証・前原利夫

2021年12月30日


証・前原利夫 牧師



第7回 夢のパラダイスへ向かう

私は27才、南太平洋の楽園に留学派遣されることになった。長女が誕生したばかりの6ヶ月目である。そもそも、米大学への出発は9月のセメスターに間に合うように7,8月頃に出発するのだが、妻が出産を控えているという理由で後期セメスターに間に合うように延期願いを出していた。
 

出発は、終戦以来長々と日米間の政治問題になっている軍空港の嘉手納基地(カデナ)から飛び立つことになった。この空港は軍専用で民間機をチャーターして軍人、その家族と共にハワイのヒッカム空港に向かった。27才にして初めての飛行で、恩師夫妻、友人、妻と赤ちゃんの娘が見送りにきてくれた。

夢のパラダイスへ向かう中、私のハートはドキドキとしていた。ところがそこで意外な戦争の縮図を体験することになった。
私が予想していた飛行場とは全く違い、“ものものしい飛行場”であった。40数年後もあの“ものものしさ”が今目の前に押し迫ってくる。

当時はベトナム戦争の最中、沖縄は太平洋のキーストン(要)と呼ばれ、戦略的に重要な位置にある。軍車は軍服姿の兵隊を乗せて、爆音を立てて一号線(ハイウエー)を爆走、確かに世界のどこかで戦争があるのであろうとう概念的、情報として戦争を捉えていた。
しかし、嘉手納空港に来て初めて、戦争の現実を目撃した。空港にはユニフォームの兵隊、兵隊家族、野戦姿でバックバクを背負う兵士、松葉杖に寄りかかる兵士、妻と別れを悲しむ兵士、抱き合い励まし合う家族。

この基地の様子は確かに戦争が現実であることの証拠だ。これまで“戦争”は観念的にしか捕えていなかった言葉であったが、今、ベトナムで国と国が戦い、人と人が殺し合いをして生中継の実像を目にしているのである。戦争情報はビデオではなくライブ、現実なんだ!戦争体験のない私の“戦争”の概念と、兵隊、犠牲者を出した家族の“戦争”概念との間には、大きな開きがあることをこの基地の空港で体験させられた。
これから楽園の島、ハワイに向かおうとするその出発点で、私は世界の戦争の縮図を見たのだ。私の心の中には二つの大きな感動が混じり合っていたに違いない。夢のパラダイスでの学び、初めて体験する現実の戦争が。今、沖縄をひと飛びすれば人と人との殺し合いがあること。
軍チャーター機は妻と6ヶ月の娘を残して沖縄の夜空に飛び立った。真夜中の旅立ちである。
      

「平和を作りだすひとたちは、幸いである。彼らは神の子と呼ばれるであろう」
                    (マタイによる福音)


第6回 夢の米国留学

「将来の道場」、即ち療養所は私にとって学ぶ動機付けとなり、夢の米国留学への橋渡しとなった。遠回りしたような道、道草をしたような道でも実は一番近い道となつた。もし、健康で療養所に行かずにそのまま仕事中心に生活していたら、ダラダラと学びの機会を失っていたかも知れない。人間の目には“障害物”と思われても、神様はその障害物を宝にまたエネルギーに変えて下さる。私たちの障害物に対する姿勢、問題の取り組みが大事だ。私は職場復帰をして、夜間の大学で英文科を専攻することにした。幸いに英文科の特待生として一年授業料が免除となったのも、実に神様の祝福であった。

1960代の当時、向学心に燃えた沖縄の若者たちには二つの夢があった。一つは本土の大学への国費制、もう一つは米国留学制度であった。私はあまり勉強もしないただ英語が好きで米国留学を夢見ていた。何度か試験を試したがその度に落ちたが、いつか必ず“合格する”という楽観、信仰?からこの夢に縋りついた。やがて400人以上の受験者の中から19人のしんがりの一人として“合格”。新聞で自分の名前を確認したときは飛び上がって喜んだものだ。

それから暫くして1968年1月、新垣睦子と結婚。私の母は病名不明で死亡。私たちの結婚式を数週間後に控えての母はどんなにか楽しみにしていたことであろうか。そして、1969年1月にハワイ大に留学、マーケティングを専攻することにした。当時、1ドル360円の時代、今は円が4.5倍強になっている。貧しい沖縄の貧しい家庭の私がアメリカに渡ることは夢のような話であつた。沖縄はドルを使用していて私のサラリーは$120、年令からしていい報酬であった。

