エリシャの神:神の容器は無限!

「そこで彼女は神の人のところにきて告げたので、彼は言った、 “行って、その油を売って負債を払いなさい。あなたと、あなたの 子供たちはその残りで暮すことができます“」列王記下4章7節

上記の一節は預言者エリシャの言葉です。エリシャは大預言者エリヤの愛弟子でBC850年頃、イスラエルで大活躍をした人物です。彼の下にも預言者の弟子たちがいましたが、その一人が借金を抱えたまま死んでしまいました。債権者は主人の死とともに奥さんに借金取立てに来て、二人の子供を人質に奴隷として連れて行こうとしました。未亡人(この言葉は好きではありませんが)はその苦痛を師のエリシャに訴え助けを求めました。この話は正に現代版ではありませんか。同書4章をお読み下さい。ここでエリシャと彼の信じる神の容器の無限さを考えてみましょう。

1.エリシャ、弟子への思いやり:
エリシャという預言者は気性の激しい性格の人でした。小さな子供たちが彼を“はげ頭よ、のぼれ、はげ頭よ、のぼれ”と嘲り、馬鹿にしたので激怒して子供たちを呪ってしまいます。子供といえども大人、預言者への尊敬を失したことを赦さなかったのです。ホット・テンパーでした。しかし、自分の弟子たちに対する思いやりはことの外深くあった印象を受けます。当時も今も神に仕える人の宿命は“貧しい”という負債を背負っているようです。借金を担がされた妻の試練、借金代わりに二人の息子が今奴隷として人質にされようとしているこの苦境、彼女の心境を計り知ることは出来ません。母の子への深い思い、まして父が残した借金のために子供が奴隷になるのは胸が張れ裂けんばかりです。エリシャはこの借金苦に脅えるやもめに神の哀れみ深さを惜しみなく示しました。

 2.エリシャ、必要以上に応える:
エリシャはやもめに家に換金できるものがあるか(財産)と訊ね、先ず生活と返済能力を確かめます。その家には「一びんの油」しかないとの返事。この油は高価な香油か或いは日常使用する油であったかわかりませんが、換金できる唯一の財産ではなかったでしょうか。或いは借金苦に悩むやもめの生活費の全てであったのです。預言者は彼女に命じます。家に空瓶んがなければ隣近所から沢山の空き瓶を借りてくるようにと。“少しばかりではいけません”、“もっと器を持ってきなさい”と命じます。預言者の心の中には借金返済だけではなくそれ以上に助けてやりたいという目論みがあったのです。なんと、神の憐れみ!

 3.エリシャ、神の油は無限量:
「求めよ、さらば与えられん」とはイエス様の言葉ですが、これと同じ事をここでも教えます。神様が“求めよ”と仰るときにはそこに量的な制限、限界のニュ-アンスは全くありません。やもめは一びんしかもっていませんでしたが隣近所から空き瓶を借りてきました。そして借りてきた空き瓶はすべて神の油で溢れ満たされました。瓶の容量や本数に限界があっても神が注がれる油は無限量、無限大です。注がれる油は空き瓶がないから途中でストップしたのです。祝福を止めるのは人間の側です。 そこで、私に今必要なものはなんであろうか。空き瓶が何本あるのか、またその大きさ、等、そして自分の霊的なニーズ、神の油をどれほど必要としているか等、内面的な祝福を探ってみませんか。神の油は聖霊様です。

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2014年6月

周囲の人たちが次々に、、、、  “また天国は、良い真珠を捜している商人のようなものである。” マタイ13

最近、私の周囲の友人、知人が次から次へとこの地上の生活とお別れをする方々が多い、実に驚きです。この方もまだまだ働かれる年令で亡くなられ、先日、記念会が持たれたばかり。大企業の社長として敏腕を揮い成功を納めたが、病気の回復もなく、2年間戦い、ついに愛するご家族とお別れとなった。近くに住んでおられたが、気が付いたら治療のために引越され、それっきり、二度と会うことも、語ることもなかった。

今年一月、親戚の結婚式でシアトルまで出かけた。その間、二度の電話メッセージがあった。距離的なことで頻繁な交流はなかったが心が通じる親しい間柄であった、その方の奥様から名前だけ残したメッセージ、急いで電話を返しても返事もない。数日後、ご主人が亡くなったとの訃報に触れた。奥様がドクターアポに行っている間の“死亡”だとのこと。

ご主人はコンピュータに向かっていて、“貴方、行って来るよ”、と12時半に出て、3時半に帰宅した。“帰ってきたよ”、と返事を期待しても、何の返事もない。妙に静かだ。裏庭にも姿が見えない。コンピュータの前にうつむいたまま体が冷たくなっていた、と奥様は涙ながらに語られた。

私たちは3時間先の命も分からない。  先月、小学校の恩師がお亡くなりになった。もう、60年前にさかのぼるが睦子にも私にも思い出のある先生だ。OCに住んでいたので時々お邪魔して、昔話に花を咲かせたものである。お亡くなりになつたその夜、ICUで最後のお別れとなった。お葬式は“グレイブ・サイド”でなされ、私も“恩師の贈物―藤の花”と11年前同師から頂いた藤の花の思い出を話した。今もあの藤は裏のべランダの大きな植木鉢に生き生きと育っている。

知人、友人が亡くなられるのは悲しく、寂しいことです。 マタイ福音書16章“たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。” どんな立派な人でも、成功した人でも“3時間先の命”すら読めない。私たちは最後の“死の切り札”を持っていなければならない。

イエス様の十字架の罪の贖い、これが“死のとげ”を取り除く、最後の勝利の切り札だ。私たちはこの最後の切り札、イエス様の救いを家族や友に持ってもらいたいものです。

私たちの最後の宝は永遠不朽の“キリストにある救いです”。この宝さえあれば、死の谷もどこも恐れることはないのです。私たちの周囲に次から次へと最後のお別れがやってくる、これはやがて、自らが体験しなければならない動かせない“事実”です。イエス様はこの宝を探せ、とこう仰っています: “また天国は、良い真珠を捜している商人のようなものである。”

