ロンダニーニのピエタ

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洗礼の朝を迎えた。まだ迷っていた。イエスが十字架にかかって人々の罪を償ったと信じているの、と自分の心に棲む、もうひとりの自分がささやく。かぶりを振る自分。だとすると、受洗は神さまに対する欺瞞だ。

――断わる――

それはできない。

教会へ行く身支度をしながら、私はこれまで歩んできた人生をふりかえってみた。
渡米する動機になったこと、家庭崩壊になりかけたこと、数えればきりがないほど人生につまずきかけた。一歩間違えば、この世で地獄を見たかもしれない。その度に難を逃れている。ふと、
大いなる者にコントロールされているのではないか。計り知れない大きな存在、それが神か、仏か、わからない。ドスンと確かな手ごたえを感じた。守られている。だから、今がある。

突然、ミラノの博物館でみた「ロンダニーニのピエタ」が脳裏に浮かんだ。
視力を失った天才ミケランジェロが死の三日前まで手探りで制作したといわれる彫像である。弱々しいイエスが聖母マリアを背負っているかのように見える彫像。
ちなみに、ピエタは慈悲、哀れみなどの意味で一種の聖母子像だといわれている。

あっ、と思った。
イエスに背負われているのは、この私なのではないか、そうだったの
か。謎が解けた。途端に自然に口から歌があふれでた。

♪主われを愛す 
主は強ければ
われ弱くとも 
恐れはあらじ

わが主イエス わが主イエス

熱いものが込み上げてきた。
前原牧師に出会って十年目の師走のことであった。

           


惑い

2008年の秋、手術ミスによる事故で車椅子生活をされているT氏に教会で出会った。これまで大企業の超エリート社員として世界を飛び回って活躍されていた人である。突如として大逆転した境遇に氏の心中はいかばかりであったか、想像を絶する。 

T氏に出会った時、ふと思った。
この方が受洗される時がきたら、私も一緒に洗礼を受けようかな、と。
理由はない。イエスの救いを信じたのでもない。一線を飛び越えると自分の心がどのように変化するのか知りたいという不謹慎な動機であった。

私は時々、T氏の身近にいるK子さんに、
「T氏は洗礼を受けられるのかしら?」
 本心は隠して、さりげなく、度々、尋ねた。
その都度、
「そんな話は聞かないわねぇ」
 という返事に、なぜか生き延びたという思いでホッと胸を撫で下ろしいた。
ところが一昨年の十月だった。前原牧師から受洗の話が出た。
たまたまT氏と同じテーブルを囲んでいた時だったから、
「洗礼を受けられるのですか」
 当然、「No」という返事を期待しての問いであった。

「はい、受けます。12月に・・・」
ドキッとした。そして、時がきた! と思った途端、隣のK子さんに叫んでいた。
「私たちも一緒に受けようよ!」
 洗礼クラスがはじまった。
勉強をすればするほど、遠くにいる自分を感じた。これでいいのだろうか。神に対する冒涜ではないか。断わるべきだ。弾みで言ったことを後悔した。しかし、K子さんを巻き添えにしている。あれこれ思い悩んでいると、洗礼を受けるその瞬間に断わったという友の話を思い出した。そのテもある。が、そんな勇気があるかどうかが問題だ。私は惑いつづけたのである。    
 

           


出会い

 
 2001年春の早朝、医者の癌告知通り、夫は亡くなった。享年60歳。

「ありがとう。わがままな俺によくついてきてくれた。ほんとうにありがとう」
という言葉を遺して・・・。
 

私の心にぽかっと穴が空いた。淋しさがどっと押し寄せた。夜昼となく涙が溢れ出た。どこへ行くのにも一緒だった夫である。独りになった私は、時間を持て余した。そんな時に近所に住む友人が前原先生の教会へ誘ってくれたのである。

かねてからキリスト教に興味を持っていた私は、暇つぶしと好奇心で教会へ行くようになった。旅好きだった
亡夫と行ったイタリアでみた
キリスト教をモチーフにした
芸術品の数々。アダムとイブ、
ノアの方舟、モーゼ、ダビデ、
受胎告知、最後の晩餐、
キリストの磔刑などなど、
これまで断片的な知識だっ
た聖書に登場する人物の関わりが分かると、面白くなってきた。イスラエル聖地旅行にも参加した。

