こわいもの知らずの私

高校卒業後、念願通り東京女子体育大学に進学しました。希望に満ちた大学生活が始まりましたが最初の授業から見事に崩れました。

例えば陸上の授業、高校時代狭いグランドで直線で50Mしか走ったことがなっかた私にとって何本も100Mを走らされた時は、心臓が破裂するかと思いました。マット運動の授業では、倒立5秒停止、そしてブリッジ。

生まれて初めてブリッジをした私は、背骨がぼきぼきと鳴り目から火花が飛び出てしまいました。

一事が万事で、どの授業でもそんな調子でした。私は、なんていう所に来てしまったのか、と思うのと同時に私が高校時代思っていた通り体育は、ちゃんと指導されてなかったことが分かりました。

母校に戻って、絶対体育の教師をするという気持ちが強くなりました。そしてこれからの4年間、自分をモルモットにして各種目をどのように教えたら分かり易く出来るようになるか勉強して行こうと決心しました。

でも、私の学生生活は、そんな苦しい悲惨なものだけでは、ありませんでした。なんと、一年の必修科目にピアノと声楽があったのです。そして4年間音大の先生から声楽を学ぶことが出来ました。幸せなことに自分のやりたかった音楽と体育の両方を学ぶことが出来たのです。

3年生の時には、その頃流行っていたフォークソング、ジャズバンドを組んだりもしました。4年生の夏、母校の副校長から電話があり、来年4月から、体育の教師として働きませんか?と連絡をいただきました。私の祈りが、聞かれました。これは、まさしく奇跡です。こうして母校で体育教師として働き始めました。

2年目には、先輩の先生が辞められたので、私の大学の友人に来てもらい、それからは、二人で運動嫌いな生徒が楽しく体を動かせる授業を考えたり、宿泊行事でスキー教室を始めたり、生徒が自分の好きな生涯スポーツに出会えるよう工夫しました。

24歳で結婚し、25歳で長男を出産。30歳で、次男を出産。仕事を辞めずに働き続けられたのは、いつも道が開かれ、助けてくれる人がいました。全て神様に感謝、祈る日々でした。人間形成を育ててくれました。

宮良恵美子