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2014年5月

“わたしの恵みはあなたい対して十分である”  第二コリント 12:9

  飛脚3月号で“パウロ書簡に七つの祈り”と題してご紹介しました。今号はその締めくくりとして、パウロの祈り“三度主に祈った”、を取り上げます。

パウロの祈りは“わたしの肉体に一つのとげが与えられた”、その“とげ”を取り去るようにとの主への願いです。三度も祈ったというのは三回祈った、という分けではなく、何度も何度も祈ったということです。果たして“とげ”とは何でしょうか。このとげは精神的なものか肉体的なものか諸説があります。私は“わたしの肉体に、、とありますから、そのまま文字通り解釈して肉体的な弱さと受け止めています。具体的には肩が丸い“セムシ”、“慢性的偏頭痛”、或いは“眼疾”とゲスのレベルです。どんな“病気”であったかよりも、その“とげの痛み”の激しさです。このとげを“わたしを打つサタンの使い”と呼ぶほどですから、痛みの深さが精神的にも及んでいたことでしょうか。

さて、同12章は、パウロのパラダイス体験、即ち、超霊的体験の歓喜から書き出します。この地上から引き上げられ、天上での見神体験(神と合間見える体験)を述べます。このような見神体験のケースは新旧約を通しモーセ、イエス様、そしてパウロの体験、三ケースだと思われます(再チェックが必要)。元々、コリント教会はパウロの使徒職が本物かどうかと疑いの目で見ていましたので、この体験は“正真正銘の使徒”、いやそれにも勝る大きな証であったはずです。従って、この体験はパウロにとっては大きな誇りであり、公表すべきものであったに違いありません。しかし、パウロはその道を選ばずに、敢て、自分が生涯抱えてきた問題、即ち、“弱さ”、“不完全さ”こそ、主に誇るべきと、言明するのです。聖人パウロの逆説的信仰の生き方です。

 冒頭の“わたしの恵みはあなたに対しては十分である”、この言葉はパウロの三度の祈りへの応えですが、何故、“十分”なのか考えてみませんか。

① 私たちはすでに主の恵みの中にいるのです:
その恵みの故に、祈る特権、 主の御前にでることが出来るのです。数えてみよ、主の恵みです!

② 私たちの弱さは主が働く機会です:
私たちは弱さ、不足、不完全さを沢 山、背負っています。私たちが完全で弱さがなければ主が働く余地などありません。“主よ、私の弱さ、欠乏のゆえにお働き下さい”、と祈り求めてこそ、主が介入し、働き始められます。信仰の祈りは自分で働くことを求めることではない、主が働かれることを求めるのです。だから、パウロは言う、“わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからだ”、と。

③祈りが応えられたことを見逃すな:
私たちの祈りはしばしば希望の解決案を祈ることが多いです。しかし、主が祈りに応えられるときは色々な形をとり、解決案とは全く違うことがあります。そこで、別な形で祈りが応えられているのに気付かないことが多くありませんか。(使徒行伝12章参照)。

(4)“主のみ旨がなりますように”:
私たちの全ての祈りはこの祈りで閉じ たいものです。自分の希望、願いを押し付けるような祈りか、神の応えに祈りを合わせるか、大きな違いです。イエス様のゲッセマネの祈り、また本テーマのパウロの祈りも、このことを教えていませんか。   私たちの祈りの知識が更に深くなると平行して、祈りの生活も更に深くなり、主のみ心を探り知る祈りとなりますように、祈りつつ。

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2014年4月

イースター、おめでとう御座います  “イエスは生きておられる!”、ルカ24章23節

レント(四旬節):
今年のイースターは4月20日に当たります。“今年”とは毎年イースターの日が移動するからです。昨年は3月30日、来年は4月5日です。その経緯については後日の学びとして、特にカトリック教会、私達プロテスタント教会もそうですが、イースター前の40日をレントとして主の受難を心に留めて日々を過ごすという伝統的な教えがあります。

「灰の水曜日」(Ash Wednesday)という日から46日間をレントと呼びますが、その間の日曜日は除かれます。今年は3月5日が「灰の水曜日」で、イースターの 4月20日まで46日間、しかし、イースターサンデーの前の6回のサンデーは体を休める日として除かれます。40日という数字は聖書の中で意味のある数字です:40年間の荒野の生活、40日のモーセの断食、40日のイエス様の断食等、苦難の体験と結びついた40日です。   「灰の水曜日」、なぜ、“灰”をかぶるのか、これは旧約聖書から明らかです。懺悔、悔い改める者が頭に灰をかぶった習慣から来たわけで、旧約ではヨブ、エステル王妃、ヨナが遣わされたニネベの王たちが灰をかぶり神の前に祈っています。また、イエス様の言葉の中にも“灰をかぶる”話があります(マタイ11章参照)。

イエス様は木曜日の夜に最後の晩餐、ゲッセマネの祈り、そしてユダの裏切りで拷問、金曜日に受難の十字架を背負い、ゴルゴタの丘で罪の贖いをされました。そして、葬られ、三日目の日曜日の朝に甦られたのです!イースターの朝です。以来、教会は復活された日を“主の日”として聖日礼拝を執り行っています。

イースター(復活祭):
主は最初にマグダラのマリヤに!イエス様が十字架におかかりになった時に、最後まで十字架のイエス様を見届けたのは数人の女性たちでした。その中に弟子たちの姿が見えなかったのは対象的ですね。一体、3年以上もイエス様の教えを受け、それを伝えていた弟子たちはどこに逃げ隠れしたのであろうか。安息日が終わり、その翌日、主が葬られた墓に思いを馳せ一目散に走ったのは女性たちでした。ヨハネによる福音書(20章)はイエス様が復活のお姿で最初ご自身を現されたのはマグダラのマリヤでした。彼女はかって“七つの悪霊”に取りつかれた女でした。しかし、主の赦しを受け、今は主を愛する人に変えられたのです。イエス様が弟子たちを差し置いて、この女性に最初に現れたことは、真実にイエス様を愛し、仕える人にご自身を先にお示しなさるということです。罪の増し加わるところに恵みも更に増すのです。このことを弟子たちからではなく、このマグダラのマリヤから学ぶこともイースターの恵みです。

11弟子たちは復活を否定!
女性たちが空っぽの墓を目撃、弟子たちに主の復活を伝えると、弟子たちは“愚かな話のように思われて、それを信じなかった”、と復活の事実を受け入れることができません。イエス様が十字架にかかる前、何度も復活の話をしたはずですのにその言葉と結び付きません。今日、多くの人たちが“死人の甦り”を愚の骨頂と片付けるのも無理からぬ発想です。葬られた墓の石が取り除いてイエス様のお姿が見えるように、私達の霊の目をふさいでいる心の石も取り除きましょう。イースターはイエス様の姿をはっきりと見る良き機会でありたい。私達はイースターのことを“復活際”と呼びます、“お祭りです”!ハレルヤ!主は甦られた!、主は、今生きておられる!