もつれた糸がほぐれてきた。しかし、知識と信仰は別である。一方、イエスの救いを本気で信じていること自体が理解できなかった。
救いは他の宗教にでもあるのではないか。東洋の国にはキリスト教に非常によく似た信仰があるという事を聞き、若いころ聴いた親鸞の教えを思い出した。訪日すると僧籍の友人と「信仰について」語りあった。
何年過ぎたころだったろう。前原牧師から、洗礼をすすめられようになった。
「何事にも時があります。その『時』がきたら」
逃げた。おまけに陰口を叩いた。
「洗礼を受けるだけで天国へ行けるのなら、熱湯だって浴びるわよねぇ」
ところが、手術ミスによる事故で車椅子生活になられたT氏が教会へこられるようになった。この出会いによって、頑なだった私の心に変化が起きたのである。

 

           


癌告知

 日本のバブル経済が崩壊した。日本人相手の仕事も先細りと見て、夫婦ではじめたビジネスに終止符を打った。夫52歳、一つ年上の姉さん女房の私は53歳。馬車馬のように突っ走った22年間であった。
 一人娘も親の手を離れた。贅沢をしなければ食べていける。人生を楽しもうということになった。そんな矢先、義母の介護が必要になり、夫婦で日米を往復しながら、看取る事ができた。旅もした。
 

そして2000年の春だった。夫の声が急にかすれた。風邪かなと思った。ところが一向にハスキーボイスが治らない。そうこうしていると食べ物が喉を通りにくいと言い出した。レントゲン検査では原因が分からず、CTスキャンを撮った。
「食道と気道の分かれ目に腫瘍が出来ています。繊細な部分なので手術はできません。・・・早くて三ヶ月か六ヶ月、よくもって一年」
 

平穏な日常生活を当然のように思い込んでいた私は、食道癌の告知に、この世の不幸を一身に背負ったように落ち込んだ。
半年過ぎた。私たちは海岸沿いを散歩するのが日課になっていた。おかしなもので、ひょっとして夫は助かるのではないかと希望を抱くものである。だが、ある日の午後、いつものように散歩をしていると、怒涛のごとく不安が襲ってきた。ふと、新聞に載っていた上智大学アルフォンス・デーケン教授のコラムの一節を思い出した。

あすのことは思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。

「そうだ!」
と思った瞬間、不安が消え、目の前が明るくなった。不思議な体験である。
これが新約聖書の言葉だとは知る由もない私であった。
           


ふたつのピエタ

渡米一年目で知り合った夫と三ヶ月後に結婚をした。明治生まれの伯父の家に居ずらくなった私は、相手をよくしらぬままの、見切り発車である。
 私に似合う人をと神さまに祈った結果だ。ともかく三年はどんなことがあっても我慢しようと思った。案の定、甘い新婚生活ではなかった。だが、三年目に娘が生まれた。やっと夫は不承妻にあきらめがついたのであろう。腰を落ち着けた。

夫婦ではじめた日本人相手のビジネスは日本の高度経済成長期でもあり順風満帆だった。ところが、15年後に落とし穴が待っていた。
 夫の浮気である。
「結婚しなくてもいいのです。私は、愛した人の子供を産みます」
 相手の女性が息巻いた。
「どうぞ、産んでください。ひとりで育てるのは大変でしょうから、私が引き取って育ててもいいのですよ」
 喉元まで怒りが込み上げるのを押し殺して、私はいった。しかし、妊娠は嘘だった。危ういところで家庭崩壊を免れたのである。若い頃、中学の先生だった人との辛い体験が役立った。人生に無駄な経験はひとつもないというのは本当だと思った。
 

夫は罪滅ぼしのつもりか家族旅行を計画した。行く先は、イタリアである。
宗教をモチーフにした芸術品の数々。モーゼ、ダビデ、受胎告知、最後の晩餐、キリストの磔刑などを見て歩くうちに、それらがどう繋がるのか知りたいと思った。印象に残ったのはヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂のピエタ像とミラノの博物館にあるロンダニーニと呼ばれているピエタ像である。前者は、マリアが降架のイエスを膝に抱いて歎き悲しむ像。後者は、倒れそうなイエスがマリアを背負っているかのように見える像。違う、と思った。
いずれもミケランジェロの作である。


