神の真実、、人の不真実〜ローマ書3書と創世記12章から
「神は真実である」という言葉は旧約聖書に多く見られる言葉です.私はこの「神は真実である」を、どんなことが起っても,ご自分の仰ったことは曲げられない,約束された通り実行なさる,このように理解していました。
確かに,それは間違いではないが,深みのない、神学的解釈のない理解であったと気づきました.60年,聖書を読んできた者としては恥かしい次第です。しかし,学びを一段深くし,旧約が新約を解き,また新約が旧約を解く聖書の学びの原則を見つける喜びは 恥よりも大きいのです。
創世記の12章とロマ書3章を重ね合わせながら、「神は真実である」ということを学びましょう.同12章からアブラハムが紹介され,神の祝福を約束されて開幕します.神はアブラハムに大いなる国民、大いなる祝福、大いなる名、祝福の基とすると約束される.アブラハムはこの約束を信じ,行き先も不透明のまま,カナンの地に移住します。
ところが,神の約束の地が飢饉に襲われ,アブラハムはエジプトに寄留する.ここエジプトで、誰も予測しなかった大事件が起こる.妻のサラがその美貌のゆえにパロ王の家に召し入れられるのです。
そもそも,アブラハムが妻のサラを自分の妹と言ったことが問題であり,嘘の言い訳を計画していたのである.話を短くすると,その嘘がばれて,神はパロとその家の者に疫病を送り,サラの純潔を守られるのです(これはサラからイサクが誕生する神の計画が妨げられてはならない)。
ここで、人はなぜ嘘を吐いたアブラハムを罰しないで,騙されたパロが罰せられたかと問うでしょう。この事件の結末は、サラは無事に戻され、アブラハムは多くの家畜と持ち物を持ってエジプトからカナンの地に戻るのです。神の真実はアブラハムに約束した祝福を、彼の罪ゆえに撤回することなく、そのまま実行されました。神の真実!
ロマ書の3章はこのように 始まる
「では、いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。絶対にそんなことはありません。
たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。・・・」(3~4節)この言葉はユダヤ人に語られた言葉ですが、神は多くの祝福をユダヤ人に与えられました。しかし、彼らはこの祝福を無にし、神に背を向けました。では,そのユダヤ人に対して,神は約束の祝福を取り去るのでしょうか、いいえ、そのようなことはありません。なぜなら、神は真実なお方であるとパウロは言います。
もし、人間同士であれば,一方が約束を破れば相手も同じ仕打ちで対応するであろう、それは,人間は真実ではなく、不真実だからです。預言者ホセアは6章で「エフライムよ。わたしはあなたに何をしようか。ユダよ。わたしはあなたに何をしようか。あなたがたの誠実は朝もやのようだ。朝早く消え去る露のようだ。」と、人間の真実が朝霧のようにもやもやと 消えると嘆きます。
アブラハムのエジプトでの行為は神に対して不真実な行為であるが、神様はこの不真実なアブラハムを迎えて、真実を尽くして富を増させて祝福で迎えます。これが神の真実であり。神の憐れみを知らせる最上の機会であった。アブラハムが神は真実であり、憐れみ深い方であると体験することは,これからのアブラハムの進む未来に大きな確信を与えたでありましょう。アブラハムは残る75年の生涯を真実なるお方に従って歩まれるのである。
創世記12章のアブラハムに対する取り扱いは、世界の祝福を与えると約束された神の宇宙的な憐れみ、宇宙的な赦しであり、神の口から出た言葉は真実で永遠に実行されるという証です。今月24日は感謝祭を迎えます。どのようなご計画をお持ちでしょうか。教会はおいしい弁当を準備(ある方のドネーション)、主に感謝を忘れません。
この感謝祭、私たちに対する神の真実なお取り扱いを、感謝しようではありませんか。私たちは幾たび主に背き、主から懲らしめを受けたことであろうか。されど主は、私たちを見捨てたり、裁いて罪ありと切り捨てずに、約束された救いの恵を継続されます、神様は真実なお方だからです。もう一度、神の真実を自分の心に留めませんか。
「神の真実を感謝する感謝祭に!」
前原利夫
ゴスペルベンチャーインターナショナル教会
Gospel Venture International Church (GVIC)
17811 South Western Avenue, Gardena, CA 90248 U.S.A.
www.gospelventure.com/
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