「主を尋ね求めよ、義を求めよ、柔和を求めよ」 ゼパニヤ書2:3

ゼパニヤ書は3章から成る短い予言書で、ハガイ書、ゼカリヤ書、マラキ書が続き旧約聖書は結びます。あまり知られない予言書で、多くの人が開くのに手間どるほどに読まれない書物です。ゼパニヤはヒゼキヤ王の五代目にあたり、ユダの王ヨシャの時代の預言者でした.

ヨシャ王(Josiah, BC 640-609)はソロモン王より16代後、歴史的な宗教改革を成し、幼少の頃に王座につき信仰厚い側近によって育てられ、もっとも敬虔な王として尊敬されました。その彼の業績は列王紀下22−24章、歴代誌下34章に記録されている。

ところが、有終の美は飾れず、晩年、エジプト軍を迎え撃ち、敗北し戦死した。その頃からユダの国運は急に傾いてきたと言われている。多分その頃であろうか、ゼパニヤはこれからのユダ、エルサレムを案じて、民が不信仰に至らないように強力な警告を発する。

その内容たるは終末的な警告で、現代の私たちが備えをすべき警告ではなかろうか(是非、一読下さい)。

ゼパニヤは3つのことを求めよ、さもなくば神の裁きから逃れることはできないと警告する。終末になると、我々もこの3つが求められるであろうと想定して、今から励もうではありませんか.

1「主を求める」:神を求めずして信仰はない、イエス・キリストを求めずして、救いはありません。神は私達を探し求める方ですが、私達はそれに応えなければなりません。

そして、神を主として受け入れ、真から従って行くことです.「主よ、主よ、」と声だけ張り上げては、真に従っているとは言えません.私達の信仰が実も質もない信仰かどうかを深く吟味したいものです。

イエス様を「主」と呼ぶとき、それは日常生活の中で、主のみ声に聞き従うことを意味します。例えば、貴方の ご主人の言いつけを実行し、会社のボスの命令をきちんと実行するように、目に見えない、声が聞こえなくても、主のお声は忠実に守らなければなりません。

それは堅苦しいく思われるが、主を求めるとは、主を信じ、信じたものに従っていくことを意味する。預言者ゼパニヤは「主は良いことも、悪いこともしない」という人を罰する、と警告します。

神は中途半端な方ではありません、主は従うものを祝福し、不従順で信じない者を裁かれる.イエス様が再び来られる時、主は私達を裁きに来られるのです.

2「義を求めよ」:義を求めなさいとは、単に良いことを求め、行いなさいということではありません.良いこととは、神の視点から良いことで、人間の視点らではない.マタイの6章は「まず神の国と神の義を求めなさい」とあります。

神を求めることを優先にすれば、私達の求める必要なものは神ご自身が準備してくださる、との約束です.人間の社会では必要な物を先に受けて、それから神を求める宗教ごとに進むのである.神が全知全脳であるが故に、神を優先するのである。パ

ウロはこの世と妥協してはならないと警告する、しかし私たちの思いは、この世の喜び、楽しみ等に憧れます.私達は神の品性を備えて磨きを受け、御国に入る者に相応しいものとして整えられるのです.神の義を求めることは、神を求めることによって学んで行くことです.義を求めるとは神への姿勢です.

3「柔和を求めよ」:終末に求めなければならない第三番目は「柔和」謙遜です.義が神への姿勢であれば、柔和は隣人への姿勢でしょう。

柔和はイエス様の品性の一つで、ご自身を「わたしは柔和で心のへりくだった者」であると言われた。山上の説教では柔和な者は地を受け継ぐ、即ちこの地上の祝福を頂くものであると祝福されました。パウロも御霊の実の中に柔和を入れて、神の国を継ぐ者の必修品性としている。

終末の時には良い実か悪い実か、羊か山羊かに見分けられ、区別される。世の終わりには御使いたちが来て、義人のうちから悪人をえりわける。主を正しく求めることは、この方が道であり、真理であり、命であるからです。

「主の怒りの日が、まだあなたがたを襲わないうちに。主の定めを行うこの国のすべてのへりくだる者よ。主を尋ね求めよ。義を求めよ。柔和を求めよ。そうすれば、主の怒りの日にかくまわれるかもしれない。」
ゼパニヤ書2章2節

前原利夫



ゴスペルベンチャーインターナショナル教会
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