今年のイースターは4月21日にあたり、その前の週は受難週です。今号はイエス様の受難、次号では復活を考えてみましょう。イエス様の苦難は ゲッセマネの園の血の汗を流す祈り、ユダの裏切り、ペテロの三度の否み、ユダヤ人による捕縛、ピラトの下での裁判、そして十字架の死で肉体的、霊的受難の極限に達します。ゲッセマネの祈りでみこころがなりますようにと祈られた主は、十字架の上で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか)と祈られた。父なる神の御心を求めながら父に見捨てられたメシヤの苦難の深さを知る術はありません。

今号のテーマはこの様な苦難をイエス様はどう乗り超えられたか、それは一言で言えるものではないが「沈黙」ではなかったか。「イエスは黙っておられた」、「イエスは一言もお答えにならなかった」、「イエスは何を言われても、ひと言もお答えにならなかった」と大祭司、総督ピラトや長老達の前に沈黙で対応された。

1) ゲッセマネの祈り:

イエス様はよくお一人で祈られました。バプテスマのヨハネがヘロデ王の下で首をはねられ殉教した時も世から静かに退き祈りました。ゲッセマネの祈りは最後の晩餐の後の祈りで、ご自分の時が目の前にあることをご存知でした。この時、3人の弟子達を同行しての祈りでした。彼等の執り成しの祈りを期待してのことであろう。

しかし、ここでもイエスの期待に応える弟子たちではありませんでした。イエス様はご自分の痛みを忘れたかの様に、弟子達を三度も励ましますが、私達のように弱い彼等でした。イエス様は血の汗を流しつつ、迎える十字架の死、罪の贖いの苦しみの中祈りました。苦難に勝利する沈黙はこのような祈りの戦い、御心を求める中から会得するものではないか。

2) 旧約聖書に立つ沈黙:

イエスの十字架はマタイの26、27章のテーマですが、他の福音書にも並行記事があるとおりです。イエス様はこの受ける苦難は当然であり、避けられない苦難である事を旧約聖書を拠り所としておられる。大祭司、律法学者、長老達を目の前に人の子は自分について書いてあるとおり去っていく、また彼等に捕縛された時、預言者たちの書いたことが成就するためであると語られた。

ご自分がイスラエルが待ち望んでいたメシヤである事をはっきりと言われた。だから、大祭司があなたは神の子キリストかと聞かれた時、イエス様は「あなたの言うとおりである」と答えられた。多くの偽証、侮り、侮辱、嘲弄に沈黙を守りながらも語るべき真実、真理については憚らない。イザヤ書53章は苦難のメシヤがひたすら沈黙することを記録しています。

3) 剣に代へて沈黙:

裏切り者のユダが大祭司を捕縛に案内した時、ペテロは大祭司に仕える僕の耳を切り落としたとあります。イエス様はその僕の耳に触れてお癒しになりました。そして「剣をとる者はみな、剣で滅びる」と戒められた。それは武力行為、たとい正当な理由であっても、剣をとる事を禁じられました。ご自分を裏切る人に、また不当に裁く宗教家や政治家に対してです。イエス様は天の父に願えば「天の使いたちを12軍団以上も、今つかわしていただくことができないと、あなたは思うか」とご自分を守る軍団がおられる事を言われた。

古代ローマ兵の1軍団兵は5,000 – 6,000兵士からなるという。剣をとる者は剣で滅びると教えられたイエス様はご自分も武力をもって裏切り、不当な裁判に応戦しまんでした。ただ沈黙を守られた。イザヤ書2:4「、、、こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて、すきとし、そのやりを打ちかえて、かまとし、国は国に向かって、つるぎをあげず、、」と、ご自分が平和の君である事を敵の中で証された。

私達はこの地上で様々な試練、予期せぬ悪口、侮り、侮辱等を受けるものです。身じかな人からは辛いものである。しっぺ返しの誘惑に負けないようにイエス様のように「一言も答えられない」沈黙の力を学びたいものです。神様は私たちが耐えられないような試練は下さらない。「イエスは言われた、『父よ、彼らをおゆるしください。彼らはなにをしているのか、わからずにいるのです。』」と十字架の上から祈られた。(ルカ23:34)

沈黙は力、勝利です!    

前原利夫


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