イスラエルの風 | 森田のりえ

2021年12月30日


「イスラエルの風」 森田のりえ

2014年7月・ 西壁

旧市街を囲む城壁の入り口で、私たち一行はバスを降りた。
見ると、大風呂敷のような白い布をテントのよう広げ四隅を男たちが棒で支えている。キッパーを被った少年がその中にいて、男たちが取り巻いている。みんなキッパーを被っている。同じような一団が後から後から城壁内へ入る。はじめて目にする光景に「なに、あれ?」と、私は声を上げた。

「バーミツバよ」
と、真美子師が教えてくれた。
13歳になったユダヤ教の男子が一人前のユダヤ人として扱われる儀式だという。彼らは小さい頃からトーラ(モーゼ5書)を勉強する。勉強した個所をバーミツバに集まった人たちの前でヘブライ語で読み、自分の言葉で解説する。宗教的ユダヤ人にとって人生の最も重要な行事の一つで、一族郎党は遠方から駆けつけ、盛大なパーティをする。聞けば聞くほど頭が混乱した。
宗教的ユダヤ人の子供は、幼いころから自分で考える訓練をするそうだ。頭が良くなるのも当然かもしれない。

西壁の入り口では厳しい手荷物検査が行われた。黄金ドームのある神殿の丘への細い道に銃を肩にした兵士が二人立っていた。パレスチナとイスラエルの緊迫した情勢を間近に見て、身が引きしまる。

やがて、ぽっかり開いた広場に出た。
西壁、俗に「なげきの壁」が正面に見える。これがユダヤ民族の心の故郷と呼ばれている神殿の丘の西壁なのか、何メートルのあるのだろう。高い。バーミツバでごった返す人。壁に向かって黒ずくめの男性が聖書を広げ、頭を何回も下げ、祈っている。白い布を被った人もいる。祈りの壁は男女別々だ。私は人を掻き分け壁に近づいた。石垣の隙間にびっしりと詰め込まれ願いの紙。私は壁に手を当て旅の無事を祈った。
真っ青な空をバックに西壁のひときわ高い所でイスラエルの国旗が翻っていた。
国の存在を顕示するかのように。


2014年6月・古代の地下水路

いきなり、ズボッと深みに入り腰まで水に浸った。一瞬、肝を潰した。ギボンの泉から流れ出る水の勢いに足を取られないよう、一歩、また一歩と用心深く進む。先頭を行くのは真美子師、次は私、後ろは友人のあっちゃん、そしてツアーの人たちが続いている。恐れることはない。という一方で、次は何が起きるのか期待も湧く。 

何しろ、BC7世紀、アッシリアの攻撃に備えて『ヒゼキヤ王』によって建設された地下水路を歩いているのだ(列王紀下20章参照)。気持が高ぶらないほうがおかしい。
両手を広げたほどの幅に高さは人が悠々と歩ける。水かさが股下までになった。水底は平らだ。気持に余裕が出てきた私は、懐中電灯でトンネルの側面を照らした。
あった!
大昔の人が岩を削ったノミの痕跡だ。壁から上まで数センチ幅の痕がびっしりとある。コンパスもない時代に、いったいどのようにして掘り進めたのだろう。飛び散る石片に目をやられた人、突然岩が崩れたりと犠牲者も出たに違いない。水路が出来た時代から絶えることなく水は流れているのだろうか。大昔の人たちへ想いを馳せながら40分も歩いただろうか、先方に明りが見えた。
出口のシロアムの池だ。

「城外にあった水源ギボンの泉を隠し、岩盤をくりぬいて城壁のなかに地下トンネル
を掘りシロアムの池まで水を引き入れた。工事は2組の抗夫たちによって両側から掘り進められ中央で出会った」と、真美子師に聞かされた。
主イエスが盲人の目を癒したと聖書にある「シロアムの池」はこの場所だと、考古学発掘の結果2005年に確認されたそうだ。現在はコンクリートで四方を
固めた小さなプールになっている。
2千年前の話が今も伝えられ信じられていることに、私は、大いなる存在を認めざるを得ないのである。


