「なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着るからである。」第一コリント15:53

人々はイエスが死から復活された事を信じる事が出来ません。死から甦ることは不可能と考えるのですね。自然の営みは 、枯れて死んでいく草木も春になると勢いよく土を破り、弾けるように芽を吹き出します。

1)「不合理なるゆえに我信ず」:

教父テルトリアヌスは(160ー220?)はキリストの教えの集合体を”新約聖書”と最初に名付けた教父だそうです。彼は 「不合理なるゆえに我信ず。神の子が誕生した。

それは恥ずべきことのゆえに、恥としない。神の子が死んだ。そして葬られ復活した。それは愚かなることのゆえに全く信ずべきことなり。それは不可能であるがゆえに確かなことである。」 と、言われた。

信仰には不可解な点がなければ信じるに値しないというのです。不合理、不条理、不可解があって信仰の対象になるというわけですね。

2)エジソン博士の復活信仰:

トーマスエジソンが英国のある新聞社から”来世”について意見を求められました、その時にエジソンはこう答えています:「死後における生命の継続は、私のかわいい信仰です。

この信仰は、単に私の心の要求ではない。私の来世信仰を迷信であるかのように証明しようとしてくれる人を、ありがたいと思いません。」と記者へ返事したそうです。

エジソン博士はイエス様の甦り、復活、そして、死後の後に新しい世界がある事を信じていたのです。あの様な偉大な科学者が、人間理性の限界を知り、愚かに見えるキリストの十字架の救いと、復活をしっかりと信じていたのです。

「十字架の言は、滅びゆく者には愚かであるが、救いにあずかるわたしたちには、神の力である。」 (第1コリント1:18)

3)罪の赦しと義とせられる、十字架と復活:

ヨハネの福音書23:19は「すべてが終わった。」 と十字架上のイエス様は叫び、やがて息を引きとる寸前の祈りです。その意味は神の子の使命であった人類の罪の贖いがこの十字架上で完成したということです。

パウロは 「主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、甦へらされたのである。」と記録しています(ローマ書4:25)。十字架は罪の赦しであり、復活を信じるにことにより、全ての罪が赦され、正しい者、義とされるとは神の約束です。それは罪の死から希望に生きるという意味であります。

イエス様の復活は死の刺を捥ぎ取り、死に勝利したというだけではありません。それはアブラハムが信じて義とされたという、神の義認の裏付けでもありましょう。十字架の死は罪の赦し、復活は信仰の義認を証しします。十字架と復活は表裏一体、切り離す事はできません。

4)私達の永遠の希望、復活:

復活は私達の永遠の希望です。キリスト教の葬式と他の宗教の葬式との大きな違いは、前者は賛美に満たされて明るく、一方後者は暗く、悲しい雰囲気です。その違いは復活を信じるキリスト教とそれがない他の宗教の違いです。復活がなければ死は最後であり、その向こうには何も存在しません。復活は永遠の世界へと広がっていきます。

ですからクリスチャンの家族の死は一時的な地上のお別れであり、いつかまた再会できるという大きな希望のゆえに、自然、葬式が悲しみを乗り越えて希望に包まれるわけです。お葬式の式次第に’” In celebration of,,,,”とあるのは偶然ではありません。その人の死を悼むよりも、その人の生涯が祝い、やがて来る再会の希望を期待します。

イエス様はマルタに言われました;「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとえ死んでも生きる。」(ヨハネの福音書11:25)

Happy Easter!

前原利夫



ゴスペルベンチャーインターナショナル教会
Gospel Venture International Church (GVIC)
17811 South Western Avenue, Gardena, CA 90248 U.S.A.
www.gospelventure.com/


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