救いの証 | ジョーンズ陽子
私がイエス様と出会ったのは45歳の時でした。“自分の人生は自ら切り開いて生きていく!人には言えない秘密は墓場まで持っていく“と肩に力を入れて必死で生きていた私が砕かれるのをイエス様は待ってくださっていたのでしょう。
私は仏教王国と言われる石川県金沢市で3人きょうだいの長女に生まれました。居間のテレビの上には神棚、畳の部屋には仏壇、これが普通だと思っていました。
幼稚園は浄土真宗系で、毎朝お遊戯室にある大きな仏像に手を合わせてからお教室に。母方の祖父母の家では祖父がいつも「ナンマンダブツ、ナンマンダブツ」と仏壇の前で唱えていました。
母方の祖母が私が小学校1年生の時に亡くなったのと同時期に、何かの行事で人体の模型と骨格の標本を見て、その晩から「死んだらどうなるんだろう」と恐ろしくなり、1人で眠れず母の布団に潜り込む夜がしばらく続きました。
私の父といえば典型的な昭和の父親。父が“白“といえば“黒い“ものも“白“。怒るとふすまやドアを“バチーン!“と閉める怖い存在。子育ては母任せ、父と話すときは母を通してでした。ただ、自分がこの家族を養っていくという責任感はとてもあり、仕事は真面目にしていました。
その父が転勤辞令を断り、突然会社を辞めたのも私が小学校1年生の時。再就職先がなかなか決まらず、機嫌が悪いと母に当たり、大声で怒鳴ったり手を上げたり、物が飛んでくることも。私が止めに入ったことも何度かありました。
『この家は私が守らないと』と思い出し始めたのもその頃だったと思います。母からは「お姉ちゃんだから〇〇しておいて」とよく言われ、私もその期待に応えようと一生懸命“お姉ちゃんだから良い子“でいなきゃと頑張ってもがき、体裁を整えることばかり考えて生きていました。
私が高校受験の年に父方の祖母が亡くなり、母親をとても大事にしていた父は仏壇に手を合わせ、読書が大好きだった父の本棚には仏教の本が増えていきました。
それでも怖い父は怖いまま、家族の会話はない。夕飯の支度の手伝いが好きだった私が台所で聞かされるのは母の愚痴。阿弥陀さんにすがって“ナンマンダブツ“といくら言っても何も変わらない。
そんな家を早く出たくて受験した大学は全て県外。希望通り1人暮らしを始めました。晴れて“一人暮らし“となった私のたがは外れ、闇の方へと転がり落ちていきました。
そんな中であれは神様が天使を送ってくださったんだと思う出来事が…(つづく)
ジョーンズ陽子
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません