新約聖書の中で一番分かりやすい書物は「ルカによる福音書」でありましょう。多くの譬え話が盛り込まれてユニークな角度から話が展開します。そして神の人間への限りない愛を鋭く描きます。「放蕩息子」として広く知られるストーリに描かれている父の姿は深く印象的です。 その一部抜粋してご紹介します。

また言われた、「ある人に、ふたりのむすこがあった。 ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』。そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。 それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。 何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた。 そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。 彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、何もくれる人はなかった。 そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。 立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。 もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。 そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。 むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。 しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。 また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。 このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった。 (ルカによる福音書15 章参照)

こんな美しい父と子の話がこの世にあるでしょうか。優しく無限に赦す父と放蕩に明け暮れた子。その親子の関係! 私たちの社会通念では遺産相続は親が死んだ後に受けるものだが、2千年前、いやそれ以前からユダ人社会では「生前相続」が実施されていました。この習慣は驚くべきユダヤ人の知恵であります。

生存中の遺産相続の利点は相続側が必要な時に遺産を活用できる点にあります。 親よりも子が早く死ぬこともあり、また時が経てば、遺産の活用度が減少する場合もあります。 このストーリーを読みながら多く教えられます。

1)人生、緊急時に備える:  
当時の遺産相続は長男が2/3、次男が1/3を受け継いだと言われます。このお父さんは金持ちであったようですから、弟が処分して貰った財産はかなりのものであったに違いない。 将来に備えて投資を考えたどうか知りませんが、現実は息子は父から遠く離れた外国で放蕩三昧、財産を湯水のように全て浪費しました。

浮き浮き乱痴気騒ぎの享楽、飲んでも飽くことない底なしの酒、ドラグ、ギャンブル、女、財産は羽のはえたように飛んでなくなりました。気が付いたときはポケットの中は無一文! 自分が稼いで貯めたお金は大事に管理しても、他人のお金は痛くも痒くもなく捨てるように使うものです。人間の放蕩癖は昔も今も変わりません。

さて、外国生活、何年経ったでしょうか。大飢饉がその国を襲いました。「金の切れ目は縁の切れ目」とかで、これまで付き合っていた友達は皆離れて行ってしまったようです。助けにも相談にものってくれません。飢饉は日々厳しく、食べることにも窮し始めました。 息子はユダ人が一番軽蔑した豚を飼う仕事にやっとありつき、食事も豚の餌を三度の食事にしました。

金持ちの息子から社会の最底辺、どん底の生活に転落。ホームレスもいいところ、貯えのない人生の惨めさはトコトン身に沁みました。 人生、特に外国に生きる私たちは緊急時に備える物資的な余裕と心の余裕が必要ではないでしょうか。 放蕩息子はそのような境遇の中で、自分が後にして来た故郷を思い出し、そこに優しい父の存在を心に留めました。今、自分がどこに立っているかを考え始めたのです。

2) 人生、故郷を忘れるな:
故郷とは自分の生まれた所、或いは育った所です。自分のアイデンティティーがそこにあります。そこに懐かしい父、母、兄弟、親戚や友人らの温もりがこもっています。この心の温もりはそこを離れて遠くへ行ったときに初めて感ずるものです。

特に、一人、外国で暮らし、病気になり、衣食住に事欠くピンチに直面したときに、“ふるさと”を思い出してそこにもう一度帰ってやり直したいと思うのは自然ではありませんか。 「可愛い子には旅をさせよ」と言いますが、旅先は故郷とは違い、環境は厳しく、冷たい計算ずくめの人々が周囲にたむろするものです。 旅先は自分で自分の将来を切り開くよい機会でもありますが、失敗し、財産をスッカラカンに失い、誰も助けてくれない時にこの息子は故郷の父を思い出しました。

私たちとて同じことを考えることでしょう。 極めて我侭な息子であったが、父のところへ戻ろうとしている彼を誰が留めることができましょうか。失敗の人生であったからこそ、帰る故郷があるのではないでしょうか。この放蕩息子は”セカンド・チャンス”(second chance)の人生を考え初めたのです。

