“するとウジヤは怒りをはっし、香炉を手にとって香をたこうとしたが、、”歴代志 26章19節

ここ数ヶ月、歴代志の王達の信仰や彼らの業績に興味があり、メッセージに取り入れたり学んでいます。歴代志上下は南のユダ王国の歴史を綴る貴重な歴史資料です。8月の礼拝メッセージでヒゼキヤ王を取り上げ、彼の霊的リバイバルを学びました。今号では、祝福されたウジヤ王がついに王座から転落、そのドラマを考えてみましょう。

1)サウル王とウジヤ王:

サウル王(BC1020)はイスラエルの初代の王、ウジヤ王(BC783ー42)はヒゼキヤ王から4代遡る王です。サウルは王位に着いた頃は大変用いられたが王権と祭司権を混乱、やがて王座から転落する。ウジヤも52年の長期政権でエルサレム、ユダ王国を繁栄に導くが、やがて王権と祭司権を混乱、王座から転落する。二人の共通点は彼らの”心の高ぶり”であった。

2)王と祭司のチームワーク:

サウル時代のイスラエルの民はこれまでの神聖政治を好まず、王政政治を選択した(詳細はサムエル記上8 章参照)。神は祭司であり預言者であるサムエルを通して、民の選択に譲歩する。微妙な言い方ですが、神はこの事を民の我儘として容認し、警告と共に王政政治の機能、働きの骨組みを諭す。

しかし、人間の知恵や努力で国民の福祉や防衛は覚束ない。そこで、神は民が選ぶ王の傍に祭司を指名して、ご自身の意図を王に伝えるようにされた。祭司サムエルはサウル王とダビデ王に、後年、ダビデは預言者ナタンを側近とされた。ウジヤ王には祭司ゼカリヤ、ゼカリヤの死後、祭司アザリヤを立てられた。王と祭司のチームワークは神聖政治の真髄である神の御心、公平さ、神の愛を政策に反映するためである。従って、祭司の助言を無視することは神の御心を無視することになる。

3)ウジヤ王の豊かな繁栄:

ウジヤ王は長期政権を通して国民を豊かにした。農事、治水で貯水池の建設、町々の建設、領地拡大で経済も軍事力も拡大した。また、当時、新兵器の飛道具を開発する技術者を抱えていたと、興味ある記録がある。この豊かな繁栄の恵みに与った事を、歴代志の著書は”彼は神を恐れることを自分に教えたゼカリヤの世にいる間、神を求めることに努めた。彼が主を求める間、神は彼を栄えさせられた。”(歴代志下2:5)とある。しかし、言外に、ゼカリヤの死後、ウジヤ王はどうなったかと不安な響きがしないでもない。

4)高ぶりは滅び:

王座の頂点にいたウジヤ王の転落はゼカリヤの死と共にきた。また、ゼカリヤの後継者である祭司アザリヤを軽率に扱った。王の高ぶり頂点に達した。ゼカリヤと共に歩ん時は、神を恐れたが、その恐れの心は消え失せ、権力を笠に祭司の務め、霊的務めに口出しした。彼は国の繁栄を自分の手柄と思い、祭司の職務である宮に入り、祭壇で香をたこうとした。この職務は祭司の領域であって祭司権のある者の務めである。

例え王でも越境できない聖域である。アロンの子孫で香をたくために清められた祭司たちのする務めであった。ウジヤ王の高ぶりは王権と祭司権の混乱で、祭司の働きは神の使命の達成であることを忘れていたのある。高ぶりは神の領域まで自分の領域とする程に恐ろしいものである。ウジヤ王はたちまちにらい病に撃たれ、王座から転落する。死ぬ日までらい病を患ったと記録されている。

最後に、ウジヤ王の高ぶりから ㈰自分の領域と他人の領域を知る、㈪神の祝福の原則を忘れるな、㈫ 悔い改めの機会を失うな。
私たちも心して主の前にへりくだり歩もうではないか。

高ぶりは滅びにさきだち、
誇る心は倒れにさきだつ、 箴言16:18

前原利夫


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わたしはあなたの定めを喜び、あなたのみ言葉を忘れません。 詩篇119:16

聖書をよく理解するために、私たちは”キーワードを探せ”とよく言います。鍵言葉は、マスターキーが幾つものドアを同時に開くことが出来るように、難しい聖句を解く助けをします。

私はガラテヤ書、エペソ書そしてピリピ書の学びから、文章の中に”軸”を探し出す読み方に気が付きました。

軸とは”物事の中心”です。組織やグループの活動の中心は軸です。私たちの教会の活動の軸は何でしょうか。それはみ言葉を伝える福音宣教がGVICの活動の軸です。この中心である軸に向かって教会の活動は展開しています。

