前原利夫 - 飛脚 2月号
戦場のモーセの祈りから学ぶ:「絶えず祈れ」(出エジプト記17章参照)
モーセの聖画の中に両手に十戒を抱えた画と、杖と両腕を高々と掲げて祈る雄姿の画があります。モーセの杖は神が与えた奇跡の杖、天に向けられた両腕は勝利の祈りです。先ず、冒頭の出エジプト記17章の背景を簡約してみましょう。
1.その背景:
イスラエルの民はエジプトで400年余奴隷として辛苦をなめさせられました。神は時至って、モーセを遣わし、ご自分の民を奴隷から解き放ち、民はモーセに率いられて紅海を渡り、シナイの荒野、南のレピデムまで進んでました。
ここまでは神の度重なる奇跡、奇跡の連続、シナイの荒野に足を踏み入れたとき、イスラエルの民は“これであのパロ王から解放された”、と一息ついたに違いありません。ところがそこで待ち構えていたのは、アマレク人たちの武装兵でした。
アマレク人はヤコブの兄弟エサウの子孫でイスラエルの宿敵となって彼らを悩まし続けた民族でした。エサウは自らの相続権を衝動的にヤコブに売り渡してからヤコブを殺そうと計画したほどでした。
今、数百年後、子孫同志が交戦の最中にあることは単なる歴史の偶然性ではないでしょう。アマレク人は約束の地に向かうイスラエルの民の前進を阻み、その前に立ちはだかった。
一方、イスラエルの民はエジプト脱出から戦争の実体験もなく、戦力は未知のまま交戦せざるを得ませんでした。この一戦に負けると約束の地に向かう民に大きな疑問が起こり、精神的打撃は計り知れないものがあったことでしよう。
危機に面したモーセはヨシュアを戦場に残し、山の上に上って行った。
2.モーセの祈り:
モーセは兄のアロンと義兄のホルを同行して山頂に来た。一人の祈りよりも、複数の人の祈りが強力だからです。一人一人それぞれ祈りに徹しました。モーセは山の上から下の平野で戦う様子を観察しました。ヨシュヤは民兵を率いて戦っています。
モーセは自分の祈りの姿勢と戦いの進展とに不思議な関係があることに気が付きました。それは手を上げて祈っているとヨシュヤが攻勢となり、祈りの手を下げて休むとヨシュヤが劣勢となって追い詰められました。
即ち、祈り続けると勝ち、祈らないと敗北を眼下に見たのです。休みなく祈り続けることが戦場での勝利と悟ったのです。その事は、私達は祈りを捧げる時に、神がその祈りにどう応えておられるかを注意深く観察、洞察し、祈りの姿勢を変えていくことを教えられます。
神は最初から、このように祈れと指示されなかったのですから。
3.祈りの姿勢を変えれ:
アマレク人との戦いがどの程度長く続いたか、またモーセが自分の祈る姿勢が勝利を左右していることにいつ気が付いたかも分かりません。神は最初から、このように祈れと指示されなかったのです。
モーセは石の上に座り、そしてアロンとホルに自分の両サイドから祈りの手を支えさせたのです。こうして、手が下がらないように工夫して祈り続け、負けてはならないこの一戦に勝利したのです。
神は私達に単に「祈ること」を教えてはいません。「絶えず祈ること」を教えておられるのです。モーセはこの秘訣を戦争で学んだのです。勝つか負けるかの大危機、大リスクの中に学び得た貴重な教訓です。
私達は単に祈りを捧げるのではない、休みのない祈り、絶えざる祈りを捧げるのです。私達の祈りに神様からの返事がないのはその秘訣をわきまえてないからかもしれません。クリスチャンで聖書を読まない人はいない、しかし貴方は絶えず読んでいるでしょうか。
クリスチャンで祈らない人はいない、しかし貴方は絶えず祈っているでしょうか。モーセは戦場で指揮をせずに、山の上で祈りの指揮をされた。絶えず祈る祈りは武器に勝ると信じたのです。
“絶えず祈りなさい” 第一テサロニケ5:17
前原利夫