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2014年3月

パウロ書簡に七つの祈り!

新約聖書27巻のうち14巻はパウロが書いた書簡です(ヘブル書の著者の問題はありますが)。この14巻のうち、コリント、テサロニケ、そして弟子のテモテには二つの手紙があります。それを続編として一つの手紙として纏めると11巻になります。下記にみますように、パウロは8巻の中に”わたしは祈っている”と、主の前に膝をかがめて祈るパウロの姿が浮かんできます。

私達は3月の礼拝から暫く”パウロの祈り”と題して学び、そこからパウロの祈る姿、パウロの祈る内容などを学びとり、日頃の祈りの訓練、日常生活の中に実行して行きたいと願います。同労者であるエパフロスの祈りをご紹介し、3月からのメッセージのテキストのガイドとして用いて頂ければ感謝です。

パウロの祈り#1、
「宣教の道が開かれる」:パウロはローマに渡ることが長い祈りでありましたローマ1:9,10)、また、テサロニケの町にも宣教の道が開かれるようにもお祈りしています(第一テサロ3:9)。主はこの二つの祈りにお応え下さった。

パウロの祈り#2、
「兄弟たちの魂の救い」:ローマにいる同胞ユダヤ人、またイエス様を知らない同胞の民に、彼らが救われるように祈ります(ローマ10:10)ます。

パウロの祈り#3,
「祈りを勧め、励ます」:ピリピの教会に”ただ、なに事にも、感謝をもって祈りと願いをささげ、あなたがたの求めるところを神に申しあげるがよい”と、神に祈る祈りは感謝の中に捧げるよう勧めます(ピリピ4:4-6,テモテ第一2:1)

パウロの祈り#4,
「諸教会への感謝」:パウロは諸教会への手紙の中に、”いつもあなたがたを覚えて感謝している”、このような感謝の祈りで手紙を書き出しています(コリント第二9:14, 外)。

パウロの祈り#5,
「弟子テモテへの祈り」:弟子テモテに再会したい願いと、主に立派に仕えるように祈る師の姿が見えます(テモテ第二1:3)

パウロの祈り#6,
「更に祝福へ、更に愛を深めよ」:パウロはエペソ教会が霊的に引き上げられ、また愛の成長を祈ります(エペソ1:15-19, 3:14-19)

パウロの祈り#7,
「自分の癒し」:パウロは肉体のとげ(持病か体の異常)を取り去るように主に祈ります、しかし、主の応えは”わたしの恵みは十分だ”でした(コリント第二12:7-9)。

パウロはエパフロスもコロサイの人々のために祈っているよと、彼の祈りをコロサイの教会に紹介します。それは”神のみ旨に堅く立て”という友の祈りであった。 因みに、パウロの祈りは順不同で、私が祈りの内容を中心に纏めた祈りです。また、パウロが”、、、祈った”という祈りは各書簡合わせて10数回読むことができます、また、’祈り”という言葉を使用しなくても、主に訴える、叫ぶ場面もありますでしょう。

  祈りは神様とのライフラインと言われるように、祈りなしではクリスチャンライフはないし、清く生きることもおぼつかない。また、主イエス様も祈りを通して厳しい境遇を乗り越えられたのです。

“キリストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈と願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである。”
(ヘブル書5章)

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2014年2月

働きの成果を無駄にするな、沢山、報いを受けよ!
“よく注意して、わたしたちの働いて得た成果を失うことがなく、 豊かな報いを受けられるようにしなさい。”(第二ヨハネ8節)

上記の長老ヨハネの言葉を短く纏めます。初代教会の時代はキリスト教は新しい宗教として異端視され、社会的、宗教的、伝統的に外からの迫害の重圧の中を歩まざるを得ませんでした。イエス様を受け入れた者の大きなリスクでした。内側からは、様々な反キリスト的な教えが蔓延、キリストが人間の姿になってこの地上に来られたことを否定、疑いを生じさせ、信仰を根こそぎしようとする異端者が教会の中にいたのです。このような憂いの中から、聖ヨハネはイエス・キリストを信じたものの、自らの救いを無駄にし、投げ捨てることがないように、その報から外れることがないように勧めます。

上記の言葉は、特に福音の働きをした伝道師、宣教師、兄弟姉妹に対して語られていることに注目しましょう。今日、福音の働きに参加している貴方も、私も、また教会もこのみ言葉の意味をしっかりと理解したいものです。私たちの働き、即ち、背後の祈り、訪問、時間をかけた交わり、教え、リソース等が無駄になり、魂が救われないまま放置され報われぬことがないためです。

1. 種を蒔く働き人の務め
種を蒔く人は、種を選び、土地を耕して、時を見計らって蒔きます。品種のいい種でも土地が耕されていなければ芽を出すのは困難、また時、季節を間違えてしまうと土の中で死んでしまいます。種は受け皿とタイミングが大事です。福音の種まきもこの原則ではなかろうか。誰に種を蒔くか、人選が大事で、いつ、その人に福音を伝えるか、よく魂が整えられているか祈りを重ねることです。パウロは第一コリント3章で、「わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である。」と教えます。貴方や私の責任は種を蒔くだけではなく、水をそそぐまで私たちの務めです。「水をそそぐ」とは、種を蒔かれた人への愛のケヤーです。その人が成長するのは神のみ手にある、とパウロは断言します。神の領域と種を蒔く人の領域がありますから、心配せず自分の務めに集中できます。

2. GVICの働き
私たちの教会は色々なコンサート、講演会を取り入れて、 福音の種まき、イエス様を知らない人との接点作りを試みています。多くの方々が皆様に誘われて礼拝、集会に出席します。しかし1、2度限りの方が大勢です。私たちは可能な限り蒔かれた種のファーロをします。しかし、現段階の働きは”種をまく”の領域で、”水をそそぐ”、”愛のケヤー”が十分整っていません。この点が私たちの教会の大きな務めであり、種まきの成果を失っている大きな損失です。教会はイベント、コンサートで終わってはならず、それは寧ろスタートとして取らえていかなければなりません。”水をそそぐ”ことは私たちの領域です。世話人会は今年、この”水そそぎ”を具体的に進めて参ります。そのために、イベント、コンサートを拡げないで、”水そそぎ”に集中することを最優先します。

3. From event mode to movement mentality
この表現は以前もご紹介しま したが、”Movement mentality” 即ち、種まきの次のレベル
“水をそそぐ”、具体的なケヤー、交わり、教え、訓練がなされていかなければなりません。一年後、このことがなされたか、種まきの成果が無駄にならず、豊かな報いを期待して、共にEvent からMovementに発想の転換をしましょう。皆様の心からのお祈り、アクションをお願い致します。貴方の働きには”報い”が約束されているのですから!