2014年5月・ エルサレム

オリーブ山の頂でバスから降りた。聖地旅行のハイライトである。私たち一行を待っていましたとばかり、物売りたちに取り囲まれた。彼らを一瞥し、スリに遭わぬようバックを前に抱きかかえた。
エルサレムの街が一望できる。城壁が薄茶色の帯びのように横たわり、神殿の丘の内部が俯瞰できる。木立の間から見える青色の壁の建物は「岩のドーム」だ。手前の山の斜面に黄金色に輝いている玉葱型の教会の尖塔が五つ、六つ固まっている。ガイドのアビィが説明を始めた。
「あれはロシア正教の教会です。尖塔の形はイエスの涙を表しています」
あ、そうだったのか。
玉葱ではなく「イエスの涙」だったのだ。そういえばワインの銘柄や宝飾店ティファニー
に「ティヤ・ドロップ」という装飾品がある。

深い意味がある言葉に納得。
『イエスは都の近くにきて、それが見えたとき、そのために泣いていわれた』と、ルカの福音書19章40節以降にあるのは、ここですとアビィは話し続けた。エルサレムの表面的な繁栄を見て嘆き涙されたという。また、オリーブ山はイエス昇天の山だともいう。イエスが涙を流された山を下り中腹にあるゲッセマネの園に着く。
弟子たちと最後の晩餐をすまされ歩いてここに来られ岩の上で最後の祈りをされたところである。汗が血のしずくように血に落ちたという場所に『万国民の教会』が建っていた。外で説明を聞き中へ入る。
教会の真ん中に平たい8畳間ほどの岩があった。岩に手を置き各々が祈る。私の祈りといえば娘家族の健康と安泰、これまで無事に過してこれた感謝である。天球を思わせるドームは、わずかな物音でも吸い込んで響き、厳かな祈りの場をかもし出していた。
教会を出た。道を隔てた向こう側に神殿の丘の城壁があり、石とコンクリートで固められた黄金門が真正面に見えた。


2014年4月・ペトラの遺跡

岩盤の亀裂した深い谷底の道を歩いている。幅3.4m。見上げると真っ青な空が帯状に流れる。両側は80m以上もある赤茶けた絶壁がそびえたつ。岩肌に沿って水路の跡がある。大昔、ここに住んでいた人が作ったのだろう。細い曲がりくねった道を進んでいると、目の前が開けた、その瞬間、
「ワァオォー!」 と、叫んだまま立ちすくんでしまった。
テレビで何度も観たヨルダンの世界遺産「ペトラの遺跡」である。

映画「インディ・ジョーンズ・最後の聖戦」のロケ地として使われた新世界七不思議一つ。
岩壁の隙間から薄いオレンジ色に輝くエル・カズネ(宝物殿)が見えた。一世紀初頭に造られたナバテヤ人の偉大な王の墳墓だという。前に立つと数十メートル高さと精巧な作りに言葉がない。 

とにかく凄い。ついに来た。まさか、来られるとは思いもしなかった所だ。
近くにワディ・ムーサ(モーゼの谷)という町がある。預言者モーゼが岩から水を湧き出させた場所がペトラの遺跡近くだとインターネットに誰かが書いていた。真偽のほどはわからない。眉唾に決まっている。
宝物殿の横を抜けるとBC1世紀ごろから栄えた古代都市が広がっていた。ロバに乗っての見学だ。ベドウィンの少年がロバの手綱をとり決められたルートを回ってくれた。土と埃、岩山に造られた膨大な遺跡群。十字軍の印のある教会跡はモザイク・タイルの床を発掘している最中だった。
三味線のような楽器を弾いていたおじさんが、糸が切れて、少年と地べたに座っていた。かわいそうに、今日のノルマは達成したのだろうか。露天商を覗くと「ハンド・メイド」といって、アラブの白黒のスカーフを頭に巻いてくれた。商売上手だ。
以前、遺跡内に住んでいたベドウィンが立ち退きの条件として営業権を得たという。
昼食後、私たち一行を乗せたバスは走り出した。さ、今夜はエルサレムだ。


2014年3月・エイラートへ

イスラエルの60%を占めるネゲブ荒野を、ひたすら南下している。
行けども行けども、灰色の山並みと茶色の岩山と土である。何もない。ほんとうに何もない。なんと過酷な自然だろう。神様は不公平だと思った、が待てよ、このごろは地下資源に目を向けられている。案外、宝の宝庫かもしれぬ。

3千数百年前、モーゼはイスラエルの民を率いてこの荒野のどこかを横切って北上したはずだ。水や食べ物はどうしたのだろうか。
素朴な疑問が湧く。もしかして、いま見ている荒涼とした風景とは違っていたとも考えられる。気候や生態系が違えば、緑の野原だったともいえなくはない。いまの感覚で大昔の事を考えるのは間違うもとだ。あれこれ空想をたくましくいると、いつの間にか睡魔に襲われた。

数時間走っただろうか。ふと目が覚めた。遠くに緑の塊が出てきた。ナツメ椰子の畑だ。牛の牧場が見える。ダチョウのファームがある。ソーラーパネルが地面にへばりつくように広がっていた。
「キブツではソーラー・エネルギーを使って冷房をし、一日三回、牛に水のシャワーを浴びさせています。この辺りは20mも掘れば水脈に当ります」
ナツメ椰子の栽培もしていると、ガイドのアビィが説明をはじめた。

小さな町に着いた。休憩だ。アイスクリームの冷たさが喉をうるおす。美味しい。
イスラエルの最南端の街エイラートは、もう遠くない。私はバスの前方の席で、身を乗り出すようにして見つめながら、頭のなかで地図を思い描いた。右手にシナイ半島、その向こうにスエズ運河、左手はヨルダンがありアラビア半島がある。遠いところへきたものだ。
家並みの間から真っ青な海が見えた。
紅海だ!
バスは紅海のアカバ湾をチラッと見せて、ヨルダン国境へと向かった。


2014年2月・ベドウゥン村

イスラエルの南半分を占めるネゲブの荒野に入ったのは、9月半ばである。
樹木のない茶褐色の丘が連なっている。時たま、羊やラクダの群れが現れては、視界から消えていく。ベドウィン村に着いたときは、ちょうどお昼だった。

屋根を棕櫚の葉で覆ったテントの中は集会所だろう。地面に直接絨毯を敷いた上に木漏れ日が落ち、心地いい。隅に座布団が乱雑に積み重ねてあった。低いテーブルの周りに座ると、男たちがご馳走を並べる。女性の姿はない。大皿の真ん中に味付けしたライスを盛り上げ、周囲を野菜や肉の照り焼きを置く。豪快なメインだ。デザートはリンゴや洋梨、バナナなどの果物。なかなかの味だ。食事が終わると、炉を囲んで私たちは座った。ベドウィンの男性が、豆を炒っていた。そして、トントントン、豆を挽くリズミカルな音が響き始めた。
「この音が聞こえると、砂漠を通る人たちが集まってきます。楽しんでくださいという歓迎の合図なのです。もちろん、お金はいただきません」

男が話しはじめた。
ネゲブには2万人のベドウィンがいる。6部族いて、各々親から受け継いだテレトリーを守って2500年前から住んでいる。この頃は自動車を持ち、ラクダの移動にはGPSを使っている。子供たちは街で教育を受け、ベドウィンの暮らしには戻らない。  
彼には3人の妻がいるというから、イスラム教に違いない。お金がないと結婚も出来ないようだ。当然、女があぶれてくる。一夫多妻は女性救済の意味もあるのだろう。

引率の真美子師は若い頃、
「ラクダ三頭と羊5頭でお嫁にこないか」
と、ベドウィンの男にプロポーズされたそうだ。同行した白人のかわいい子は、ラクダ5頭に羊10頭だったから、
「バカにしないで! どうせ私のラクダは年取って子供を産めないやつでしょ」
と、怒ったそうだ。


