「キリストの高挙に与る聖徒たち」エペソ人への手紙1章20、21節

2021年12月20日

私達は6月から8月までエペソ人への手紙1章から6章までを礼拝メッセージとして学んでいます。エペソ書は結構難しい箇所もあり、特に前半は後半よりも更なる学びが要求されます。学者によってもテーマの取り方も違うが、1章10節が太極的な視点から好ましいと思われます。

「時がついに満ちて、実現します。いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。」

時はついにきました。イエス様が栄光を受けるべき時、十字架の時がきました。この世の権力者は与えられた権力,武力によつて国民を一つにまとめ上げようとしますが、イエス様は十字架の贖い、十字架の愛によって世界を一つに集められます。世の権力と救い主の権力はここに違いがあります。

今号はあまり聞きなれない言葉「キリストの高挙」と言うテーマを考えてみます。そして、私たちもキリストの高挙に与る聖徒であるという特権を再認識しましょう。

1)私たちは聖徒?:パウロの書簡では宛先の教会の信徒を聖徒と呼んでいます。エペソの教会や問題だらけのコリントの教会にも聖徒と呼んでいます。私たちは “Saint” と聞くだけで、雲の上の人のようで、この世の私たちには相応しい呼び方とは思いません。しかし、何故、パウロが敢えて聖徒と名付けたかは“彼らがイエス様と結びついていたからだ“、とタカヨシ先生は解釈されました。まさにその通り、貴方がイエス様と繋がっていたら、貴方は聖徒です。この聖徒たる身分には大きな大きな報いがやってきます。神様からの約束です。

2)キリストの高挙:高挙(コウキョ)という日本語は辞書にも見つかりません。キリスト教用語で高く掲られる、高く引き上げられる“ という意味です。イエス様が十字架の死から復活し天の父の右に座されたことです。1章20,21節にキリストの高挙の聖書的意味があります。

「神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すベての名の上に高く置かれました。」

イエス様は十字架上で死に、葬られ、3日目に復活され、そして父のみ元に昇られ、この世界とこれから来るべき世界を一つに集められるお方です。死者、腐れ果てるべきである体が、生きた者となり、世界を治められるようになられたことは、谷底から無限の天の高さまで引き上げられたのであります。イエス様も弟子たちも十字架の苦難を“栄光“ と呼んでおられたのはこの高挙が予定されていたからです。

パウロは1章で「栄光の富」を深く知るように祈れと勧めます。それはキリストの高挙であり、「神の絶大な力を知るように祈れ」と勧めるのは、神は無から天地を創造される力、キリストの高挙を成し遂げる偉大な力を知るようにとの祈りです。それは単に、知識としての祈りではなく、やがてすべての聖徒がキリストの高挙に与る からであります。

3)高挙に与る聖徒たち:パウロが1章で祈れ、祈れと勧めるのは、キリストの高挙に私たちが与る事を知るためです。知識は大事ですが、自ら体験することと比べることのできないものです。特に、栄光の富に永遠に与る光栄に浴するわけですから、私たちは聖徒である事を誇り、神の絶大な力と愛が、かつて罪人であった者に与えられる特権、栄光を深く知りたく思います。私たちが天国に招かれるということは、イエス様を信じたからですが、その背後に神の無限の愛と力が働いておられるからです。イエス様も十字架を前にして、心騒ぐ弟子たちにこう約束されました。

 

「あなたがたは心を騒がしてはなりません。 神を信じ、またわたしを信じなさい。 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」 ヨハネの福音書 14章1~3節

 

聖徒たち、貴方も私も初穂であるイエス様に倣い、やがて栄光の富を受ける時がきます! イエス様はその準備のさきがけになられました。

 

前原利夫



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