私の留学の過程の中で当時から今もず~と気になっている、いや、不思議に思い続けていることが一つある。それは、どうして私のような勉強もろくろくしない者がこの夢を叶えられたかという不思議さだ。多くの若者たちが英語塾に通い、24時間学んでいたからだ。本当に不思議だ。

米国留学の道が開けたことは神様の恵み以外にないと結論付けている。それは私の実力を越えて神様からのギフトであった。当時、教会に貧しい一家族が出席していた、今で言う“ホームレス”だ。彼は貧しいばかりか精神的にも障害があった。ある時、祈祷会が終わり、私は彼がどんな所に住んでいるか知ろうと追跡することにした。それは汚い空き家の倉庫のような住いで、いつもリヤカーを押しながら古新聞や空き缶、瓶を集めて売っての生活であった。私は心から同情してその家に$20を投げ込んでそのまま引つ返した。私はそのことを長い間誰にも伝えないで黙していた。ところが、どうしてか留学の実現とこの隠れた施しがいつも結びついて一つになる。神様は私の小さな施しを喜んで下って報いて下さったのだと、抱き合わせて信じている。どんな小さなよい行いでも誰も見てなくても神様が見ておられるのだ。それが聖書の教えだ。神様は隠れた祈り、隠れた善行、隠れた奉仕をご覧になられる。それがどんなに小さなものでも神様の目には尊いものだ。  聖書の言葉をお贈ります。

わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに 冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決して その報いからもれることはない」。
(マタイによる福音書10章)

貴方の隠れたよい行いに神の祝福がありますように!


第5回 将来への道場・その2

青年時代の療養生活は決して無駄になるものではない。一日24時間自分の生活を自由に計画できるものです。シャバでの人に振り回される生活、仕事中心の一日から解放されて自由に好きなことができるからです。一日を最大限に活用できる療養生活は走り回っていた私には都合のいい場所となったのです。自分を磨く学びの機会となりました。   また、療養生活は自分を静かに見つめ直す機会ともなりました:自分の魂はこれでいいのか、内面的な反省の時でした。クリスチャになって一生懸命に生きたつもりでしたが、深く心を探ることなくただただ走り回っていたのです。青年、クリスチャンとしての考え、行動、生活態度、信仰など大いに反省の好機となりました。私にとって、施設での短い療養生活は“ミニ神学校”となりまた“塾”となって将来へ備える道場となりました。

この療養施設に入居して数週間後、高校を卒業して丁度4年でした。1960年3月20日、
私は療養所の風呂場で一人浴びていました。その時でした、当時の音質の悪いトランジスターラジオから琉球大学の卒業式の模様が放送されてきました。高校を卒業してあれから4年、同期生たちは大学を卒業、おのおの社会に飛び立って行こうとしている。希望に溢れて大学を巣立つ同期生、一方、この自分は結核療養施設の片隅でうろうろしている自分の姿に男泣きしたものでした。自分の惨めさ、悔しさ、この状況の中で身動きとれないもどかしさに失望したものでした。しかし、心の片隅に“必ず、追いつき、追い越す”という意地があったようです。

あの琉球大学の卒業生の中に小・中学校と一緒であった新垣睦子―今の前原睦子―がいたのです。あの日、あの風呂場の悔しさはやがてエネルギー化して私の人生の転機となりました。若いときは「苦労を買え」とも教えます。青年のエネルギーは逆境を順境に、マイナスをプラスに転換する潜在力が秘められているのです。ここに至った一連のことを通して、私は神様のお導きを深く感謝したものです。 聖書にこのような言葉があります。

このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの
主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。 わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。 それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、 忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。 そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。 (ロマ書5章)



第4回 将来への道場・その1

数ヶ月自宅療養をした私は、人々が嫌がる結核療養所に送り込まれました。結核は体に痛みも痒みもない病気で、外観は健康そのものです。青年のエネルギーに溢れた私にはもて遊ぶ病気でした。 療養所には7-8ヶ月お世話になりました。丁度、日本が東京オリンピックを迎えた1964年でした。療養所には色々なクラブ活動のような楽しい遊びがありました。工芸、民謡、図書、聖書の学び、牧師の定期訪問、また知り合いの牧師の奥様も同療養所で治療していたことは奇遇でありました。

