。ランチは特別ランチで母の日をお祝いします。今号の飛脚は3人の先生方のお母様の証をしていただきます。

私の愛するお母さん  キム師:

母は、第2次世界大戦後に韓国に生まれ、1950年からの韓国戦争を目の当たりに育ちました。戦争で全てを失い、5人兄弟の末娘だった母は、満足な食事はできませんでした。
1969年、母は会計会社へ就職し、私の父と出会い結婚します。父は真面目によく働き、家を購入し、私が生まれました。

ある時、叔母がアメリカへ移民し、ビジネスをするための費用を父に相談しに来ました。父は家を売りお金を都合します。しかし、その直後に父の会社が倒産し、父は安定した仕事に就くことができず、経済的にとても厳しい日が続きました。しかし、そのような中であっても母は決して愚痴を言いませんでした。むしろ、朝から晩まで家でできる内職を見つけて働きました。

アメリカへ移民した時、母は40歳。工場やスーパーで働きました。私は母が働いていないところを見たことがありません。

母が50歳になって、低賃金でしたが、老人ホームにてベットメイキングの仕事につきました。一生懸命働いて、夜はアダルトスクールで英語と介護の勉強をしました。そして10年後、ベットメイキングからアクティビティディレクターと昇進します。今、母は70歳になりましたが、今もフルタイムで同じ老人ホームにて働いています。

家では父の世話、孫の世話をし、教会を休むことなく、奉仕もよくします。
私は箴言31章を読む度に母を思います。そして、主にこの母を心から感謝します…


私の母は今年の7月で92歳になります。 織田師:

「彼女は夜明け前に起き、家の者に食事を整え、….しかし、主を恐れる女はほめたたえられる。」(箴言31章15a、30b)。

私の母は今年の7月で92歳になりますが、息子達のそれとは似ても似つかないほど(?)髪の毛がふさふさ。ペン字、習字も驚くほどの達筆。息子達は既にぼけ現象が始まっているが、母の記憶力ときたら驚異的。

一時は白内障で虫眼鏡で聖書を読んでいた母だったが、数年前レイザー手術をしたら眼鏡なしでも見えるようになり、自分ばかりでなくお世話になった人のためにと以前高田姉宅で習った毛糸のマフラーをいくつも編んだり、何百ページもある本を2~3日で読むほど。

5年前トロントに住むアパートの屋内プールで「泳げない!」と言う母に泳ぎ方を教えたら数メートル一人で泳ぎ始めたのには周りにいる人も拍手。

80歳を過ぎてからコンピューターをさわってEメールを始めてから、今ではフェイスブックやラインなどで孫達と会話しているという母の「新しいことへのチャレンジ精神」にはまったく頭が下がる。

「70年も昔で忘れました!」と言いながら、日本語のわからない家内に「I love you!」と英語でスカイプしてくる。子供の頃目を覚ますと、早くから起きて母の料理する音が聞こえてきたが、今も母の料理は最高だ。1994年に父母共に洗礼を受けて以来、聖書を学び続けている母を私は誇りに思う。

私の母は、とても怖い母でした。李師:

私の母は、とても怖い母でした。子供たちは母親に甘えることはありませんでした。私たちの家は、韓国の由緒ある家で、父は国会議員。母は、梨花女子大を出た人で、美貌と知性をもっていました。威厳があり、家の人たちは勿論、父の政治家仲間も皆、父よりも母を怖れていました。私たちは、母が傍を通ると冷たい風がよぎるように感じたものです。家には、多くの女中がいました。

皆貧しい家の出で、奴隷のように使われていました。彼女たちは、時々銀のスプーンなどを盗むのです。家にある銀器は無数にあるのに、母には、それが盗まれるとすぐにわかるのでした。そして、女中部屋に直行し、盗んだ女中の風呂敷を開き、そのスプーンを見つけます。驚くべきことには、母にはだれがそれを盗んだのかわかるのです。

大きなテーブルの上にうつ伏せに寝かされ、ムチ打たれる女中を、母は腕を組んで見ているのでした。

父が亡くなり、母が本当のクリスチャンになってからのこと、母が私に“こんな私でも、天国に行けるかしら”と訊きました。自分が女中にムチ打たせたことなどが思いだされて、そんな自分が天国に行けるのかと不安になったというのです。私はそれを聞いてびっくりしました。そして、慌てて“何を言っているんだ。イエスさまの十字架は、その為じゃないのか”と言ったのでした。

