飛脚2月号で「プールサイドの錯覚」 と題して、錯覚、早とちりはよく聞かない、よく見ない、よく観察しない姿勢から発生すると経験を語りました。

よく聞く、よく見ることは言うまでもなく大切です。イエス様は神の国の譬え話を締め括る度に「聞く耳のある者は聞くがよい」「聞くことがらに注意しなさい」「どう聞くかに注意するがよい」と群衆の注意を喚起されました。それは警告とも考えられます。

1) 種蒔きの譬え:

 祈祷会でルカの福音書を毎週1章づつ学んでいます。李先生、織田先生、私がそれぞ担当してリードします。長い章は2、3週かかります。先月はルカの8章からあの有名な種蒔きの譬えを学びました。

この譬はマタイの13章、マルコの4章にも記録されています。なぜ、譬えで語られるかと弟子達が尋ねると、イエス様はあなた方には神の国の奥義が授けられているが、ほかの人達には譬えで語られると仰っいました。

譬えで語るとは隠されて理解できないという事ですね。マルコはイザヤ書6章を引用して、その背景を説明します;「彼らは見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、悟らず、悔い改めてゆるされることがない。」

2) 灯りは燭台の上に:

 そして、この種蒔きの話の直後に「ますの下や寝台の下に置くために、あかりを持ってくることがあろうか。燭台の上に置くためではないか。なんでも、隠されているもので、現れないものはなく、秘密にされているもので、明るみに出ないものはない。」という意味の事が続いてる。
マルコとルカはそのように並置されている。しかし、マタイは同じ意味の聖句でも全く違う文脈の中にあります。

3) 神の国の奥義は解ける:

 ではなぜ、神の国の奥義は弟子達や他の一部の者達に授けられて、その他の人にはわからない譬えで語られているか、という疑問が湧きます。
元々、イエス様がこの地上に来られたのは神の国の奥義を語り、それがどんな形であれ、表現であれ、聞く人が分かるように語るべきではないですか。神の国の奥義は哲学用語や難しい法律用語で語られた訳ではありません。

寧ろ短い生活体験の中から教えておられる。灯りはますや寝台に隠して置くものではなく、燭台の上に置くべきものである。

そして隠されているものは現れ、秘密にされているものは明るみになると言われました。そこにポイントがあります。神の国の奥義も同じ様に明るみに出され、秘密から解かれて、全ての人に開示されなければなりません。

神の国の奥義は燭台の上に置かれて、見る人、聞く人がそれを理解し、受け入れる様にイエス様は福音、神の国の奥義を語っています。

しかし、中には語れど、解けど、神の国の奥義に頑固と目を閉ざし、耳を傾けてない人がいます。そういう人達にとっては神の国の奥義はますや寝台の下に閉じ込められた、理解できない福音である。神の国の奥義は良く聞くことによって、と寝台の下から燭台の上に移されていきます。

4) 文脈理解:

 ついでながら、私達は聖書の学びに大切な”文脈” の中で理解、解釈することを教えられます。マタイの13章には同じ種蒔きの話はありますが、灯りの話はそこにはなく、全く関係のない山上の垂訓の地の塩となれ、世の光となれという文脈の中にあります。その灯りは人々のよい証人となれと結ばている。

それは地の塩や世の光がそうである様に、証が目的となっています。また、イザヤ書14章はサタンの事を「明けの明星」と呼び、黙示録22章はイエス様を全く同じ名前で呼んでいます。同じ表現、同じ聖句であっても文脈の解釈は大事ですね。

こうしてみ言葉を真剣に学び、真剣に耳を傾けると聖書がわかりやすくなります。まず、信じる姿勢が大事です。疑う心が先行すると目が鱗でかすみ、神の国の奥義は心の中に入り切れず、外に立つています。ますや寝台の中に捨て置くことになりましょう。
神の言葉をよくよく聞きたいものです。

前原利夫



ゴスペルベンチャーインターナショナル教会
Gospel Venture International Church (GVIC)
17811 South Western Avenue, Gardena, CA 90248 U.S.A.
www.gospelventure.com/


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