ちなみに、貴方の生き方の軸は何でしょうか。しばし、沈黙、祈りの中に”自分の軸”、そしてその”軸を据えている土台”を考えてみませんか。

もう一度繰り返すと、文章の中で軸になるものが見えてくると、周辺のものが中心である軸に向かって書かれている事が見えてきます。軸が分かると全体の構成、どのように骨組みが組み合わされているか分かります。

軸が見えないと、周辺がバラバラで中心に結びつける事が出来ずサブタイトルが見えません。軸は周囲の物を中心に向けさせる力があり、周囲の物が中心へとなびいていくのです。

例えば、先月学んだピリピ書3章の読み方、そこで軸を探します。17節”わたしにならう者となってほしい”とあります。この言葉を軸として捉えていくと、3章全体の構成がよく見えて、周囲が軸に向かってなびいているように読めます。

パウロは自分の過去、人生の変化、現在の目標、未来について話していることがはっきり分かります。ドラマチックに言うと、ここ3章はパウロの人生の過去編、革命編、現在編、未来編とサブタイトルから構成されています。

17節の軸に向かって周辺を整理し解釈してみましょう。

軸: ”わたしにならう者となってほしい” 。

 

1. 私の過去:

1〜6節:パウロはここで”肉の頼み”という表現で、過去の自分が誇りにした生き方を話します。それは、ユダヤ人の誇り、特権とした割礼、イスラエル民族であること、即ち、神の選びの民であることの誇りです。

そして、12部族の中のベニヤミン出身であること、要するに純粋のヘブル人としての民族的誇りを上げます。ヘブル人の特徴は代々守ってきたモーセの律法を実行すること、中でもパウロは律法学者として優秀な人物であったようです。

その名声、名誉、誇りはこの世のミリオネヤーの誇りよりも高いものであったろう。パウロは律法の義については落ちどのない者、完全な者と自画自賛するほどである。驚くべきことに、教会の迫害者であったことも過去の誇り、自慢であった。”私にならう者となれ”、これが、パウロの過去でありました。

 

2. 私は変わった、誰が私を変えたか:

7ー9節:パウロは過去の誇りを自分の現在に結びつけて、過去の一切を”キリストのゆえに損と思うようになった”、また、もっと強力な言葉で”それらのものをふん土のように思っている”、と現在から過去をなじる。何故、キリストのゆえにですか?

それはキリストを知る知識の価値、その絶大さから過去の誇りは比較にならないふん土、排出物、無駄で無価値な生き方であったからです。以前は、律法に命を賭けて救いを求めていた。

然るに、キリストを知ることによって、救いはキリストの十字架の中にあり、それを信じるだけで救いに至るからである、この救いの真理に霊の目が開かれたのです。マラソン競争の決勝点を目指して走っていたのに、走っても走っても、ゴールが見えない。なんと、傍らのキリストの中にただ飛び込めばいいことを知ったのです。私たちの難行苦行は救いの達成になんの益もない。

 

3. 変わった自分の目標:

10ー16節:パウロの生涯の目的は”キリストを知る”、”キリストの中に自分を見出す” ことに釘付けされた。10節で”キリストとその復活の力を知り、その苦難にあずかって、その死のさまに等しくなり”とあります。

難解な点ですが、キリストの生涯は苦難の十字架と勝利の復活に要約されますから、この二点にパウロの目標が絞られた。我々の霊性では発想も出来ない、パウロのキリストを追求する崇高な姿です。キリストにある一体論か。

最後、キリストにある自分の未来, 17〜21節:パウロは過去、現在、キリストを述べて最後に、来たらんとする神の国、私たちの国籍は天にある、と語る。

やがて、私たちの朽ち果てる体も、栄光のキリストの体に似てトランスフォームされる。パウロは死後の準備も漫然に整えている。 だから、”わたしならう者になりなさい”、とパウロは貴方に私に声をかけている。

前原利夫


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「ところが、主が言われた、”わたしの恵みはあなたに対して十分である、、、”」 コリント人への第二の手紙12章9節

私の生涯の中で2015年7月2日は忘れられない日となりました。一年を振り返り証と感謝を述べさせて頂きます。この病は、静かに足跡もなく忍び寄り、突然に一夜の大嵐の凄まじい激痛となり、私の肩から頭部に襲いかかった。2ヶ月近くの入院、ICUから2ヶ所のリハビリセンターに移動、在宅リハビリ、そして一年後の今も、リハビリに勤しんでいる。