たぶん、母は、わかっていたのだと思いますが、振り返ってみて、自分のしたことが無性に悲しかったのだと思います。その母も16年前に主の御許に召されていきました。もう悩むこともないでしょう。「わたしは、あなたがたに平安を残します。・・・あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネの福音書14章27節) 

3人の先生方、ありがとう御座いました。キム先生のお母様、織田先生のお母様、主の祝福の中にいつまでもお元気で、李先生のお母様は救われて天に召されました。3人の先生方をGVICに遣わして下さったイエス様に、心から感謝致します。

母の日、お母様に、神様に感謝の日としてお過ごし下さい。

Happy Mother’s Day!

前原利夫


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フォークを捨てないで、最善はこれからです! (Keep your fork, the best is yet to come!)

末期ガンを患うあるご婦人が、この世とお別れの準備で身の回りを整理し始めました。牧師にお葬式の時の賛美歌、聖書の言葉、埋葬されるときの衣装、また、いつも使っている聖書も共に埋葬するよにお願い致しました。

相談の後、牧師が立ち去ろうとした時に、ご婦人は、何かを思い出したかのように”先生、ちょっとお待ちください”と興奮しながら呼び止め、そして、私を埋葬するときはこの手にフォークを握らせて下さい、と注文しました。牧師は何の意味だか分からないままに立ちすくんでいました。

ご婦人はこの事を説明し始めました:”先生、私はこの教会に長年出席し色々なソーシャル・イベント、ポトラクまたディナーに参加しました。メインの食事がすみ、後片付けが始まると、必ず誰かが ”フォークを捨てないで”、と叫ぶのです。私はこの事の意味を知っいるので、これから何が出るのかとても楽しみでした。

それは、柔らかい舌ざわりのよいチョコレートか煮込んだアップルパイが最後のデザートだからです。そこで、先生、棺の中で私がフォークを握っていると、会葬者はこれはどうしてですか、と尋ねるでしょう。その時、先生、”フォークを捨てないで、最善はこれからです”、” Keep your fork, the best is yet to come! とお話し下さい。

では、私たちの葬式後,何が最善を考えてみましょう。

1.死は滅ばされた:「主はとこしえに死を滅ぼし、主なる神はすべての顔から涙をぬぐい、その民のはずかしめを全地の上から除かれる。これは主の語られることである。」(イザヤ書25:8)。神が既に死に打ち勝っていることは新約以前の教えでります。死は罪を犯したためにその報復として人類が受けている処罰です。

もし、罪がなければ死も存在しなかったはずです。神が死を滅ぼすことができるのは、罪を犯すことのできない、完全なお方であるからです。第二テモテ1章10節はキリストの出現は確実に死を滅ぼしたと宣言する:「、、、キリストは死を滅ぼし、福音によっていのちと不死を明らかに示されたのである。」

葬式後の最善、それは次の次元の命に移されていくプロセスなんです。

2朽ちないものに姿変わりする:次の次元の命に移されるためには、肉体の死が新しく生まれ変わらなければなりません。それは復活という過程です。パウロは第一コリント15章でこう教えています:「ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終わりのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。」。死人は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられる、とパウロは教えています。

ラザロの甦りは復活の事実を群衆に証した。復活のイエス様の体は朽ちない体の見本ではなかろうか。空間に制限されることなく、閉ざされた戸を通り抜け、エマオの途上で弟子たちと語り、突然姿を消されるイエスの体は、朽ちるものから朽ちないものに変わる証拠ではないでしょうか。

葬式後の最善、私たちは永遠に生きる保証を頂いている。

3.我が住まい、新しいエルサレム:イエス様はヨハネの14章で「わたしの父の家には、たくさん住まいがある。もし、なかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。」と。この天の場所は私たちの永遠の住まいです。“マンション”となっている英訳もあるが、超高級マンションです。

黙示録21章は私たちの永遠の住いは新しいエルサレムであると指定している。マンションの設計、装飾品、建材はガラスの様な純金、宝石、碧玉、サファイア、めのう、ひすい、真珠、その他見聞きしたことのない宝石です!

