今年1月の第1礼拝からヨハネの福音書1章を学び初め、6月の第2礼拝で終章21章を学び終わります。今号は13章をメッセージした折に心に強く残った8節のイエス様の言葉「あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」この言葉をご一緒に考えてみましょう。この言葉は最後の晩餐でペテロに語られたとても重要で見過ごし出来ない主の言葉です。
 

弟子の洗足と十字架 「あなたはわたしとなんの係わりもない」 ヨハネの福音書13章8節 

結論から言うと、弟子たちの洗足はこれから十字架にかかり、罪を贖い、罪の赦しの 業をなそうとする予告、影であると考えています。勿論、メシヤの深い謙遜を示すモデルでありますが。一面人の足を洗うことは、当時、奴隷や僕のする事でありましたから、これは他人の罪をも背負う事と同じほど恥かしい業であったと思います。
 
これまで、この箇所を何度も何度も読みましたが、弟子たちの洗足はイエス様の謙遜を表すという枠内で理解してきました。ところが、今回弟子たちの洗足はそれ以上の意味があるように思わされています。弟子たちの足を洗うイエス様の姿が十字架のイエス様と重なり、ダブッテ見えるではありませんか。それは、イエス様がペテロに「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりわりもなくなる。」というイエスの言葉にその鍵があります。その辺から考えてみると、

洗足は十字架の影:

8節に、ペテロは、多分遠慮したのでしょうか、イエス様が足を洗おうとすると「わたしの足を決して洗わないでください。」と断ります。イエス様の返事は「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる。」。

このイエス様の言葉は、足を洗ってもらう事がどんなに大事か示唆しています。それは足を洗われなければならない者が避けられない、通らなければならない洗足です。イエス様の意図は足の汚れを落とすのは選択ではく必須条件であるという意味でしょう。十字架の罪の赦しも選択ではなく必須条件です。ここに十字架の影としての洗足があります。

ペテロはこれまで3年半朝な夕な主に仕えて福音に従事してきました。12弟子を代表する人物です。このペテロに向かって、どうしてイエス様が大変厳しく聞こえるような”あなたとは関係がない” とことの重大さがなく言えたのでしょうか。

それには、それなりに撤回できないイエスの理由があった筈です。弟子の洗足は単にイエスの謙遜を示す姿ではなく、翌日の十字架の影だからです。

洗足は罪の赦しの証:

洗足してもらった人は12人の弟子たちでユダもその一人です。主が足を洗われた時、ユダの心の中には既に悪魔が入り込んでいました。イエス様はそのようなユダの足をも洗いました。

十字架の贖いは全ての人類に対してで悪い人も、罪人にも有効であるからです。悪魔が入ったユダにさえも。ただ、受け入れるか受け入れないは十字架と係わりを持つか持たないかです。

十字架は十字架を受け入れる人に対する罪の贖いの業です。ですから、十字架を受け入れる者は誰でもイエス様と係わりのある者で、受け入れない者は救いと係わりのない者です。足を洗う事を拒む人はイエスと係わりのない人で、足を洗ってもらう者はイエスの救いと係わりのある者です。

ここで、洗足式に与らない者は、罪の赦しの十字架を断る者として「あなたはわたしと係わりがない。」とペテロに警告したと思います。なぜ、これ程までに洗足式に意味があるのでしょうか。 洗足式は明日に控えた十字架を示すものであるからです、と考えます。

もし洗足式が十字架を表すものでなければ、どうしてイエス様はそのように厳しくペテロに「あなたはわたしとなんの係わりもない」と警告されたでしょうか。洗足は十字架の影です。

7節で、イエス様は「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるであろう。」と謎めいた言葉を残されている。

前原利夫


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One Thought on “弟子の洗足と十字架「あなたはわたしとなんの係わりもない」ヨハネの福音書13章8節   

  1. 馬洗 博子 on 2017年6月6日 at 10:36 PM said:

    前原利夫先生、
    はじめまして。
    先生の著書「聖書が語るビジネスの法則」を拝読し、深く感銘を受け、こちらに辿りつきました。私は福井県在住の馬洗 博子(ウマアライ ヒロコ)と申します。

    中学一年で、当時、私の小さな町で郷里開拓伝道をスタートした若夫婦の配るトラクトを通して導かれクリスチャンとなりました。将来は彼らのような働き人になることを夢見てきましたが、なぜか神様は、6年前に突然帰国してしまったアメリカ人ボスの後を引き継ぐようにして、語学学校経営に関わるようになってしまいました。

    名もない小さな語学学校は、神様の憐れみにより、今春6年目を迎えることができました。しかしながら、かつて塾講師を経験し、生徒の変わりゆく様に感動した頃の「心身のしんどさ」ゆえ「教える」ことから意識的に遠ざかっていた私には、この6年間は毎日が模索と焦燥、自己不信の連続でした。

    100%外国人講師に依存していた経営方針も日本人主体に変えざるを得なくなり、ますます自らの講師としての不足を今なお感じています。
    さらに、昨年よりフルタイムの講師をアメリカから招聘し、神様の恵みを感謝すると共にマネージャーとしての自分の力不足を痛感しています。(クリスチャン講師ということで、心情的には手厚い待遇で彼らの宣教への情熱をサポートしながらも、現実的な経営状態や彼らへの勤労者としての自覚を促すことの軋轢、葛藤、アプローチなど)毎日10-20人の外国人たちと共に働き20年以上経ちますが、自らがマネージャーとして矢面に立つことはありませんでした。

    実は、先生の著書は数年前に購入したのですが、本気で内容を読んだのは今回が初めてです。世の中の様々なビジネス書には決して見出せないクリスチャンとしての葛藤、疑問にヒントを与えてくれる唯一のものだと今は分かります。まだ、最後まで完読してはいませんが、私の中で、スッキリされてきたことがいくつもあります。なかなか渡米する機会が持てませんが、近い将来、前原先生にお目にかかれる時が与えられることを切に願っております。

    万一、先生が講師を務められるセミナーなどがございましたら、日米問わずお教えいただければ幸いです。長々と書き込んでしまいましたが、一言感謝の気持ちをお伝えいたしたくお手紙させていただきました。先生のさらなるご活躍、ご健勝をお祈り申し上げます。

    6月7日
    前原 利夫先生

    馬洗 博子

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