療養生活の一日は色々退屈しないように工夫され一日があっと言う間に過ぎてしまいました。軽症の患者たちは朝から動きまわり療養生活とはとても思えないような活発に遊びまわっていました。しかし、消灯時間は9時と厳守され朝食が8時頃でしたから長い夜を悶々と過ごせねばなりませんでした。 私はこの療養の機会を有意義に過ごすことを考えました。それは学ぶことに時間をかけることだと思いました。特に、二つのことを学ぶ計画をしました。入院前に英語専門学校(名護)で学んだ英語を復習しようと思い立ち、習った教科書を再度読み始めました。その中にはシェクスピア、トムソーヤの短編等がありました。英語の学びをし始めると新しい刺激を受けるようになり、米国留学の夢が療養所の中で再燃しました。当時、沖縄の若者に提供されていた米政府の留学制度がありましたがそれにパスすることは難しいと消極的でした。従って、ハワイに戻った宣教師のカネシロ・スタンリー師にご相談してハワイに留学できるようにと内心目論でいました。しかし、神様は後日それ以上に素晴らしい道を開いて下さいました。

もう一つの学びはギリシャ語の学びでした。独学ですから自己流は避けられず、アルファベッとからスタートしました。しかし、中々興味がありヨハネの手紙をギリシャ語で読みながら少しばかりかじった経験があります。ギリシャの学びは後々新しい学びをするときに自信をもってチャレンジする勇気を与えてくれました。また、聖書、信仰書を多く読む機会を与えてくれたのはこの療養所でありました。療養生活は知的にも霊的にもステップ・アップの機会となりました。これは神様からの「将来への道場」であったのでしょう。

「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。 これによってわたしはあなたのおきてを 学ぶことができました。」詩篇119篇

若い方々、お耳を貸して下さい。貴方は今、壁、問題に直面していますか。真正面からその問題に取り組んで下さい。貴方の問題は貴方の目標への最短距離です。挫け、嘆き、諦めは将来への敵です。今、学び将来に備えるのです。 次回もまた「将来への道場」から涙の体験をお伝えします。



第3回 青年時代の試練

就職後、2, 3年経た年の暮れでした。風邪を引き、熱が出、咳き込みが激しく、寝汗を掻く日々が続きました。“まさか”と思いながら、また友人たちの勧めもあり保健所を訪ねました。心の中では“肺結核”ではないかと恐れ恐れ重い足を運びました。熱を計り、レントゲンを撮りました。当時は即時にレントゲンの結果は出ずに数日後にその結果を知るために出向いたことを思い出します。医師から“貴方は肺結核です。暫く療養が必要です”との宣告は、僕にとっては正に死の宣告のようでした。50余年前の結核治療はかなり進歩したとは言え、未だ死亡者を出す重病でした。私の病状はそう進んではいませんでしたが、肺には既に小さな空洞が2,3あったことを今思い出します。当時、新しく開発されたストレプトマイシンは即効力があるという新薬でそのお世話になりました。お蔭で副作用が併発して内耳炎を長年患い、これには夜も昼も悩まされました。

さて、結核を患い、青年前原はこれからどうなるか、どうするかと心配でなりませんでした。問題が二つありました。当面の経済問題と将来の問題でした。保健所からは療養所のベットが空くまでは自宅療養をしなさいという指示を受けていました。治療費は無料でしたので一人の生活に困ることはありませんでしたが、暫く仕事ができない、収入の道が完全に閉ざされることになりました。私は重い心で会社に辞職願を出しました。ところが副社長が“前原君、君の療養中はサラリーの70%を支給するから早く元気になり、復職しなさい”という全く予想してなかった励ましの言葉を頂きました。心から神様に会社に感謝しました。

私はこのような会社の特別扱いに何故だろうかと考え、これまで会社にどのような貢献をして来たかと自問自答しました。特に貢献というのはありませんが、一生懸命、忠実に仕事を果しました。それと就職するや否や、私は率先して毎朝「便所掃除」をしました。これが唯一の貢献かもしれません。時々、社長は好意的に僕を自宅に招いてくれました。社長宅は当時アメリカ人が住む住宅地で庶民の我々の住む地域ではありませんでした。“前原君、君も将来このような家に住むようになり、香港やアメリカの本社に出張して飛び回るようになるよ、一生懸命やれよ”、と励ましたてくれました。 経済問題が片付いた今、私は数ヶ月の自宅療養をすませ、那覇から北にある療養所に向かいました。そこで待っていたのは様々な学びの機会でした。ま た、青年時代の反省の機会として神様はここに導いたのでありましょう。やがて療養所が私の“将来の道場”になるとは思いもつかぬことでした。 新約聖書(第二コリント12章)にこのような励ましの言葉があります。

“ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。
わたしの力は弱いところに完全にあらわれる“。それだから、キリストの力
がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。 だから、
わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まり
とに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。

次回は“道場”からの体験をお届け致します。



第2回 青年時代に学べ

就職先が決まらないままに高校(那覇商業)を卒業、下宿先から田舎に帰りました。いつ就職が決まるのか先が見えない僕には悶々とした毎日でした。今アメリカ経済の不況で失業中の人が大勢いますが同じような気持ちです。数ヵ月後に、採用通知(コルゲート歯磨き製品関係の総代理店)が届いたときは飛び上がり喜びました。これで苦労している兄の家族を少しでも助けることもできると。暫く田舎から通勤しましたが、那覇に引越し休んでいた教会にも出席するようになりました。

沖縄聖書教会は宣教師がハワイに帰国した後、若い牧師を迎えていました。それが奇遇か、かって高校の化学の先生でした。当時、30才にならない牧師は大学講師と牧師の掛け持ちで、若くエネルギッシュで三度の飯よりも学ぶことが好きな学者でした。この先生との出会いは神の導き、青年時代の僕に学ぶことと神を信じることがどんなに大切かを深く教えてくれました。

このような牧師でしたから多くの若者たちが教会で聖書や他のことを広く学びました。 私は高校ではバスケットボールの選手、沖縄代表で全国インターハイに出場、キャプテンでバスケに明け暮れたスポーツマンでした。その私に牧師はこう言いました、 “君たちは朝から晩まで運動場で走り廻っているがどんなに速く走っても馬には勝てないね。馬に勝てないような無駄なことはするな。” この言葉は強烈に私の胸を突き刺しました。なんと時間を無駄にしているか、時間を大事にし、将来のために使っているだろうか深く反省させられました。

そのこともあって、聖書と好きな英語の勉強にいそしむようになりました。学ぶ意欲は米国留学という夢に挑戦する力になりました。 恩師、運天康正牧師の指導の下に1960年12月24のクリスマス・イブ、今は牧師として活躍している友人と二人で洗礼を受けました。 人との出会いは将来のコースに大きな影響を与えるものです。出会いを大切にまたその人のいいものを盗む程に活用したいものです。知識を広げ、深め、学問をする人は神の存在を謙虚に認めることがスタートラインであることも教えられました。そして、神との出会いこそ人生の祝福であることも、、、

「主を恐れることは知識のはじめである」(箴言、旧約聖書)



第1回 生い立ち

「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って 『わたしにはなんの楽しみもない』と言うようにならない前に、、」伝道の書12章1節

私は幼少の頃から宗教心があったようです。ただ、どの神が本当の神様か知りたいと、あの神かこの神かと日記帳に無造作に書き並べていました。昔、小学校の校門の近くに、貧しいコンセントで建てられた村の小さい教会がありました。登校前、数人の友達と教会に入り、黒い服を着た先生が大きな黒表紙の本からなにやら話をしています。その中で幽かに覚えている話は、 「神様はめんどりが雛をその羽で覆い隠すように、私たちを守って下さる」という話でした。 後日、この話は聖書の中にある教えであることが分かりました。あれから何十年も経ちましたが、神様はそういうお方ですね。体験が証明します。

高校3年、卒業をまじかに控えた時、将来の進路に迷いました。進学か就職の道か。将来はどうなるんだろうか、心配、不安でした。5年生の時から兄に育てられた私は、これ以上兄のお世話になることはできない、寧ろ4人の娘たちを抱えた兄を助け恩返しをしなければならないと思いました。 そこで就職の道を選びました(もっとも進学準備もできていなかったこともありますが)。 そんな人生の岐路に立たされ、右か左かという不安なときに、教会へ足を運びました。この教会は校舎の裏側にあるハワイ二世の宣教師が建てたこじんまりした教会でした。勇気を振り絞りながら二階のドアをトントンと叩きました。迎えに出てきたのは奥様で、奥へ通されました。初めて出会う人でしたが、その牧師夫妻の神々しさ、心の温かさ、そしてタドタドシイ日本語の祈りが20歳の若者の心配事を包み込んでくれました。 丁度、めんどりが雛を囲むように。あの時以来、イエス様を信じてよかったと思っています。 これまでの人生、祝福で一杯です。