パウロは自分が生きているのはキリストのためであり、寧ろ、死を選択しているのは新しいエルサレムを既に見ていたからであろうか。葬式後の最善、この地上の仮住まいから永遠のマンションに住所変更を出すことができる特権です。
   
信仰を持ちましょう、イエス様を愛しましょう、我らの最善は今この手にあります!

ハレルヤ、復活の主イエス・キリスト!

前原利夫


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2月12日の礼拝で、私は6章から「わたしは天からの命のパン」と題してメッセージを致しました。メッセージを準備しながら、これまで気が付かず読み過ごししていた箇所は6章の結びのペテロの信仰告白でした。読む毎に、6章のコンテックスの中で、よくもあのような信仰告白が出来たものだと、今更ながら教えられています。  

66ー67節に、「シモン・ペテロは答えた、”主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう。永遠の命の言を持っているのはあなたです。わたしたちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。”」 と、記されてあります。
 
このペテロの信仰告白は6章の冠と言えましょう。ペテロ、以下10人の弟子達(6章でユダは裏切り者と呼ばれている)は永遠の命を与える方はイエス様以外にいないと固く信じ、神の聖者と告白しました。ペテロは”だれのところに行きましょう”と、このかた以外に信じる者はいないと、告白します。

6章のコンテックスを整理していきます。

先ほど、6章のコンテックスと言いましたが、それを整理していきます。

1)感情的なメシヤ観:

五千人の給食の後、群衆はイエスを来たるべき大預言者と信じました。ある人たちはイエスをイスラエルの王にしようと追っかけました。イエス様は群衆を避けて、山に退きました。彼らに信仰が無いことを知っておられたのです。群衆はパンを食べて満足したからで、パンの増殖に気を取られ、その背後の力を見ることが出来なかったのです。

肉体的満腹感、イエスを王にすれば政治的権力を行使でき、民族の解放につなげる等、そのような思いがあったのではないか。しかし、そこには真のイエスの意図はなかった。彼らの感情的、利害関係の絡んだメシヤ観であった。真のイエスの姿を見失っていました。

2)ユダヤ的メシヤ観:

ユダヤ人や多くの人達が、ユダヤ人的なメシヤ観に捉われ、新しい物事、発想でイエスの話を聞くことが出来ないでいた。彼らは新しい皮袋を拒絶した。6章では”わざ”の意味が妨げになりました。彼らはわざとは行いを意味し、救いは行いによって得られるものと解した。

イエスが’わざ”とは神がつかわされた者を信じることが、神のわざである”、と説明しても理解できるものではなかった。目の前に立ち、話しているイエスが神からつかわされた神の子と信じることは不可能であった。彼らの中には旧約の学者がいたが、神からつかわされたと宣言するイエスを、旧約の予言に照らし合わす心の余裕もなかったのです。

彼らにとって、イエスは彼らが知っているヨセフの子、マリヤの子、単に人の子に過ぎなかった。真のイエスの姿を見失っていた。

3)光るペテロの信仰告白:

6章は真のイエスの姿を覆い隠す要素が幾つかあります。あのイエスと共に伝道したユダも、イエスの温かい懐に育ちながらもついに真のイエスの姿を見ることができずにいました。信仰を妨げる欲望の悲しい結末です。ペテロはそのような環境にあって真のイエスの姿から目を離すことはありませんでした。

かつて、ガリラヤ湖の海の上を歩いた時、風に気を取られて、溺れかけました。目の前のイエスから目を離したからです。人に周囲に惑わされてはなりません。6章におけるペテロは真のイエスの姿から目を話すことはなかったのです。「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょうか、、」。「神がつかわされた者を信じることが、神のわざである」。イエス様は言われた、「もしわたしの言葉のうちにとどまっているなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである」同8:31)。
    
I am His !, I am His !, と、共に、ペテロの信仰告白を叫びませんか!