2014年1月・死海浮遊

「身体の力を抜いて」
といわれても、胸の辺りまで水に浸かっているので、抜き方がわからない。もたついていると、連れのあっちゃんが「椅子に腰掛けるようにしてごらん」と教えてくれた。呼吸を整え肩の力を抜き、ゆっくり腰を下ろそうとした途端、ポカリと浮かんだ。
「浮いた!」と、歓声を上げていると、お尻がコロリとひっくり返りそうになった。水を飲み込むと呼吸困難になり命にかかわる。水を目に入れない。ガイドの注意事項が瞬時に脳裏をよぎる。必死になって手足をばたつかせていると足が底に着いた。
ここは30%近い塩分の死海である。

もう一度やり直す。静かに両手を広げ左右のバランスをとる。うまくいった。仰向けになり髪を濡らさないよう頭を上げている姿勢は結構疲れる。死海の泥は塩分だけではなく各種のミネラルを豊富に含んでいるので健康や美容にいいらしい。浮遊が終わると水際の黒い泥を全身になすりつけた。
泥遊びをした幼いころに戻ったようだ。

もう一度やり直す。静かに両手を広げ左右のバランスをとる。うまくいった。仰向けになり髪を濡らさないよう頭を上げている姿勢は結構疲れる。死海の泥は塩分だけではなく各種のミネラルを豊富に含んでいるので健康や美容にいいらしい。浮遊が終わると水際の黒い泥を全身になすりつけた。
泥遊びをした幼いころに戻ったようだ。


12月・断崖の要塞

死海に沿った道を南下している。
私はバスに揺られながら、依然訪れたレーガン記念博物館(Simi Valley)でのことを思い出していた。海外の国賓からの贈呈品が並ぶ陳列ケースに、場違いな野球ボールほどの石があった。説明書には「紀元一世紀、マサダ要塞の包囲網でローマ軍が放った投石。1987年イスラエル大統領ハルム・ヘルツォーグ贈」とあり、『ローマン・ボール』と名づけられていた。

みなさん・・・」
というガイドの声が耳に入ってきた。
「前方に見える台形の岩山がマサダ要塞です。死海から約430メートル。険しい断崖の上に熱心党のユダヤ人967人が立てこもり、ローマ軍団15.600人を相手に2年間余りに及ぶ攻防戦を続けたのです」

一行はバスから降り、山頂へはロープウェイに乗った。ロープウェイを降りると垂直な断崖に沿って通路が設けられていた。高所恐怖症の真美子師は顔を引きつらせ「もう、だめ。怖い!」と、手すりにしがみつき悲愴な悲鳴をあげていた。しかし、一歩一歩、確実に前へ進み、ついに要塞の入り口に着いたときの真美子師の安堵の顔を見て、思わず私たちは、笑ってしまった。

台地に立つと死海の向こうは薄紫色に染まったヨルダンの山並み、あとはただ荒削りな茶褐色の丘陵が続いている。要塞跡には貯蔵庫、貯水槽やサウナ風呂、シナゴークなどの遺跡があり、驚くほど広い。麓には2千年前にローマ軍団が駐屯していたという遺跡が見えた。

『ローマン・ボール』は、はたして要塞の中まで届いたのだろうか。対するユダヤ人側は、崖をよじ登るローマ兵に石を落して抵抗したという。証拠のバレーボール大の石が歴史を物語るように転がっていた。
 投石を贈呈したイスラエル大統領の想いはどこにあったのだろうか。
突然、空を切り裂くような轟音が響いた。「あの音は・・・」連れの友がいった。「ファントムF・16、間違いない」古い感覚の世界に、突如、21世紀が侵入してきた。


11月・途方もないジグソウ・パズル

バスは、地球でもっとも低いといわれている死海のほとりを走っている。褐色の大地に緑の塊が見えた。キブツが経営するナツメヤシ畑だ。バスは坂を少し上ったところで止まった。クムランの遺跡見学である。

日差しが強い。木、一本ない。帽子を被っているが焦げそうなほど暑い。汗は出ない。小石を積み重ねただけの遺跡のなかを歩く。ミクベと呼ばれる身を清める水槽跡があちらこちらにある。乾燥地帯だ。水はどこから引き入れたのだろう。排水跡もない。 次から次と疑問が湧いてくる。

