ガラテヤ書・総括としての三つのポイント

2021年12月20日

ガラテヤ書のまとめ

私たちは4月から6回にわたりガラテヤ書を学びました。三人のメッセンジャーが担当しましたが、一人のメッセンジャーが解釈する場合とアプローチに違いがあり、また、強調点にも違いがある。個性的で豊かで良い経験と言える。エペソ書、ピリピ書の学びも複数メッセンジャーで続きます。

今号では、ガラテヤ書の総括として、以下三ポイントでまとめてみました。

1. キリストにある自由:

5章1節に”自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。、、”とあります。ガラテヤ書はキリスト者の自由の書、律法主義との闘いであった。行い、規則を守る事を救の条件としたユダヤ教と決別の闘いでもあった。パウロの闘いは信仰による救い、キリストの十字架を擁護して叫んだ。パウロは5章13節でもキリスト者の自由を叫ぶ。

5章1節はガラテヤ書の分水嶺と言えよう。1章から4章までは上記のテーマで続き、5章1節がその結論と言えよう。そして、パウロは5、6章でキリスト者の倫理、御霊 の実を紹介する。キリストによって自由とされた者の歩み方である。イエス・キリストを信じることによって正しく生き、その生活姿勢によって信仰の正しさを証していくのである。これこそが真のキリストにある解放である。

2. キリストの清さに生きる:

キリストに解放されて自由に生きるキリスト者に具体的に 清く生きることを教える。キリスト者の自由は自由奔放に生きることではない。清く生きる原動力である御霊の助けを求め、愛をもってお互いに仕え合うことを勧める。互いにいがみ合い、食い合っては双方とも滅びの道だと警告する。人、清く生きずして互いに平和に生きることはできない。5章の19節 にきて、あの有名な肉の人と霊の人、御霊の実を語る。

キリストなしの生活とキリストと共に歩む生活を対象する。私達も9つの御霊の実を結ぶ努力をしようではないか。更に、パウロはさまようキリスト者を優しい心で導くように諭す。しかし、悪い行いの果を知りながら悔い改めない者にはキッパリとその実を刈り取ると強く警告する。私達弱い人間は、目の前に落とし穴を見ながらそこに足を運ぶことがある。悪い結果を知りながら、悪い種を蒔いてはならい。

3. キリストを誇りとする:

パウロは6章1節で”しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇りとするものは、断じてあってはならない。”、と宣言する。この十字架の誇りはガラテヤ書の総決算、結論を一言で表したものではないか。この誇りのために律法主義者と闘い、十字架の救いを取り除こうとする者を呪う程にパウロは闘う。かつては、この十字架を呪い、十字架を糞味噌のように迫害した者の革命的改心であった。今や、パウロの喜びは全てキリスト中心であり、パウロの歓心事もキリストの以外にはない。

彼は叫ぶ”生きているのは、もはや、わたしではない。キリストがわたしの内に生きているのである。”、と。第一コリント9章の引用が許されれば“わたしが福音を宣べ伝えても、それは誇りにはならない。なぜなら、わたしは、そうせずにはおれないからだ。”。ガラテヤ書を閉じるにあたり、パウロ自身の手書きで“わたしは、イエスの焼き印を身に帯びているのであるから”。私たちは如何ほどに十字架の福音を感謝し、誇りを持ってイエスの福音を隣人に伝えているであろうか。

2000年前のガラテヤ書はやがて15世紀の宗教改革者達の心を揺さぶり目覚めさせ、マルチン・ルターに率いられヨーロッパ全国に霊の覚醒をもたらした。今日、私達もキリストにある救いと自由の中に祝福を頂いている。キリスト共に清く歩み、イエス様を誇りにしようではありませんか。

前原利夫