ヨハネの福音書6章、ペテロの信仰告白、I am HIS !
2月12日の礼拝で、私は6章から「わたしは天からの命のパン」と題してメッセージを致しました。メッセージを準備しながら、これまで気が付かず読み過ごししていた箇所は6章の結びのペテロの信仰告白でした。読む毎に、6章のコンテックスの中で、よくもあのような信仰告白が出来たものだと、今更ながら教えられています。
66ー67節に、「シモン・ペテロは答えた、”主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう。永遠の命の言を持っているのはあなたです。わたしたちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。”」 と、記されてあります。
このペテロの信仰告白は6章の冠と言えましょう。ペテロ、以下10人の弟子達(6章でユダは裏切り者と呼ばれている)は永遠の命を与える方はイエス様以外にいないと固く信じ、神の聖者と告白しました。ペテロは”だれのところに行きましょう”と、このかた以外に信じる者はいないと、告白します。
6章のコンテックスを整理していきます。
先ほど、6章のコンテックスと言いましたが、それを整理していきます。
1)感情的なメシヤ観:
五千人の給食の後、群衆はイエスを来たるべき大預言者と信じました。ある人たちはイエスをイスラエルの王にしようと追っかけました。イエス様は群衆を避けて、山に退きました。彼らに信仰が無いことを知っておられたのです。群衆はパンを食べて満足したからで、パンの増殖に気を取られ、その背後の力を見ることが出来なかったのです。
肉体的満腹感、イエスを王にすれば政治的権力を行使でき、民族の解放につなげる等、そのような思いがあったのではないか。しかし、そこには真のイエスの意図はなかった。彼らの感情的、利害関係の絡んだメシヤ観であった。真のイエスの姿を見失っていました。
2)ユダヤ的メシヤ観:
ユダヤ人や多くの人達が、ユダヤ人的なメシヤ観に捉われ、新しい物事、発想でイエスの話を聞くことが出来ないでいた。彼らは新しい皮袋を拒絶した。6章では”わざ”の意味が妨げになりました。彼らはわざとは行いを意味し、救いは行いによって得られるものと解した。
イエスが’わざ”とは神がつかわされた者を信じることが、神のわざである”、と説明しても理解できるものではなかった。目の前に立ち、話しているイエスが神からつかわされた神の子と信じることは不可能であった。彼らの中には旧約の学者がいたが、神からつかわされたと宣言するイエスを、旧約の予言に照らし合わす心の余裕もなかったのです。
彼らにとって、イエスは彼らが知っているヨセフの子、マリヤの子、単に人の子に過ぎなかった。真のイエスの姿を見失っていた。
3)光るペテロの信仰告白:
6章は真のイエスの姿を覆い隠す要素が幾つかあります。あのイエスと共に伝道したユダも、イエスの温かい懐に育ちながらもついに真のイエスの姿を見ることができずにいました。信仰を妨げる欲望の悲しい結末です。ペテロはそのような環境にあって真のイエスの姿から目を離すことはありませんでした。
かつて、ガリラヤ湖の海の上を歩いた時、風に気を取られて、溺れかけました。目の前のイエスから目を離したからです。人に周囲に惑わされてはなりません。6章におけるペテロは真のイエスの姿から目を話すことはなかったのです。「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょうか、、」。「神がつかわされた者を信じることが、神のわざである」。イエス様は言われた、「もしわたしの言葉のうちにとどまっているなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである」同8:31)。
I am His !, I am His !, と、共に、ペテロの信仰告白を叫びませんか!
前原利夫

ゴスペルベンチャーインターナショナル教会
Gospel Venture International Church (GVIC)
17811 South Western Avenue, Gardena, CA 90248 U.S.A.
www.gospelventure.com/





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