放蕩息子・2 | イエスのたとえ話

2017年1月7日

イエスのたとえ話(放蕩息子・2)は(放蕩息子・1)の続きですから、もう一度前号をお読み頂きますと、内容が一層はっきりと理解できことでしょう。

前回は息子に焦点を当てて考えました。放蕩息子が父の下を出て行き、父の下に帰るUターンの人生の姿を描いてみました。 ここでは父に焦点を当てて、赦しがたい放蕩に身を持ち崩し、あたら青年時代を無駄に生きた息子を迎える父の心を探ってみます。

 
1.父、罪を裁いて人を裁かず:
 私たちは「悪を憎んで人を憎まず」と言いますが、それは「罪を裁いて人を裁かず」と同じ意味であります。しかしその言葉通りを実行することは困難なことです。時には、偏見、差別、理由無しに人を裁くことすらする私たちです。 「人を赦してもその受けた傷は忘れない」という言葉の中にも人間の赦しの限界が見えてきます。放蕩息子の父がその息子を迎える姿には財産を失ったことへの言及や追及や怒りすら見えません。 父を裏切り道徳的にも父の期待から遠くかけ離れたライフスタイルの対しても父はそのまま自分の息子として受け入れます。

この父は私たちのような人間の父ではないようです。“神としての父”としか考えられません。 このお方だけが「罪を憎み人を憎まず」を実行できるお方です。

「父は彼をみとめ、哀れに思ってその首を抱いて接吻した」

とあります。 また新約聖書の中に「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。」とありますように、神の愛は無限であります。

2.父、新しい出発を準備する:  
父の愛は更に深く表されます。息子が故郷に帰ってきた唯一の理由は新しい出発、人生のやり直しを思い立ったからです。たとえ自分の身分が父の僕たちのような低い身分に落ち込んでも、息子は故郷、 父の下に帰ることが人生のやり直しの場であり、外にはないと信じたに違いありません。

人、再び帰る故郷があることはなんと幸いなことか。失敗だらけの人生であったとしても私たちには帰る道があるのです。 放蕩息子は自分がかっての父の相続者の一人であったという特権も誇りも捨ててしまったのです。その時に自分の帰るべき道が開けて、見えてきました。 それは父が両手を大きく広げて自分をまっている父の姿でした。

“父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。 また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい食べて楽しもうではないか、それから祝宴が始まった” (ルカによる福音書15章)

戻る道は悔い改めの道、人生再起の道です。

3.父、万人を迎える:
このストーリの父の愛は神様の愛を示しています。忘れないで下さい。この放蕩息子の話はイエス様ご自身が語られました。そして、この父がご自身であることを示されています。

“この息子が死んでいたのに生き返り、”とある通りです。 神の愛は人間の知識の領域では把握できず、神は放蕩、失敗、駄目人間のような私たちでさえも祝福、祝宴を以って迎えて下さるお方です。 魂が神から遠く離れていて真の救いを知らない私たち迎えて祝福なさるお方です。

“神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。 神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである” (ヨハネによる福音書3章)

God bless you today and forever!

前原利夫


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