まるで「おしん」の映画みたいです

私は現在83歳、卯年です。主に愛され守られて、空の星のように数えても数えきれない恵みの紐を一つ一つ解く時が来たと感じております。

私は父が50歳、母が20歳の時に長女として生まれ、8人兄弟ですが、ワガママ一杯、何不自由なく沖縄で育てられました。20歳になった時、突然ハワイからのお見合い結婚の話が入って参りました。当時ハワイに憧れていた時代、すぐにOKAYしてハワイから夫になる人とそのお母さんが迎えに来ました。

沖縄で派手な結婚式を済ませて、東京に新婚旅行3泊を経て、1960年4月4日、満開の桜を後に憧れのハワイ航路。そして、待っていたのは絵に描いたようなワイキキビーチ、椰子の香りを乗せてくる柔らかい風、流石に天国に近い島だと父がいつも話してくれた、そのままでした。まさかこれから私に大きな試練が待っているとは想像もつきませんでした。

ハワイについて3日目に家族を紹介されました。

12人兄弟の中の次男が私の夫で、上には3人の姉がおります。家族経営のお豆腐屋さんで、工場と住まいが一緒、部屋が3つありました。その中の一つ部屋が与えられ、夕食を済ませた後すぐに、7時から工場にてお豆腐作りが始まります。

初めての肉体労働、翌朝は体が痛くて動くのに時間がかかりましたが、姑、小姑の叱りを受け、また夕方豆腐作りです。夕方7時から始まる豆腐作りは翌日の朝6時に終わり、長男がマーケットに配達いたします。1960年時代は、1日しか持たない豆腐なので、毎日取り替えます。

1週間後、やっと緊張感が取れ我に返りました。「私は何しにハワイに来たのだろうか?、我が夫は?、わが居場所は?」と疑問が体中を走りました。

こんなはずじゃなかった。約束が違う!私はオフィスの仕事、住まいも別、食事、洗濯は教えてあげる(花嫁修行)苦労はさせないという父との約束が打ち砕かれ、もう後には戻れない、精神的、肉体的にも限界が来て一人でワイキキビーチ(我が家から歩いて1時間)をうろうろしながら、飛び込もうとした時、我が父の悲しそうな顔と、ほのかに声が聞こえ、”今死ぬときではない、死ぬときは私が定める、がんばれ民子、後で全てがわかる”

このささやきがわが主の声であったんだと、クリスチャンになって知ったのですが、その声とともに、初めて何かに向かい祈りました。「すべてあなたに任せます。どうぞ好きなようにしてください。この宇宙よ、自然よ、私に味方して力を与えてください。」

家に帰り、みんなが私を心配して探していたそうですが、私の爽やかな顔に皆が安心したそうです。私の試練は2年間、毎日12時間のお豆腐作り、そのうちに子供ができ、1週間後には仕事場です。(まるで、おしんの映画みたいです)

二人目の子供ができた時には、もう限界、思い切って家を出る決心をいたしました。(続く)

上原民子