こわいもの知らずの私(2)
1986年から87年働いていた学校の研修制度を利用して、一年間息子二人を連れてLAの姉夫婦の家に居候をさせてもらい子連れ留学をしました。
午前中ESLで英語の勉強 午後はジャズダンス、モダンダンス等クラスを取り、家に帰れば息子達を地域のバスケット、野球に連れて行ったり毎日飛び回っていました。この貴重な経験で視野が広がりアメリカが大好きになりました。
私の研修中に半身不随の祖父の世話をしていた義母が倒れ半身不随になってしまいました。主人が長男だったことから私の研修帰国後四世代で同居することになりました。研修に行った私は、4年間働く義務があったので仕事は辞めませんでした。
仕事と七人家族の世話をする生活は、とても大変でした。体力的に無理な事だけでなく私も心に余裕がなくなり加えて、小学3年生の次男の髪の毛に白髪が出て、顔面神経痛も現れてこれでは、私も子供もダメになってしまうと思い、どうしたら良いか必ず良い道を導いて下さると信じ神様に祈りました。その結果二人の息子を引き取って1989年離婚の道が開かれました。
1991年、アメリカ移住希望者の抽選が始まり、LAの姉に手伝ってもらい応募し当選しました。こちらに来た時は住む家と母教会以外何も決まっていませんでした。
1992年5月、高校を卒業した長男と13歳の次男と三人での新たな挑戦でした。
1993年5月、姉と二人でノースリッジ大学の隣にあるショッピングセンターで、怖いもの知らずの私は、なんの経験もないのに日本の家庭料理を出すストランを始めました。この店は、一人でも気軽に食事ができお袋の味を楽しんでもらい、何らかの形で神様のことを伝えることが出来たらとの思いでスタートしました。
1994年の1月、ノースリッジの大地震で、自宅もレストランもダメージを受けました。それでも、諦めずに必死に朝から晩まで14年働きました。
宮良恵美子長男は、結婚。次男にも、素敵な相手が見つかったので、私も子育てを卒業。しばらくゆっくりして自分もパートナーを与えていただける様祈りつつ2007年5月にレストランを閉めました。
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