初めに、神が天と地を創造した。創世記1章1節

先月末、私は一年ぶりにフロリダ州に住む長男夫婦と二人の孫達に会いに、91歳の母と北海道から遊びに来ている知り合いのお嬢さんと三人で行ってきた。フロリダ州オーランド市は蒸し暑い毎日で、汗かきの私には正直住みにくい所ではあったが、大きくなった孫達と一緒にいるといつしかその暑さも忘れるほどだった。

しかし、30年以上も前に自分の子供達を幼稚園の入園式に連れて行ったように、今度はその長男が小さな孫の手をとって幼稚園に連れて行く後姿を見たとき、「私も歳を取ったものだ!」と思わざるを得なかった。

今回、私はフロリダ州にいる間に是非見たいところがあった。それは、あの月に向かって宇宙船を飛ばした「ケネディー・宇宙センター」であった。車で1時間半走ったところにあるケープ・カナベラルは、予想をはるかに超えた広大な土地だった。

1961年、ケネディーアメリカ大統領は、議会の中で「アメリカは、1960年代が終わるまでに人類を月に着陸させ、無事地球に帰還させるという目的を達成するために全力を挙げるべきだ!」と演説したが、その8年後の1969年7月16日にまさしく二人の宇宙飛行士、ニール・アームストングとバズ・オールドリンをアポロ11号に乗せて月へと送ったのだった。それは、中学生時代に突如現れた「ザ・ビートルズ」の次に、当時大学1年生だった私にとっては衝撃的な出来事であり、今でも鮮明に覚えている。

初めて宇宙船アポロ11号が月面に到着した瞬間、そして月面をゆっくりと歩いたアーム・ストロング宇宙飛行士が、「一人の人間にとって小さな一歩にすぎないが、人類にとっては大きな躍進である。」と言ったことばは、宇宙とはいかに大きな存在なのかと感動したものだった。

しかし、クリスチャンとなった今の私には、人間の創造では計り知れない宇宙の広大さに驚く以上に、その宇宙を含む「天と地を創造された偉大なる神様の存在」に、改めて大きな感動を覚えるのであった。

創世記1章1節の「初めに、神が天と地を創造した。」というみことばは、何の解説もなくいとも簡単に書かれてあるが、しかし『創造した』のへブル語「バーラー」とは、「何もないものから創った」という意味で、同じ1章16節にある『(太陽や月を)造られた』の「アーサー(既に存在する材料を用いて造った)」とはまったく違ったことばである。つまり神様は、私達の存在する地球や天を、何の材料も使わずに無から創造されたのである。

そして、アーム・ストロング宇宙飛行士が月面を歩いたという46年前の一大ニュースは、神様が創造されたところに初めて足跡を残したというだけのことであった。宇宙から小さな地球を見たアームストロング宇宙飛行士は、地球の美しさと共に神様の偉大さを褒め称えたという。

その小さな地球に住む私たちは、日々の生活の中で何を見てるだろうか?広大な宇宙の一つの星「地球」に存在する私達は、、独り子イエス・キリストを十字架につけるほどに愛する「天の父なる神様」を賛美し、その偉大さを日々褒め称えているのだろうか?それとも、取るに足らない小さな問題に心と思いを向けて、不平、不満、時には神様に文句を言いながら毎日を過ごしているのだろうか?日々の忙しさから一時その手足を止めて、顔を天に向け、父なる神様に賛美の声を上げようではないか!

天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。(詩篇19編1節)

織田恭博

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