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2014年1月
正月元日は聖日か?
神がモーセに命じられた 「正月元日のなすべき使命とは」

2014年、明けましておめでとう御座います!

最近、学んだことですが仏教が日本に伝わったのが6世紀頃、その以前から日本は「正月」を特別な祭日としていたようです。正月の1日から3日を「3が日」といい、今日でも日本全国休日です。因みに、今年は4、5日が週末で休みとなり、6日から仕事初めで長い正月休みです。

正月7日までを「松の内」と言い、いわゆる「正月」は松の内までだそうです。勉強不足の私は正月は1月のことであり、31日まであると思い込んでいました。元来、正月は「歳神様」(トシガミサマ)という神を迎え、家族の健康、その年の豊作の約束を祈願したそうであります。

日本の古い歴史の中に新しい年を迎え、元日に神事からスタートする習慣があったことに興味があります。それに、日本がこの習慣を始めた大昔、二千年前に出エジプト記40章で以下の記録に触れ、もう一度、その興味が深まり、「正月に対する心構え」を再考する元日となりました。

主はモーセに言われた。”正月の元日にあなたは会見の天幕なる幕屋を 建てなければならない”。

「会見の天幕」とは人が神様に謁見する聖所、現代流では「キリストの体、教会」でありましょう。そこで、正月の元日にその天幕を建てなさいと命じられのですから、新しい年の初めに、先ず、第一に神様にお会いし、神の前にひざまずき礼拝する場を建て上げるという仕事初めです。元旦に,その年に神様とお会いする”場”を確保するようにとの教えでありましょう。その視点から信仰の父、アブラハムを考えてみましょう。

1.アブラハムから学ぶ(創世記12,13章参照)

アブラハムがハランから力ナン入りを果したとき、先ず、シケムという村で祭壇を築いて神様を礼拝する場を確保しています(多分、アブラハムの時代には“正月”という時の概念は存在しなかったでしょう)。シケムからベテルの東に移動したときもまず祭壇を築いています。それから飢饉に見舞われてエジプトに下り、再び、ベテルに戻ったときも、矢張り、祭壇を築くことを忘れていません。因みに、アブラハムのころの礼拝場は青空天上、モーセの時代からは“会見の場”、ソロモンの時代には“聖所”、現代は”教会“という礼拝の場が形を変えていることに気が付きます。勿論、神様は不変・遍在ですから、”場“に拘束されることはありません。

2.イエス様に聞く

イエス様は“先ず、神の国と神の義を求めなさい‘ と”先ず“、”第一にすべこと“、”優先順位“を教えておられます。この”先ず“は時、場を越えて神の国と義を求めよと命じられます。神の国と神の義を求めるとは”神の教え“を実行することを最優先することだと解釈します。モーセが年の第一日目に神様を礼拝するように命じられれば、アブラハムは移転先々でどこでも祭壇を築いておられる。

2014年を迎えました。私たちは元日をどのように過ごしたか、この機会に振り返ってみませんか。そして、これまでの正月の習慣・伝統的な過ごし方でいいものか、み言葉に照らし合わせて心を探る機会としませんか。伝統の中にみ言葉を見つける工夫が必要ではないでしょうか。

「一年の計は元旦にあり」、「心機一転」等という素晴らしい教えもあります。モーセの正月の元日理解はその日は“聖日”です。伝統・習慣上の優先的発想からみ言葉を伝統・習慣の中に取り入れていきたいものです。皆様の上に新年、更なる大きい祝福がありますよう、お祈り致します!Happy New Year!

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ゴスペルベンチャーインターナショナル教会
Gospel Venture International Church (GVIC)
17811 South Western Avenue, Gardena, CA 90248 U.S.A. Tel.(310) 527-6112
www.gospelventure.com/



「イスラエルの風」 森田のりえ

2014年7月・ 西壁

旧市街を囲む城壁の入り口で、私たち一行はバスを降りた。
見ると、大風呂敷のような白い布をテントのよう広げ四隅を男たちが棒で支えている。キッパーを被った少年がその中にいて、男たちが取り巻いている。みんなキッパーを被っている。同じような一団が後から後から城壁内へ入る。はじめて目にする光景に「なに、あれ?」と、私は声を上げた。

「バーミツバよ」
と、真美子師が教えてくれた。
13歳になったユダヤ教の男子が一人前のユダヤ人として扱われる儀式だという。彼らは小さい頃からトーラ(モーゼ5書)を勉強する。勉強した個所をバーミツバに集まった人たちの前でヘブライ語で読み、自分の言葉で解説する。宗教的ユダヤ人にとって人生の最も重要な行事の一つで、一族郎党は遠方から駆けつけ、盛大なパーティをする。聞けば聞くほど頭が混乱した。
宗教的ユダヤ人の子供は、幼いころから自分で考える訓練をするそうだ。頭が良くなるのも当然かもしれない。

西壁の入り口では厳しい手荷物検査が行われた。黄金ドームのある神殿の丘への細い道に銃を肩にした兵士が二人立っていた。パレスチナとイスラエルの緊迫した情勢を間近に見て、身が引きしまる。

やがて、ぽっかり開いた広場に出た。
西壁、俗に「なげきの壁」が正面に見える。これがユダヤ民族の心の故郷と呼ばれている神殿の丘の西壁なのか、何メートルのあるのだろう。高い。バーミツバでごった返す人。壁に向かって黒ずくめの男性が聖書を広げ、頭を何回も下げ、祈っている。白い布を被った人もいる。祈りの壁は男女別々だ。私は人を掻き分け壁に近づいた。石垣の隙間にびっしりと詰め込まれ願いの紙。私は壁に手を当て旅の無事を祈った。
真っ青な空をバックに西壁のひときわ高い所でイスラエルの国旗が翻っていた。
国の存在を顕示するかのように。


2014年6月・古代の地下水路

いきなり、ズボッと深みに入り腰まで水に浸った。一瞬、肝を潰した。ギボンの泉から流れ出る水の勢いに足を取られないよう、一歩、また一歩と用心深く進む。先頭を行くのは真美子師、次は私、後ろは友人のあっちゃん、そしてツアーの人たちが続いている。恐れることはない。という一方で、次は何が起きるのか期待も湧く。 