5.重荷を背負って

かつて尊敬の眼差しで仰いでいた教育者としての先生ではなく、得手勝手なエゴイズムを丸だしにした男の姿に、どう対処してよいのか分からなかった。私は何かに祈りたかった。
――もし、この世に神様がいるのなら、助けてください。どうか先生との関係を断ち切らせてください。家庭を壊すのは私の本望ではありません。結果がどのようになろうと、私が傷つこうと不利になろうと、裁きとして受け入れます――

心から祈りつづけた。そんなある日、ロサンゼルスに住む伯父が訪日してきた。
私の母はハワイ生まれの2世である。11歳の時に母親に連れられて日本の土を踏んだまま、再び故郷に戻る事はなかった。望郷の念をいまだに抱いている母は市民権を持っていた。未婚の私は永住権が取得できることを知った。幸い、伯父は私の渡米を快く承諾してくれた。ちょうどいい。

アメリカへ行こう。
誰も何もしらない土地で人生をやり直そう。別の世界が開けるに違いないという母の強い勧めもあって、私は役所を辞め渡米の手続きを始めた。手続きが完了するまでの半年間、誰にも煩わされない他県にいる姉の家から編物教室に通ったのである。
1970年の夏、私は渡米した。
勤めはじめたニッティングの会社で知り合った友人にキリスト教会へ誘われた。生まれてはじめての体験である。

重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう

牧師のメッセージに、私は、思わず涙が溢れ出た。だが、教会へ行ったのは、それっきりであった。
その時に頂いた黒表紙の立派な聖書は30数年間、一度も開かれることなく、本箱に片隅で眠りつづけたのである。
          


4.曲がり角

中学の元教師だった先生と私は別館と本館の違いはあったが同じ県庁勤めである。庁舎の食堂で、
また、市町村に出張した帰りに同じバスに乗り合わせるなどの出会いが度々あった。  
ある秋の土曜日の午後だった。 「行ってみようかな、先生の課へ」 ふと、そんな気になった。

庁舎を出て電車通りを北へ歩くと崩れかけた原爆ドームが建っている。川を隔てた向こうは平和公園である。私は、コーヒーを飲みながら、川べりの喫茶店で、先生の学生時代の思い出や社会教育に携わっている仕事の話など聞いていた。

「だが、ジレンマを感じるんだよなぁ」 先生は深い溜息をついた。 「家庭生活はいかにあるべきかなどと講演してまわっているが、自分の家庭はどうだと反論されたら、二の句が次げない」  女房は社会に出て働いたことがない。だから、社会的感覚が欠如している。夫に対しての理解がない。話が合わないなどと、奥さんへの不満をこぼした。

聞きづらくなり、子供さんの話に切り替えた。 「娘がひとり、十歳になる」 「先生と美人の奥様のお子さんだから、かわいいでしょうね」 すると「ううーん」と、鼻でくぐもった返事をしてから、
「不思議だねぇ。きみと話していると心が和んでくる。乾いた砂に水をまくと染み込むように、心が潤ってくる」 といって、熱い眼差しで私の顔をじっと見ていた。これが中年男の口説き文句とも知らない私は、先ほどから、静かに空気を震わせているスメタナの旋律が急に気になりはじめた。陽が落ちた。 後に、この出会いが人生の大きな曲がり角になるとは思いもしなかった。


3.再会

庁舎の正面玄関のドアを押した時、危うくぶっつかりそうになった。その相手を見て「あら!」と私が叫ぶのと「おう!」と相手が応じるのが同時だった。後にのけ反り目を丸くしている相手は、
「元気か?」  と、訊ねた。 「はっ、はい」 「何課にいるんだ?」 「6階の住宅課です」 「そうか、私は別館の教育委員会だ。2階の社会教育課にいる」といって、内ポケットから名刺入れを出し、一枚、私にくれた。「暇があったら寄りなさい」そう言い残すと、同僚らしき人と外へ出ていった。背筋をのばし外股で歩く、しぶい低音も昔と変わっていなかった。私が県庁に勤め初めて8年目の春、中学時代の社会科の先生だった人にぱったり出会ったのである。高知の土佐出身だという若くてハンサムな先生は、最初の授業の時こんな話をしてくれた。

