ハワイからひとりで ロサンゼルスへ

その日は日曜日、子供達と遊ぶ唯一の日でした。 

3人の娘達を連れてトボトボと歩いていますと、「主は我を愛す、主は強ければ」Jesus Loves Me の讃美歌が流れて来ました。これまで、教会とは縁のない者でしたが、沖縄でこの歌を聞き覚えしていたのが、魂の片隅に生きていたのです。これを機に、住まいから近いこの教会に通うようになりました。

私を迎えてくれた教会はまさに「主の家」で、3人の子供たちと礼拝に行く教会は、疲れの多い生活の中で、慰めと なり、心の泉となりました。 私の信仰生活は、生活の厳しさとの闘いの中で成長が難しく見えましたが、イエス様の愛、救いのステップを踏み始めたことは確かでした。

そのうちに、私の心の中には深い葛藤が起こリ始めました。それは、一旦戻ってきた夫の実家から出て、自由な生活生計を立てたいという思いでした。色々な議論の後、夫は仕方なく、新しい方向へ一歩踏み出しました。私は子供たちの世話をしながら、パートで働き、夫は思い切って屋根の葺きを替える会社を建てあげました。

数人を雇い、生活は段々と落ち着き、経済も祝福されました。しかしこのように生活が楽になると、夫は毎晩のお酒、ラスベガス行きの遊び、ギャンブルに手を出し始めました。贅沢三昧の中、ある日、ラスベガスから電話がり「借金をとりに来る、$5000を払わないと、家族も覚悟しておけ。」と言う脅迫の電話でした。

 私は、ハワイには住めないと考え始め、子供たちを連れてワイキキの海岸で祈ることにしました。 どうしてなのか、心の内側から「ハワイから離れよ」との囁きが聞こえてきました。夫は段々と荒れ狂い、家庭内暴力は頻繁で何度となく警察の厄介になりました。私の我儘もあったと思いますが、このままでは生き地獄、ここで方向転換が唯一の救いであると思いました。

幸にも夫は子供たちを大変可愛がっていたので、ここは安心しながらも、私は断腸の思いで子供たちを離れハワイを立ちました。そして1975年7月、当てもない、暑い、ロサンゼルスに私は到着しました。

上原民子