1. 脊椎狭窄症の大手術:

聞いたことのない病名、この病気の恐ろしさは体験した人でないと知ることはない。私は臆病だからであろう、この病気は厳しく、大変な病気だ。思わぬ合併症との闘いも数々ある。

昨年6月29日、その日はアジアン・アクセス(Asian Access) の役員会、その晩は私の役員引退のお祝いであった。褒められ過ぎてか、睦子とルンルン気分で10時頃帰宅。その時、肩と頭部に激痛が走る、我慢が出来ない痛みだ。”おい、睦子肩を揉んでくれ”。彼女のマジックハンドのせいか、激痛が柔らいだ。翌日もAAの会議、特に異常はない。

その翌日、7月1日はいつものように会社へ、しかし気分がスッキリしない。その日は祈祷会の準備もあり、早々と退社。3時頃から準備を始めたが、ソファーに座り込み、片手に本を抱えて眠り込んでしまった。

1時間後、右手と右足が痺れ、自由に動けない。夜を迎え睦子のドライブで祈祷会へ向かった。痛みを堪えつつ奉仕を無事に全うした。見るに見かねて、兄弟が”先生、肩を揉んであげましょう”、と私は床に横たわった。しかし、何の効果もない。私達は、お礼にと近くのラーメン屋で夜食をとることにした。ところが、スープをすくう左手のスプーンがブルブル震えてすくえない。

そのまま病院へ走ることにした。夜の救急患者は一杯でバイオチェックを済ませ、そのまま入院とあいなった。ドクターはブレイン・ダメジか ストロークと判断、すぐMRIを撮った。しかし、そのような跡形はない。もう一度、首のMRIを撮ることになった。5、6人のドクターが集まり、何やらドヤドヤしている。娘たちも集まっている。即時、手術をすることになった。昨年の7月2日、忘れることが出来ない。肩から首にかけて30近くのステッチで溝が出来ている。

2. 主は教会のかしらなり:

早速、退院までの対策を立て、教会が混乱しない様にキム先生ご夫妻と相談。毎週の礼拝をどうするかが、一番の心配であった。織田先生、キム先生、明子さんの3人でローテイトすることになった。後日、辻本先生が奉仕に加わりました。祈祷会は織田先生が担当、毎週の礼拝プログラム、飛脚、それに対外的な連絡は明子さんが担当。

大事な要件は従来通りに世話人会で相談、実行することになった。この新しい奉仕はこれまでの奉仕に更に重なるもので皆さんがどんなにか大きな働きをなさっているか。勿論、紙面で紹介されてない多くの奉仕もあります。報酬も殆ど皆無である。元々、私がいるから教会が動いているとは微塵だに思ったことはない。まさに、その通りです。

教会のかしらは主イエス様です。この貴いお方が教会のかしらであり、全てを取り仕切っておられるお方です。栄光が主イエスにあります様に、そして、GVICの全ての祈る人々の上に、とくに多くの奉仕を担っている先生方の上に、祝福を祈るものです。

3. ”わたしの恵みは十分だ”:

これはパウロが肉体のトゲを取り去るように3度も祈った時に、主がお答えになられた言葉です。弱音を吐いたり、落ち込んだり、薬のせいか気分がすぐれない時など、主からの恵みを忘れて勝手に振る舞い我儘を言ったりするものです。

その時、この言葉が励ましとなり、自分の祝福され、恵まれた環境を一つ一つ思い起こさせる言葉である。 リハビリ中、何の不足もなく全てが満たされ、自分の希望通りに生活が出来る事は幸いです。

私にとって”主の恵みは十分です”、いや、完全です。1日も早くフル奉仕に戻るようリハビリに励んでいます。どうぞ、ご奉仕と祈りをもって支えて下さるようにお願い致します。

前原利夫


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ガラテヤ書のまとめ

私たちは4月から6回にわたりガラテヤ書を学びました。三人のメッセンジャーが担当しましたが、一人のメッセンジャーが解釈する場合とアプローチに違いがあり、また、強調点にも違いがある。個性的で豊かで良い経験と言える。エペソ書、ピリピ書の学びも複数メッセンジャーで続きます。

今号では、ガラテヤ書の総括として、以下三ポイントでまとめてみました。

1. キリストにある自由:

5章1節に”自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。、、”とあります。ガラテヤ書はキリスト者の自由の書、律法主義との闘いであった。行い、規則を守る事を救の条件としたユダヤ教と決別の闘いでもあった。パウロの闘いは信仰による救い、キリストの十字架を擁護して叫んだ。パウロは5章13節でもキリスト者の自由を叫ぶ。