前原利夫


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「すべての事について、感謝しなさい・・」
第一テサロニケ5章18節

“感謝、感謝、感謝”、この言葉は友が残した最期の言葉です。この言葉を聞いたとき、これが彼との最後の会話であろうと、悲しかった。この言葉が、今なお旧友の叫びとなって胸中に鳴り響いてやみません。

友、上原隆牧師は昨年11月20日午前3時過ぎに主の下に帰られました。人はいつか、必ず死ぬことが定められていると知りつつも、身内、友、教友との死別は痛いものです。

その痛みは在りし日の思い出で慰めて行くしかありません。良き友は深い思い出と模範的な生き様を残すものです。彼は最後の最後まで、忠実に主に仕え、喜びと希望の中に天に旅立って行きました。

友の癌との闘い:

上原牧師はリンフォーマ癌(リンパ性の癌)と2年半闘い続けた。リンフォーマ癌はCIDP(慢性炎症性脱髄多発神経炎)と言う病気を併発し、10万人に一人というまれな病気と闘いました。

CIDPは段々と右足の機能をとめ、痛みが治療できないほどになりました。電話で話す度に、この右足の痛みが話題となり、また私たちの祈りともなりました。

私も右足の回復が遅く、同病相憐れむと冗談を言ったものでした。天に帰る4週間前、彼の最後から二番目のメイルが届きました・・・

「前略、、いよいよリンフォーマの再発の可能性大です。来週の火曜日にその結果が分かり、その後の対処策が検討されると思いますが、厳しい事態が待っていることは確実のようです。後継者が来米するまで、健康を支えて下さるように祈っていますが、神の御心はどこにあるのでしょうか。体の隅々まで知っておられる神様の御手のなかに委ねて心は平安です。しかし、しなければならない多くの大切な仕事が待っている状況で、なんとか神様が耐えるだけの力を与えて下さるようにと祈っています。私と共に祈って下さい。中略、人生なにが起こるかわからないもの。そのことを強く教えられ、神様の前に畏れとおののきをひたすら教えられています。貴兄の上に主の守りと祝福がありますように!」

神様の御心は私たちの手の届くところにはありません、彼は最後の最後まで時間を惜しみ、体に鞭打ち、残された奉仕に精進しました。礼拝メッセージも痛む右足を労わりながら腰掛けて、召される前の週まで奉仕されました。

友の思い出、北米邦人への宣教情熱:

上原牧師は百合子夫人と共に、北米の邦人伝道の情熱に燃えていました。沖縄での伝道の機会がありましたが、彼らは未知の北米宣教の導きに全てを委ねました。1975年であったか、彼は単身北米宣教の下調べに乗り込んできました。私はハワイでの学びを終え、家族でロスに移動して未だ数年でした。彼をモンテベロの小さなアパートに迎え、共に数週間過ごしました。その間、三人の娘たちも連れて、グランド・キャニオンを案内することになりました。11月も感謝祭の頃、ラスベガスを経て、グランド・キャニオンの入口、フラグスタッフという町に投宿することになりました。その夜、私は彼の部屋を訪ねて、母教会のこと、恩師のこと、神様の不思議な導き、なぜ二人がこの知らない町で祈っているか等、神様の深い摂理を考え、感謝しました。彼は熱心に邦人伝道のために祈りました。翌朝、モーテルを出ると車は雪に深く埋もっていました。彼の雪の中の祈りは今も燃えるように伝わってきます。

友の記念会、2月25日:

友の記念会は彼が奉仕したワシントンDCの教会で執り行われます。私の体調は十分ではありませんので参列することができず、悔しいやら、悲しいやら残念です。沖縄から恩師の運天康正先生と奥様の君子先生が参列します。

先生ご夫妻は昨年も沖縄からDCへお見舞いに行かれ、私の見舞いにも来て下さいました。先生は高齢で決して丈夫な体ではありませが、弟子を愛する恩師の姿に私たちは只々感動し、感謝しました。この恩師ご夫妻を迎えての記念会は百合子夫人に大きな慰めとなり、力となることでしょう。

”感謝、感謝、感謝”、たとえ友の死を悼むとも、最期の言葉は主と共に生きていることの証であり、時きなば、この痛みも喜びの再会となるでしょう。

「死は勝利にのまれてしまった。
死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。
死よ、おまえのとげは、どこにあるのか。」

 第一コリント15章55節
  
前原利夫


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「わたしはよい羊飼いである。よい羊飼いは、  羊のために命を捨てる。」ヨハネによる福音書10章11節