「高知の桂浜には、幕末を駆け抜けた風雲児『坂本竜馬』の彫像がある。太平洋の彼方にある世界を見据えるように懐手をして立っている。懐に入っているのは、何だと思う? 本だ。しかも洋書だ。
いいかみんな、未来を考えるにはまず現在を知らねばならん。現在を知るには、これまでどのような歩み方をしてきたか過去を探らねばならん。それには本を読んで勉強するしか方法がない。とにかく本を読め」 溌剌とした話ぶりに、竜馬がどちらを向いているかも知らなかった当時の私は、いつしか吸い込まれるように聞き惚れていた。

私は歴史が好きになった。 それから何十年後かにキリスト教に出会い、聖書に登場する人物のロマンやドラマに興味を覚えるのも、この先生の話に影響を受けているからだろうか。


2.静謐に魅せられ

 20代のころ、私は、学生相手に下宿屋を営んでいる浄土真宗の浄修院というお寺にお世話になったことがある。門を入ると山から引いた水が池に流れ落ちていた。掃き清められた境内に佇んでいるだけで心が洗われるようだった。

代々続いているお寺ではない。住職は、大正時代の末に私財でお寺を建て布教活動に生涯を捧げた人であった。私がお寺に行ったころ、住職はすでに亡くなっていたが夫人が健在だった。読経もなく法事や葬式もしない。門徒といえる人たちもいなかった。分かり易い言葉で仏の教えを説くお寺であった。静謐な雰囲気に魅せられ私は数日間、泊めてもらったのである。

毎朝5時になると木魚をたたく音と同時に念仏がはじまる。これで目が覚める。だが、私は起きない。蒲団のなかでまどろんでいると夢のなかに木魚と念仏が入り込んでくる。私が起きるのは6時過ぎ。身支度を整えると本堂で法話を聴く。 7時に朝食をとり勤めに出る。私の仕事は県庁の住宅課にあって市町村の公営住宅を設計する建築士である。

最初は2.3泊のつもりが、居心地がよくて通算4年もいた。 ふと、気がつくと友人は次々と結婚をしていた。婚期を逸するような気持ちになり、慌てた。親や兄、姉が結婚についてうるさくいってくるようになった。 「何をしているのだろう。こんな所で」 疑問が湧いた。と同時に、大げさにいえば、仏教における死生観の概念に反発のようなものが芽生えはじめていた。

「いつか死ぬ身だと知っていれば、人生において大事なことは何かが見えてくる」
間違ってはいない。しかし、これから結婚をして家庭を築こうとする私には、現実ばなれした話に思えてならなかった。しだいに距離を感ずるようになり、お寺を出た。 実家から勤めるようになったのである。


1.ロンダニーニのピエタ

洗礼を受けたことをノン・クリスチャンの友人にEメールで報せると「どうして?」と即、電話をくれた。返事に困った。 どうしてとは、どんな意味なのか、本心から神様を信じているの、と問いただされた気がした。一瞬迷ったが、私はこういった。
「・・・縁、そう縁なのよ」というと後の言葉は簡単だった。
「自分から求めたのじゃないけれど、出会ったのがキリスト教だったということかしら。強いていえば、揺れ動く心に、凛とした芯が欲しかったのかもしれない」というと、友人は納得してくれたようであった。

私は広島出身である。広島は江戸時代、安芸の国と呼ばれていた。こ地方は安芸門徒といって
親鸞上人を開祖とする浄土真宗を信仰している人が多い土地柄である。子供の頃は食事の前に必ず仏壇の前に座り、父が読経をし、みんなで手を合わせてから食事をする習慣が我が家にはあった。父は、食事中に仏教にまつわる話をよくしていた。若いころ学生相手の下宿屋を営んでいるお寺に下宿をしたことがある。 山手の閑静な住宅街にあるお寺である。毎朝五時になると木魚が鳴りはじめ、念仏が聞える。静寂に「南無阿弥陀仏」と唱える男性の低い称名に身がひきしまる。が、起きない。まどろみのなかに木魚と念仏が入り込む。木魚が止み、住職の法話がはじまる。読経はない。 私が起きるのはそれから。身支度を整え本堂へ座る。これは、食事前に本堂で手を合わせることが下宿のときの条件だからである。法話は頭上を通り抜ける。池に流れ落ちる滝の音が心地いい。そうした静謐な雰囲気が好きで四年間、下宿をした。