3)人生、立ち直る決断が必要:  
放蕩息子にもついに目覚めが来ました。自分の現状、“今”を認識し始めました。一体、どこに立っているのか、どこに向かっているのか、心を探り、人生を真剣に考え始めたのです。 彼は仕切り直しをして、今、自分の立っているこの所では立ち直れない、またこの失敗の原因が自分にあることを認めました。“本心に帰って”とはそのことです。

本心に帰るとは決意のことで、息子は故郷の父のところに一歩足を運び始めました。 人生には失敗がつきもので、完全無垢の人はいません。問題は失敗の事後処理が大事です。失敗に埋もれるか、失敗を踏み台に再起するかです。息子の再起を促したのは外でもない父の存在でした。放蕩に身を持ち崩した息子を故郷の父はどう迎えるでしょうか。  

次回をお楽しみ下さい。 God bless you today and tomorrow!

前原利夫


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前回に引き続き「よきサマリヤ人」(Good Samaritan)の譬え話を考えてみます。 イエスのこの短い隣人愛の教えは世界の教会、世界のクリスチャン、政府機関、またキリスト教と全く関係のない諸 団体に多大な影響を与えています。

グローバルに散在する多くの慈善事業団体の活動はこのイエスの短い話に源流を見ることができます。 かつての博愛の活動は同族意識、地域意識に根ざしたが今はグローバルを意識した活動に発展しています。

“貧しいから助けてやる”、“余剰があるから助ける”という旧来の援助概念から“支援する”、“参加する”という「共存、共生」(シンビオシス、synbiosis)の概念へと発展しています。 以前は届かなかった地球の裏側も、今は地球村と呼ばれるほどに手の届く小さなコミュニーティー化してきています。そのような村意識は必然的に隣人として共存共生の意識を高めていきます。 最近のハイチ、ペルーの大災害への敏速な支援活動などもその一例ではありませんか。

さて、前回はこの譬え話の外枠的なコメントを致しましたが、今回は話の内側を覗いて見たいと思います。

1) 大切な旅行医療品を与える:
 このサマリヤ人は商用か何かでエルサレムに向かう途中でした。2千年前も今も変わりませんが、旅行者は旅をするとき必要最低限の医療品を持参するものです。私が欠かさず持参する品はアスピリン、風邪薬、バセリン軟膏等です。

サマリヤ人はオリブ油とブドウ酒を持参していました。オリブ油は傷口を癒す即効薬でブドウ酒は旅の疲れを一時癒すいい回復剤でした。昼間の疲れで夜眠れない方々はよくブドウ酒を軽く召し上がってお休みになるようです。

旅行中の医療品は希少価値のあるもの、当時不便な交通機関、薬店も存在しないような環境ですから、大切なものを見知らぬ人にただで上げる訳には行かないと誰しも考えます。高価なものは代用品がなく、供給が難しく即効力のある物で、 サマリヤ人の医療品はまさしく高価そのものでした。

しかし、サマリヤ人にとっては後で使用するであろう高価なものを確保しておくりよりも、見知らぬ人であっても傷付いた人を助けることが最優先でした。これがイエスの言う隣人愛です。

2) 徹底したアフターケヤーの精神:
サマリヤ人の親切心もさることながら、彼のアフターケヤーの愛は更に深く考えさせられるものがあります。道端に横たわる傷ついた人を助け、自分のロバ(車)に乗せ、宿屋(ホテル)に案内しました。投宿して、“それでは私はここで失礼します。 どうぞ、お元気で、さよなら”、と彼はその人を後にして別れても十分な親切を尽くしたことになります。何しろ、祭司や宗教家が見知らぬ振りをしたわけですから、彼の親切心は輝いていました。

しかし、彼の親切心は尚続きます。 きっと、エルサレムで用事を済ませ、その帰りにこの宿屋に戻り、前回前払いした費用が足りなければ追加で支払いします、と申し出るのです。