十二支によれば今年は酉年です。どんな幸運を運ぶのでしょうか。私たちの教会は”よい羊飼い”の年として、新しい門出をしたいと願います。よい羊飼いは、他でもないイエス様です。イエス様は”わたしはよい羊飼いである。よい羊飼いは、羊のために命を捨てる”と語られました。幸運を運ぶのではない、貴方や私たしたち羊のために命を捨てられるお方です。

2017年は “イエスはよい羊飼い”  をテーマに皆さんとご一緒に励まし、慰めを頂き学びを進めたいと願っています。先生方には、新年礼拝からヨハネによる福音書からメッセージをして頂きます。毎週、一章毎に祈り、チャレンジして参ります。

イエス様はご自分を指して”よい羊飼い” と呼ばれましたが、悪い羊飼いもウロウロしているからです。
  

1)悪い羊飼い:

この類の羊飼いは強盗のような羊飼いです。羊を飼い、世話するのではなく羊を餌食とします。盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするために、羊の囲いの中に紛れ込んだり、柵を飛び越えてきます。また、雇われ羊飼いは全て金銭問題で羊を飼います。悪い羊飼いは打算的だから「金の切れ目は縁の切れ目」で逃げていきます。世にはこの様な偽羊飼い、偽キリストが徘徊しています。よい羊飼いからの警告です。

よい羊飼いはどんなお方でしょうか?
 
 

2)よい羊飼いは門である: 

羊の囲いは安全で平和な囲いです。この囲いにはたった一つの門、入口しかありません。安全、平和、安らぎを求める羊は全てこの門から出入りしなければなりません。山頂に達するのに幾つも方法や道があるといいます。しかし、救いの門はたった一つ、狭い門、イエス様の門です。囲いの中で魂が慰められ、癒されるのです。地上的には、この囲いはキリストの体、教会です。また、天上的には来たるべき神の家です。この門を潜り抜ける者が神と永遠に住まうのです。わたしは道であり、真理であり、命である、、、とイエス様は申されました。
   

3)よい羊飼いは先頭で導く:

羊が囲いの中から外の牧草地に出る時、それぞれの羊がバラバラに出て行くのではない。羊飼いが先頭に立ち、羊たちが迷わないように導くのです。羊は迷いやすい動物です。人間も迷いやすく、騙されやすい性格です。よい羊飼いの指導、先導がないと行き先不安、危険です。緑の野、草の茂る牧草地を知っているのはよい羊飼い一人だけです。悪い羊飼いはよい羊飼いが先導している限り、羊を攻撃することはありません。
  

4)よい羊飼いは命を捨てる:

イエス様はヨハネ15章でこう語られる”人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない”、と。イエス様は私たちを極限まで愛され、ご自分の命を十字架上に投げ出されました。こうして、私たちの救いの道が開かれ、罪の問題が解決されたのです。よい羊飼いは囲いの中の羊、また囲いの外の羊のためにも命を捨てられた。その命は強制されてではなく、みずから進んで捨てられるのです。よい羊飼いは再び命を得ることができるからです。

5)よい羊はよい羊飼いの声を聞き分ける:

私たち羊はよい羊飼いの声をよく聞き分けなければなりません。偽者の羊飼いは本物の声に似せるからです。誰の声か聞き分けることは私たちの責任です。門が一つであることを見分けることも私たちの責任です。巷の悪い羊飼い、偽キリストを見分けることも私たちの責任です。よい羊はよい羊飼いに倣います。

”主は牧者のようにその群れを養い、
そのかいなに子羊をいだき、
そのふところに入れて携えゆき、
乳を飲ませているものをやさしく導かれる。”

今年はよい羊飼いの年です!
    
前原利夫


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卑しい身分に徹した神の子、メシヤ
            
もう、12月です。全教会に喜びと希望、全人類に救いの道を開いたメシヤキリストのご降誕を祝う聖なる月です。メシヤの誕生と生涯はレッド・テープの栄光の花道ではなく、人が顔をしかめるような苦難の道であった。神は神であられることを放棄されたからです。

その卑しい、貧しい道を考えてみましょう。  ルカによる福音書2章は “初子を産み、布にくるんで、飼葉おけの中に寝かせた。、、”と語っています。

1.  イザヤ書53章の予言:

