いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。1テサロニケ5:16−18」
        
上記のみことばは、私たち教会の年間聖句です。聖書の言葉は、私たちの人生の指針、道であり、真理であり、いのちです。「言葉は神であった(ヨハネ1:1)」神様が言葉です。 

主のみ言葉に私たちはこだわり、真理を求め続けわけですが、牧師が、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。」と講壇からするメッセージを、それは理解できても、み言葉だから喜ばなくちゃと思っても、現実には喜べない自分はどうしたらいいのか?

先日の聖書の学びでこのような発言がありました。「いつも」というのですから、(all the time)ずーっと喜んでいなさい!」というイエス様のご命令に、いつも喜ぶことができないのは、信仰が未熟なのでしょうか。

キリスト・イエスにあって神があなた方に望んでおられることです。神の言葉、聖書は言うのですが、喜べない事情があるのに、神様のために無理してでも喜ぶことを神様は望んでおられるのでしょうか。

絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。という神様の言葉に、できない自分の現実と、み言葉のギャップに対して、「主を見上げていきましょう」とか「聖霊様が喜びを与えてくださいます!」などと分かるようでよく分からない説明がされ、結局は、肉ある自分にはなかなか難しいことを主の前に自覚し、肉の自分を見る作業になってしまうのかもしれません。

もし、この素晴らしい、多くの人々に慕われているみことばを、主なる神様からの戒め、守るべき大切な掟ととらえるならば、律法を守らなくてはならない時と同じ様に、私たちは生き詰まってしまうでしょう。私たちは、大変な悲しみに対して喜ぶのではありません。

絶えず祈るのは、私たちの力では難しいのですが、主イエス様が私たちと共におられる神様なので、どんな時も祈れるのです。すべてのことに感謝するのは、主の臨在の中に自分が置かれているので、感謝するのです。

私は「祝福の神」という賛美が大好きです。

🎵ハレルヤ!祝福の神、悲しみの中で生まれたとしても。ハレルヤ!祝福の神、主は祈りに答えられる。🎶

私たちはこの祝福の神様からのご愛、恵みによってみことばを理解するならば、どうでしょうか。 喜びなさい!と聖書が言われる言葉は命令形ですが。喜ばないとイエス様が怒っちゃうわけはないのです。

しかし、喜びなさいというにはその理由がある。 私たちが喜ぶには理由があるのです。

「悲しみの中で生まれたとしても、ハレルヤ祝福の神!」と宣言できるのは、状況や感情によって宣言するのではなく、それは、私たちが喜ぶ確かな理由があるからです。

ヨセフの人生は困難の連続でした。しかし、その苦難の中で、主はヨセフと共にいた。と記されています。苦難の中でこそ、ヨセフは神様、主の臨在に触れられて置かれていたのです。

詩編の作者はこう言います。「苦しみになったことは、私にとって幸せでした。それにより、私はあなたのおきてを学びました。 詩編119:71」

いつも喜んでいなさい!とは喜べない事を喜べと言っているのではなく、私たちの右の手を掴み、離さないでくださる神様、私たちから決して離れないと言われるイエス様がご一緒におられるから喜ぶのです。

イエス様がずーっとご一緒だから絶えず祈れるのです。祈るところ、聖霊様が臨まれるのですから、すべてのことに感謝です。

私たちは何を見て、何をするのでしょう。喜びの源泉は、主なる神様から湧き溢れます。イエス様を見上げ、いつも喜びましょう。

なぜなら、私達のいのち(人生)は主イエス様のご臨在の真ん中に置かれているからです。シャローム

キム明子


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