キリスト教とはまったく縁のない環境で過ごしていた。
そんな私が渡米をし、前原牧師に出会ったのは、今から十二年前の秋である。当時、夫は食道癌を患っていた。医者から「よくもって一年」と宣告を受けて半年が過ぎていた。気弱になっていた夫は、私の外出をとても嫌がった。
だが、ある日の夕方、後藤さかえさんが「聖書の勉強会へ行くから一緒に行かない?」と、誘いにきてくれた。
「行ってこい。行ってもいいぞ」珍しいことを夫はいった。
キリスト教系の大学を出て、幼い頃は教会の日曜学校へ行っていた夫だから、そういわせたのだろう。
前原牧師に出会うきっかけである。そして、キリスト教に出会う最初であった。
夫は、医者の宣告通り半年後に身罷った。暇を持て余している私を後藤さんは教会へ誘ってくれた。暇つぶしと興味本意である。

旅行好きだった夫と旅行をしたイタリア。キリスト教をモチーフにした芸術品の数々。アダムとイブ、ノアの箱舟、モーゼ、ダビデ、受胎告知、最後の晩餐、キリストの磔刑。そうした事柄がどのように繋がるのか知りたいと思った。イスラエル聖地旅行にも参加した。もつれた糸がほどけるように聖書に登場する人物の関わりが分かると、面白くなってきた。しかし、知識と信仰は別である。
一方、イエスの救いを本気で信じていること自体が理解できなかった。 イエスが十字架で処刑されたのは私たちの罪を償うため、頼みもしないのに。罪とはイエスの救いを信じないこと、身勝手な、と、いちいち反発していた。 何年過ぎたころだったろう。前原牧師から、洗礼をすすめられようになった。
「何事にも時があります。その『時』がきたら」 逃げた。おまけに陰口を叩いた。
「洗礼を受けるだけで天国へ行けるのなら、熱湯だって浴びるわ」


いまから三年半前、手術ミスによる事故で車椅子生活になった鳥羽氏と出会った。
そのころからだった。信じられなくてもいいのではないか。私はこれまでの人生をふりかってみた。何度も岐路があった。その度にきわどいところで難を逃れている。これって何だろう。ふと、大いなる者にコントロールされている感じがした。自分では計り知れない大きな存在。それが神か、仏か、わからない。
しかし、守られている、と思った。
鳥羽氏が受洗される時がきたら、一緒に受けようと決めたのである。
私は時々、鳥羽氏の身近にいる真船圭子さんに、
「鳥羽さん、洗礼を受けられるのかしら?」
 さりげなく尋ねると、
「そんな話は聞かないわねぇ」
その都度、なぜか胸を撫で下ろす自分がいた。生き延びたという感じである。
ところが、昨年の十月だった。教会で前原牧師から洗礼の話が出た。私は同じ机を囲んでいた鳥羽氏に「洗礼は受けられないのですか」と、訊ねた。
「はい、受けます。12月に・・・」
思いがけない返事に、時だ!と思った瞬間、隣に座っていた真船さんに、叫んでいた。
「私たちも一緒に受けようよ!」
弾みである。

洗礼クラスが始まった。 勉強をすればするほど、遠くにいる自分を感じた。
これで、いいのだろうか。
神に対する冒涜ではないか。断わるべきかもしれない。しかし、真船さんを巻き込んでしまっている。
悩みつつ洗礼の日を迎えてしまった。

pieta-photoその朝である。なぜか、ミラノでみたピエタの像を思い出した。視力を失ったミケランジェロが死の三日前まで手探りで制作していたといわれる「ロンダニーニのピエタ」である。弱々しいイエスが聖母マリアを背負っている。


二十二歳の作は、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂にあり、
十字架から降ろされたイエスの亡骸を抱く聖母マリア。以前から、二つの像の違いに疑問をもっていた。ちなみに、ピエタは慈悲、哀れみなどの意味で、
一種の聖母子像だといわれている。

夫が病に臥せっていた頃だった。 居たたまれない淋しさと不安がどっと押し寄せた。
私は、新聞に載っていた上智大学教授のエッセイの一節を思い出した。

あすのことは思いわずらうな。思いわずらったからとて、
自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。
あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。

肩の荷がすっと下り、不安が消えた。ぱっと明るくなった。不思議な体験であった。
それが聖書の言葉だと知る由もない。ヨハネによる福音書の一章に、

初めに言があった。言は神と共にあった。

不安が消えたのは、神の御言葉だったからなのだと気付いた。ひょっとして、イエスに背負われていたのは、この私ではないか。ロンダニーニのピエタのように。

証・森田のりえ