メシヤの苦難の道は同53章を語らずには進められません。メシヤ誕生の750年前、イザヤは”彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた”、とあります。メシヤの誕生、その生涯はこの威厳もなく侮られた道であった。パウロはピリピ書2章でこう語る”かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異らず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。” “かえって”、この表現は神の意思、選択である。

2. 卑しい身分で誕生:

人に捨てられるメシヤ 、十字架の死が定められたメシヤの誕生もそれに相応しい誕生でなければ話の辻褄が合いません。人に捨てられるメシヤが王宮で誕生し、豪華なライフスタイルで、十字架の死に従順なメシヤがローマ皇帝の保護の下に誕生することは矛盾です。名もない田舎の一処女の胎を借り、出産のモーテル宿も断わられて、動物小屋の片隅に誕生してこそ、メシヤにふさわしい誕生であろう。エルサレムの裾野のベツレヘムで誕生したものの、育ちは北のガリラヤの寒村ナザレの村であった。人類のメシヤは”ナザレ人”と呼ばれ、ガリラヤからなんの良いものが出るか、と侮られた。

3. 卑しい大工の職業:

肉の父ヨセフは石工の職業であった(マタイ13章)。家族は4人の弟、複数の妹、そして両親と家族は少なくて9人で構成していた(マルコ6章)。長男イエスは父の家業を継いで石工の大工であった(マルコ6章)。当時は、自給自足が原則のライフスタイル、大工の仕事がなけれな現金収入がなくなる。何時も仕事があるとは限りません。経済的にも豊かでない生活であったろう。ルカの福音書9章は”きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない。”とイエスの貧しい一面を記録している。石工の仕事は厳しく、特に暑い夏のイスラエルは重労働であったろう。石工の筋肉労働が後々の拷問や十字架を背負う体力作りに貢献したという人もいる。イエスの手足は石や斧で傷を受けたに違いない。

4. 卑しい弟子たち:

指導者の質はその弟子達の質で分かると言う。確かに、優れた指導者は素晴らしい経験、教育を積んだインテリの弟子達に囲まれている。失礼ながら、メシヤの弟子達はガリラヤの漁師、お金に目のない人、売国奴と呼ばれた税金取り立て人、国粋主義の人がメシヤを取り囲んでいた。無学の漁師達、貪欲な弟子、過激な弟子達は中央のエルサレムのお偉方の目にどう映ったことでしょうか。メシヤは烏合の衆と思われたこれらの人々を敢えて選り抜き、ご自分の側近とし大切な使命を授けた。弟子の選択はみ心に叶うものであった。人が見捨てるような者を探し出し、岩の中から堀出し、やがて宝石の様に磨かれた。私達も、この方メシヤの弟子の一人ではありませんか。

5. 卑しい階級の人たちに福音;

メシヤの働きは社会の下層階級の人々から始められた。病人、売春婦、収税人等、ユダヤ人の忌み嫌う人達であった。ご自身が侮られ、見捨てられた様に、メシヤは敢えてその様な卑しい人たちに神の国を伝え、救いを与えて人生に革命を起させた。癒された病人の数は数え難く、神の栄光を現す者となり、売春婦の改心はメシヤに仕える者となった。弟子の中には収税人もいた。

福音の革命、栄光の主:卑しくこの地上に誕生し、天の父の業をなされた主は、卑しいままで天にお帰りになったのではない。イスラエルの民は来るべき神の国を見、弟子達は神の国に命を賭け、エルサレム、ユダヤ、サマリヤ、そして地の果てまで福音を伝えた。卑しいとはこの世の人の目に映ることに過ぎない。神は永遠の計画の中に、ご自分の愛する独り子イエスをひと時人間の姿とし、栄光を捨てることをお許しになられた。そこに、私たちの救いがあるのです。神の視点と人間の視点は異なり、神の愚かさは人の知恵にまさる、とパウロは指摘する。

私たちのために卑しくなられたイエス・キリストを褒め、ご降誕をお祝い致しましょう。

Merry Christmas!

前原利夫


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” 主に感謝せよ、主は恵み深く、
そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。”        詩篇136篇1節

感謝祭おめでとうございます!