2デナリは当時の2日分の日給です。休むだけの簡易宿屋であったから数日分の料金であったでしょう。 サマリヤ人の心意気はこの傷ついたた人が、完全に癒されるまで、最後まで見届けて上げてお世話するアフターケヤーのサービス精神です。  

兎角、私達の親切心は“ここまでやれば十分”、“しなくていいのにして上げた”、“知らない人までは”的な薄っぺらなものではないでしょうか。サマリヤ人が“よき”と特別に形容詞を付して呼ばれているのは単なる形容詞ではありません。 人との関わり、またビジネスの世界でもこのアフターケヤーのスピリットが徹底していれば、より一層の祝福となるでありましょう。

3)答えを持っていても未解決の人生:  
元々この譬え話はある律法学者がイエスに答えを求めたことに端を発します。その質問は “先生、何をしたら永遠の命をうけられますか”、であった。答えは

“神を愛し、自分のように自分の隣人を愛せ”、

でした。 それを具体的に説明したのがサマリヤ人の話です。イエスは話の結びに

「あなたも行って同じようにしなさい」

と答えました。果たして、答えを与えられた律法学者がそれを実行したかどうかは知る由もありませんが、もし、答えを持ちながらそれを実行しないならば、 質問をする前と全く同じ元の状態ということになります。或いは、自分の都合のいい答えが得られないから実行しないということになりませんか。無責任さが問われます。

私たちは答えを持ちながら人生を未解決のままで送りたくないものです。 しかし、現実的には多くの人が解決策を手中に握りながら、解決策のない人生のようにさ迷い歩ているように思います。

2000年前、イエスのよきサマリヤ人の話は現在も生きていて多くのことを教えられます。バウンドレスの人類愛、愛のアフターケヤー、自分で言い出したことは責任をもって実行するなど、もう一度、聖書を開いてサマリヤ人の話を読んでみたくなりました。

前原利夫


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するとそこへ、ある律法学者が現れ、イエスを試みようとして言った、「先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。 彼に言われた、「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」。 彼は答えて言った、「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」。 彼に言われた、「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」。 すると彼は自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った、「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」。 イエスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。 するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。 同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。 ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、 近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。 翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。 この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。 彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい (ルカによる福音書9章)

1)サマリヤ人について:  
この譬え話のヒーローはサマリヤ人です。サマリヤはエルサレムの北30マイル前後の地域にあり、その昔ユダヤ人が住んでいました。しかし、度重なる侵略戦争の犠牲となって、サマリヤの町にユダヤ人以外の異邦人が住み込み、 文化、宗教、人種にユダヤ的純粋性を失ってきました。

ユダヤ人にとって偶像礼拝は忌み嫌われる宗教であり、雑婚による混血は受け入れがたい人種でありました。サマリヤの人たちは、かつて兄弟の分身でありましたが、そのような“雑種”とは交際してはならず、 会話を交わすだけでも汚れると考えました。

サマリヤとユダヤとの絶交は数百年も続きました。そのような歴史的背景の中で、イエスはこの譬えを語られ、新しい角度から隣人愛の本質を教えられました。

2)憎しみを越えた隣人愛:  
イエスの新しい隣人愛は憎しみ、悪意、敵意をさえも越えて愛するという崇高なものです。世間の常識は愛してくれる者は愛し、憎む者は憎むというのがお決まりのパターンです。長い差別と偏見の歴史の中で、 憎み返すことを教えられたサマリヤの人にとって、ユダヤ人、たとえ傷ついて助けを必要としている人であっても、助け手を差し伸べることは容易な業ではありません。

しかし、このサマリヤ人は時代の流れの常識的な隣人愛の観念を破り、新しい隣人愛を教え、 新しい人間関係を作り上げています。一方、同じ事故現場を通りかかった祭司やレビ人が目をそむけて素通りしたのは、何と対象的な場面でありましょう。