5章1節はガラテヤ書の分水嶺と言えよう。1章から4章までは上記のテーマで続き、5章1節がその結論と言えよう。そして、パウロは5、6章でキリスト者の倫理、御霊 の実を紹介する。キリストによって自由とされた者の歩み方である。イエス・キリストを信じることによって正しく生き、その生活姿勢によって信仰の正しさを証していくのである。これこそが真のキリストにある解放である。

2. キリストの清さに生きる:

キリストに解放されて自由に生きるキリスト者に具体的に 清く生きることを教える。キリスト者の自由は自由奔放に生きることではない。清く生きる原動力である御霊の助けを求め、愛をもってお互いに仕え合うことを勧める。互いにいがみ合い、食い合っては双方とも滅びの道だと警告する。人、清く生きずして互いに平和に生きることはできない。5章の19節 にきて、あの有名な肉の人と霊の人、御霊の実を語る。

キリストなしの生活とキリストと共に歩む生活を対象する。私達も9つの御霊の実を結ぶ努力をしようではないか。更に、パウロはさまようキリスト者を優しい心で導くように諭す。しかし、悪い行いの果を知りながら悔い改めない者にはキッパリとその実を刈り取ると強く警告する。私達弱い人間は、目の前に落とし穴を見ながらそこに足を運ぶことがある。悪い結果を知りながら、悪い種を蒔いてはならい。

3. キリストを誇りとする:

パウロは6章1節で”しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇りとするものは、断じてあってはならない。”、と宣言する。この十字架の誇りはガラテヤ書の総決算、結論を一言で表したものではないか。この誇りのために律法主義者と闘い、十字架の救いを取り除こうとする者を呪う程にパウロは闘う。かつては、この十字架を呪い、十字架を糞味噌のように迫害した者の革命的改心であった。今や、パウロの喜びは全てキリスト中心であり、パウロの歓心事もキリストの以外にはない。

彼は叫ぶ”生きているのは、もはや、わたしではない。キリストがわたしの内に生きているのである。”、と。第一コリント9章の引用が許されれば“わたしが福音を宣べ伝えても、それは誇りにはならない。なぜなら、わたしは、そうせずにはおれないからだ。”。ガラテヤ書を閉じるにあたり、パウロ自身の手書きで“わたしは、イエスの焼き印を身に帯びているのであるから”。私たちは如何ほどに十字架の福音を感謝し、誇りを持ってイエスの福音を隣人に伝えているであろうか。

2000年前のガラテヤ書はやがて15世紀の宗教改革者達の心を揺さぶり目覚めさせ、マルチン・ルターに率いられヨーロッパ全国に霊の覚醒をもたらした。今日、私達もキリストにある救いと自由の中に祝福を頂いている。キリスト共に清く歩み、イエス様を誇りにしようではありませんか。

前原利夫

 
一月前になりますか、冒頭の言葉に強く惹かれた。今、私は何を怠っているのか、今、何をしなければならないのか、としばし魂を探る機会が与えられた。この言葉は優しく励ますようにも響き、また厳しいお叱りのようにも響いた。ユダの王ヒゼキヤ(王位、BC 715ー687)の言葉です。

歴代志下の28章と29章の間には国の霊的状態に大きな溝があることは1、2節読むと明らかです。ヒゼキヤの父はアハズ王、彼は子供たちを火に焼いて供え物とした程に神に背いた。アハズ王の治世で活躍した予言はホセヤ、ミカ 、イザヤらがいる。28章は父の憎むべき偶像礼拝の記録、一章進とその子の献身的宗教改革の記録である。

ヒゼキヤ王の霊的活動は神の祝福を受け、物質的にも祝され、町々の建設、倉庫、畜舎も増築され、城内にギホンの泉から地下水路を建設した。今日、ヒゼキヤのトンネルとして知られ、聖地旅行のコースである。

ヒゼキヤはは国の霊的刷新のために”わが子らよ、今は怠ってはならない”と彼の治世の第一年に、ユダヤの霊的覚醒の陣頭指揮にあたる。その順序を29章から要約し、また、”わたしに”語りかけるみ言葉の招きに応えようではないか。