何しろ、BC7世紀、アッシリアの攻撃に備えて『ヒゼキヤ王』によって建設された地下水路を歩いているのだ(列王紀下20章参照)。気持が高ぶらないほうがおかしい。
両手を広げたほどの幅に高さは人が悠々と歩ける。水かさが股下までになった。水底は平らだ。気持に余裕が出てきた私は、懐中電灯でトンネルの側面を照らした。
あった!
大昔の人が岩を削ったノミの痕跡だ。壁から上まで数センチ幅の痕がびっしりとある。コンパスもない時代に、いったいどのようにして掘り進めたのだろう。飛び散る石片に目をやられた人、突然岩が崩れたりと犠牲者も出たに違いない。水路が出来た時代から絶えることなく水は流れているのだろうか。大昔の人たちへ想いを馳せながら40分も歩いただろうか、先方に明りが見えた。
出口のシロアムの池だ。

「城外にあった水源ギボンの泉を隠し、岩盤をくりぬいて城壁のなかに地下トンネル
を掘りシロアムの池まで水を引き入れた。工事は2組の抗夫たちによって両側から掘り進められ中央で出会った」と、真美子師に聞かされた。
主イエスが盲人の目を癒したと聖書にある「シロアムの池」はこの場所だと、考古学発掘の結果2005年に確認されたそうだ。現在はコンクリートで四方を
固めた小さなプールになっている。
2千年前の話が今も伝えられ信じられていることに、私は、大いなる存在を認めざるを得ないのである。


2014年5月・ エルサレム

オリーブ山の頂でバスから降りた。聖地旅行のハイライトである。私たち一行を待っていましたとばかり、物売りたちに取り囲まれた。彼らを一瞥し、スリに遭わぬようバックを前に抱きかかえた。
エルサレムの街が一望できる。城壁が薄茶色の帯びのように横たわり、神殿の丘の内部が俯瞰できる。木立の間から見える青色の壁の建物は「岩のドーム」だ。手前の山の斜面に黄金色に輝いている玉葱型の教会の尖塔が五つ、六つ固まっている。ガイドのアビィが説明を始めた。
「あれはロシア正教の教会です。尖塔の形はイエスの涙を表しています」
あ、そうだったのか。
玉葱ではなく「イエスの涙」だったのだ。そういえばワインの銘柄や宝飾店ティファニー
に「ティヤ・ドロップ」という装飾品がある。

深い意味がある言葉に納得。
『イエスは都の近くにきて、それが見えたとき、そのために泣いていわれた』と、ルカの福音書19章40節以降にあるのは、ここですとアビィは話し続けた。エルサレムの表面的な繁栄を見て嘆き涙されたという。また、オリーブ山はイエス昇天の山だともいう。イエスが涙を流された山を下り中腹にあるゲッセマネの園に着く。
弟子たちと最後の晩餐をすまされ歩いてここに来られ岩の上で最後の祈りをされたところである。汗が血のしずくように血に落ちたという場所に『万国民の教会』が建っていた。外で説明を聞き中へ入る。
教会の真ん中に平たい8畳間ほどの岩があった。岩に手を置き各々が祈る。私の祈りといえば娘家族の健康と安泰、これまで無事に過してこれた感謝である。天球を思わせるドームは、わずかな物音でも吸い込んで響き、厳かな祈りの場をかもし出していた。
教会を出た。道を隔てた向こう側に神殿の丘の城壁があり、石とコンクリートで固められた黄金門が真正面に見えた。


2014年4月・ペトラの遺跡

岩盤の亀裂した深い谷底の道を歩いている。幅3.4m。見上げると真っ青な空が帯状に流れる。両側は80m以上もある赤茶けた絶壁がそびえたつ。岩肌に沿って水路の跡がある。大昔、ここに住んでいた人が作ったのだろう。細い曲がりくねった道を進んでいると、目の前が開けた、その瞬間、
「ワァオォー!」 と、叫んだまま立ちすくんでしまった。
テレビで何度も観たヨルダンの世界遺産「ペトラの遺跡」である。

映画「インディ・ジョーンズ・最後の聖戦」のロケ地として使われた新世界七不思議一つ。
岩壁の隙間から薄いオレンジ色に輝くエル・カズネ(宝物殿)が見えた。一世紀初頭に造られたナバテヤ人の偉大な王の墳墓だという。前に立つと数十メートル高さと精巧な作りに言葉がない。 

とにかく凄い。ついに来た。まさか、来られるとは思いもしなかった所だ。
近くにワディ・ムーサ(モーゼの谷)という町がある。預言者モーゼが岩から水を湧き出させた場所がペトラの遺跡近くだとインターネットに誰かが書いていた。真偽のほどはわからない。眉唾に決まっている。
宝物殿の横を抜けるとBC1世紀ごろから栄えた古代都市が広がっていた。ロバに乗っての見学だ。ベドウィンの少年がロバの手綱をとり決められたルートを回ってくれた。土と埃、岩山に造られた膨大な遺跡群。十字軍の印のある教会跡はモザイク・タイルの床を発掘している最中だった。
三味線のような楽器を弾いていたおじさんが、糸が切れて、少年と地べたに座っていた。かわいそうに、今日のノルマは達成したのだろうか。露天商を覗くと「ハンド・メイド」といって、アラブの白黒のスカーフを頭に巻いてくれた。商売上手だ。
以前、遺跡内に住んでいたベドウィンが立ち退きの条件として営業権を得たという。
昼食後、私たち一行を乗せたバスは走り出した。さ、今夜はエルサレムだ。


2014年3月・エイラートへ

イスラエルの60%を占めるネゲブ荒野を、ひたすら南下している。
行けども行けども、灰色の山並みと茶色の岩山と土である。何もない。ほんとうに何もない。なんと過酷な自然だろう。神様は不公平だと思った、が待てよ、このごろは地下資源に目を向けられている。案外、宝の宝庫かもしれぬ。

3千数百年前、モーゼはイスラエルの民を率いてこの荒野のどこかを横切って北上したはずだ。水や食べ物はどうしたのだろうか。
素朴な疑問が湧く。もしかして、いま見ている荒涼とした風景とは違っていたとも考えられる。気候や生態系が違えば、緑の野原だったともいえなくはない。いまの感覚で大昔の事を考えるのは間違うもとだ。あれこれ空想をたくましくいると、いつの間にか睡魔に襲われた。