祭司とは今流で言えば牧師であり、レビ人は当時の祭司や宗教行事に携わった人々であったからです。愛を説き、 隣人を愛することを率先してすべき宗教家と差別と偏見の犠牲者であるサマリ人が、傷ついた人に向き合ったときの彼らの対応、愛の応答にこれほどの差があるとは!傷ついた人がもしユダヤ人であったとしたなら、尚更、サマリヤ人の愛の深さを知ることができます。

3)距離感を越えた隣人愛: 
隣人とは物理的に隣にいる人、お隣、”next door”の人です。国家間で言うならば韓国は日本のお隣であり、アメリカは距離的に離れて隣国とは呼びません。勿論、気持ちの上での隣国という感覚もあるかも知れませんが。 これまでの隣人愛の基本は“距離感”で、近い人たちがお互いに助け合うという理念でした。

勿論、これも素晴らしいことですが、イエスの隣人愛のコンセプトはこの“距離感”、“地域性”を越えて、困っている人の“ニーズ、必要に応える”ことが真の隣人愛であるという点です。 隣人愛の土台が地理的条件から“必要条件”にとって代わった、ここにイエスの隣人愛の新しいコンセプトがあるように思われます。

このイエスの隣人愛の教えの下に、ナイチンゲールの敵の負傷兵士を介抱する赤十字運動、ワールドビジョン、国際飢餓対策、クッド・サマリタンのような大きなキリスと教的慈善事業団体が世界を隣人として援助、救済活動を展開しています。-次回に続くー

前原利夫


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「群衆の中のひとりがイエスに言った、“先生、わたしの兄弟に、遺産を分けてくれるようにおっしゃってください”。彼に言われた、“人よ、だれがわたしをあなたがたの裁判人または分配人に立てたのか”。 それから人々にむかって言われた、“あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである”。 そこで一つの譬を語られた、 “ある金持の畑が豊作であった。そこで彼は心の中で、どうしようか、わたしの作物をしまっておく所がないのだが“と思いめぐらして 言った、”こうしよう。わたしの倉を取りこわし、もっと大きいのを建てて、そこに穀物や食糧を全部しまい込もう。 そして自分の魂に言おう。たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ“。 すると神が彼に言われた、”愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。 そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか“。 自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである」 (ルカによる福音書12章参照)

ユダヤ人社会では数千年前から生前の遺産相続が執行されていたことは革新的であったと言えます。いずれ財産の分配をするわけですから、「死んでから」に拘らずに相続人が最も必要としているときに分配したほうが最も有効に財産の活用、管理ができるのではないでしょうか。

また相続分与する人も自分の目で見届けることができます。死んでからはでは遅過ぎます。 もう一点興味あることは、イエスをどのような人として観察されていたかということです。イエスは預言者であり、ラビ、宗教家として知られていました。

だのに財産分配という個人的に立ち入る遺産問題のアドバイスを求めて来た点です。尋ねてきた人はイエスなら自分の側に有利に分配するであろうと考えてのでしょうか。それとも兄弟間でこの財産分与で確執が生じたかもしれません。 さて、イエスは譬え話を展開してこの人の心の目を開かれました。

命は物質に勝る:
人の命は持ち物の量とは比較されてはなりません。物質至上主義の今日の価値観はついつい物質的成功がすべてであり、「地獄の沙汰も金次第」と考えがちです。質よりも量、休息よりも金、家族よりも会社、 精神的なものよりも物質、そして命よりも富が大切であるこのように価値付ける世界です。ここで立ち止まってイエスの言葉を吟味消化してみましょう。

「たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。 また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか」。(マタイ16章)

明日の命はわからない:  
この言葉は真理です。朝元気よく出かけたご主人が交通事故で病院へ運び込まれ、そのまま帰らぬ人となった。元気にLAXで見送った恋人は再び会えぬ人となった、等々。私たちは命のはかなさを身近に体験しています。

イエスのポイントは、このような予測不可能な世界に生きている私たちは、生活に優先順位を立て、命を一番大切にする生活設計が大事です。スピリチュアル・ライフの設計がなさればなりません。

