弟子の洗足と十字架「あなたはわたしとなんの係わりもない」ヨハネの福音書13章8節   

2021年12月20日

今年1月の第1礼拝からヨハネの福音書1章を学び初め、6月の第2礼拝で終章21章を学び終わります。今号は13章をメッセージした折に心に強く残った8節のイエス様の言葉「あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」この言葉をご一緒に考えてみましょう。この言葉は最後の晩餐でペテロに語られたとても重要で見過ごし出来ない主の言葉です。
 

弟子の洗足と十字架 「あなたはわたしとなんの係わりもない」 ヨハネの福音書13章8節 

結論から言うと、弟子たちの洗足はこれから十字架にかかり、罪を贖い、罪の赦しの 業をなそうとする予告、影であると考えています。勿論、メシヤの深い謙遜を示すモデルでありますが。一面人の足を洗うことは、当時、奴隷や僕のする事でありましたから、これは他人の罪をも背負う事と同じほど恥かしい業であったと思います。
 
これまで、この箇所を何度も何度も読みましたが、弟子たちの洗足はイエス様の謙遜を表すという枠内で理解してきました。ところが、今回弟子たちの洗足はそれ以上の意味があるように思わされています。弟子たちの足を洗うイエス様の姿が十字架のイエス様と重なり、ダブッテ見えるではありませんか。それは、イエス様がペテロに「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりわりもなくなる。」というイエスの言葉にその鍵があります。その辺から考えてみると、

洗足は十字架の影:

8節に、ペテロは、多分遠慮したのでしょうか、イエス様が足を洗おうとすると「わたしの足を決して洗わないでください。」と断ります。イエス様の返事は「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる。」。

このイエス様の言葉は、足を洗ってもらう事がどんなに大事か示唆しています。それは足を洗われなければならない者が避けられない、通らなければならない洗足です。イエス様の意図は足の汚れを落とすのは選択ではく必須条件であるという意味でしょう。十字架の罪の赦しも選択ではなく必須条件です。ここに十字架の影としての洗足があります。

ペテロはこれまで3年半朝な夕な主に仕えて福音に従事してきました。12弟子を代表する人物です。このペテロに向かって、どうしてイエス様が大変厳しく聞こえるような”あなたとは関係がない” とことの重大さがなく言えたのでしょうか。

それには、それなりに撤回できないイエスの理由があった筈です。弟子の洗足は単にイエスの謙遜を示す姿ではなく、翌日の十字架の影だからです。

洗足は罪の赦しの証:

洗足してもらった人は12人の弟子たちでユダもその一人です。主が足を洗われた時、ユダの心の中には既に悪魔が入り込んでいました。イエス様はそのようなユダの足をも洗いました。

十字架の贖いは全ての人類に対してで悪い人も、罪人にも有効であるからです。悪魔が入ったユダにさえも。ただ、受け入れるか受け入れないは十字架と係わりを持つか持たないかです。

十字架は十字架を受け入れる人に対する罪の贖いの業です。ですから、十字架を受け入れる者は誰でもイエス様と係わりのある者で、受け入れない者は救いと係わりのない者です。足を洗う事を拒む人はイエスと係わりのない人で、足を洗ってもらう者はイエスの救いと係わりのある者です。

ここで、洗足式に与らない者は、罪の赦しの十字架を断る者として「あなたはわたしと係わりがない。」とペテロに警告したと思います。なぜ、これ程までに洗足式に意味があるのでしょうか。 洗足式は明日に控えた十字架を示すものであるからです、と考えます。

もし洗足式が十字架を表すものでなければ、どうしてイエス様はそのように厳しくペテロに「あなたはわたしとなんの係わりもない」と警告されたでしょうか。洗足は十字架の影です。

7節で、イエス様は「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるであろう。」と謎めいた言葉を残されている。

前原利夫


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