数時間走っただろうか。ふと目が覚めた。遠くに緑の塊が出てきた。ナツメ椰子の畑だ。牛の牧場が見える。ダチョウのファームがある。ソーラーパネルが地面にへばりつくように広がっていた。
「キブツではソーラー・エネルギーを使って冷房をし、一日三回、牛に水のシャワーを浴びさせています。この辺りは20mも掘れば水脈に当ります」
ナツメ椰子の栽培もしていると、ガイドのアビィが説明をはじめた。

小さな町に着いた。休憩だ。アイスクリームの冷たさが喉をうるおす。美味しい。
イスラエルの最南端の街エイラートは、もう遠くない。私はバスの前方の席で、身を乗り出すようにして見つめながら、頭のなかで地図を思い描いた。右手にシナイ半島、その向こうにスエズ運河、左手はヨルダンがありアラビア半島がある。遠いところへきたものだ。
家並みの間から真っ青な海が見えた。
紅海だ!
バスは紅海のアカバ湾をチラッと見せて、ヨルダン国境へと向かった。


2014年2月・ベドウゥン村

イスラエルの南半分を占めるネゲブの荒野に入ったのは、9月半ばである。
樹木のない茶褐色の丘が連なっている。時たま、羊やラクダの群れが現れては、視界から消えていく。ベドウィン村に着いたときは、ちょうどお昼だった。

屋根を棕櫚の葉で覆ったテントの中は集会所だろう。地面に直接絨毯を敷いた上に木漏れ日が落ち、心地いい。隅に座布団が乱雑に積み重ねてあった。低いテーブルの周りに座ると、男たちがご馳走を並べる。女性の姿はない。大皿の真ん中に味付けしたライスを盛り上げ、周囲を野菜や肉の照り焼きを置く。豪快なメインだ。デザートはリンゴや洋梨、バナナなどの果物。なかなかの味だ。食事が終わると、炉を囲んで私たちは座った。ベドウィンの男性が、豆を炒っていた。そして、トントントン、豆を挽くリズミカルな音が響き始めた。
「この音が聞こえると、砂漠を通る人たちが集まってきます。楽しんでくださいという歓迎の合図なのです。もちろん、お金はいただきません」

男が話しはじめた。
ネゲブには2万人のベドウィンがいる。6部族いて、各々親から受け継いだテレトリーを守って2500年前から住んでいる。この頃は自動車を持ち、ラクダの移動にはGPSを使っている。子供たちは街で教育を受け、ベドウィンの暮らしには戻らない。  
彼には3人の妻がいるというから、イスラム教に違いない。お金がないと結婚も出来ないようだ。当然、女があぶれてくる。一夫多妻は女性救済の意味もあるのだろう。

引率の真美子師は若い頃、
「ラクダ三頭と羊5頭でお嫁にこないか」
と、ベドウィンの男にプロポーズされたそうだ。同行した白人のかわいい子は、ラクダ5頭に羊10頭だったから、
「バカにしないで! どうせ私のラクダは年取って子供を産めないやつでしょ」
と、怒ったそうだ。


2014年1月・死海浮遊

「身体の力を抜いて」
といわれても、胸の辺りまで水に浸かっているので、抜き方がわからない。もたついていると、連れのあっちゃんが「椅子に腰掛けるようにしてごらん」と教えてくれた。呼吸を整え肩の力を抜き、ゆっくり腰を下ろそうとした途端、ポカリと浮かんだ。
「浮いた!」と、歓声を上げていると、お尻がコロリとひっくり返りそうになった。水を飲み込むと呼吸困難になり命にかかわる。水を目に入れない。ガイドの注意事項が瞬時に脳裏をよぎる。必死になって手足をばたつかせていると足が底に着いた。
ここは30%近い塩分の死海である。

もう一度やり直す。静かに両手を広げ左右のバランスをとる。うまくいった。仰向けになり髪を濡らさないよう頭を上げている姿勢は結構疲れる。死海の泥は塩分だけではなく各種のミネラルを豊富に含んでいるので健康や美容にいいらしい。浮遊が終わると水際の黒い泥を全身になすりつけた。
泥遊びをした幼いころに戻ったようだ。

もう一度やり直す。静かに両手を広げ左右のバランスをとる。うまくいった。仰向けになり髪を濡らさないよう頭を上げている姿勢は結構疲れる。死海の泥は塩分だけではなく各種のミネラルを豊富に含んでいるので健康や美容にいいらしい。浮遊が終わると水際の黒い泥を全身になすりつけた。
泥遊びをした幼いころに戻ったようだ。


12月・断崖の要塞

死海に沿った道を南下している。
私はバスに揺られながら、依然訪れたレーガン記念博物館(Simi Valley)でのことを思い出していた。海外の国賓からの贈呈品が並ぶ陳列ケースに、場違いな野球ボールほどの石があった。説明書には「紀元一世紀、マサダ要塞の包囲網でローマ軍が放った投石。1987年イスラエル大統領ハルム・ヘルツォーグ贈」とあり、『ローマン・ボール』と名づけられていた。

みなさん・・・」
というガイドの声が耳に入ってきた。
「前方に見える台形の岩山がマサダ要塞です。死海から約430メートル。険しい断崖の上に熱心党のユダヤ人967人が立てこもり、ローマ軍団15.600人を相手に2年間余りに及ぶ攻防戦を続けたのです」

一行はバスから降り、山頂へはロープウェイに乗った。ロープウェイを降りると垂直な断崖に沿って通路が設けられていた。高所恐怖症の真美子師は顔を引きつらせ「もう、だめ。怖い!」と、手すりにしがみつき悲愴な悲鳴をあげていた。しかし、一歩一歩、確実に前へ進み、ついに要塞の入り口に着いたときの真美子師の安堵の顔を見て、思わず私たちは、笑ってしまった。

台地に立つと死海の向こうは薄紫色に染まったヨルダンの山並み、あとはただ荒削りな茶褐色の丘陵が続いている。要塞跡には貯蔵庫、貯水槽やサウナ風呂、シナゴークなどの遺跡があり、驚くほど広い。麓には2千年前にローマ軍団が駐屯していたという遺跡が見えた。

『ローマン・ボール』は、はたして要塞の中まで届いたのだろうか。対するユダヤ人側は、崖をよじ登るローマ兵に石を落して抵抗したという。証拠のバレーボール大の石が歴史を物語るように転がっていた。
 投石を贈呈したイスラエル大統領の想いはどこにあったのだろうか。
突然、空を切り裂くような轟音が響いた。「あの音は・・・」連れの友がいった。「ファントムF・16、間違いない」古い感覚の世界に、突如、21世紀が侵入してきた。