キリスト教は勤労を重んじ、仕事に精を出すように教えます。従って、勤労の実である富、財産が増し加わることを決して否定しません。しかし、その虜になり、我欲に生きることを戒めます。富を得て、 自分のためにだけ蔵を建てて独り占めにしないように社会に還元していきたいものです。

イエスを尋ねて来た人は財産分与の虜となり、自分の命の大切さ、明日どうなるかもわからないようなもろい我が身の魂を忘れていたのです。 富を得るのみに現を抜かしている現代ライフスタイルに反省が迫られます。

財産は天国に運べない:私は何十回と葬式に参列しましたが、誰一人財産を携えて逝った死人を見たことがありません。これは当然ではありませんか、と仰かも知れません。 しかし私たちのこの地上生活は恰も財産を死後の世界にも運べることができるかのような生き方ではありませんか。やがて地上の財産も富も全て誰かの手に残して旅立つのです。

貴方が流す苦労の汗、休む暇もなく稼で建た豪邸も、預金も全て誰かの所有として名義変更がなされます。 この地上の富はやがて消え失せていきます。

イエスは言われた。すると神が彼に言われた、 “愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか 自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである」。(ルカ12章)

前回の譬え話では宝を探し廻る人の姿を考えてみました。今回の譬え話は宝が身近にあってもそれを見つけることが出来ない人への警告です。貴方の魂は物質に勝り、命は富に勝るのです。

読者の上に神様の祝福をお祈り致します。 God bless you today and forever!

前原利夫


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天国は、ある家の主人が、自分のぶどう園に労働者を雇うために、夜が明けると同時に、出かけて行くようなものである。 彼は労働者たちと、一日一デナリの約束をして、彼らをぶどう園に送った。 それから九時ごろに出て行って、他の人々が市場で何もせずに立っているのを見た。 そして、その人たちに言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当な賃銀を払うから』。 そこで、彼らは出かけて行った。主人はまた、十二時ごろと三時ごろとに出て行って、同じようにした。 五時ごろまた出て行くと、まだ立っている人々を見たので、彼らに言った、『なぜ、何もしないで、一日中ここに立っていたのか』。 彼らが『だれもわたしたちを雇ってくれませんから』と答えたので、その人々に言った、 『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい』。 さて、夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に言った、 『労働者たちを呼びなさい。そして、最後にきた人々からはじめて順々に最初にきた人々にわたるように、賃銀を払ってやりなさい』。 そこで、五時ごろに雇われた人々がきて、それぞれ一デナリずつもらった。 ところが、最初の人々がきて、もっと多くもらえるだろうと思っていたのに、彼らも一デナリずつもらっただけであった。 もらったとき、家の主人にむかって不平をもらして 言った、『この最後の者たちは一時間しか働かなかったのに、あなたは一日じゅう、労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じ扱いをなさいました』。 そこで彼はそのひとりに答えて言った、『友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはいない。 あなたはわたしと一デナリの約束をしたではないか。 自分の賃銀をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。 自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。 それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか』 このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」。 (マタイによる福音書20章参照)

さて、読んで頂き、真っ先に口から出る言葉は「これは不公平だな~」という声が聞こえるようです。けれどもイエスが天国の譬えを雇用者と労働者との労使関係に結び付けたのは実に絶妙ではありませんか。

私たちは、 天国は神秘的で人間の想像を超えた美しく栄光に輝く世界であるとイメージしています。ここでの譬えは地に着いた誰でも体験している世界を取り上げています。この譬を3つの観点から考えてみましょう。

1)雇われた労働者たち:
当時のぶどう園の労働時間は12時間で、早朝の6時から夕方の6時までの重労働でした。日給制の日雇い労働者たちで、彼らは主人の下で働く奴隷よりも生活が不安定でした。日 給は一デナリ(時給$10として$80と考えましょう)で、就労時間は朝6時、9時、 正午、午後3時、最後のラストコールが5時でした。トランス界隈でも見かけますが、レンタルのUホールのヤードの傍らでその日の仕事を請けようと労働者が屯しています。同じ状況をこの譬えの中に描いて下さい。