     1. 宮清め:アハズはエルサレムの宮の戸は閉鎖し、町々に偶像を建て上げて異邦の神々を祀った。宮の閉鎖は意図的に神を捨てたことになり、国民に礼拝を禁じた。国は指導者の不信仰、背信のゆえ、荒れに荒れた。ヒゼキヤは父の死後政権に着くや、宮の戸を開き、宮清めを始めた。子の時代になって宮の戸は開かれ、倉庫化した宮の清めが始まった。汚物は取り出され、塵のたかった器物を取り出して、先ず、主を迎える宮を整えた。イエス様も、商売化した宮から商人を追い出し、祈りの家として清められた。GVICの礼拝堂は整えられているであろうか。聖霊の宮である私たちの身体はイエス様を迎えるにふさわしい者でしょうか。

     2. レビ人の回復:宮が閉じられると、かつて仕えていたレビ人は務めを失い散されて行った。今、宮の門が開かれ、人々が自由に出入した。礼拝を捧げるためには神に仕える祭司達がいなければならない。宗教儀式、行事を取り扱う祭司、預言者等、専門職を宮に迎え回復した。レビ人の回復はみ言葉の回復でもある。彼らの不在では律法の解釈、生活の実施が出来ないからである。こうして神を迎える宮も人材も整えられたのである。

     3. 賛美チームの結成:回復されたレビ人を中心に賛美を捧げるチームが立ち上げられた。彼らは立琴、ラッパを楽器に神を褒め称え始めた。整えられた宮に訓練の行き届いた指導者の下に賛美が宮の隅から隅に響きわたった。何年も、何年もゴミの山の宮に声高らかに喜びと感謝の叫びが天に達した。賛美は礼拝に欠かせない、神を称えるに大いに用いられている。私たちの礼拝から賛美チームがなくなったら、感動も主の臨在感も半減するに違いない。GVIC賛美チーム、聖歌隊の皆んさ、益々、霊と技を更に磨いて下さい。

    4. そして、礼拝が捧げられる:ヒゼキヤ王は全てを整えて、燔祭を捧げるよう命じます。燔祭は犠牲であり、礼拝は犠牲を以って最高に達する。イエスキリストはご自身を燔祭として捧げられた、私たちは、何もを以って神を礼拝するのでしょうか。

こうして、主の宮は開かれ、回復された。私たちの魂の破れはありませんか。この悪の時代、世俗の習慣の奴隷になっていませんか。破れていたら繕う、閉じられていたら、開こう。

“わが子らよ、今は怠ってはならない”

                                                                                     前原利夫

パウロ書簡を連続的に礼拝メッセージ:ガラテヤ人への手紙、エペソ人への手紙、ピリピ人への手紙

パウロは新約聖書27巻のうち13巻を表している(ヘブル人への手紙の著者はパウロ以外の説もありここでは入れてない)。13巻は内容から四大書簡、獄中書簡、牧会書簡と呼称されている。上記の三書簡を連続的に礼拝メッセージで取り上げます。4月の第一日曜日から7月末まで続きます。メッセージは前原が月二回、辻本師が月一回、残る週は織田師、キム師、明子姉がそれぞれ準備します。

今号では、上記の三書簡の概略を紹介し、これからの学びに備えていきます。

1) ガラテヤ人への手紙:

ガラテヤ地方は小アジアの北に位置するが、当時は北と南ガリラヤとに分かれていたようである。本書がどこに送られたかにより執筆年代が若干違い、49年説と53年説がある。49年説を取ればパウロが一番先に書いた書簡であり、53年説を取れば、テサロニケ人への手紙の後、3番目になる。エペソの町から執筆した。

ガラテヤ書はパウロの四大書簡と一つでローマ人への手紙、コリント人への手紙第一、第二と並べられ、キリスト者の自由を述べる。また、ローマ人への手紙はガラテヤ書の注解書と言われるほど、二書は密接なつながりがある。

宗教改革者ルターは「私はこの手紙と結婚した。」と宣言するほどに惚れ込んだ書物は有名である。 本書は16世紀ヨーロッパの宗教改革を推進する原動力となった。

ガラテヤ書は人間は生まれながらの罪人である、聖なる神とどうして聖い交わりを保つことができようか。律法を守ることによってか、そうではない。本書ははっきりその解決に導く。

2) エペソ人への手紙の概略:

パウロにとってエペソ人への手紙ほど親しく、身近に感じる書簡はないかもしれない。使徒行伝20章はパウロはエペソの町に3年滞在したとある。そこで、教会を立て上げた。本書は、ピリピ書、コロサイ書、ピレモン書と同じくローマの獄中から紀元61、62年頃に書れた。これらの書簡を獄中書簡と呼ぶ。

エペソ書の中心聖句は1章23節がふさわしい:”この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。”  このみ言葉からもわかるように、エペソ書は教会論を述べ、前半3章までは教理、教え、後半の3章でキリスト者の生活を教えている。