11月・途方もないジグソウ・パズル

バスは、地球でもっとも低いといわれている死海のほとりを走っている。褐色の大地に緑の塊が見えた。キブツが経営するナツメヤシ畑だ。バスは坂を少し上ったところで止まった。クムランの遺跡見学である。

日差しが強い。木、一本ない。帽子を被っているが焦げそうなほど暑い。汗は出ない。小石を積み重ねただけの遺跡のなかを歩く。ミクベと呼ばれる身を清める水槽跡があちらこちらにある。乾燥地帯だ。水はどこから引き入れたのだろう。排水跡もない。 次から次と疑問が湧いてくる。

ガイドは私の疑問を先取りするように説明しはじめた。
「エルサレムに大雨が降ると遺跡の背後にある渓谷に流れこみます。それをせき止めて石灰岩の崖面をくりぬいた水道トンネルによって水槽へ・・・」
 発掘作業をしている機械音にガイドの声が千切れた。
遺跡の背後は丘の斜面に大きな穴が見えた。1974年の初春、羊飼いの少年によって偶然発見された『死海文書』の入っていたクムランの洞窟である。

二千年前、この地に住んでいたエッセネ派と呼ばれる共同体の人たちによって書かれた巻物は、高さ2フィート、幅10インチほどの壷に布に包まれて入っていた。後に考古学的な発掘が始まり、この辺りの洞窟から夥しい古文書が出てくることになる。
破損、隠匿、燃料にされ失われたが、残った断片は『途方もないジグソウ・パズル』といわれ、神父や学者によって解読が進められたそうである。

死海文書の存在を私が知ったのは、湾岸戦争が取りざたされた1990年の日本の新聞だった。ミステリアスなものを感じた。当時、家族でヨーロッパ旅行をした。高校生だった娘は、
今二児の母、元気だった夫は10年前に亡くなった。早いものだ。


  

10月・世界最古の街

「あった! 桑の木が。へぇ、これが二千年前の木?」
友人のあっちゃんが素頓狂な声を出した。
「ある訳ないじゃ、2千年も前の木が。でも、ザアカイが登った木はイチヂクの木じゃなかったかしら?」
偉そうにいったのは私である。

イスラエル旅行四日目、エリコの街に入った。3千数百年前モーゼの後継者ヨシュアに率いられたイスラエル人が城塞都市を攻略したと旧約聖書にあるのは、この街である。我々一行を乗せたバスは5.6メートル広さに葉を茂らせた巨木の横に止まった。私と友人は「ザアカイは背が低かったので、イエスを見るために木に登った・・」というルカによる福音書第19章にある箇所を思い出したのである。後日調べると『いちじく桑の木』であった。

「The oldest city of the world」と書かれたプレートがある。古い街を見学したいが時間がない。私たちは柵にしがみついて中を見た。赤茶けた土と石ころが積み上げられた以外は何も見えない。真っ青な空だ。頭上をロープウエィが走っていた。行く先を辿ると、茶褐色をした山の中腹だった。
「イエスが悪魔に試みられた誘惑の山というのは、あそこですよ」
誰かが話している声がした。

海面下250メートルの街エリコは地下水が豊富で日光はよく当たる。植物がよく育つらしい。この街のナツメヤシは格別美味しいと聞かされたのでお土産店に入った。店内で、170センチもありそうなスラリとした体に、黒い服を頭からすっぽりと覆った女性が二人、買い物をしていた。目の部分だけ開いている。腰を屈めた拍子に、裾から、チラリと鮮やかな赤模様のドレスが覗いた。
はっとした。強烈な印象だった。


9月・ヨルダン川

ヨルダン渓谷を南下している。
バスの振動に揺られながら車窓に映る風景を食い入るように見ていた。右手は枯れ草に覆われた緩やかな丘陵地帯。建物は何もない。左側は、道路沿いに有刺鉄線が張り巡らされている。高さは大人の背丈ほどもあろうか。ここはヨルダンとイスラエルの国境地帯である。鉄線の向こうは中立地帯だ。遠くに緑の木々が茂るあたりがヨルダン川の岸辺で、国境は川の真ん中である。
トラックが大きな石を二つ載せて疲れたように唸りながら、我々のバスを追い越していった。砂塵が舞い上がる。

検問所が出てきた。
自動小銃を持った兵士が一人いた。周囲は草一本ない平らな土地が広がっている。トラックターのような機械で掘り返されたような跡が縦横にいく筋も見えた。
「まさか!」と思って、ガイドのアビィに尋ねると、中東戦争でヨルダンに近いためにたくさんの地雷が埋められた。2010年10月イスラエルが地雷を除去したという。いきなり戦場に放り込まれた気がして、背筋に緊張が走った。この辺りを「ヨルダン川西岸」というらしい。地雷原のなかをまっすぐ道が伸びていた。バスが止まった。終点だ。

その昔、預言者ヨハネからイエスが洗礼を受けたという伝承の場所である。川の中洲に生えた樹木で対岸は見えない。
自動小銃を持った国境警備のイスラエル兵があちらこちらにいる。フレンドリーだ。

川べりに洗礼所が設けられていた。ガリラヤ湖から流れ出た水は、岸辺の
土を噛みながら死海へと注がれている。
水は泥色だが、洗礼を受けている人たちがいた。

世界史を動かす一つの出来事がここで起り、二千年後にその場所に自分が立っている。不思議なめぐり合わせに思いを馳せながら、私は、川面を眺めていた。


8月・戦争と平和

あの塹壕はどうなっているのだろう。迷彩色の軍服を着た兵士が集結しているのだろうか。5月初旬、イスラエルがシリアを空爆したという報に、私は、ゴラン高原の塹壕を思い出していた。

草原から吹きあげる風に帽子が飛ばされないよう手で押さえながら、シリア側を眺めていた。峰に沿って掘られた人の背丈ほどの塹壕。兵隊の避難所や休憩所、大砲の残骸、機関銃をかまえた人のオブジェが最近まで戦闘があったような雰囲気をかもし出している。だが、眼下に広がる耕作地が平和な証拠だ。その向こうに国連の停戦監視部隊の建物がある。シリアとイスラエルの国境だという白く見える道が一本、走る車もない。草原の彼方に町の塊があった。その町をかばうように荒涼とした茶褐色の山がうずくまる。遥か左手の彼方にヘルモン山がかすんで見えた。