雇用者と労働者との間には契約書が結ばれ日給が定まっていました。朝6時に就労した者、12時、或いは5時に就労した者も同額の日給が支払われました。しかも、後から就労した者たちが真っ先に賃金が支給されたというのですから、 早朝から汗水流して働いた者たちから“不公平”と苦情を立てても、その感情がわかります。それはこの世の常識であるからです。

2)ぶどう園の雇用者:
労働者は長い時間働けば短い時間働いた者たちよりも多く賃金が払われると考えます。ところが、ぶどう園のオーナーはすべての労働者が同じ状況の下にあるとは考えません。その中には若者、中年、高齢者、男子、婦人、 或いは肉体労働に不向きな弱々しい労働者がいたことであろう。

そのような人たちはその日の仕事にありつくことが出来るかどうか不安でした。譬の中の雇用者は仕事が欲しい人は誰でも断ることなく採用しています。生産性、労働効率、労質、 労働時間などを全く無視した採用でした。しかし、一つの原則は尊守し、契約通り一デナリを全ての労働者に支払っています。

3)契約という観点から:
聖書の神は契約の神です。聖書は旧約聖書と新約聖書という“契約の書”からなっています。神と人との契約、誓いの書です。従って、ぶどう園の主人が日給一デナリと定めたら、その通り支給されます。 一デナリの日給は最高額として契約されたのですから、長時間働いた人が短い時間働いた人と同額支払われたからと言って、文句を言うことは出来ません。契約は時給ではなく日給制でした。

裏を返せば、ぶどう園の主人は気前がいいから、 たった1時間働いた人にも一デナリを支給したのです。自分が公平に扱われている限り、人様に気前がいいという不平は大人ではい駄々っ子ではありませんか。さて、天国の譬えを纏めてみましょう。 雇用者は神、労働者は私たちです。ぶどう園とは教会と考えましょう。教会には幼い頃から来ている人、中年になってから来る人、或いはキリスト教のことを知らないで高齢者になって初めて教会に来る人たちがいます。

勿論、病気、多忙、 勤務先が原因でイエス様を信じる機会が訪れなかったということもよくあるケースです。ぶどう園で働き始めると何時間働いたかは関係なく、みな一様に報酬が約束されました。同じように教会に来られる方も長い、短いの信仰生活と関係なく、神からの特別な愛の下に育まれます。 神のこの愛は人類の救済、魂の救いに表されます。イエス・キリストを救い主と信じる全ての人に与えられる罪からの救い、永遠の命です。ここに神の超哀れみが見えてきます。  

最後の一句・・

「このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」

とありますように、神の世界は時間、常識の世界の発想ではありません。 神の世界は“哀れみ”、“愛”、“救い”という視点で捉えるときによく理解できる世界です。 それは「神はそのひとり子を賜ったほどにこの世を愛して下さったからです!神は愛なり、 貴方を私を愛しておれれます!  

God bless you today and forever!

前原利夫


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それからイエスはまた一つの譬を語られた、「だれも、新しい着物から布ぎれを切り取って、古い着物につぎを当てるものはない。もしそんなことをしたら、新しい着物を裂くことになるし、 新しいのから取った布ぎれも古いのに合わないであろう。 まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、新しいぶどう酒は皮袋をはり裂き、そしてぶどう酒は流れ出るし、皮袋もむだになるであろう。 新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。 まただれも、古い酒を飲んでから、新しいのをほしがりはしない。『古いのが良い』と考えているからである」 (ルカによる福音書5章参照)

イエスは三つの短い譬を話しておられる。

①新しい布切れは新しい布切れに継ぐ。
②古いブドウ酒は新しい皮袋に入れる。
③古酒は新酒に勝るという考えには偏見もある。

新しい布切れを古い布切れに継がない、また、古いブドウ酒は古い皮袋に入れない。

①、②の二つの例話は相容れないものを一つにする時の破壊的な結末、そして熟成したブドウ酒の美味さを失うことがないようとの警告です。纏めると、美味しいブドウ酒の入れ物は新しい皮袋が最高であると言うことであります。

