「その名は平和の君ととなえられる!」イザヤ書9章6節

イザヤのメシヤ誕生の予言はおおよそ800年後にダビデの町ベツレヘムで成就します。イザヤ書6章はメシヤを「霊妙なる義士」「大能の神」「とこしえの父」そして「平和の君」として、その複数役割を予言します。

同書53章は苦難のメシヤを描き、打たれた傷により救いの道が開かれることを予言、マタイによる福音書1章はメシヤの誕生を歴史的に記録し、同27章でイザヤ書53章が成就、メシヤの十字架の苦難を述べます。こうして、メシヤの誕生を祝うこと二千年になります。

クリスマスを祝い、イザヤの預言である「平和の君」、キリストの平和について考えてみましょう。

1)義と平和:平和は争いがないところに存在し、争いのあるところは平和でありえません。しかし、必ずしも争いのない状態が平和であるとは言えません。平和は、義、正しさが支配するところにあり、義が支配するところには争いはないのです。

義は人間の定める義ではなく、神ご自身が定める絶対的な義、正しさでなければならない。人間の義は相対的で、国、時や場によって義の尺度が違うからです。神は唯一、唯一の義なのです。

詩篇85篇10、11節「いつくしみと、まこととは共に会い、義と平和とは互いに口づけし、まことは地からはえ、義は天から見下ろすでしょう。」。ダビデは義と平和とは互いに口づけすると教えます。義と平和は口づけするほとに近いもの同士です。

いや、一体とも言える。義が実践されるところに、平和を楽しみ、義が尊ばれるところに、平和が支配します。イザヤは来たるべきキリストを「霊妙なる義士」、「Wonderful counselor」とはっきりと、政治を司る君であると予言しています。

神の義は天から見下ろすように、平和の君によって制定されなければならない。そこに平和が生まれる。「もろもろの山と丘とは義によって民に平和を与えるように。」(詩篇72:3)。「そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りく、、、」とある通りです。(イザヤ9:7)

2)平和は十字架の業による:パウロはコロサイ人への手紙1章20節で「その十字架の血によって平和を作り、万物、すなわち。地にあるもの、天にあるものを、ことごとく、彼によってご自分と和解せて下さったのである。」と語ります。

先ず、平和は神と人との和解、また人と人との和解がなければ作れない。エデンの園以来、神と人と、人と人との間には、和解しなければならない敵対、争い、罪が存在している。だから、先ずその罪が溶けて、赦されて和解の道が開かれるべきである、と説きます。

その道を備えたのが、グルゴタ丘の十字架のイエスの血です。平和は罪、悪の赦し合いがなければ決して作れません。人間と神との隔て、人と人との隔てが取り壊されなければならない。家庭内の隔たり、国家間の隔たり、民族間の隔たりの壁が取り壊されます。これらは、イエスの十字架を見上げて解決されます。「キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、、、。」とある通り、平和の君は隔ての中垣を壊す作業をします。

3)神の子は平和を作る:イエス様は山上の教えで「平和をつくりだ出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう」、と語られました。

多くの人たちが平和運動を口にして行進しますが、それは平和を作り出す運動でしょうか。真の平和愛好者は、平和を作る者でなければなりません。それは、神の義を噂守することから始まります。ピースメーカーは神の子と呼ばれると、イエス様はその責任の重大さを教えます。私たちは家庭で職場で、争いを静める役割を担っています。平和は御霊の実の一つでもある。

パウロは私たちの伝える福音は「平和の福音」であり、また私達が信じる神は「平和の神」であると彼の書簡で語ります。平和の福音を伝える者は自ら平和を作る者らしく、また、平和の神を信じる者は、私達は平和を作り出す使者、「平和の君」の子でありたいと願います。

イエス様の誕生。
おめでとう御座います!

前原利夫


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ゴスペルベンチャーインターナショナル教会
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17811 South Western Avenue, Gardena, CA 90248 U.S.A.
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