何十年か前に日本赤軍の拠点だった。
すごい所へきたと思った。
ガイドのアビィは、ゴラン高原はイスラエルにとって主要な水源地です。ヘルモン山の雪解け水が高原の湧水となり、ガリラヤ湖に流れ込みイスラエル全土を閏しています。45年前まではシリアの土地だったが、1967年の6日戦争以後はゴラン高原はイスラエルの管理下に入っています。シリアの目的はゴラン高原を奪還して水源を絶とうとしているのです。だから、絶対に手放せません。死活問題です、といった。
バスの駐車場の隅でドールス人のおじさんが屋台で果物を売っていた。
ツアーの人たちがジャムを買うと、陽に焼けた顔のおじさんは笑顔で売物のリンゴを私たちに配ってくれた。引率の山本真美子師は、「彼らはユダヤ人といい関係なのですよ」
といった。
中東の火薬庫と呼ばれているこの地に平和が訪れる日はくるのだろうか。


7月・ペテロの魚

ふいに目が覚めた。外はまだ暗い。ティベリアの街の灯が窓越しに見える。わけもなく寂しさに襲われた。落ち込むような寂しさだ。なぜだろう。あれこれ思いを巡らせていると外が白んできた。ブーゲンベリアの赤い花びらが風でこまかく揺れている。 小鳥がさえずりはじめ
た。

今日はイエスの公生涯の中心となったガリラヤ湖畔の見学である。
ホテルを出ると木の間から輝く湖が見え隠れする。
これがガリラヤ湖なのか。形によるのか、湖面の波音が竪琴の音色に似ているのか、神様はこの湖をキンネレテ「竪琴」の湖と呼ばれたと聖書にある。

我々一行を乗せたバスは湖畔沿いから坂道を上がった。小高い丘にユーカリや楡の樹木に囲まれた八角形の教会があった。イエスは群衆を見て山へ登り「山上の垂訓」を教えられた場所である。一説によればイエスは岸辺に立って話されたのではないか。湖面が自然の音響効果となり、声が山頂まで届くからという。教会の中にあるイエスゆかりの大きな岩で、私は、娘家族の健康と平穏を祈った。自分の力ではどうにも出来ないことは祈るしかないのである。

次に行った先も教会だった。祭壇の足元にイエスが5千人の人に2匹の魚と5個のパンを分け与えた話のモザイク画が描かれていた。私たちはガリラヤ湖の岸辺に下りた。渚に足を浸しながら、早朝に感じた「寂しさ」について考えてみた。昨年亡くなった妹の夢を夕べみたせいかもしれない。

2千年前は国境だったというカペナウムにきた。税関吏だったマタイや漁師をしていたペテロもここでイエスの弟子になっている。昼食は、ペテロの釣った魚が銀貨をくわえていたといわれる「ペテロの魚」だ。色と大きさは黒鯛に似ている。油で揚げてあり大味だった。向かい側の友人がバックから醤油の小瓶を出し、テーブルに置いた


6月・古代の暮らし

被っていた帽子が飛んだ。エズレルの平原から吹き上げる風に煽られ、帽子はカルメル山の展望台から落ちそうになった。
 ガイドのアビィは分厚い聖書を片手に旧約聖書に登場する預言者エリヤの箇所を読んでいる。バアルの預言者450人、ならびにアシラの預言者400人をカルメル山に集めて・・・神の人エリヤはひとりで彼らと戦い打ち勝ったと。

「あの辺りにバアルの軍勢は集結したのでしょうかね」
誰かが眼下の緑地帯を指さしていった。手入れの行き届いた耕作地がパッチワークのように拡がる。肥沃な平原だ。ふいにBC9世紀の聖書物語がくりひろげられているような錯覚に包まれた。
遠くに小高い丘がかすんで見えた。メキドだという。
 

思い出した。18年前に東京地下鉄サリン事件が起きた。メディアは「ハルマゲドン」という言葉を使った。当時高校生だった娘に意味を尋ねると何度も聞き返した。「ああ、アーマゲドンのこと?」
発音が違うと,笑い転げたことがある。辞書には世界の終末における善と悪の決戦場とある。その決戦場がメキドだ。私の心にすみついている地名である。
 樹木の生い茂るカルメル山から、聖書ゆかりのタボ山へと向かった。
田園風景のなかを走る。ユーカリの街路樹がつづく。タボ山のバス駐車場で、ごったがえす観光客に混ざって、絞りたてのザクロのジュースを飲んだ。喉の通りがよくなった。

さ、次はナザレだ。マリアが受胎告知を受けたのも、イエスが伝道をはじめるまでの30年間、両親と住んだのもこの街である。地下数メートルに発掘された古代の街と横穴住居跡が見えた。イエスの時代の暮らしが身近に感じられるようだった。今はイスラエル最大のアラブ人街である。   


  

5月・地中海の潮騒


空港の外に出た。さっと頬を撫でる風が心地よい。イスラエルの風だ。 
出入国審査は世界一厳しいと聞いていたベン・グリオン国際空港である。緊張していた割には団体のせいか難なく入国できた。

2012年9月、総勢14名の8泊9日聖地旅行団は、待機していた大型バスに乗る。ガイドはユダヤ人の青年アビィ、通訳は引率者の山本真美子師である。
「このテルアビブの街は、ノアの洪水の後にノアによって作られました」
 

アビィはいきなり聖書のなかに私たちを放り込んだ。遥か遠い昔の人たちが生き残っているかのように話す。イスラエルは第二次大戦が終わった1948年に建国された古くて新しい国である。

「アメリカ大使館はエルサレムではなくテルアビブにあります。理由は、イスラエルだけサポートをしているような感じを避けるための政治的配慮です」
アビィの説明を聞きながら、近代的な都市テルアビブを抜けると紺碧の海を左手に見ながら、北に走った。

と、急にバスが速度を落とした。アビィが窓の外を指差している。見ると、赤錆の浮き出た鯨像の背中から噴水が出ていた。魚に呑み込まれ三日三晩、魚の腹の中にいたというヨナ書のモニュメントであった。

行く手に高層ビルの塊があった。ネタニヤだ。1925年、マラリアが発生する海沿いの沼地を富豪のユダヤ人が、アラブ人から購入して作った街である。以前はテロ事件が多い街だった。現在は、厳重なテロ対策によって沈静化しているそうだ。

ホテルで夕食を済ませた後、夕闇の迫る浜辺を友人たちと歩いた。
イスラエルは政治的、歴史的、宗教的にも他の国とは違う。どのように違うのか旅を通して自分の目で見、肌で感じたい。地中海から押し寄せる潮騒を聞きながら、その時、そう思った。   


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