一年の経つのは早いものです。私事で申し訳ありませんが一年前の私はウォーカーで弱々しく歩き、また、前立腺の術後の痛みや不規則な排尿との闘いでした。あの痛みはこれまで体験のない我慢が限界に達したような激痛でした。ところが、痛みは不思議なもので治ってしまうと跡形もなく”ケロット” として痛み前の体に戻り、恰も痛みを体験しなかったように感ずるものです。

そのような体を癒すメカニズムを感謝しなければなりませんが、得てして、私たちは痛みの経験を愚痴り、不平を撒き散らす者です。私たちは過去の痛み、悲劇、苦難からの癒しを心にとめて、全ての良きものの源であられる主に感謝を捧げたいものです。

上記の詩篇136篇は宮詣での歌としても知られています。エルサレム神殿に上る時、”主に感謝せよ、主は恵み深く、” と叫ぶと、”そのいつくしみはとこしえに絶えることがない”、と呼応しながら、宮に入ったようです。136篇1-26節を要約、感謝の叫び声に耳をすませましょう。(是非、136篇をお開き下さい)

1. 唯一創造主へ感謝、1-9 節:

ダビデは1節の”主” とはどのようなお方であるか賛美します。このお方は”もろもろの神の神’、”もろもろの主の主”であり、”ただひとり大いなる方” として唯一天地万物を創造された神であるとします。天を創り、水を満たし、光を創って夜と昼を分けられたお方です。

このお方はアブラハムをカナンに召し入れ、モーセを解放者として遣わしイスラエルの民を奴隷の軛から解き放った大きな業をなされたお方、このお方以外に、人間の歴史に直接介入されたお方はいません。唯一創造主の存在と私たちの日々の生活に関わる主のみ業に感謝を捧げましょう。

2.大いなる業:奴隷の解放者に感謝、10-16節:

真の奴隷解放者は神ご自身であってモーセではない。モーセは主が命じた事を実行しただけです。主は敵の動きを熟知されるが、モーセは自分の味方の動きすら把握できない者でした。今、プロも大学もフットボールで週末は湧いています。

コーチの采配は直接勝敗と結びつきます。神はイスラエルの民を奴隷の地エジプトから導き出したコーチ、モーセはコーチのメッセンジャー的な存在でした。紅海を分けるようにモーセに命じ、ナイル川を血の川に変え、雹を天から降らされたのは神ご自身の業でありました。ダビデはおおよそ450年前、苦しめられた先祖イスラエルの民をエジプトの地から解き放された神に深い感謝を捧げます。

3.  大いなる業:領有地を与えられた神に感謝、17-22節:

この節から神が働かれた時と場所がエジプトそしてシナイ半島からカナンの地に移ります。カナン入口を阻むアモリ人、パシャン人を取り除き、乳と蜜の溢れるカナン入りに舗装道路を敷かれたのは神ご自身であられた。

約束された土地であったがまだ領有地ではなかったからです。カナン入りを果たし、定着して初めて国民としてのアイデンティーが誕生します。領有地なしの国民はあり得ない。イスラエル国民の産みの親はアブラハムでもない、モーセでもない、それは神ご自身であられる。

4. 卑しい者の身分を引き上げるお方に感謝、23 – 26節:

23節に”われらが卑しかった時に”とあります。”卑しかった”とは身分が低く侮られていたことです。イスラエルの民は400年の奴隷の身分から自由な領地が与えられ、人間の支配から神の愛の世界に引き上げられました。 モーセは荒野で40年羊飼いであったが、200万人といわれたイスラエルの民の長となった。ダビデ自身を言えば、卑しい羊飼いであったが彼を王座に据えられたのは神ご自身であった。

パウロは自らを”罪人のかしら”と呼んだ。 その卑しい身分を聖徒パウロにまで引き上 げたのはイエス様の福音の力です。私たちもかつては神の国から遠い者、そのような私 たちを神の家族、天国を国籍とする身分に引き上げて下さったのは福音の力です。

5.還元する感謝:

神様から頂いた健康、家族、仕事・ビジネス、財政、教会、信仰生活を支え祝福して下さる神様に感謝し、そしてその感謝を還元することを学びましょう。Tさんは主がビジネスを守り、祝福して下さっていることに感謝し、それを具体的に還元したいと先日教会に申し出ました。

それは、今年の感謝祭ランチはすべてTさんの負担で私たちに美味しいランチを準備して下さるとのことです。なんと素晴らしい感謝の還元でしょうか。ご婦人の方は料理作りの労から解放されます。お楽しみに。お友達をお誘い下さい。今年の感謝祭は例年と一味違う感謝祭になりましょう。私たちも具体的に感謝を表そうではありませんか。

感謝!

