言葉の力は神の力です。
神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。」ヘブル4:12
昨今言葉の力がなくなってきていると言われています。一年に1冊も本を読まない人がいるというのだ!と聞き、むむ!と思ったのですが、確かに、デジタル化の世の中、直筆の手紙は消滅に近く、Eメールもやや長いとなって、今はテキスト、スタンプ付きのラインが主流です。
私ももっと本を読むぞ!と本を開いたところ、作家でカトリック信者の曽野綾子氏(2025年に93歳で召された)がご自分のことを「多幸症」と言っている言葉が目に入りました。
「私はいつもなんて運のいいことだろうか。と思っているのです。先日は仕事でヨーロッパに行く予定だった2週間前に転んで足を骨折したのですが、外国の地で骨折していたら、仕事に大きな迷惑がかかるし、言葉の問題も治療の仕方も不安だったに違いないのに、至れり尽くせりの日本の病院で治療ができたことは何てありがたいのだろうかって、そんな具合に私は「多幸症」どんなことにも幸せを感じる病気、そうやって感謝するようにしているのです。」と書かれてました。
主なる神様は、「すべてのことに感謝しなさい。」と聖書で言われています。私たちクリスチャンは、この言葉に従い、あらゆる状 態の中でも主権者である神様を見上げ、感謝することを心がけるわけですが、「多幸症」クリスチャンはどんなことにも幸せを感じる良い病気!となりたいものです。
言葉の力、ことばは神とともにあったのですから(ヨハネ1:1)特に私たちが神の言葉に耳を傾け、心の大事なところに御言葉を置くならば、「多幸症」になるほどに私たちの霊、魂は潤いが与えられるのではないでしょうか。
有名な山上の垂訓では、イエス様が「心の貧しいものは幸いです」と言われます。
この心の貧しい(ヘブライ語でアナウィム)というのは、何も持っていない、すがるものもない、助けてくれる人もいない、極限の状態であり、その状態にある人が初めて神を見るというのです。貧しいというのは、物質の面で貧しいという理解だけでなく、心の貧しい人だなぁという意味でもなく、何もかも貧しさに落ちて、そこで命の神、豊かな神を見る豊さが与えられる。
言葉の力は神の力です。
高齢化社会となって久しく、老老介護という言葉に慣れてきた昨今です。ファイナンシャルアドバイザーに私の老後についてアドバイスをいただきました。それは、私が死んだ時のことも大切だけれども、老いた私が寝たきり、介護が必要となった時に、子どもたちに負担をかけないように保険に入るという方法でした。そうです、誰もが我が子に負担をかけたくないと思うのが親心。
一方で、教会生活をしている私は、甘えることの大切さ(迷惑や負担ではなく)頼ることは大切だと思います。なぜなら、私は誰かに頼られたなら、嬉しいからです。ドアを開けてあげて「ありがとう」と言われたら、嬉しいのです。私のことで迷惑をかけられない。と私たちは思うことがあるのですが、もしかしたら自分が思うほど迷惑をかけていないのが現実かもしれません。聖書の言葉 ヨブ記には「私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。」とあります。
誰もが若い時があり、力がある時があり、弱くなる時があり、寂しくなる時がある。それはダメではなく、その時に、若い力のために、弱さを助けてもらう者となるならば、助け手に喜びを与え、頼られる祝福を与えることになるのです。これこそ、主の愛ある謙遜。「多幸症」の賜物だと思うのです。 若者も、老人も主を見上げ、幻を見て、夢を語る。それが我らの教会です。 ハレルヤ!
キム・明子

ゴスペルベンチャーインターナショナル教会
Gospel Venture International Church (GVIC)
17811 South Western Avenue, Gardena, CA 90248 U.S.A.
www.gospelventure.com/




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