エペソ書はある程度熟練した信徒を対象とし、より高い霊的なレベルに引き上げて行く。ある詩人は、エペソ書を”人間の手に成る最も峻厳なる書物”と評している。

3) ピリピ人への手紙の概略:

ピリビ人への手紙はピリピの町のクリスチャン宛てに書かれた手紙で、エペソ書と並んでローマからの獄中書簡である。パウロは第二伝道旅行の時初めてヨーロッパ大陸に渡った。紀元52年、ピリピの町に渡ったのは大都市を宣教の対象に選んだからである。その10年後、61年か62年に執筆されたようである。

執筆の目的は二つある:ピリピ教会が信徒のエパフロデトに贈り物を託してローマの獄中のパウロを訪ねたことへのお礼の言葉、そして、教会内の幾つかの問題に対する指示を与えるためであった。本書は「喜びの書」とも呼ばれ、4章かなる小作にもかかわらず、16回も「喜ぶ」の言葉が続出している。獄中のパウロの内的豊かさを表すのであろう。その豊かさを味わい、共に体験しようではありませんか。

以上の概略を頭に入れ、また礼拝前に当日のテキストを読み、礼拝に備えると、より豊かな祝福を受けること間違いありません。 (いのちのことば社、新聖書注解を参照)

前原利夫


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イースター、おめでとうございます!

今年のイースター・サンデーは3月27日です。イースタから数えて40日間イエス様はこの地上で過ごされた。私の関心はイエス様は何をされて40日を過ごされたかです。使徒行伝1章はこう記録する”イエスは苦難を受けたのち、自分の生きていることを数々の確かな証拠によって示し、40日にわたってたびたび彼らに現れて、神の国のことを語られた”。復活から昇天までのイエス様の活動は”宣教”であった。マルコの福音書は”時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ”、と冒頭でイエスの宣教活動を記録している。イエスの宣教は公生涯の初めの日から昇天、地上の最後の日まで継続したことになる。

それでは、復活のイエスと宣教を順を追って考えてみよう。

1) 罪の赦しの宣教(ヨハネ20章): 復活されたイエス様は、その日の夕方恐れ隠れている弟子たちに現われた。”安かれ”と弟子たちの恐れを除き、弟子たちに罪の赦しの特権を授ける。これまで、罪の赦しは神のみなさることであったが、復活のイエス様はその特権を弟子たちに授け、ご自分の使命を引き継ぐよう準備をされた。宣教には罪の赦しがなければなならない。罪の赦しのない宣教はイエス様の伝える宣教ではない。同21,22, 23 節で、”安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもあなたがたをつかわす”、そして、”、、、聖霊を受けよ。、”あなたがたがゆるす罪は、誰の罪でもゆるされ、あなたがたのゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう”。宣教は悔い改め、罪の赦しから始まる。

2) 宣教への召命(ヨハネ21章):

ペテロを筆頭に7人の弟子たちは主を待つかのように、ガリラヤ湖で漁をしていた。長い夜の海は弟子たちには冷たいほどなんの反応もなかった。そこはイエス不在であったからであろう。やがて主が現れ153匹の大きな魚がザクザクと彼らの網の中にかかってきた。岸辺のイエスは今獲れたばかりの魚を焼き魚にし、パンを弟子たちにふるまった。お腹をすかしていては、話もそぞろ、イエスは食後の頃合いを見て、ペテロに”ヨハネ子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか”、と三度も同じ質問をされた。心をいためたペテロはイエスにこう答えた”主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることはわかっています”。イエスは言われた”わたしの羊を飼いなさい”と。かくして、ペテロは逆十字架に火あぶりの殉教を遂げたと伝えられ、今もローマはバチカンの聖ペテロの大広場(プラザ)の名前で褒め称えられている。

3) 世界宣教大命令(マタイ28章):

19節で”それゆえに、あなた方は行っ て、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、、”と。(紙面の関係でみ言葉だけにします)。

4) 専属異邦人宣教(使徒行伝9章):

同章は迫害者パウロの殺意に満ちた生々しい姿を描いている、また、パウロの劇的な改心は復活の主との対面からであった。迫害の道、ダマスコ途上の改心は異邦人伝道への道と変えられた。復活の主は15節で”、、、あの人は、異邦人たち、王たち、またイスラエルの子らにも、わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者である。”迫害専門から異邦人伝道の専門者パウロは、イエスの旗印を掲げて、小アジア、ヨーロッパを西に東に飛び回った。

復活の主の40日は宣教の40日であった。まだ救われない魂に神の国を伝えられたばかりか、宣教がユダヤ世界に限定されず、全世界に広がるように宣教の器、人材を準備された。今日、主を信ずる貴方も私も、主のご命令を特権として福音の救いを伝えようではありませんか。貴方はこの福音によって今日あるのです。

時は近い!