前原利夫


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世界で一番美しい言葉:I love you! ヨハネによる福音書3章16節

 
英国でキリスト教の偉い先生方が比較 宗教の会議の準備をしていました。仏教との比較、イスラム教、ヒンズー教、そしてユダヤ教との比較を論じていました。キリスト教で教えているのに、他の宗教では教えてないものはないか、等と話し合っていました。キリストの受肉、復活や天国の教えも他宗教にも類似した教えがあります。彼らは議論しながら中々結論に達するこが出来ません。 そこに、協議をしている先生方の部屋をC S Lewis博士が通り過ぎようとして立ち止まりました。”先生方、何をガヤガヤ話しているのですか”、と尋ねました。”はい、ルイス先生、これこれ、、です”、と応えました。博士は”それは簡単です、神の恵みですよ!神の恵み!”、と回答されたとの事です。

1.  神の恵み:神の恵みとは一体なんでしょうか。

聖書の”恵み”とはただで受けるものです。報酬は労働やサービス対する対価です。恵は条件なしに受け取るものです。最近、こんな心温まる祖父母と孫の関係を聞き、何か自分がしたような気分で爽やかな話です。孫は大学二年生で週に20時間近くアルバイトをしている。父から譲って貰った古車の修理が最近続き、新しい車が欲しいな〜と思っていたという。と言ってもアルバイトの稼ぎは雀の涙ほど、ダウンペイペントが貯まるまでは大学を卒業してしまいます。

その話を祖父母が耳にし、ある晩孫と話し合ったとのことです。祖父母は孫にダウンペイメント$5,000をオファーしました。ビックリした孫は” You do not have to do”、と遠慮しました。祖父母は孫の名前を呼んで”Because we love you:”, と応えて、サラサラとチェック書き、その場で手渡したとのこと。チェツクを書いた祖母は何の痛みも惜しさも感じなかったとのこと。その夜、祖父母はベットの中で孫への愛を更に深く感じた、という証しに励まされました。

孫は祖父母からただで受けました。これ恵みです。祖父母は孫へ無条件で与えました。これ愛です。神と人間とはこのような愛と恵みの関係にあります。人間は受ける側、神は与える側、この原則は変わることはありませ。恵みと愛はコインの表と裏みたいなものです。

2. I love you の神

1) 貴方が知らなくても:神は貴方が神を知らなくても貴方を愛しています。神は知られているとか知られてない、という状況下で愛するのではありません。神の愛は無条件で普遍的です。神を知らなくても神は私たちを愛さずにはおられないのです。太陽も雨も差別なく注がれるように愛しています。赤ちゃんは誰が両親か分かりませんが、両親は自分を知らないからと赤ちゃんを愛さないでしょうか。それ、神の愛です。“しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。”(ロマ書5章)

2) 天から降りて人を探す:一般の宗教は人が神を求める姿が圧倒的です。ですから、自然と人の考えや希望、要求が信じたい神に反映するのです。聖書の神は上から下に向かう法則です。神が私たちを捜し求めて祝福を与えようとしておられるのです。探すとは、人が神から離れているからです。ルカ15章の失われた1匹の羊、失われた一枚の銀貨は神の人を求めてやまない姿です。今日も、貴方を探しておられます。

人は天に昇ることは出来ません。だから、神はこの地上に降りてこられたのです。神の子、メシヤとして人間の形をまとって二千年前にこられました。”キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守しべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた、、。”(ピリピ書2章)

3) わたしの目には尊い:人は他人のあら探しをします。しかし、神様は完全なお方ですのに私たちは神様の目には尊いのです。神様は愛せずにおれないご性格だからです。
 ”あなたはわが目に尊く、重んじられるもの、わたしはあなたを愛するがゆえに、、、” イザヤ書43:4  Since you are precious and honored in my sight, and because I love you,,”

神の恵みは不可解なほど深く、
神の愛は大水も覆うことができない。

前原利夫 


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