さて、イエスはここで古い宗教的思想や考え方(ユダヤ教)とイエスの新しい教えとの調和を言っておられます。これまでの古い宗教的思想は古いブドウ酒のように味のよいものですが、弾力性のある皮袋であるイエスの新しい教えを入れものとしなさいと教えられます。

古い皮袋は弾力性を失い、許容力にも限界があるからです。古い宗教的思想を否定しませんが、その弾力性、メシヤ・キリスの到来という新時代には、視点を変えてキリストという器に変えなければならないのです。ポイントは従来の入れ物、器に革命的な変化が必要である点です。 即ち、これまでの宗教思想の弾力性、発想の許容力です。それがイエスの教えの中にあるのです。

例えば、旧約聖書の中では「歯には歯、目には目」という復讐法が正当化されました。 それは傷を受けた人がその受けた傷より以上に相手に復讐してはならないという「同等復讐」という点で優れていました。しかし、イエスが説く「汝の敵を赦せよ」という新しい教えからは、旧約聖書の教えは古い伝統的で改革しなければならない教えとなります。 イエスは

「一マイル歩けと言われたら二マイル行け」、

「下着を求める者には上着をも与えよ」

と完全な愛と赦しを教えられたからです。ここにイエスの福音があり、その福音の弾力性、許容力の大きさ、深さがあります。また、福音の深さとは神が私達の犯す罪、 過ちに対する赦しの寛大な処置であります。
 
人は伝統的物の考えに弾力性を見失うこと度々です。自我や積み上げられた慣習に固守し、また職場で毎日同じことを繰り返していると、環境の変化や周囲の人々の進歩に気付かない場合がよくあります。毎日同じことを考え、 やっているとそれだけが正しいとついつい思い込んでしまうものです。イエスはこの点を改革せよと指摘されておられるのです。

私たちが社会の変化に対応、否、時代の先取りをするためには発想の柔軟性、環境への対応性、器の許容力等、 イエスのこの譬から多くを学ぶことができましょう。

2010年の一日一日が、24時間という単なる時間の流れで無駄になることなく、一日一日の中に神の知恵とエネルギーが埋蔵されていることを発見していくチャレンジな年であるように・・。

前原利夫


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「また、ある女が銀貨十枚を持っていて、もしその一枚をなくしたとすれば、彼女はあかりをつけて家中を掃き、それを見つけるまでは注意深く捜さないであろうか。 そして、見つけたなら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、 『わたしと一緒に喜んでください。なくした銀貨が見つかりましたから』と言うであろう。 よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、神の御使たちの前でよろこびがあるであろう。」 (ルカよる福音書15章参照)

ある女性が銀貨を持っていました。この銀貨はドラクマと言われ、それほど値の張る銀貨ではありませんでした、しかし文脈からして大変貴重で価値ある銀貨であることがわかります。

この女性は銀貨を一枚一枚バラバラに持っていたというよりも、 銀の鎖に10枚の銀貨を差し通して髪飾りとして使っていたと推測する人もいます。当時、このような髪飾りは、パレスチナの既婚女性のしるしで、結婚指輪と等しく大切なものでした。

結婚指輪を落として、探そうとしない人はおりません。また、あくどい借金取りでも、 このような髪飾りを返済にあてるように請求できなかったようです。 結婚指輪の価値はその支払った値段の高い、低いによって定まるのではなく、結婚を誓う二人の誓約のシンボルとして値ぶみのできないものです。

二人の生涯がこの誓約にかかり、 その誓約のシンボルがどんなに大切かは言うまでもありません。銀貨を失った女性はこの10枚の髪飾りにどれだけの犠牲を払って買い集めたか知りませんが、一枚たりとも失ってはならない貴重で取っておきのものです。子供の欲しい夫婦が10人の子供を持つ親に一人下さい、 貴方はそれでも9人いるでしょう、と言うようなものではありません。子を持つ親にとっては一人一人が高価な存在です。

さて、失われた銀貨の存在もそうですが、探している人は誰でしょうか。その人はパレスチナの暗い部屋を明かりで一杯輝かせ、部屋の隅から隅まで、くまなく探しています。

そして「注意深く」、「見つけるまで」とありますから、9枚も残っているからという考えなどは全くありません。 「チャリン」と音を立て、「キラリ」輝いて手元に戻る銀貨を探しているのです。一枚一枚が高価な銀貨なんです。その方はヤッキになって捜し続けています!  