前原利夫

神の選びの教えは膨大なので今号は創世記に絞って学ぶことにする。創世記に人類史の原点があり、人間の罪が始まり、神の救いの計画が始まるからです。これらはいずれも神の主権の下にあり、神の主権は神の意思決定であり、神の選びも神の主権の下にあるからです。天地創造も人間の創造も神の主権の賜物である。

エペソ書1章4節に”みまえにきよく傷のないものとなるようにと、天地の造られる前から、キリストイエスにあってわたしたちを選び”とあります。神が貴方を私を選ばれたのは天地創造前である。オドロキです!

捧げ物の選び:

創世記4章を見ると、アダムとイブの長男カインと次男アベルの捧げ物の記録がある。捧げ物の話は4章で初めて取り上げられ、神はカインの捧げ物よりもアベルの捧げ物をよしと選ばられた。どうしてかと問われても、回答はない。それが、神の意思による選びなのです。

アブラハムの選び:

創世記11章26節から12章3節にアブラハムの父テラの系図とアブラハムを召す神の選びがある。12章1節に「時に主はアブラムに言われた、”あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい”」とある。神がどこでアブラハムにお声をかけたか、ステパノは使徒行伝7章でカルデアのウルであったと解説する。

その当時、異邦人と選民の区別もない時代、その時に、神は偶像礼拝の町ウルから、まだ神を知らなかったアブラハムを選び、選民の元祖(いい言葉でないが)となるように選び、召されたのである。アブラハムは、家族と共にウルからハラン、そこからカナンの地に移住、神の選びの民を神が選んだ地で天の星のように増やすことになった。それは、人類を救う神の一代計画を成就するためであった。アブラハムの選び、約束の地の指定は神の主権の下にある。

兄エサウを退け、弟ヤコブを選ぶ:

創世記25章23節に”、、、一つの民は他の民よりも強く、兄は弟に仕えるであろう”、とある。ローマ書9章のパウロの解説は”まだ子供らが生まれもせず、善も悪もしない先に、神の選びの計画が、わざによらず、召したかたによっておこなわれるために、、、”、とある。神の選びは、人間側の問題ではなく、何者にも拘束されない神の意思、自由に与えらるものである。確かに、贈り物は送る人の意思にあり、神の選びの中にある人は何と幸いであることか。

ヤコブは孫の長男マナセよりも孫の次男エフライムを祝福:ヤコブはエジプトに下り、最愛のヨセフと久し振りに再会、その感動は死しても代え難い心境であったであろう。ヤコブは臨終に臨み、孫を祝福するのであるが、次男のエフライムを長男のマナセに先立ち祝福する。ヨセフは父に長男マナセが先ですよと注意を促すが、ヤコブの意思は変わらない。ここにも、選びは身分、伝統、習慣によらず、選ぶ人の主権にあることがわかる。

最後に、紙面の都合上、選びの目的を箇条書きにし、次の機会に解説しながら紹介する。

1)選びは神の恵み
2)ふさわしく清く生きる
3)国籍を天に持つ

神の選びに預かる者はなんと幸いであろうか、”主の御名を呼び求める者は、すべて救われる” のです(ヨエル書2章)。

前原利夫


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明けましておめでとうございます!

2016年、祈りの年になることを願いつつ、”執りなしの祈り”を考えてみます。

執りなしの祈りは人のために祈る祈りで、代 祷ともいう。昨年、私は皆さんの執りなしの祈りをどれだけ受けたか測り知れません。この新しい年、友、家族のために更に祈る者となりませんか。

1) アブラハムの執りなし:

執り成しの祈りで分かりやすい例は、甥ロトのために祈るアブラハムの祈りでしょう。(創世記18章参照)。神の使いはモラルの退廃したソドムの町を滅ぼそうとします。アブラハムは甥とその家族を助けようと、神の使いに食い下がり執りなします:もし、ソドムに50人の正しい人がいたら、45人いたら、40人いたら、、、10人いたら、と。アブラハムは愛するロトのために懸命に祈ります。私達は友や家族のためにどの様な執り成しをしているでしょうか。

2) モーセの執りなし:

