英会話と教会 | 証・織田恭博(2)

2021年12月30日

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

英会話を教えてもらおうと訪ねた外人は、日曜日の朝に私を教会へと連れて行った。仏教の家で育った私は、「いえ、あの~、僕違うんです…..。」と言ったが、「ド~~ゾ、ナカニ、ハイッテ、クダサ~イ!」と教会の中に入れられた。

私にとって宗教に頼る人は、「弱い人間や年寄りたちが行く所!」と思っていたのだが、中からお婆ちゃんが笑顔で、「ようこそいらっしゃい!」とやさしそうに言うのだった。驚いたことに、そこにはお年寄りばかりではなく、私と同じ若者達もいたのだった。今まで「老人の集い」とか、「若者の集い」とかはあったが、お年寄りから若者達までいろいろな年齢層の人々が一緒にいるこのような風景は、見たことがなかった。彼らは決して強そうではないが、しかし私にはない何かを持っているのを感じた。

私は「決してアメリカの(その頃の私は、イエス・キリストはアメリカ人と思っていた)宗教などにだまされはしないぞ!」と厳しい顔つきをしながら、生まれて初めて「礼拝」というのを体験した。日本語の歌だが、よく意味のわからない歌を彼らは歌い出し、その後「天のお父様!」と言い始めたのだ。

『ここにいる人々は、みんな父親を亡くした人々の集まりなのか?』 そして初めて聖書のお話を聞いたが、チンプンカンプンだった。それでも、礼拝後にアメリカ人の宣教師やその子供たちと片言の英語で話すことが楽しみで、それからは毎週教会に行くようになった。

しかしクリスチャン達には「神様なんか本当は存在しないんだ!」「日本は仏教国なので、アメリカの宗教はいらない!」などと、今思えば生意気なことを言っていた。それでもなぜか、クリスチャン達は決して腹を立てず、いつもニコニコしながら接してくれるのが、とても不思議だった。