聖書の別のヶ所に「人の子(キリストのこと)がきたのは、失われた者を探し出し、救うためである。」とあります。失われた銀貨を探すあの女性の姿は、神から離れた人を探す神の姿ではありませんか? 

たとえ私たちが暗闇の中にいても、どこか人知れぬ片隅にいたとしても、 神は貴方を、私を探し求めておられます。神は貴方を愛しておられるからです。心から。

前原利夫


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ゴスペルベンチャーインターナショナル教会
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天に宝を

退屈な話と聞きほれるような話の大きな違いは、そこに「たとえ話」、「イラストの例話」等があるかどうかです。私も教会でメッセージの務めが多くありますが、適切な例話があるときの話とないときの話では、聞く人たちの反応が違います。 メッセージの準備で一番の苦労は「いい例話」を組み込む作業です。

新約聖書にはイエスのメッセージ(説教)が沢山紹介されていますが、その殆どが「たとえ話」に結び付けています。美しい自然、身近な生活環境、習慣、価値観を基に組み立てられたイエスのたとえ話は実に絶妙です。’ それ故に、イエスは超一流の説教者であったと言われます。

オバマ大統領も巧みな話術で相手候補に勝利しましたが、イエスの足下にもおよびません。さて、ここ数回「イエスのたとえ話」を紹介致しますが、今月は天国のたとえ話です。

天国は、畑に隠してある宝のようなものである。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をみな売りはらい、そしてその畑を買うのである。 (マタイよる福音書13章参照)

天国は宝のようなものであると言いたいのですが、ここでイエスは“畑に隠してある“と、当時の奇妙な習慣を担ぎ出します。「畑に宝を隠す」、この言葉は当時のパレスチナの人々にはすぐ理解出来たことですが、時代、文化の違う私たちには想像も出来ない、聞きなれない表現です。

昔、ラビ(ユダヤ人の宗教家)たちは、「お金を貯える唯一の安全な場所は大地である」と考えました。今は、お金を預ける安全な場所は銀行ですが(昨今は安全でもありませんね)、ユダヤ人にはそれは大地、地下、畑でした。パレスチナは地理的な状況から、 歴史的に戦場に巻き込まれる危険性が高く、貴重品や宝を家の中や裏庭に保管することは大変危険でした。

こんな話を聞いたことがあります、「ユダヤ人の家では、非常時に備えて、それぞれの家族が誰にも知られないように、自分の貴重品、お金を隠す」、と。

天国は宝、 「宝は人の魂」とも解釈できます。宝や魂が盗人や強盗に襲われる危険にさらされてはいけません。安全な場所を確保することが賢明です。「喜びのあまり、行って持ち物をみな売りはらい、そしてそれを買うのである」とありますから、この人は自分の畑を耕していたのではありません。

この人は、誰かが(地主か、隣人か)畑の中に宝を隠してある筈だ、だから意図的に宝探しを試みたのです。幸い、見つかったので自分の所有物を全て売り払い、この畑を買ったとういうのです。これは単に、不動産売買、先を見込んだ投資や宝探しの話ではありません。

「天国という宝」、「天国という自分の魂」を最上の価値あるものとして、それを贖いとる(買い取る)、 即ち、自分の魂を一番大切にしなければならないという真理が隠されています。 人は全て遅かれ早かれこの世とお別れしなければなりません。この地上の生活は束の間です。イエスは天国という素晴らしい永遠の国を貴方に提供しようと、このたとえ話を語られたのです。

前原利夫


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