モーセーが聖山で神に祈っている間、40日40夜、山の麓ではイスラエルの民たちは偶像を作り、偶像礼拝に耽りました。神の怒りは爆弾のように偶像に耽る裏切りの民の頭上に落ちました:”それで、わたしをとめるな。わたしの怒りは彼らにむかって燃え、彼らを滅ぼしつくすであろう。しかし、わたしはあなたを大いなる国民とするであろう”。(出エジプト32:10) 。モーセの執りなしの祈りが神の怒りを宥め、民を偶像礼拝の罪から、裁きから救います。”、、、どうかあなたの激しい怒りをやめ、あなたの民に下そうとされるこの災いを思い直し、、、それで、主はその民に下すと言われた災いについて思い直された”。(同32:12-14)。モーセは民全員のために懸命に執りなす、指導者の祈りはパワーフル、神は貴方に代わって他人の祈りに耳を傾けて下さる愛と寛容の神です。

3) イエス様の執りなし:

イエス様の執りなしは最後の晩餐の席で弟子たちのために祈られます(ヨハネ17:9-26)。”わたしは彼らのためにお願いします、、聖なる父よ、わたしに賜った御名によって彼らを守って下さい。それはわたしたちが一つであるように、彼らも一つとなるためであります”。イエス様の執りなしは、動揺する弟子たち、悲しむ彼らを励まし、一つとなって立ち上がることを天の父に祈ります。弟子たちは一時バラバラになりますが、主の復活後は立ち上がり、一つとなっる聖霊の注ぎを受け、初代教会を立ち上げて進みます。

イエス様は弟子たちにどのような人のためにも執りなすことを教えられました(マタイ5:44)。パウロも自分のために執りなしをするようにローマの兄弟姉妹たちに勧めます(ロマ15:30).

最後に、私たちの執りなしはどうであろうか。冒頭で書いたように睦子と私はこれほどの執りなしの恵みに預かったことはありません。私の快復、睦子の健康、勿論、GVICが守られるように、多くの方々が執りなして下さっています。紙面を以って感謝申し上げます。

私たちも、イエス様のご命令通り、主にある兄弟姉妹のために、執りなしをしていこうではありませんか。

前原利夫

PS. 前原は昨年12月20日、6ヶ月ぶりにクリスマス礼拝でルカの2章を中心にメッセージを取り継ぎました。また、「飛脚」も今号から「巻頭言」を担当します。まだリハビリ中ですので、皆さんの背後の執りなしの祈りをお願い致します。

12月はクリスチャン人口が少ない日本であってもクリスマスソング、神様への賛美が町中に響き渡ります。また多くの教会、クリスチャンがクリスマスコンサートや、クリスマス会を企画します。それは、少しでもイエス様の愛をお伝えしたいからです。

信仰で一番大切なことは、「神様との関係」です。それは、私たちの目線で判断するものではなく、「私と神様」との個人的な関係があるかどうかが重要です。

イエス様が来られる前は、大祭司しか至聖所には入れませんでした。至聖所というのは、神様がおられるところです。しかし、イエス様が十字架で死んでその身を割かれたことによって、私たちの霊は、直接神様と交わりが持てるようになりました。

主の前に進み、ひれ伏して過ぎた一年をゆっくり振り返ってみましょう。神様がどのように私たちと共におられたのか、どのように語り続けてくださっていたのか、耳を澄まし、主のみ声を聞こうではありませんか。

ペテロはイエス様のお言葉一つで、全てを捨てて従った一番弟子でした。イエス様が弟子たちに向かって、「あなたは私を誰だといいますか。」との質問に、ペテロが答えます。

「あなたこそ、生ける神の御子キリストです。」ペテロのこの発言2、イエス様はどれほど嬉しく思ったことでしょうか。

しかし、そのペテロがイエス様の最も苦しみの時に、呪いの言葉まで用いてイエス様を否定しました。

鶏の声に我に返り、大泣きするペテロ。二度と立ち上がれないと彼は思っていたことでしょう。しかし、イエス様は復活後、ペテロに現れ、大漁を与え、食事を共にし、ペテロに語りかけるのです。

「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」ヨハネ21:15

イエス様はこの質問を3回繰り返してペテロに言われました。2度と立ち直れないと思うほどの失敗をした、裏切りをしたペテロを諦めず、イエス様の方から、「私を愛するか。」と繰り返しました。彼の心を癒すように、イエス様のお心を伝えたのです。そして最後、「わたしに従いなさい。」と言われるのです。

私たちは罪に縛られてはいけません。イエス様が赦すことができないものはありません。赦していないのは私たち自身です。全ての思い煩いを注ぎだして、悔い改め、癒していただきましょう。

新しい年は、皆様の上にイエス様が特別に語られる年、主の素晴らしいご計画がなる時となりますように!祈ります。

前原