ガイドは私の疑問を先取りするように説明しはじめた。
「エルサレムに大雨が降ると遺跡の背後にある渓谷に流れこみます。それをせき止めて石灰岩の崖面をくりぬいた水道トンネルによって水槽へ・・・」
 発掘作業をしている機械音にガイドの声が千切れた。
遺跡の背後は丘の斜面に大きな穴が見えた。1974年の初春、羊飼いの少年によって偶然発見された『死海文書』の入っていたクムランの洞窟である。

二千年前、この地に住んでいたエッセネ派と呼ばれる共同体の人たちによって書かれた巻物は、高さ2フィート、幅10インチほどの壷に布に包まれて入っていた。後に考古学的な発掘が始まり、この辺りの洞窟から夥しい古文書が出てくることになる。
破損、隠匿、燃料にされ失われたが、残った断片は『途方もないジグソウ・パズル』といわれ、神父や学者によって解読が進められたそうである。

死海文書の存在を私が知ったのは、湾岸戦争が取りざたされた1990年の日本の新聞だった。ミステリアスなものを感じた。当時、家族でヨーロッパ旅行をした。高校生だった娘は、
今二児の母、元気だった夫は10年前に亡くなった。早いものだ。


  

10月・世界最古の街

「あった! 桑の木が。へぇ、これが二千年前の木?」
友人のあっちゃんが素頓狂な声を出した。
「ある訳ないじゃ、2千年も前の木が。でも、ザアカイが登った木はイチヂクの木じゃなかったかしら?」
偉そうにいったのは私である。

イスラエル旅行四日目、エリコの街に入った。3千数百年前モーゼの後継者ヨシュアに率いられたイスラエル人が城塞都市を攻略したと旧約聖書にあるのは、この街である。我々一行を乗せたバスは5.6メートル広さに葉を茂らせた巨木の横に止まった。私と友人は「ザアカイは背が低かったので、イエスを見るために木に登った・・」というルカによる福音書第19章にある箇所を思い出したのである。後日調べると『いちじく桑の木』であった。

「The oldest city of the world」と書かれたプレートがある。古い街を見学したいが時間がない。私たちは柵にしがみついて中を見た。赤茶けた土と石ころが積み上げられた以外は何も見えない。真っ青な空だ。頭上をロープウエィが走っていた。行く先を辿ると、茶褐色をした山の中腹だった。
「イエスが悪魔に試みられた誘惑の山というのは、あそこですよ」
誰かが話している声がした。

海面下250メートルの街エリコは地下水が豊富で日光はよく当たる。植物がよく育つらしい。この街のナツメヤシは格別美味しいと聞かされたのでお土産店に入った。店内で、170センチもありそうなスラリとした体に、黒い服を頭からすっぽりと覆った女性が二人、買い物をしていた。目の部分だけ開いている。腰を屈めた拍子に、裾から、チラリと鮮やかな赤模様のドレスが覗いた。
はっとした。強烈な印象だった。


9月・ヨルダン川

ヨルダン渓谷を南下している。
バスの振動に揺られながら車窓に映る風景を食い入るように見ていた。右手は枯れ草に覆われた緩やかな丘陵地帯。建物は何もない。左側は、道路沿いに有刺鉄線が張り巡らされている。高さは大人の背丈ほどもあろうか。ここはヨルダンとイスラエルの国境地帯である。鉄線の向こうは中立地帯だ。遠くに緑の木々が茂るあたりがヨルダン川の岸辺で、国境は川の真ん中である。
トラックが大きな石を二つ載せて疲れたように唸りながら、我々のバスを追い越していった。砂塵が舞い上がる。

検問所が出てきた。
自動小銃を持った兵士が一人いた。周囲は草一本ない平らな土地が広がっている。トラックターのような機械で掘り返されたような跡が縦横にいく筋も見えた。
「まさか!」と思って、ガイドのアビィに尋ねると、中東戦争でヨルダンに近いためにたくさんの地雷が埋められた。2010年10月イスラエルが地雷を除去したという。いきなり戦場に放り込まれた気がして、背筋に緊張が走った。この辺りを「ヨルダン川西岸」というらしい。地雷原のなかをまっすぐ道が伸びていた。バスが止まった。終点だ。

その昔、預言者ヨハネからイエスが洗礼を受けたという伝承の場所である。川の中洲に生えた樹木で対岸は見えない。
自動小銃を持った国境警備のイスラエル兵があちらこちらにいる。フレンドリーだ。

川べりに洗礼所が設けられていた。ガリラヤ湖から流れ出た水は、岸辺の
土を噛みながら死海へと注がれている。
水は泥色だが、洗礼を受けている人たちがいた。

世界史を動かす一つの出来事がここで起り、二千年後にその場所に自分が立っている。不思議なめぐり合わせに思いを馳せながら、私は、川面を眺めていた。


8月・戦争と平和

あの塹壕はどうなっているのだろう。迷彩色の軍服を着た兵士が集結しているのだろうか。5月初旬、イスラエルがシリアを空爆したという報に、私は、ゴラン高原の塹壕を思い出していた。

草原から吹きあげる風に帽子が飛ばされないよう手で押さえながら、シリア側を眺めていた。峰に沿って掘られた人の背丈ほどの塹壕。兵隊の避難所や休憩所、大砲の残骸、機関銃をかまえた人のオブジェが最近まで戦闘があったような雰囲気をかもし出している。だが、眼下に広がる耕作地が平和な証拠だ。その向こうに国連の停戦監視部隊の建物がある。シリアとイスラエルの国境だという白く見える道が一本、走る車もない。草原の彼方に町の塊があった。その町をかばうように荒涼とした茶褐色の山がうずくまる。遥か左手の彼方にヘルモン山がかすんで見えた。

何十年か前に日本赤軍の拠点だった。
すごい所へきたと思った。
ガイドのアビィは、ゴラン高原はイスラエルにとって主要な水源地です。ヘルモン山の雪解け水が高原の湧水となり、ガリラヤ湖に流れ込みイスラエル全土を閏しています。45年前まではシリアの土地だったが、1967年の6日戦争以後はゴラン高原はイスラエルの管理下に入っています。シリアの目的はゴラン高原を奪還して水源を絶とうとしているのです。だから、絶対に手放せません。死活問題です、といった。
バスの駐車場の隅でドールス人のおじさんが屋台で果物を売っていた。
ツアーの人たちがジャムを買うと、陽に焼けた顔のおじさんは笑顔で売物のリンゴを私たちに配ってくれた。引率の山本真美子師は、「彼らはユダヤ人といい関係なのですよ」
といった。
中東の火薬庫と呼ばれているこの地に平和が訪れる日はくるのだろうか。


7月・ペテロの魚

ふいに目が覚めた。外はまだ暗い。ティベリアの街の灯が窓越しに見える。わけもなく寂しさに襲われた。落ち込むような寂しさだ。なぜだろう。あれこれ思いを巡らせていると外が白んできた。ブーゲンベリアの赤い花びらが風でこまかく揺れている。 小鳥がさえずりはじめ
た。

今日はイエスの公生涯の中心となったガリラヤ湖畔の見学である。
ホテルを出ると木の間から輝く湖が見え隠れする。
これがガリラヤ湖なのか。形によるのか、湖面の波音が竪琴の音色に似ているのか、神様はこの湖をキンネレテ「竪琴」の湖と呼ばれたと聖書にある。

我々一行を乗せたバスは湖畔沿いから坂道を上がった。小高い丘にユーカリや楡の樹木に囲まれた八角形の教会があった。イエスは群衆を見て山へ登り「山上の垂訓」を教えられた場所である。一説によればイエスは岸辺に立って話されたのではないか。湖面が自然の音響効果となり、声が山頂まで届くからという。教会の中にあるイエスゆかりの大きな岩で、私は、娘家族の健康と平穏を祈った。自分の力ではどうにも出来ないことは祈るしかないのである。

次に行った先も教会だった。祭壇の足元にイエスが5千人の人に2匹の魚と5個のパンを分け与えた話のモザイク画が描かれていた。私たちはガリラヤ湖の岸辺に下りた。渚に足を浸しながら、早朝に感じた「寂しさ」について考えてみた。昨年亡くなった妹の夢を夕べみたせいかもしれない。

2千年前は国境だったというカペナウムにきた。税関吏だったマタイや漁師をしていたペテロもここでイエスの弟子になっている。昼食は、ペテロの釣った魚が銀貨をくわえていたといわれる「ペテロの魚」だ。色と大きさは黒鯛に似ている。油で揚げてあり大味だった。向かい側の友人がバックから醤油の小瓶を出し、テーブルに置いた


6月・古代の暮らし

被っていた帽子が飛んだ。エズレルの平原から吹き上げる風に煽られ、帽子はカルメル山の展望台から落ちそうになった。
 ガイドのアビィは分厚い聖書を片手に旧約聖書に登場する預言者エリヤの箇所を読んでいる。バアルの預言者450人、ならびにアシラの預言者400人をカルメル山に集めて・・・神の人エリヤはひとりで彼らと戦い打ち勝ったと。

「あの辺りにバアルの軍勢は集結したのでしょうかね」
誰かが眼下の緑地帯を指さしていった。手入れの行き届いた耕作地がパッチワークのように拡がる。肥沃な平原だ。ふいにBC9世紀の聖書物語がくりひろげられているような錯覚に包まれた。
遠くに小高い丘がかすんで見えた。メキドだという。
 

思い出した。18年前に東京地下鉄サリン事件が起きた。メディアは「ハルマゲドン」という言葉を使った。当時高校生だった娘に意味を尋ねると何度も聞き返した。「ああ、アーマゲドンのこと?」
発音が違うと,笑い転げたことがある。辞書には世界の終末における善と悪の決戦場とある。その決戦場がメキドだ。私の心にすみついている地名である。
 樹木の生い茂るカルメル山から、聖書ゆかりのタボ山へと向かった。
田園風景のなかを走る。ユーカリの街路樹がつづく。タボ山のバス駐車場で、ごったがえす観光客に混ざって、絞りたてのザクロのジュースを飲んだ。喉の通りがよくなった。

さ、次はナザレだ。マリアが受胎告知を受けたのも、イエスが伝道をはじめるまでの30年間、両親と住んだのもこの街である。地下数メートルに発掘された古代の街と横穴住居跡が見えた。イエスの時代の暮らしが身近に感じられるようだった。今はイスラエル最大のアラブ人街である。   


  

5月・地中海の潮騒


空港の外に出た。さっと頬を撫でる風が心地よい。イスラエルの風だ。 
出入国審査は世界一厳しいと聞いていたベン・グリオン国際空港である。緊張していた割には団体のせいか難なく入国できた。

2012年9月、総勢14名の8泊9日聖地旅行団は、待機していた大型バスに乗る。ガイドはユダヤ人の青年アビィ、通訳は引率者の山本真美子師である。
「このテルアビブの街は、ノアの洪水の後にノアによって作られました」
 

アビィはいきなり聖書のなかに私たちを放り込んだ。遥か遠い昔の人たちが生き残っているかのように話す。イスラエルは第二次大戦が終わった1948年に建国された古くて新しい国である。

「アメリカ大使館はエルサレムではなくテルアビブにあります。理由は、イスラエルだけサポートをしているような感じを避けるための政治的配慮です」
アビィの説明を聞きながら、近代的な都市テルアビブを抜けると紺碧の海を左手に見ながら、北に走った。

と、急にバスが速度を落とした。アビィが窓の外を指差している。見ると、赤錆の浮き出た鯨像の背中から噴水が出ていた。魚に呑み込まれ三日三晩、魚の腹の中にいたというヨナ書のモニュメントであった。

行く手に高層ビルの塊があった。ネタニヤだ。1925年、マラリアが発生する海沿いの沼地を富豪のユダヤ人が、アラブ人から購入して作った街である。以前はテロ事件が多い街だった。現在は、厳重なテロ対策によって沈静化しているそうだ。

ホテルで夕食を済ませた後、夕闇の迫る浜辺を友人たちと歩いた。
イスラエルは政治的、歴史的、宗教的にも他の国とは違う。どのように違うのか旅を通して自分の目で見、肌で感じたい。地中海から押し寄せる潮騒を聞きながら、その時、そう思った。   


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ゴスペルベンチャーインターナショナル教会
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